第2話-13.宝石の少女、入浴をする
「やっと家に着いた……」
質屋に戻るとフィオナはへなへなとその場に座り込んだ。
トワルは苦笑いしながら水の入ったコップをフィオナに差し出した。
「疲れただろう。今日の夕飯はは俺が作っとくからフィオナは先に風呂使ってくれ」
「ありがとう、そうさせてもらうわ……」
フィオナは足取りもおぼつかない様子で風呂場へ向かって行く。
「大丈夫かな……」
トワルはそれを不安げに見送りながらも台所へ向かった。
サミエルの街は地下水路が整備されているため、水は割と不自由なく使うことができる。
そのため入浴の習慣も一般化しているのだが、水は豊富でもそれを沸かすための燃料代は馬鹿にならない。
だから毎日風呂に入るのはある程度裕福な家庭に限られており、庶民は数日に一度入るくらいが普通だった。
オーエン質店も懐事情で言えばお世辞にも儲かっているとは言えない。
ただこの店の場合、燃料事情についてはちょっと特殊だったので好きな時に風呂を利用することができていた。
その秘密は石鹸の横に置いてある小さな箱。
古代文明の遺産で『悪魔の潜む箱』と言う名前らしい。
「さてと……」
フィオナは風呂場へやってくると悪魔の潜む箱を手に取り、あらかじめ水を張っておいた浴槽へ投げ入れた。
すると箱の周囲にみるみる氷が出来始め、氷が成長するにつれて浴槽からは逆に湯気が立ち上り始める。
原理はさっぱりわからないが、これがこの『悪魔の潜む箱』の特性である。
この箱を一定量以上の水の中に入れると、たちまちその水を氷とお湯に分離してしまうのだ。
しかも、箱に付いたツマミを弄れば細かい温度調節も可能。お湯を低温の水に戻すことだってできてしまう。。
風呂を沸かす程度の目的に使ってはいけないような超技術な気がするのだが、フィオナも慣れたのでもう気にしていない。
この店にはこういうのが幾つもあるからいちいち驚いていては身が持たないのだ。
風呂を沸かしている間にフィオナは脱衣所へ戻り、鏡台の前で服のボタンを外し始めた。
しゅるりと上着を脱ぐと、豊かな胸部を包み込む下着が露わになる。
フィオナは宝石が本体の幽霊のような存在である。
ここで暮らすようになってからは『魔封じの札』を加工したブレスレットを付けて普通の人間として振る舞っているが、それを外せば本来の姿である霊体に戻る。
霊体になると物理的な不純物は全てすり抜けるようになるので、体に付いた汗や泥などの汚れも霊体化と同時に全て落ち、匂いも取れる。
それから再びブレスレットを付け直すとあら不思議。あっという間に汚れの落ちた綺麗なフィオナに元通り。
そのため、本来ならばフィオナは風呂に入る必要はない。
だがそれだけで済ませてしまうのは心理的に嫌だったので毎日お風呂に入らせてもらっていた。
幸いここは燃料費の心配も必要ないのだから。
「はあ、疲れた……」
溜め息を付きながら畳んだ衣服を棚に置き、次は下着を外しにかかる。
フィオナはトワルと暮らし始めるまで自分が下着をつけていることを知らなかった。
霊体だった頃はこの衣服は身体と一体化していて脱げなかったし、また必要もなかったので脱ごうと思ったことがなかったからだ。
当然ながら自分の裸体も見たことはなかったはずなのだが、脱ぐ行為にも自分の体にも不思議なくらい驚きや違和感はなかった。
遠い昔、自分が人間だった頃のことを体が覚えているということなのだろうか。
「っと、危ない危ない……」
うっかり左手を下げてブレスレットを落としそうになり、フィオナは慌てて押さえた。
それからフィオナは自分の身体を見回し、何も変化がないことを確認してホッとする。
人間として生活するようになってフィオナ自身も初めて知った仕様なのだが、裸の姿で霊体化した場合は霊体になっても裸のままになる。それだけなら特に問題ないのだが、その場合脱いだ衣類はミューニアのエネルギー切れの時のように砕け散って消滅してしまうのである。
そしてそうなってしまうとブレスレットを付けて再び人間に戻っても服は復活せず全裸のまま。一度宝石の中に戻って回復を待たなければいけなくなる。
初めて入浴した時はそんな仕様など知る由も無かったため、知らない内に衣類を全て消滅させてしまい酷い目に遭った。
幸いというか生憎というか、トワルに肌を晒すような事態にはならなかったのだが……。
支度を済ませて風呂場に戻ると湯加減は丁度良い具合になっていた。
すっかり氷に覆われた『悪魔の潜む箱』を桶で掬うように取り除くと、フィオナは体を洗い流してから湯船に入った。
「はふぅ……」
自然と息が漏れる。
極楽極楽……などと思っていたら一気に眠気が襲ってきて、想像以上に自分が付かれていたことを思い知る。
――アンブレさんの稽古、本当にきつかったなあ……。
肩を軽く揉みながらフィオナはあの地獄のような訓練を思い出していた。
色々と教えて貰えて有益ではあったけれど、明日は間違いなく筋肉痛だろう。
それに結局、アンブレにこっそり相談することもできなかった。
稽古をお願いしたのは本当はそれが目的だったのだが……。
天井をぼんやり眺めながらフィオナはぽつりと呟いた。
「……トワル兄さん、か」
あの詐欺師の女が去り際に言った言葉。
トワルには心当たりが無いようだったが、実を言うとフィオナは思い当たることがあった。
血縁関係以外でも相手を「兄さん」と呼ぶ場合はあるだろう。
例えば――そう、同じ師匠に付いた者同士とか。
あの人ひょっとして、トワルの弟弟子ではないのかしら。
フィオナはあの女の言葉を聞いたとき、真っ先にそんな考えが頭に浮かんでいた。
それならば年下の相手を兄さんと呼んでも別におかしくはない。
しかし果たしてそれをトワルに話して良いものなのか、フィオナは迷っていた。
もしこの推測が当たっていたとすれば、四年前の事故の後もオーエンは生きていて新たに弟子を取ったということになる。
それどころか、ひょっとすると今回の事件にオーエンが関わっている可能性だって出てくる。
トワルはオーエンは爆発事故の際に亡くなったと考えているようだった。
それに口では色々言っているものの、敬愛していた人物だったのは時折見せる言動や未だに店を守っていることなどからも想像に難くない。
それなのに、何の根拠もなくこんな推測を話していいものなのか。
事の真偽はともかく、嫌な思いをさせてしまうかもしれない。
だからその辺のことについて、まずは先に訓練を受けながらアンブレにこっそり相談したかった。
だが、あの訓練の最中ではとてもじゃないがそんな余裕が無かった。
どうしよう。
やっぱり話しておいたほうがいいのかしら。
というか仮にそうだったとして、あの女の人は何者なんだろう。
詐欺をしていたという割にはそこまで悪い人にも見えなかったのだけれど……。
そんなことを考えているうちにフィオナは本格的に眠くなってきた。
うつらうつらと目蓋が重くなり、湯船から出ないと……と考えながらいつの間にか船を漕ぎ始めていた。
寝ぼけて腕を動かした弾みで左手のブレスレットが一瞬外れて脱衣所の衣類が砕け散ったが、夢うつつのフィオナはそんな事にはまるで気付かなかった。
「今日は随分と長風呂だな……」
トワルは洗った手を拭きながら呟いた。
夕食の支度はすっかり終わってしまっていた。
あとは皿に盛り付ければいつでも食事ができる状態である。
ところが、フィオナが風呂から一向に戻ってくる気配がない。
いつもならもう上がってきてもいいはずなのだが……。
――まさか、風呂の中で寝て溺れてたりしないよな?
そんな考えがふと頭をよぎりトワルは不安になった。
初めてアンブレから訓練を受けてフィオナかなり疲れている様子だった。
絶対にないとは言い切れない。
トワルはエプロンを外すと風呂場へ向かった。
「おーいフィオナ、大丈夫か?」
脱衣所の扉を強めに叩いて声を掛けてみたが返事はない。
トワルは焦りを覚えながら扉をゆっくり開けた。
「……あれ?」
脱衣所の棚にはフィオナの服は置かれていなかった。
ということは、どうやら既に上がっていたらしい。
自分の部屋で休憩でもしているのだろうか。
トワルはほっと安堵の溜め息をついた。
しかしフィオナらしくもない。上がったのなら一声かけてくれても良いのに、とも思ったが、ひょっとすると少し休むだけのつもりでそのまま眠ってしまっているのかもしれない。
そういうことならば、自分もさっさと風呂を済ませてそれからフィオナを起こして夕食にしよう。
トワルは服を脱ぎ、洗濯用の籠に放り込んでいった。
そして最後にパンツを投げたところで、突然風呂場からバシャリと水音が聞こえた。
「いけない、寝ちゃった!」
「へ?」
トワルが反応する前に勢いよく風呂場の扉が開いた。
そこに立っていたのは、左手のブレスレット以外何も付けていないフィオナの姿。
「………」
「………」
二人とも状況が理解できず、しばしの間見つめ合った。
それからお互い無意識に視線を下げ――ハッと我に返り慌てて顔を逸らす。
「す、すまない!」
「いえ、こちらこそ!」
フィオナがバタンと風呂場の扉を閉める。
トワルは急いで服を着ようとしたが、急ぎ過ぎた結果足を突っ込む場所を間違えてバランスを崩し盛大にすっ転んだ。起き上がるのももどかしい様子で籠から残りの服を掴み取るとバタバタと脱衣所から駆け出して行った。
フィオナのほうは無言で『悪魔の潜む箱』を湯舟に放り込み、お湯の温度をただの水まで下げた。
躊躇いもなくその中に飛び込むと、体育座りのように両足を両手で抱え、水面に顔を付けてひたすらブクブクさせた。
頭から沸き立つ湯気は全く収まる気配がなかった。
その後二人はいつも通り一緒に夕食を取ったが、双方ともに何を食べたかもどんなやり取りをしたかも全く覚えていなかった。
気が付いたときはそれぞれの部屋のベッドに横になり、茫然と天井を見上げていた。
昼間の訓練で身体はくたくたのはずなのに、まるで眠れる気がしなかった。