ゼインの正体
家族も、聖女と認めない者達も冷たい視線を向けてくる中で、声をかけてくれた貴重な知人。
とはいえ、油断をするつもりはなかった。
ロロナが働いた不敬を抜きにしても、シェルリヒトの思惑が分からない。
彼が、なぜギルレイド辺境伯領にいるのか。
王太子という身分にあるのだから気軽に出歩けないのは当然のこと。それなのに供の一人も連れず、素性を隠すようにして辺境を訪れるなんて。
王都から馬車で三日もかかるのだ。気まぐれに思い立ったとして、途中で投げ出すには十分な距離。何か明確な意図があるはずだった。
そこがはっきりしない限り、フローリアは気を緩めるつもりなどない。
シェルリヒトの、以前と変わらぬ優しい笑みがこちらを向いた。
「王都にいた頃よりずっと綺麗になった。幸せなのだろうね、フローリア嬢」
「とんでもございません、恐縮ですわ」
「格式張る必要はないと言っているのに」
「私は現在、家名のない平民にございます。どうかこのままでご容赦を」
「もしかして、警戒している?」
「それこそ、恐れ多いことです」
形式的な言葉を返し続ける内に、シェルリヒトは不可解そうな表情になった。何かが想定外と言わんばかりに、眉間のシワは深い。
「共にいる彼らは、ギルレイド領の騎士のように見受けたのだけれど」
シェルリヒトの視線が、メルエとロロナに移る。
彼女達は護衛としてついているので、今日も隊服を着ている。オオカミと山の紋章で看破することは容易いだろう。
「ご指摘通りにございます。彼女達とは、個人的に親しくさせていただいておりますので。先ほどのご無礼につきましては、私からも謝罪をさせていただきたく思います」
何者なのか知らなかったとはいえ、ロロナが彼を引きずり回したのは紛うことなき事実。
処罰を与えるならどうか共に。
そのような気持ちから、再び深く頭を下げる。
きっとロロナも今頃、王太子と知って青ざめているに違いない。
フローリアが横目で盗み見れば……彼女はなぜか、うっとりと頬を上気させている。完全に類まれな美貌に釘付けだった。
王太子の首根っこを掴んだ事実を忘れるとは、さすがの豪胆さだ。それとも、忘れさせてしまうシェルリヒトの美貌が凄まじいのか。
――というより、辺境伯の恋人候補と豪語していたのに、それでいいのかしら……。
緊張感が途切れかけたフローリアの隣から、メルエが進み出た。
「発言をお許しください、王太子殿下。先ほどの件は、私の部下の不始末。罰するのなら、騎士団長である私を」
彼女も同じく頭を下げたので、何やら考え込んでいたシェルリヒトが我に返った。
「あぁ、あれは気にしなくていい。不審な動きをしていた僕にも問題があるのだから。そうではなく、その……おかしい。思い描いていた再会と異なる」
あっさりとロロナを許した彼には、それより他に気になることがあるようだ。
シェルリヒトは確認のように問いを重ねる。
「君のことは見覚えがある。確か、コルラッド殿の奥方だったろうか? 君ほどの実力があるからこそ、フローリア嬢の護衛に抜擢されたのだろうと推測していたのだけれど、個人的に親しく……とは、どういうことだい?」
フローリアは目を瞬かせ、思わずメルエを振り向いた。彼らに面識があるとは思っていなかった。
「フローリア嬢は、ギルレイド領ですっかり幸せになっているだろうと思っていたのだけれど」
「……お気持ちは分かります。それについては、本人から直接、お聞きになればよろしいかと」
メルエの視線が扉の方に向けられる。
少しずつ大きくなってくる複数の足音。レトが、辺境伯とコルラッドを連れて来てくれたのだ。辺境伯邸にいたはずなのに想定より早い。
扉が勢いよく開かれる。
思った通りレトとコルラッドがいる。そしてなぜか――ゼインも。
なぜかは分からなくても、彼の顔を見るだけでフローリアはホッとした。
一方メルエの視線は、やたら鋭くなっている。
「ゼイン様、コルラッド。明らかに、到着が早すぎる。都合がよすぎる」
「その、偶然近くにいたのだ」
「いつから?」
「……この時期は物騒だから、心配だったのだ」
フローリアは、彼らの会話が意味するところに気付いた。
メルエは、ゼイン達がこっそりあとを尾けていたのではと疑っているのだ。
そしてそれは事実で、レトとフローリアを心配するあまりの行動だったと。何て優しいのだろう。
「ゼインさん、コルラッドさん……ありがとうございます。これほど親切にしていただけるなんて、ギルレイド領の方々は本当に温かな人ばかりですね」
フローリアは、心から感謝と喜びを告げる。
けれどなぜか、ゼインとだんだん視線が合わなくなっていく。最終的に顔ごと背けられてしまった。
そしてなぜか、メルエがどんどん視線を鋭くしている。もはや凶器のようだ。
そしてさらになぜか、シェルリヒトとコルラッドの視線もゼインへと集中していた。
「お前達……あまり見るな……」
ゼインが、ひどく気まずげに呟く。口の中にこれでもかと苦虫を詰め込まれたかのようだ。
「だって君、嘘だろう。この感じ、どう考えても何も進展していないじゃないか……」
「もっと言ってやってください、この臆病者に」
「君に祝福の言葉をかけるのも、僕の今回の目的の一つだったんだぞ。この半年以上の間、君は一体何をやっていたんだ?」
どうやらコルラッドだけでなく、シェルリヒトとゼインも顔見知りだったらしい。というか、旧友のように親しげだ。
……今まで見ないふりをしてきた違和感を、急に目の前に突き付けられた気がした。
先ほどの騒動の前、もしかしたらメルエは、フローリアが元聖女であることを知っているのかもしれないと思った。
けれどそれは、今思えばとても楽天的な想像だったのだろう。
メルエだけでなく、本当はもっと多くの人に認知されていたとしたら。
レトは? ロロナは? ……ゼインは?
領地に異物が紛れ込んでいるのに放置しておくほど、コルラッドは間抜けでもお人好しでもない。
それに初めて会った時、彼は口にしていたではないか。『上司への報告は義務ですので、辺境伯には伝えさせていただきます』と。
フローリアは、辺境伯を見ず知らずの誰かだと勝手に思い描いていた。
コルラッドが仕える人物。メルエが敬い、ロロナが慕う相手。
ふと、ロロナが今どうしているか気になった。
シェルリヒトとは別の方向性だが、ゼインも十分な美丈夫だ。また見惚れているに違いない。
ゆっくり動かした視界に映ったのは、彼女の真っ赤な美しい髪。ロロナは、跪いて頭を垂れていた。
誰に。
フローリアはもう、それを勘違いしたりしない。
ロロナの尊敬が誰に向いているのか、瞳を輝かせながら語るのを、聞いていたから。
ここに彼が来たこと自体が、答えだったのだ。
フローリアは、未だに気安く言い合っているゼインの方へ、深く頭を下げた。
流麗な辞儀に誰もが息を呑む。
黙り込む面々の視線は、自然にゼインへと注がれる。彼は驚愕の表情のまま、完全に硬直していた。
「いや、これは、その……」
「これまで数々の非礼、たいへん申し訳ございませんでした――辺境伯閣下」
「フ、フローリア殿……」
ゼインはオロオロと、特に意味の成さない言葉を発している。
それを彼の優しさと受け取り、フローリアは儀礼的な微笑を浮かべる。
「叱責されてもおかしくない失態ばかりでしたのに、閣下の慈悲深さに感謝いたします」
「それは……俺が、きちんと名乗っていなかったからだ。フローリア殿は何一つ悪くない」
彼は息をつくと、力強く顔を上げた。静謐な真紅の眼差しが、覚悟を宿してフローリアを射貫く。
「ずっと黙っていてすまなかった。俺はゼイン・フランツ・ギルレイド。ギルレイドの当主である」
『え、今さら?』というシェルリヒトの呟きが聞こえても、フローリアは笑うことすらできなかった。
青空の下、隣に並んでアイスティを飲んだ。
笑い合って軽口を叩いた。
あの日々が、ひどく遠く感じた。




