第3話-1.神の槍
「……師匠、帰ってこないわねえ。今回のやつは意外と苦戦してるのかしら」
人里離れた険しい山の奥地。
鬱蒼と木々が生い茂る森の中で、倒木に腰かけた若い女が鍋をかき混ぜながら溜め息交じりに呟いた。
すっかり日も落ちていて明かりになるものは鍋を熱している焚き火だけ。空に月でも出ていれば多少はマシなのだろうが今日は昼からずっと曇り空だった。
女の後ろには一人用のテントが二つ張られていたが、周囲にはこの女以外の人間はいない。
この女の名前はリンといった。赤みがかった黒髪が印象的な小柄な女で、右手には赤いブレスレットを付けていた。
昨日の夕方からここで野営を初め、今日で二日目。時間的には二十四時間と少しが過ぎたくらいだろうか。
手際の良さといい雰囲気といいすっかり手慣れた様子だが、別に趣味でこんな辺鄙な所まで野宿をしに来たのではない。
「あーあ。こんなに待たされるなら、やっぱり私も付いて行くべきだったかしら。……なんてね、付いて行けるなら最初から留守番なんてしてないんだけどさ」
ずっと一人でいると無意識に独り言が多くなる。
リンはぼやきながら鍋の中身をお椀によそった。
今夜のメニューは芋と干し肉とついでにその辺から採ってきた野草のスープ。
湯気の立つお椀を口元に運びホッと息をつくと、リンは目の前に聳え立つ『今回の旅の目的』に目を向けた。
視線の先にあるのは、十数メートルほどの高さの岩山だった。岩山というよりは岩積みの塔といったほうが適切だろうか。二メートル弱の細長い岩を幾つも無造作に重ねて作られた隙間だらけの岩山だった。
一見しただけではちょっと押しただけで倒れてしまいそうな外観だが、よく観察してみると突風や地震に襲われてもびくともしないように計算して組み上げられているのがわかる。また、使用されている岩の種類が周辺の地質のものと全く異なることを考えても、これが偶然の産物ではなく人為的に作られたものであることは見る人が見れば推察できるかもしれない。
シンラの岩戸。それがこの岩山に付けられていた名前だった。
ただの岩山ではなく、古代文明の遺跡の入口なのだ。
古代文明というのは名前の通りこの世界で大昔に栄えていた文明のことだ。現代とは比べられないほどの高い技術を持っていたのだが、その文明の人々は今から約一千年前に突然この地から姿を消し、今では各地にこういった遺跡や残っているだけとなっている。
だが、長い年月が過ぎた今でもその遺跡や遺産のほとんどはその不可思議な力を失ってはおらず、現代でも度々事件を引き起こすきっかけになっていた。
リンもそういった古代文明絡みの騒動に巻き込まれた被害者の一人。外見からでは全く分からないが、実をいうとリンは元々この世界の人間ではない。今から四年前、ラニウスという名の古代遺跡が暴走したことが原因でこちらの世界に召喚されてしまったいわば異世界人だった。
以来、リンは召喚の場に居合わせたオーエンと名乗る老人とともに老人の手伝いをしながら元の世界へ戻るための手掛かりを求めて過ごしてきた。
今回オーエンとリンがこうしてシンラの岩戸へやって来たのも元の世界へ帰る手掛かり探しの一環だった。
ラニウス遺跡を暴走させた犯人の行方を探すためにここへ来たのだ。
現在、オーエンは調査のために三日前からシンラの岩戸に潜り続けている。
そもそもリンが召喚される原因となったラニウス遺跡での転送装置の暴走は、ラニウス遺跡に窃盗団が忍び込んで盗掘したことがきっかけだった。
その窃盗団のうちの一人が不用意に転送装置に触って誤作動させてしまい、そのせいでリンがこちらの世界へやってくることになったのである。
窃盗団はラニウス遺跡だけでなくこのシンラの岩戸を含む数か所の遺跡を荒らしていた。
だが本来、古代文明の遺跡は何の知識もない人間が安易に荒らせるような場所ではない。
十分な知識を持った人間がいなければ入り口を見付ける事すら不可能だし、遺跡によっては内部に罠も張り巡らされているため命を落とすこともある。
こうしてリンが遺跡内に入れず留守番をさせられているのもそのためなのだ。オーエンは昔探検家として世界各地の遺跡を訪れていた経験がある。そして引退後も質屋を営む傍ら古代文明の遺跡の研究を続けていたのでリンとは天と地ほどの知識経験の差があった。
リンがオーエンを師匠と呼んで付き従っていたのはそれが理由だった。
リンの情報収集の結果、窃盗団が各地の古代遺跡を荒らして回っていた時期にローブを着た謎の男が窃盗団に加わっていたことがわかった。
窃盗団は最後にはある国で捕らえられて一人残らず処刑されたが、処刑されたメンバーの中にその男はいなかった。どうやら遺跡を荒らし終えた直後に窃盗団を抜けたらしい。
ローブの男が窃盗団に近付いたのは古代遺跡に侵入する際の人手を確保するためだったのだろう、とオーエンは言っていた。
ある程度の犠牲を許容するのであれば遺跡の探索は人手が多い方が簡単らしい。そのためにローブの男は窃盗団を利用したのだろう。
窃盗団に荒らされた遺跡を調査するのはラニウス遺跡を含めて五か所目。
ローブの男が一体何の目的で様々な古代遺跡に侵入したのか、またそのローブの男が一体何者なのかについてオーエンには心当たりがあるようだった。
その正体についてはリンも話してもらった。凶行に走ることになった経緯も聞いた。
あくまでもオーエンの予想で、合っているかはわからない。全くの別人かもしれないが、それは実際に捕まえてみればわかるだろう。どちらにしても巻き込まれたリンは一発殴ってやらないと気が済まないし、あの男の目的は阻止しなければならない。
それがこの世界のためであるし、どうやらリンが元の世界へ戻るためにも必要なことのようなのだ。
「ごちそうさまでした、と」
リンは食事を終えると鍋に蓋を被せた。
結局オーエン師匠は戻ってこなかった。といって今までに調査に入った他の遺跡も早くて一日、遅くて三日ほど掛かっていたから特に心配はしていない。オーエンは十分な携帯食も所持しているはずだし、いざとなればオーエンの下へ向かう手段もあるのだ。
鍋は二人分作ってしまったのでまだ半分以上残っているが明日温め直して朝飯に回せばいいだろう。
とりあえず今のリンの役割は荷物の番と遺跡の周辺に異常が無いことの確認だった。
そして、夕飯を作る前に見回りは済ませてある。つまりもう今日はやることがない。それなら眠れるときにさっさと寝てしまおう。オーエンが戻ってきたらまた他の古代遺跡まで長距離移動することになるのだから。
リンは体を伸ばしながらそんな事を考えていたが、不意に奇妙な感覚を覚えた。
体が重い。
いや、重いというのとは少し違う。体の表面全体が圧迫されるような感じだった。
周囲の気圧が急激に上がっているのだ。
「どういうこと……?」
状況が掴めず反射的に立ち上がろうとした矢先、周囲が突然明るくなった。
シンラの岩戸が光の柱に包まれている。
まるでスポットライトのように上空からピンポイントで照らされていた。
驚いて空を見上げると、雲の層を突き破った一本の光の線がはるか上空まで伸びている。発光源は見えない。
この光は一体なに?
リンは戸惑いを覚えて後ずさりした。本能的に危険を感じた。
一体何なのかはわからない。わからないが、逃げないと絶対にますい。
だがシンラの岩戸の中にはまだオーエン師匠がいる。どうにかしてこの事態を知らせなければ……。
どうするべきか迷った結果、行動が遅れた。
次の瞬間、光の柱がふっと消えた。
それから間髪入れずに空から巨大な『何か』が落ちてきた。
リンが声を上げる間もなく『何か』は岩戸とその周囲を一瞬で破壊した。