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其の一

以下に記載することは、過去にあちこちに書いたことをとりまとめたものであり、個人的な備忘録に近いです。また、記載する内容はとくに実証的なものではなく、個人的な妄想のようなものになります。

ですから参考文献を明示することもないし、実例として参考にした作品を例証することもありません。


まず、「ファンタジーの異端」についてですが、話を判りやすくするために異端という言葉を使いましたが本来「正当/異端」という二項対立的な思考に錯誤があると考えています。よって、以降はアルタネイティブという言葉を使おうと思います。いずれにせよ、アルタネイティブと語るのであれば、何がネイティブなファンタジーであるかを明確にする必要があるかと思われます。まず、ファンタジーの起源というものについて、考えてみたいとおもいます。


元々ファンタジーというものを遡るとおそらく、ジョージ・マクドナルドにいきつくのではないかと思います。彼の作品は19世紀後半、1870年代ごろから書かれたものです。それらは、おそらく民間伝承として存在したフェアリーテイルを近代的な文体で再構築したものと思われます。

そこから本格的なエンターテイメントとしてのファンタジーが出現するには、ERバロウズを待たねばなりません。それはジョージ・マクドナルドのおよそ40年後、1917年のことになります。

バロウズははじめて異世界転生チートを書いた作家とも、いえるでしょう。おそらくジョージ・マクドナルドが近代的叙述で始めたフェアリーテールの土俗宗教からの脱領土化を、バロウズは異世界という装置でより進めたのではないかと思います。バロウズは土俗信仰からファンタジー的なキャラクターを脱領土化し、異世界という装置上に再領土化してみせます。

しかしながらバロウズは、ファンタジーとして異世界を構築するという点では、不完全であったともいえます。ファンタジーとしてより完成されたエンターテインメント作品群が出現するのは、1930年代ウィアードテールズの時代となります。また、この時代はラブクラフトの影響下にある時代であるともいえ、ロード・ダンセイニの影響下にある時代とも思います。

この時代何よりもひとつの到達点として考えられるのは、REハワードのコナンシリーズになります。ハワード自身が語っていたように、ERバロウズの影響化においてコナンシリーズは書かれました。

けれど、コナンシリーズはバロウズの火星シリーズの間にいくつかの断絶があります。

ひとつは、魔法の導入。

コナンシリーズの魔法はおそらくエリアーデがいうところの、ヘレニズム文化のシンクレティズムの影響が濃いと思われます。つまり、キリスト教が唯一絶対の世界ではなく、様々な異教の神が自由に世界を行き交うことを実現したともいえます。

そして、主人公はバロウズの作品に登場したようなアメリカ人ではなく、キリスト教的な道徳観から解き放たれた野蛮人を主人公としています。

つまり二つ目の断絶は、キリスト教的な正義の否定。

これは、ハワードにおいて唐突に現れたものだとは考えていません。ハワードとバロウズの間には、無視しきれない作家がいます。それは、ダシール・ハメットのことです。

ハメットの書いた「血の収穫」は、1929年に発表されました。ハワードのコナンシリーズが世に出る直前に書かれたものです。そこには、正義から脱コード化された暴力があります。ハワードがハメットの影響を直接受けたかは定かではありませんが、ハワードのコナンシリーズでも正義から脱コード化された暴力が描かれておりこれはバロウズとの断絶であると考えています。

ある意味、ハワードは脱キリスト教を明示的にしたファンタジーの最初の成功例ではないかと思っています。


ハワード、バロウズが通底していると思われる部分は、ロマン主義的な部分です。それは、道徳や社会制度に支配された日常から離脱し、暴力の荒野でひととしての本質にたどり着くというものだと思っています。

ハワードのコナンシリーズでは、それはより徹底されたものになり魔法が現実世界を破壊しより深く残酷な世界の本質が露呈するといったものです。おそらくそれらは、表層を破壊することによって深層が露呈するという概念ではないかと思います。

それらは何もハワードたちによって突然現れたものとは、考えていません。それはもっと遙か昔、小説というものがようやく近代というものを迎えたときから、試みられていたものだと思います。そもそもそれは、18世紀末から19世紀初頭にかけてマルキ・ド・サドが行った試みと通底しているのではないかと思います。

サドはキリスト教への信仰という表層を破壊することにより、肉体に刻み込まれた欲望や情念という深層を露呈するすることができると考えていたのではないかと思います。これは文学というものの中で繰り返し出現するテーマであると思っています。例えば、芥川の地獄変もまた焔で表層を焼き尽くし、芸術という深層を露呈するという試みになっていると思っています。

バロウズは異世界転生という形で信仰から世界を脱コード化し、ハワードはさらにヘレニズム文化のシンクレディズムによって魔法を作り上げ神々の脱コード化に成功した、そしてそれらは表層の破壊の別の形ではないかと思うのです。


でも、言うまでもなく、これは勘違いに基づくものです。

あたりまえですが、表層を破壊しても深層が露呈することはありません。そのような行為で深層にとどくことは、ないのです。しかし、多くの小説、そしてまたファンタジー作品もこのような勘違いに根ざして書かれているのではないかと思います。

トールキンは指輪物語において、表層の破壊が深層に届かないことを描いて見せます。そしていわゆるなろう系といわれる作品群はそのトールキンと構造類型を持っていると考えています。


事項以降に、トールキンの指輪物語がどのようにそれまでのファンタジーとことなり、どのような構造的特徴を持つかを語りたいと思います。


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