消したい想い
コロンと丸く手の平に収まる大きさで、個体によって様々な色を持つ羊角虫の角。
黃色に群青、茜色に、宵の空の紫色。
どれもとても美しく宝石のよう。
けれどこれが、今まで扱ってきた魔獣素材で最も抵抗が強い。
大量にあるそれらに魔術回路を引いていく作業は、とにかくたいへんだった。
長く長く、細く。もっと細く。
一定の太さに引き伸ばす感覚で、回路を描いていく作業。人差し指の先から、魔力を細く出力する。
精密な作業の間、一瞬たりとも気を抜かない。
一気に引ききってしまうのがコツなので、集中が途切れないように。
はじめから回路が分岐し、複雑に重なり合っていく。俯瞰で捉え、始点と終点をきっちり繋げる。
完成だ。
癖が強くて十個も無駄にしてしまったが、成功例はこれで三個目。ようやく羊角虫の扱いに慣れてきたようだ。
フローリアは大きく息を吐きながら、椅子の背もたれに体を預ける。首筋を流れる汗を手巾で拭う。
ほとんど休憩を挟まず、今度は若葉色の羊角虫の角を手に取った。
数だけはあるため、次々に魔道具化していく。
これは、自らの魔道具を手元に戻すための機構に組み込む予定だ。
ノクアーツ王国内では魔道具は高級品。常に窃盗の脅威と隣り合わせでもあった。
そんな時に役立つのがこれだ。
まだ開発段階だが、購入者とその本人が承認した者以外は使用できない機構と、万が一誰かに奪われた時に取り戻せる機構。
この二つが完成すれば、魔道具に関する懸念が一つ減る。ノクアーツ王国にも魔道具が普及するきっかけになるのではないかと、フローリアは力を入れているのだ。
けれど、休む暇がないほど忙しいわけではない。
魔道具製作の依頼が入っているということもなく、緊急性もない。
ただ自分の構想を実現したいだけ。
それでも、フローリアは魔力回路を引き続ける。
とにかく魔道具作りに専念して、雑念を追い払っていた。
あの日の出来事に、思考が囚われないように。
王太子であるシェルリヒトと遭遇した。
あのあと、彼を護送しなければならなかったので、街歩きは延期となった。
それ自体にも気持ちは沈んだけれど、高貴な人が来訪したのだから仕方がないと、フローリアには割り切ることができる。
元貴族として、王族を尊重するのは当然のこと。
フローリアが何より衝撃を受けたのが――……。
パンッ
手の中で、羊角虫の角が粉々に砕ける。
しまった。順調に成功を重ねていたのに、思考に気を取られたせいでまた失敗してしまった。
「あぁ……もったいない……」
フローリアはガックリと肩を落とし、作業台に突っ伏した。
何も考えたくないから魔道具作りに逃げ込むなんて、我ながら最低だ。その上素材を無駄にしてしまうとは、目も当てられない。
「魔道具師としての誇りがあるなら、こんなことはやめるべきよね……」
自分を戒める声が、どこか虚ろに落ちる。
本当なら魔獣解体作業をしなければ、そろそろ素材が底をつきそうなのに。
それでも作業部屋に引き籠もっているのは、ロロナと顔を合わせづらいせいだ。魔道具製作には集中が大切なので、中までは護衛も入ってこない。
……あの日以来、ゼインとも会っていなかった。
彼の顔が浮かべば胸が痛んで、フローリアはギュッと服を掴んだ。
ゼインの正式な名は、ゼイン・フランツ・ギルレイド。このギルレイド辺境伯領を治める領主。
彼が辺境伯であることを黙っていたから、傷付いているのではない。
貴い立場にいる身であれば当たり前のこと。今のフローリアはただの平民、彼の全てを知ろうなど不可能に決まっている。
落ち込んでいる理由はただ一つ。
ゼインがロロナの恋人候補だったのだと……彼女を愛しているのだと、知ってしまったから。
花祭りの日に花を贈ってもらうのだと、ロロナは自慢げに話していた。その相手は辺境伯だと聞いていたから、微笑ましいとしか感じていなかった。
それがゼインのことだったと気付き、今までにない胸の痛みを感じて――思い知ったのだ。
フローリアは、ゼインが好きなのだと。
彼が目元を和らげて笑うと嬉しくなった。
些細な気遣いに胸が温かくなった。不意に触れただけで頬が熱くなった。心を直接撫でられているようなくすぐったさを、一緒にいると感じていた。
いつだって、ゼインにだけ向けられていた甘い感情の正体。
それをフローリアは……失恋というかたちで、思い知らされたのだ。
作業台に、いつの間にか大粒の涙が落ちていた。
しかも尋常じゃない量で、フローリアはのろのろと手巾に顔を押し付けた。ロロナに暗い感情を抱いてしまう自分が嫌で、消えたくなる。
婚約者が義妹にばかり構うようになった時も、確かに傷付いていた。
とはいえ、辛さや重みがこんなにも違うのだから、やはりあれは恋ではなかったのだろう。
恋愛感情はなかったけれど、いい関係を築けると思っていた。尊敬し合い、穏やかな結婚生活を成立させられると信じていた。
だが、それだけ。
義妹に嫉妬したことはなかった。逃げ出すように、魔道具作りにすがることもなかった。……何をしていても面影が浮かんでしまうことも。
「ゼインさん……」
違う。もうそんなふうに名前を呼べない。
胸が痛い。辛い。もう嫌だ。
ギルレイド領で生きて行きたいと思っていたのに。このままずっと、強く優しい人達と一緒に幸せになりたいと、考えはじめてさえいたのに。
逃げたい――……。
その時、扉を叩く音がした。
誰かが作業部屋を訪ねてきたのだ。フローリアは慌てて涙を拭い、居ずまいを正した。
「失礼いたしますよ」
入室を許可すると、いつもの得体の知れない笑みを浮かべたコルラッドが顔を出した。
「お邪魔してもよろしいですか、フローリア様?」
「はい。ちょうど休憩をしていたので」
「休憩? それは珍しい。ではメルエから預かってきた軽食も食べられそうですね」
「あ、ありがとうございます……」
彼が掲げるバスケットを受け取りながら、フローリアはついゼインのことを考えてしまう。
メルエからの差し入れを持ってくるのは、いつも彼の役割だった。
ゼインなら、涙のあとがあからさまなのに見ないふりをしたり、食欲不振を皮肉ったりしない。
今はコルラッドの、いい意味での淡白さがありがたいけれど。
フローリアはライ麦で作られたクッキーを何とか飲み下し、ふと顔を上げた。
「そういえば、コルラッドさんの家名は……」
そもそもただの補佐官の家が、辺境伯邸の敷地内にあるはずがなかった。
よく考えれば簡単なことなのに、フローリアは追放された悲しみで何も見えなくなっていたらしい。
コルラッドは一瞬、間抜けな人間を憐れむような表情を浮かべた。失礼だ。
「おや、名乗っておりませんでしたか? たいへん失礼いたしました。私は、コルラッド・ギルレイドと申します」
胡散臭い笑みと丁寧な礼を、フローリアは半眼になって見つめる。
ギルレイドを名乗れるのは、当然辺境伯家に連なる者のみ。うっかりを装っているが、絶対故意に決まっている。
「……私に、辺境伯閣下の素性を知られては、何か不都合があったのですか?」
「私にはなかった、と言っておきましょう。まぁ、そうして相手の思惑を推し量れるようになったのですから、一つの成長のきっかけだったと思えばよろしいのでは?」
開き直れるのだからすごい。
コルラッドらしいともいえるが。
「あぁ。そんなことより、大切な話があってこちらに来たのですよ」
「そんなことより……」
さっくり勝手に水に流したコルラッドが、箱の中に丁重に納められた何かを差し出す。
古びた金属の、首飾りのようだった。
独特の魔力の波長を感じるから魔道具だろう。
「ドラゴン討伐のあと、浄化の影響を調査するため魔獣の森に探索隊を派遣していたのですが、覚えていらっしゃいますか?」
フローリアは、若干気まずい心地になりながらも首肯した。周囲一帯を浄化しつくしたのは自分だ。
「これは、探索隊が森の中で発見したものです。こちらもまたすっかり浄化されているようで、魔道具ということは分かっても起動には至らず」
「……はっきり、迷惑だったと言ってくださって大丈夫ですが」
「とんでもない。フローリア様は、我々を守るために浄化の魔道具を開発してくださいました。感謝してもしきれない方に対し、間違っても迷惑などと思うはずがありません」
コルラッドの言いたいことが、以前より分かるようになった気がする。
確かにこれは成長かもしれないが、果たして喜べる進化なのか。
「……分かりました。どのような効果をもつ魔導具なのか、こちらで解析させていただきます。お世話になっているので代金は結構です」
よくできましたと言わんばかりのコルラッドの笑みが、非常に憎らしかった。




