出会い 2
明日の通う学校は、アパートがある奥兎市星隠の片隅にある古めの校舎。旧星隠町時代から存在し、奥兎市に生まれた身としては既定路線のような進学先だった。運動部の幾つかが全国大会の常連だった頃に比べて随分と生徒数は減少し閑古鳥の鳴き声がしている。
明日がゆっくり登校しても、決して廊下が賑やかなんて訳はなく、教室に入れば、田舎らしく級友がおはようを口にした。
「明日さ。美子に会わんかった?」
「見てないけど?」
「そっか。いやね、あたし美子と家近いじゃん? それでよく遊ぶんだけど、この週末は何か会えなくてさ」
「電話すればいいじゃん。ケイ番号知ってるでしょ?」
「それが出ないの。それで今朝は会えるかと思ってたら、いつもの時間になっても待ち合わせ場所に来なくてさ。変じゃない?」
「風邪でも引いたんじゃないの? 私も隙を見てメッセージ送ってみるよ。家どこなん?」
「紅月の一丁目、坂の近くにあるバス停の近所。金曜は病院の予約があるって言って、それっきり」
昨日ボールを拾ったバス停。砕子と出会った場所。
きっと風邪か気の病になって寝込んだと明日は思った。それなら病院の予定も辻褄が合う。
クラスの仲間として、私も様子くらい見に行くべきか。
やる気の出ない授業中、ふと沸き上がった親切心だった。美子は遊び仲間と言える間柄ではない。一度も遊んだことがない。元より出身の中学が違う。それでも今の学校に限れば話もするし、昼食も共にしたことだってある。そういった意味では友人と言って差し支えない。
午後の授業が終盤に差し掛かる頃には、乃蒼なら心配していると想像した。しっかり者で万人に優しかった乃蒼なら、意地でも病欠した友人の見舞いに行っているに違いない。意思を継ぐ訳ではないが、見習うべき部分だと思っていた。
放課後になってケイを美子の様子を見に行こうと誘ったものの、部活の練習があると言われ当てが外れてしまった。代わりに美子の家の詳しい場所を教えてもらい、明日は一人で尋ねることにした。
学校前のバス停から前日と同じ紅月のバス停へ降り立つ。数人いた乗客で降りたのは明日だけで、意図せずに昨日と似たシーンに飛び込んだ。案の定真正面に坂道は存在する。少し坂を上がって途中にある袋小路の中に、美子の家があると聞いている。風は暖かいそよ風で、半袖から出る白い腕に纏わりつく。
今日も車通りはもちろん、通行人もない。明日は下を向いて緩やかな傾斜を静かに歩く。
もうすぐ左手に袋小路の入り口は見えてくる。
心なしか歩幅が普段より広くなる。理由は記憶だった。昨日出会った変わり者の一言。
――坂の上にいた子供、二度と関わるなよ。
真に受けてなどない。発言の持ち主の放つ風貌が強く残っているだけ。あんな人物に心許したら宇宙人まで信じる人間になりそう。
いよいよ電柱を左折しようとした明日は、急ブレーキで止まった。
風がシフトアップして全身に強く吹き荒ぶ。アスファルトの路面を弾む音は、明日の足元に転がってきた。その赤い球体に、触れた覚えがあった。
ボールを拾い顔を上げる。やはり車道の真ん中。我が物顔のように少年がこちらを見つめていた。その表情は冷たく映った。自分を見ているのかボールを追っているのか、それさえハッキリしない曇った視線に眉をひそめる。
このままボールを捨てて立ち去れるほど肝が据わっていない明日は小さく息を吐いた。あまり疑いたくないが、少年が見せる無の顔に対して疑念が姿を覗かせる。
自分を狙って、故意にボールを投げている。誰かが来るのを待っていたんだ。それとも昨日遊んであげなかったから、八つ当たり的に投げてきたのか。
明日は嚙み締めるように坂を上がった。そこには昨日から変化が見て取れる。
少年は前回とは違い、両手を出してボールを待っている。物々しい砕子の忠告が馬鹿馬鹿しく思えてきた。あのような浮世離れした言動をそもそも心に留める自分もどうなんだと、明日は自分の節操の無さに呆れた。
「はい。もう少し遊べそうな場所行きな。ここでボールはだめだよ」
「ねえあそぼ」
前回と同じ一方的な感じを帯びた台詞に、こっちの発言を聞いていないのではと明日は感じる。まるで呼び寄せるのが目的で、ボールでなんか遊んでいなかったのではと考えた。
「暇なら是非そうしたいけどね。少し用事があるんだ」
「おねえちゃんもあそぼ」
「うーん。困ったなあ、ってかお友達いるの? もって」
「そう。美子おねえちゃん。あいにきたんでしょ?」
降って湧いた驚きに、明日は言葉を見失う。対する少年はまたしてもアパートを指さす。今日も二階の角部屋はカーテンが閉じられている。嫌な気配が、影を伝って足をくすぐった。
「本当に美子がいるの?」
「うん。すぐそこのおねえちゃんだよ」
「ボールで? 遊んでたの?」
「いろいろ。あすおねえちゃんもあそぼ」
「美子さ、いつから君と遊んでる? 今日学校に来てないんだ」
「すこしまえから。やすみだからいいよって」
まごまごする明日を無視して、脇目も振らずに少年は歩き出す。渡したはずのボールはどこにも見当たらない。
明日の中で選択肢が絡まっていた。このまま踵を返せば少年の発言の真意を確かめられる。美子が不在だったら、本当に遊んでいるかもしれない。でもついて行ってもそれはできる。どっちへ行くべきか、迷える羊となった明日の足は自然と少年の背中を追い始めた。
「君の名前は?」
「しりたい?」
「もちろん。私の名前知ってるんだし、教えてくれてもよくない?」
「あそんでくれたら、おしえてあげる」
名前も知らないアパートは、ずいぶんと年季の入った鉄の階段を持ち合わせていた。少年は手をつきながらせっせと二階へ上がる。明日はその不気味さに、びた一文踏み入る気にはならない。錆色の段はどこも濡れている様子で、湿気の多い空気が鼻を衝く。見上げる先に立つ少年は、ぱたぱたと手招きで誘う。
「はやくきてよ」
「外で遊ばない? 美子を呼んできて」
「たぶんむり」
「どうして?」
「わからない、たすけてあげる?」
言い終えたとき、少年はどこか物憂い感情を覗かせる。明日には無性に真実を言っている顔に見えたが、少年は次の瞬間廊下を走り出した。表で示していた角部屋の方向から激しくドアを開閉する音が響き、明日は一歩たじろいでしまう。
そして全てしじまに包まれる。
アパートを囲む塀ブロック塀も手伝って風さえ遠慮した。
どうするべきか明日は考えを巡らせた。ここからでは絶妙に見えない角部屋まで行ってみようか。しかし体は依然として全会一致で反対している。一歩でも階段を進んだら、それは少年と関わるとこになる。あの人を信用しろと言うのか。根拠は友人の名を知っていたこと、それだけしか材料はない。ここで身を引いても困らないと言われれば、それはそう。
渇いた金属音が鳴く。空気が重くなり、周囲はやけに暗い。
ゆっくり体重を乗せて、明日は階段を一つ上がった。
少年が最後に残した一言は無視できなかった。鞄を持つ手に汗を感じる。半分上がればドアくらい見えるだろう。
二段目に足を乗せると、スマートフォンが鳴った。
非通知の着信。誰かから番号を聞いたケイかもしれない。
「もしもし」
「――……明日ちゃん?」
初めて聞く声だった。でも知らない訳じゃないと本能的に感じた。落ち着いた優しい女性の声。脳裏を鮮明に過る友人の顔は、明日を忽ち困惑の坩堝に蹴落とした。
「――その階段、上がっちゃダメだよ」
「あの、どちら様ですか?」
「――……。アノマリーって聞いたことあるでしょ?」
「それはまあ、昨日だけど」
「――そこにいると、飲まれてしまうわ」
「あの子がアノマリーって……こと?」
「少し違う。あの子がかつて住んでいた角部屋、そこが本体。あの少年は、人をおびき寄せる疑似餌みたいなもの。あの部屋は人を欲しがるアノマリーなの」
明日は早くなった脈を緩慢にすべく瞳を閉じた。
電話の相手を信じるべきだろうか。突拍子もない話だが、こうも続けてイエローカードを突きつけられると流石に聞く耳が沸いて出てくる。
そこへ追い打ちと言わんばかりに、ドアがギイっと開く音が聞こえた。瞼が緊急で持ち上がる。明日からはどこの部屋か見えない。
でも音で想像はつく、隙間から外を見る少年の顔が。
「――そこから離れて。身に危険が及ぶわ。その場所は明日ちゃんを狙っているかもしれない」
「でも待って、同じクラスの美子がいるって」
「――罠かもしれないわ。部屋へ行かなければと強く思ったら、それはアノマリーの作用だから気をつけて。どのみち今の明日ちゃんでは助けられないよ」
もう一度瞳を閉じて、両足に力を込めて明日は踏み止まる。
「――もしもし? 聞こえてる? それ以上進んじゃダ――」
電話を切ることに迷いはなかった。
本当に美子がいるとしたら、見殺しにすることになってしまう。もちろん電話で言われた通り、助ける手段なんて雀の涙以上に持ち合わせていない。美子が部屋にどんな状態でいるのかさえ不明で、倒れている場合自力では運べないだろう。
「かえるの?」
少年の声は近い。俯いてゆっくり目を開けると、薄汚れたスニーカーを履く小さな足が立っていた。泥汚れというより、経年変化による変色が言い得て妙。
「あのおねえちゃんはいいの?」
「どういう意味?」
「ほんとうにいるよ。おやすみのひからずっと。ぼくといっしょに、おるすばんしてくれるって」
「何で帰らないの? もう休みは終わったよ」
「ぼくね。ほんとうはそとにでちゃダメなんだ」
「それは……、お留守番してるからでしょ?」
「うん。おかあさんがかえってくるまで、ぜったいにでちゃだめ」
少年は歩き出す。枯れ葉とゴミで汚れた二階の通路はおおよそ人の生活環境には見えず、何らかの疎外感を五感に訴えてきた。
明日は重い足で階段を上がりきっていた。少し先に見える朽ちかけのドアには、ありふれた苗字のネームプレートが掛かる。上部の番が外れて半開きになったドアの向こう側に少年は吸い込まれ、中から鈍い金属音が鼓膜に刺さった。
首を伝う汗は、明日に危機感をもたらす。
頭ではわかっている。少年もこの建物もきっと普通じゃないんだ。でも逃げるとか、帰るとか、そんな後退的な考えに気が乗らない。美子がいるなら、一刻でも早く角部屋へ行かなければいけない。
忍び足でついにドアに迫った。風が一層強さを増して、ドアは開け広げになる。この風は室内から発生しているようで、中からお菓子の空き袋やおもちゃのブロックが吐き出される。駆動する重機にも似た光景であり、風が失われると金属音が不規則に発生し廊下を揺らした。
不快な音も相まって背筋が寒くなる。顔色でそれを察したように少年は、明日の背後から体を押して何かを促した。
「はやくいこうよ?」
「この部屋、何なの? 中に何がいるの?」
「ぼくのうち。おかあさんはいないから、あそぼ」
少年は風を物ともせず足早に部屋に入る。
途端に無風となった廊下。一台のスマートフォンが部屋から飛び出して廊下の柵に当たると、明日の足元に転げた。拾う手を出す間もなく気付いた。表示された画面は、ケイと美子が笑顔で収まる写真。
明日の呼吸は荒々しく、持っていた鞄も床に落としそうになっていた。
あの部屋の中に一体どんな現実が待ち受けているのだろうか。スマートフォンは美子のものかもしれない。でも誰が投げたのかはわからなかった。
「美子! 同じクラスの京沢だよ! いるなら返事をして!」
活路を開くための一言に対して、遠くから返事が返ってきた。
「たすけて! なんでこんなに――」
目の覚めるような騒音を置いてドアが閉まった。
何か不味いことが起こるんじゃないのか。
これはスグにドアを開けて中に入らなくちゃいけない。
憑き物が落ちたように明日の足取りは軽快になる。あとはドアノブを回すだけでいい。美子と少年がいるはずだ。私はこのドアを開けて中に入る必要がある。
「ドアは開けなくていいぞ。明日」
不意をついた問いかけは明日に刺さり体を貫いた。この場には合わない落ち着きと、賢明さ含んだ女性の声。相手の顔が明日にはわかっていた。だからこそ下手に驚くようなことはしない。
「砕子……さん? どうしてここに?」
「どうしてって。ここから立ち去れと電話あったろ?」
「あれは砕子さんじゃないですよね? あれは――」
「そう。明日の知ってる声だ。言ったろ? 乃蒼はアノマリーであり、君を見てる」
おもむろに砕子はスマートフォンを取り出す。どこかへ電話をかけると、スピーカーモードにして明日に向けた。
「――明日ちゃん? 怪我はない?」
「……乃蒼」
友人の名を口にした途端、体から余分な力が抜けてドアから離れるようにバランスを崩して柵にもたれ掛かった。
「明日がアパートに近寄った。そう私に告げてきた。何とかして欲しい、ともな。それで電話を貸してやった」
「待って。何で乃蒼が砕子さんといるんですか?」
「私がこの奥兎市で唯一アノマリーが取り扱える人間だから。明日と別れた後、乃蒼はアノマリーになって顕現した。でも明日にはその姿が見えない。そんな中で運命の針は私を指した。簡単に説明すると、普段は私の店にいる」
「だからミッドなんとかに来いと?」
「大正解。なのにだよ、君はこんなところで油を売ってるんだ。今回は少年経由でアノマリーに引っ張られた様子だな。ちょっと失礼」
余裕が垣間見える砕子は、ドアの前に立つとガチャガチャと開けようと試みた。先程まで開閉していたドアは嘘みたいに閉ざされたままであり、金属音も鳴りを潜めている。
「居留守か? 引き込んだ子はまだ生きているらしいな。無視とは態度悪い」
砕子はドアを蹴飛ばした。それでも念のため少しだけ待ってみたが、変化はない。どうすればいいのか明日が困惑する中、ついにしびれを切らした砕子は動き出す。
「行こうか。待つ意味はないようだ」
「でも美子が」
「あんまり物音立てるのはなぁ……。まあ助ける方法はある」
「どんな?」
答えは返って来ず、砕子は階段を下りる。促された手前明日も後を追った。砕子のヒールの奏でる乾いた音に誘われてアパートの裏手に回った。つまり坂の頂である。過疎地域らしく今日も車も通行人もいない車道に、砕子は仁王立ちになった。常識的に歩道でそれを目の当たりにする明日からすれば、非常に難解な行動に過ぎない。
「なあ明日。ひょっとして、あの角部屋に行かなければと思った?」
「そう言われれば……美子を助けなきゃって」
「だろうな。常套手段だ。あの角部屋はそうやって人を食う害悪野郎さ」
「食べる?」
「そう。食虫植物っているだろ? あらゆる手法で部屋に人を誘い込んで、閉じ込めては弱らす。そして取り込む。簡単だろ? 人の少ない場所に、稀に出現するんだ」
明日は今一度アパートに視線をぶつけた。どんな色眼鏡を持ち寄っても、賃貸物件以外の姿には映らない。角部屋のカーテンが大きく揺れた。
「じゃあ美子が危ない!」
「だろうな。時期存在ごと喰われる。私たちくらいだろうな、喰われた人間がいることを知っているのは」
「本当に助ける手段はあるんですか? このまま呑気にここで観察?」
「落ち着け、ちゃんとあるよ」
軽率に言い切る砕子は、胸のポケットから煙草を取り出す。しわしわの箱から一本咥えると、早速口から煙を吐いていた。
明日が吸い込む副流煙は甘い香りだった。不快感は得られず、どこか懐かしさがあって記憶にある様々な場所を思い起こさせる。
「この煙草もアノマリーだぞ」
先に言えよ。明日は懸命に追い払った。ただでさえ有害物質なのに、そこへ得体の知れなさが加わったら悪夢の可視化もいいところ。砕子は一人でバタバタする明日を小動物でも愛でるように笑っていた。
急に民度の良い時間を生み出す二人に嫉妬するような強風が吹き始める。それは妙に生暖かくて、流水みたいな肌触りがした。
「おっと。お迎えか? 小僧」
いつの間にか、二人の前に少年が立ち尽くしていた。両手を力強く握り、ご機嫌斜めな態度を表明している。腑に落ちないと訴えるように、黙って砕子の前まで歩いて来た。残り僅かになった煙草をポイ捨てする砕子は、威風堂々としたオーラを放って少年を見下ろす。
「おばさんきらい」
「随分と口が達者だな。親は何やってんだか」
「おかあさん。おかねとりにいった」
「取りに、だと? 変な言い方だな。もうチョイ教えてみろ」
「……。しらないひとからもらって、じゃらじゃらのおみせにいく」
「察しの良い私は、突っ込んで聞かないことにしよう。それでお前は留守番か?」
「いつもそう。ずっとひとりでまってる。あのひもあさから」
「ああ、お前の死んだ日か」
少年の声は機会による読み上げ音声みたいだった。砕子はそんな哀愁が見える少年の頭をくしゃくしゃと雑に撫でる。すっかり平常心に戻った明日も少年に近寄り、優しく顔に触れて言葉の真意を確かめた。
冷たい。日陰のコンクリートブロックのように指の温度が頬に奪われていく。
「この子、死んでるんですか?」
「オフコース。流石は私の見込んだ逸材だな」
「じゃあ他の住人は?」
「何を言っているんだ。このアパートは廃墟同然さ。小僧が死んだ一件から住人はある意味去った。そして留守番を続けるコイツとアパートだけ残った。言いつけを守った成れの果てだよ」
再び強風が明日たちを煽り始めた。根を生やしたように動じない砕子と少年とは対照的に、まんまとよろめいた明日は、視界に入った角部屋に窓を叩く美子を見た。
「あそこ! 美子がいる!」
「まだ元気そうだね。まだ猶予があるのか? 小僧」
「うん。おねえちゃんはこどもだから。おとなとちがう」
「どう言う意味ですか?」
「消化には個人差があるってことだろ」
それは出し抜けにも限度があると明日は思った。あの世への引っ越しなんて誰が想像するものか。
一瞬でホラー要素に苛まれた。直感的に感情がそっちに触れる事実は、砕子の言っていることが本当なんだろうと、明日は少し怖くなる。
「助けましょう! あの窓割ればいいじゃないですか!」
「普通に叩いて割れるかよ、普通の建物じゃないのに。そ・こ・で。コイツの出番さ」
待ってましたとばかりに、砕子の手には兵器が握られている。西部のガンマンにでもなったつもりか、ダサいポーズまで決めた。
「スーパーで手に入れた、この水鉄砲のアノマリーさ」
「壁でも濡らしてふやかすつもりですか?」
「あれあぶない。こわいおもちゃ」
「小僧にはわかるみたいだ。コイツの真の姿。見せてやろう。家、壊していいか?」
少年は実に素早い身のこなしで明日の後ろに隠れた。取り残されそうな明日は適切なアドバイスを寄越せと砕子に念じる。
「音がクソうるさいと思うから、耳でも塞いでな」
砕子は眼鏡を外して胸ポケットに避難させる。両手で水鉄砲を構え、照門で美子が狼狽える部屋に狙いを定める。
「ちょい待ち! 美子は平気なんですか?」
「それはー……。時の運だ」
明日が苦言を呈する暇はなかった。
「バキューン!」
作られた可愛い声。
その瞬間、爆風と呼称すべき真っ白な塊に襲われて、轟音の沸き立つ中を少年と仲良く後方へ吹き飛んだ。坂の傾斜を数メートル転げた後、縁石にしがみつく格好で何とか場に留まった。
自分の吹っ飛び具合から、明日はいの一番に少年を目で探した。
坂の下にあるバス停の時刻表に張り付いてないかと思われたが、明日に最も近い電柱の非常識な高さにアスレチック感覚で抱き着いていた。ゆっくり滑り落ちてくる様は、無傷を物語っている。
それより何が起きたのかである。
あの音だ、きっとただ事ではない。明日はすぐに起き上がって確認に行くと、犯人である砕子はいた。咥える二本目の煙草の煙は、特段風には流れない。
「おかえり」
「帰ってこない可能性あったんですか?」
「その時はアノマリーになることを願ってた」
「それで? 何が起こったんですか?」
「ご覧の通り。無力化に成功だ」
確かに砕子の言う通り、明日がご覧になったのはアップデートされたアパートだった。
変更点は一点。件の角部屋が巨人にでも齧られたように消失して、道路には制服姿の美子が足を延ばして眠っていた。
「数日は部屋にいたな。きっと家族とサツが探してる」
「通報しますか? 何て説明すべきか知らんけど」
「そこは私が救いの手を出してやる。感謝しろ」
「どんな救いです?」
「ここは簡単にだな……。心霊好きの彼女は、廃墟同然のアパートに無断で侵入し、錆びた階段を踏み外して気を失う。そして今日発見された。そう現実を変えてやろう」
「そんなこと……」
「できるさ。アノマリーにならね。そして、私は君の恩人になったよな?」
馴れ馴れしく肩に腕を回されて、明日の顔は微妙に曇った。この距離でその恩着せがましい態度は、自然と虫の居所が悪くなる。
「つまり何ですか?」
「これだけ一度にアノマリーに対峙して正気なら、耐性もあるようだ。益々君に興味が持てるよ。今夜ミッドナイトへ来な。乃蒼も待ってる」
「……今ここで会えないんですか?」
「それだと君のアノマリー適正が低すぎて見えない。乃蒼は存在の力が弱くてね。ミッドナイトの店内なら話は別だ」
明日は砕子の腕から離れて周囲に目を移した。
乃蒼に会える。さっきの電話の声は、自分では乃蒼だと確信している。
本当に会ったと仮定して、第一声は何が正解だろう。
中々腹が決まらず息を吐くばかりの明日だったが、制服を引っ張れていることに気付いて顔を下げた。
「いってきなよ」
少年は相変わらずの無表情で言った。その姿を不思議そうに見つめたかと思うと、両手で持ち上げて一服する砕子に近づく。
「砕子さん。この子は消えたりしないんですか? アパートは無力化したって」
「そう言われれば確かにな。これはアパートのアノマリーとは完全に別枠でアノマリー化したんだな。乃蒼と一緒」
「この子このまま放置ですか? 可愛そうですよ」
「別に面倒見てもいいぞ? 店番くらい出来るだろ? 死ぬまで留守番してたんだ」
砕子が口から煙を顔に吐かれても、少年は鉄仮面を崩さない。
「意外と人としての良識あるんですね」
「まぁな。でも一つだけ条件がある」
煙草を再びポイ捨てすると、砕子は明日に顔を近づけた。馬鹿みたいに煙が目に染みて明日はぎゅっと瞼を閉じる。
「明日。君が今夜店に連れてこい。そうしたら小僧の面倒を見てやる」
嫌な人だ。
細目を開ける明日は目で訴える。
すっかり砕子の姿は消えていた。




