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其の二

トールキンの指輪物語が世に出たのは1954年、第二次世界大戦が終わってからになります。トールキンはハワードのコナンシリーズを読んでいたようで、中々面白いと評していたように思います。指輪物語はハワードのコナンシリーズと同様に、転生のない異世界ファンタジーとなります。

さて、この指輪物語がどのようにアルターであるかを語るために、同時期に世に出た作品を検証したいと思います。ポール・アンダースンの書いた「折れた魔剣」もちょうど1954年に発表されたファンタジー作品になります。「折れた魔剣」は、「指輪物語」ほど明瞭な形で異世界ファンタジーの体裁をとっているわけではありません。けれど、「指輪物語」と同様に、ゲルマン神話を参照しエルフやドワーフ、トロールといった魔法的存在を登場させ活躍させています。トールキンやポール・アンダースンの時代には、コナンが書かれた1930年代のように、もはやヘレニズム文化のシンクレティズムというものは不要になったようです。それは、キリスト教というものの支配力が強固さを失い、異教というものをあつかいやすくなったということではないかと思います。トールキンたちの作品は、ゲルマン神話をダイレクトに参照しています。

例えばゲルマン神話に登場するノウトゥングという折れた剣をモチーフとして使うところは、「折れた魔剣」と「指輪物語」は共通しているといえます。両作品とも、ゲルマンの神話を基底において参照していると思えます。「折れた魔剣」と、「指輪物語」のアラゴルンが活躍するパートは、構造類型をたどることが可能ではないかと考えています。

ウラジミール・プロップは彼の著書「魔法昔話の起源」の中で、多くのフェアリーテールが加入者儀礼と構造類型をたどることができることを示しています。そして、エリアーデが分析してみせたように、加入者儀礼は死と再生の儀式でもあります。もっといえば、世界創世のカオスに個の生が接触することが重要なのだといえるでしょう。エリアーデは英雄と呼ばれる神話上の登場人物が四肢の欠損もしくは過剰があることを指摘し、そのことにより英雄が世界の原初のカオスを呼び覚ますことを可能とすると語っています。

そもそも魔法とはミクロコスモスとマクロコスモスの結合であるともいえますので、魔法的な物語が個別の生と世界の終焉を重ね合わせるのは必然ともいえます。

「折れた魔剣」と「指輪物語」におけるアラゴルンのパートについては、加入者儀礼物語として構造類型を辿れると思われます。ここでその子細な分析は省略いたします。

問題は、「指輪物語」には大きく分けるとフロドとサムを主軸としたパート、メリアドクとピピンを主軸としたパートの二重構造を持っていることだということができます。そして、メリアドクとピピンのパートは、アラゴルンのパートと重ね合わせることが可能です。問題は、フロドとサムのパートとなります。この部分こそ、「指輪物語」をアルターネイティブたらしめていると考えます。

そもそも、ホビットという存在がトールキン独自のアルターなものであるといえます。伝承や神話を研究したトールキンが、そういったものの中に類似のものが登場しない存在として、ホビットを注意深く作り上げたとききます。そういう意味では、ホビットは神話の外にある存在であると共に、魔法の外にある存在であるともいえます。

指輪物語においてホビット庄は、物語の外にあるといえます。フロドはこの物語の外から、物語の中へと入ってゆきます。あたかも、異世界転生者が物語の外たる現実界から異世界の中へと入り込んでゆくように。

フロドは物語の中にありながら、物語のとどかない存在であるともいえます。それは、チート能力といいかえてもいいと思います。

チートとは、何でしょうか。それは物語の内部にあるロジックでは説明できず、メタレベルのロジックにおいて説明可能なものといえます。さて、フロドは物語の登場人物全てが影響を受ける指輪の力から免れる存在です。なぜそうであるかは、物語内のロジックでは説明されていません。強いて言うなれば、ホビットが物語外の存在であるからなのですが、それはメタレベルの説明といえるのではないかと思います。

トールキンは、物語の中に物語の届かない領域たるホビット庄を用意し、そこから物語世界へとフロドを招き込みますがフロドは物語の中を旅しながら決してその魂を物語に触れられることなく、旅を終えるのです。

なぜ、トールキンはポール・アンダースンと異なり物語の外という奇妙なものを描く必要があったのでしょうか。ここからは、妄想の話になります。

JRRトールキンと、ポール・アンダースンの経歴の違いについて考えてみましょう。まず、ポール・アンダースンですが、彼は大学で物理学を学んだのちに作家となりアメリカの西海岸に住みそこで生涯を終えたと聞きます。おそらく、「折れた魔剣」を書いたころは実社会での経験はさほど多く積んではいなかったのではないかと思います。彼は二度の世界大戦の時期に青春を過ごしたのではないかと思いますが、戦争に関わることはあまりなかったのではないでしょうか。ポール・アンダースンにとって戦争は、遠い世界での物語にすぎなかったのだと思います。

一方トールキンですが、彼は第一次世界大戦への従軍経験があります。トールキンは第一次世界大戦であの塹壕戦を目の当たりにしたのだと、思います。

おそらく、第一次世界大戦の塹壕戦は徹底した表層の破壊であったのではないかと、思います。あれほどに完膚無きまでにひとの尊厳や信仰を徹底して破壊した行為は、かつて無かったと思っています。それは、マルキ・ド・サドが恍惚の中で幻視し多くの文学者が崇高なものとしてあがめた表層の破壊が、ただのままごとになってしまうような徹底的な破壊だったのだと思います。そして、その表層の破壊は、たんなる無意味で不条理な破壊でしかなく、間違っても深層を露呈するようなものではないと知ったはずです。

トールキンは、ゲルマンの神話を研究したことがあると思います。エリアーデが述べているように、ゲルマンの時代は戦争とは戦いと神に生け贄を捧げる儀式が一体化したものでした。だから、ゲルマンの世界で戦争を描くとすれば、それは物語を生きかつ物語を死ぬことと同一であると理解していたはずです。

けれど、トールキンが第一次世界大戦に従軍し塹壕戦でそんな神話を生きて死ぬ行為はもはや不可能であると知ったはずです。そしてトールキンは表層の破壊をまのあたりにしながらも、揺るがぬものが自身の中に有ると知りそこからホビットを生み出したのではないかと思います。

そして、このトールキンがたどりついた物語の届かぬ領域を物語の中に描くという方法論こそ、なろう系の持つ構造と一致するものになります。


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