絶望の果て
ノクアーツ王国の最北、辺境の地ギルレイド。
フローリアは叩きつけるような猛吹雪を全身に受け、馬車を降り立った瞬間よろめいた。
何という寒さ。
それに、一歩前の視界さえ危うい。
それでも何とか振り向いた先には、数名の騎士らしき人影が並んでいる。
あいにく、どのような表情をしているのかは判断が難しい。こちらの顔だって見えていないだろう。
けれどフローリアは、感謝の気持ちを込めて精いっぱいの笑みを浮かべた。
彼らは第二王子の命令で、誰もやりたがらない役目を引き受けてくれた。
元々はスレイン公爵家の令嬢でもあり、廃された聖女でもある、フローリア・スレイン。
その身柄を、『絶望の地』と呼ばれているギルレイドの領都まで護送するという任務だ。
「道中、ありがとうございました。気を付けてお帰りください」
少し声を張ると、雪の向こうから返事があった。
「聖女様、せめて辺境伯が住まう屋敷までお送りいたしますので……」
騎士達はいかにも実直そうで、未だにフローリアを聖女と呼ぶ。
ここはまだ領都の入り口、人影どころか建物の一つもないところで置き去りにすることに、良心の呵責を感じているのだろう。
「私はもう聖女ではありません。あなた方が仰せつかったのは、領都の入り口までの護送です。どうかここでお引き取りを」
第二王子の命に背けば、彼らに累が及ぶ。
フローリアはやや強引に話を切り上げると、領都に向かって歩き出した。
騎士達もさすがに追ってくることはなく、背後にあった人の気配も、あっという間に吹雪に閉ざされていく。まるではじめから独りきりだったようだ。
途端、所持品の入った鞄が重く感じた。
――私はこの先……どうやって生きていけばいいのかしら……。
住む場所もなく、財産も必死に掻き集めた僅かばかりの金品がある程度。
働かないといけないことは理解しているけれど、働き口自体をどう探せばいいのか。
けれどフローリアの胸に凝っているのは、暮らしのための現実的な不安ではない。
どのようにして生きるか、ではなく、生きねばならない理由が見つからなかった。
他者への献身に身を捧げてきた。誰からも称賛される聖女になるため、これまで持てる全てを尽くしてきたのだ。
いつかきっと報われる日が来ると信じていた。……ただフローリアが、そう信じたかっただけかもしれない。
スレイン公爵家は、ノクアーツ王国建国当時から国を支える偉大なる一柱。
王家に仕える聖女を、代々輩出している家系でもあった。
そこの長女として生まれたフローリアにかかる期待は、昔から大きかった。亡き祖母のような聖女となるべく、必死に修業した。
……フローリアに聖女の座は相応しくないと囁かれるようになったのは、奇しくも、後妻が義妹を連れて公爵家にやって来た十歳の頃だった。
命あるものは誰しも魔力を保持している。その中でも貴族はとりわけ強い魔力があるものなのだが、フローリアには平民程度の力しかなかった。そのせいで中途半端な治癒や浄化しか使えないのではと、周囲から猜疑心を向けられるようになった。
そんな中で現れた、八歳の天真爛漫な義妹は、目映いほど潤沢な魔力の持ち主だった。
陽光を集めた金髪に、空を切り取った青い瞳。黒髪黒目のフローリアには、愛されるために生まれてきたかのように映った。
彼女が公爵邸で暮らすようになってから、実父や後妻の愛情も、使用人達の配慮も、全て義妹のものになった。
そしてついには、幼い頃に定められた第二王子との婚約も、聖女の地位さえ――……。
フローリアは足を止め、雪が逆巻く暗い空を見上げた。真っ直ぐな黒髪も一緒になって、風に舞い上がっていく。
奪われた、なんて思わない。
はじめからきっと、全て義妹のものだったのだ。
ギルレイド辺境伯領が『絶望の地』と呼ばれているのは、何も寒さだけが理由ではない。
領の東側に位置する広大な森からは、魔獣が襲来するのだ。
それを解決するのが、本来は聖女であるフローリアの役割だった。
王家に秘された魔道具に聖女が祈りを込めれば、その加護があまねく人々を救うと伝えられている。
実際は、定期的に行われる浄化の魔力を込める作業なのだが、フローリアの魔力が少ないせいで浄化の力が辺境まで届かなかったのではないだろうか。そのせいで、魔獣の侵入を許したのではないか。
涙まで凍り付いていく、ギルレイド辺境伯領。
この地に追放されたのも、失格の烙印を押された聖女にはまさにおあつらえ向きな罰といえよう。
……それでも、せめて一度でいいから、愛されてみたかった。
フローリアはただ、家族や婚約者に認めてほしかっただけ。顧みてほしかっただけ。
あの温かな輪の中に、自分も入れてほしかった。
何も持たない身でも、『ただ側にいてくれるだけでいい』と、一言でいいから。
「いっそ……このまま消えてしまえば、楽に……」
にじんだ涙で睫毛まで凍ってしまったのか、目を開けるのがひどく億劫だった。
どうせ一面真っ白な世界、目を開いても閉じていても大差ないかもしれない。ただゆっくり、末端から動かなくなっていくだけ。
痛みも苦しみもないなら、むしろ慈悲深くすらあるのでは――……。
「おーい! こんなとこで何ぼさっとしてんだよ、ねーちゃん!」
フローリアの悲観的な思考が、突如として断ち切られる。
「あ、えぇと……」
「あんた他所もんだろ。とろくさく歩いてっと、凍死するぞ! 俺達も日が暮れる前に帰りてぇから、さっさとうちの荷馬車に乗れ!」
「あの、えぇと……はい」
いつの間にかフローリアの隣に立っていたのは、まだ十歳くらいの少年だった。
闊達そうな灰色の瞳でフローリアをじっと観察しながらまくし立てたと思えば、有無を言わせず荷馬車の荷台へ押し込む。
知らない間に同乗させていただく流れになっているが、勢いに圧されたフローリアはただ頷くことしかできなかった。
案内された荷台には、少年によく似た意思の強そうな目の女性がいた。母親らしきその女性が小さく頷いたので、恐縮しつつ荷台に座る。
この辺りは風が強いためか、荷馬車にも頑丈な木製の屋根がある。おかげで、耳の奥でずっとこだましていた風鳴りが、ようやく遠のいた。
とはいえ、荷物が吹き飛ばされないようにと造られた囲いだ。
隙間風の侵入を完全に防げるものではない。
屋根や壁があるのに凍えそうになるというのは、フローリアにとって初めての経験だった。家族や使用人から距離を置かれていても、寒い時期になれば、私室の暖炉には常に火が入っていた。
「あの、お礼が遅くなりましたが、助けていただきありがとうございます。私はフローリアと申します。あなた方は……」
「俺はレト。こっちが母ちゃんで、馬走らせてるのが父ちゃん」
「父ちゃん……というと、御者ではなく……?」
「平民が御者なんて雇えるわけねぇだろ。世間知らずなねーちゃんだな……っいて!」
レト少年の頭を、母親が無言で叩いた。
失礼な言動は慎めということだろうか。レトが不満を訴えるのを鼻で笑って煽っているあたり、寡黙な女性だが気難しいというわけでもなさそうだ。
フローリアは、御者をしているという父親について思案する。
この寒さの中、風雪に耐えながら馬を操るなど、どれほど辛いだろうか。
急いで鞄を探り防寒着を取り出す。
「あの、よろしければこちらを……!」
まだ速度が出ていなかったこともあり、荷台から身を乗り出して声を上げれば、かろうじて御者席に届いた。
父親が目を瞬かせながら振り向く。顎ひげを蓄えた、穏やかな面立ちの男性だった。
「あの、保温効果を付与しているので、少しは寒さをしのげるのではと……」
「あぁ、魔道具ですか。これはありがたい」
父親は頭を下げて受け取ると、早速グレーの外套を羽織った。
ゆとりのある作りだ。試しに肩を回しているが問題ないようだった。
「とても温かいですね。必ず洗って返しますので、少しの間お借りします」
「乗せていただいているお礼なので、そのまま受け取ってください」
「魔道具なんて高価なもの、いただけません」
「い、いえ、自作のものなので、かかっているのは材料費くらいですし……」
「……自作?」
顔に驚愕を貼り付けて動かなくなった父親に、フローリアは戸惑った。何かおかしかっただろうか。
魔道具作りは、フローリアの秘密の趣味だ。
総魔力量自体が多くないため、いかに効率的に操作をするかという方向で努力するしかなかった。
魔道具は、回路を引いて少量の魔力を流すだけで動く便利な日用品。魔力に方向性をつけたり、一定の強さで放出し続けたりする練習にはもってこいだったのだ。
結局、最低限の浄化と治癒しか身につかなかったし、フローリアの魔道具が日の目を見ることもなかったけれど。
「――失礼ながら、ご令嬢は魔道具の相場というものを理解しておられないようですね」
父親の口調や雰囲気が、ガラリと変わった。
温和で朴訥そうな男性といった印象だったのに、駆け引きや知略に富んだ王都の貴族達にも引けを取らない鋭さ。
俯いていたフローリアは、恐怖ですくんで顔を上げることができなかった。
「この地に来られるのは、初めてのことではありませんね?」
言い当てられても動揺で答えられない。
なぜ分かるのだろう。確かに八年前、隣国が魔獣の森を越えて進軍してきた際、最前線であるここギルレイド辺境伯領に、聖女として訪問していた。
こちらが答えに詰まっていても、男性の舌鋒が止まることはなかった。
「事前の防寒対策は抜かりない辺り、知識だけでなくこの地の寒さを実際に体感したことがあるのだろうとお見受けいたします。しかしいかんせん、無防備すぎる。あなたに必要なのは防寒対策ではなく、まず状況に適した知識ではありませんか?」
これは、嫌みだろう。
それでも反論できず、フローリアは馬鹿みたいに立ちすくむ。そろそろ本格的に氷柱か何かになってしまいそうだ。
父親は、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「この場で危機意識を説き続けても凍えるだけで、集中などできないでしょうね。……これもきっと何かの縁ということでしょう。今日はぜひ、あなたを我が家にご招待させていただきたい。そのまま野放しにしてはあまりに危険すぎる」
フローリアはそこでようやく顔を上げた。動作がぎこちなくなったのは猛吹雪の中での立ち話のせいか、男性からの有無を言わせぬ圧力のせいか。
「宿の予約をしているのでしたら申し訳ありませんが、一度顔を出して事情を話していただき……」
「…………」
そっと目を逸らしたフローリアから、彼は全てを察した。
「……えぇ、そうでしょうとも。宿泊するにも事前に予約が必要だということを、ご令嬢ならばご存じないでしょうね」
皮肉を散りばめられた物言いにも、再び項垂れることしかできなかった。
ここでさらに今後住む場所も仕事も食料を得る方法もことごとく決まっていないという事情を話せば、恐ろしい展開が待ち受けているだろうことは本能的に分かったので、フローリアはただそそくさと荷台に戻った。