憧れとの距離感(1)
「若苗さん、何かあったんですか?」
毎週火曜日は十七時からのシフトに入る。
そこから五時間働くのが夕勤のお決まりで、この日も例外なくスタートした。
変化があったのは一時間後の午後六時。
安栗さんがその時間の十五分前に入店し、出勤時間ピッタリに売り場に現れる。
そして挨拶を交わした直後のひと言がこれ。
心配そうな様子で、俺に尋ねてきたのだ。
この癒しボイスで言われてはひとたまりもない。個人的に色々あったんですよ、ホント。
などと仕事中に語れるはずもなく——
「えっと……なんで分かったんですか?」
「そのくらいは察しますよ。表情がお疲れですし、目の下にくっきりくまができてます」
ここ数日はジムに通う頻度が高かった。
自発的なトレーニングは気分転換になり、絶好のストレス解消法。
その反面、当然ながら肉体疲労は溜まる。
しかも睡眠の質は普段よりも悪かった。
更に言えば、昨夜はアニソンによる入眠すら効果が薄く、二時間も眠っていない。
テンションが上がって忘れていたけど、蓄積した疲労はそこまで表面化していたのか。
ひと息ついて悪化した可能性もある。
こういう時こそ、お得意の営業スマイル。
疲れた顔なんて安栗さんに見せたくない。
強引に口角を持ち上げ、高めの声を出した。
「大したことないですよ。ボクシングに夢中になり過ぎて、自己管理を怠ってました」
「何か思い詰めていたりしますか? もし悩みとかでしたら、私で良ければ相談に乗りますよ」
「本当に大したことじゃないんですけど……聞いてもらってもいいんですか?」
「えぇ、もちろんです♪ バイトが終わった後、ご飯でも食べながらいかがですか?」
魅惑の声と提案に、表情筋から心まで溶かされていく。
抵抗する手段など持ち合わせておらず、大人しく彼女に手網を引き渡した。
もちろん、内心ではワクワクしている。
二人きりで食事なんて、まるでデートみたいなシチュエーションではないか。
理想的な彼女の美声を独り占めにできる。
昼に菫がやってくれた演技にもドキッとしたが、また別の期待に胸が膨らんできた。
背中を追いかけようとは思わない。
でも少しでも多く安栗さんの声を記憶に刻めるのなら、それはとても幸せであろう。
ここまで開き直れたのは、励ましてくれた人のおかげかな。
浮き足立ったまま夜勤と交代の時間が訪れ、裏の休憩室には勤怠を済ませた夕勤の面々。
大木さん達はさっさと退散して、残った俺は安栗さんと並んでコンビニを後にする。
時間も時間だから、営業中の飲食店はファミレスか牛丼屋くらい。
未成年は肩身が狭い。
大通りのファミレスで意見が一致し、早速チャリを押しながら向かうこととなった。
「うわぁー、夜遅くだとこんなに空いてるんですね!」
「いつもバイト後の夕飯はどうしてるんですか?」
「お母さんが用意してくれるので、帰ってから軽く摘んでます。遅い時間にいっぱい食べると太っちゃうので……」
「俺も同じです。食卓に晩飯が置かれてると、家族の厚意が身に染みますよね」
四人掛けのテーブル席に案内され、メニューを見ながら何気なく始まった会話。
お互い実家暮らしなこともあり、話題選びの難易度は極めて低い。
空腹で帰宅した後、夕食が夜食になってしまうような後ろ暗さには、心底共感できる。
親ってお節介だな——なんて言い訳しながら、頼まずとも飯にありつける幸福感とか。
恐らく安栗さんにも似たような思いがあって、ニコニコしながら話しに乗ってくれる。
注文を終えた頃には、彼女とここへ来た理由なんて頭の隅に追いやられていた。
賑やかな声が飛び交う中、急におっとりした目を見せた安栗さんは、小さく呟き始める。
「ほんの少しですが、若苗さんが内側に秘める心を理解できた気がします」
「藪から棒にどうしたんですか?」
「いえ、不思議だったんです。ハツラツとしているのに、どこか侘しさを漂わせている感じがして。今回の悩みも、そういった部分が関連しているのではないでしょうか?」
「えっと、自分でもイマイチ分かりません」
「若苗さんは真面目過ぎるきらいがあるので、想定外の事態に弱いのかと思いました。人間関係にも指標を定め、それを目安に動くタイプかなと」
「つまり堅物ってことですか?」
「有り体に言えばそうですね。ですが若苗さんの場合、とても親切且つ愛情深いので、踏み込める相手かどうかを前もって測ってますよね。この人なら大切にできる、この人とは浅い繋がりでいたい——という具合です」
淡々と語る彼女には、全てを見透かされているような錯覚さえ覚えていた。
いつになく頼り甲斐があり、同時に飲み込まれてしまいそうなほど指導的に。
決して強制されてる気分ではない。
むしろ柔らかい声音が上手く作用して、もっと聞かせてもらいたい気持ちになる。
それでも内容には疑問があった。
「それってみんな同じじゃないですか?」
「ある程度基準は作りますが、極端な人だと自分を苦しめてしまうんです。こうあるべき、こう接するべきと決めたのに、なぜこうなってしまったのだろう——そう思い悩んだ挙句、自身に責任があると考えたりしませんか?」
「あ、あるあるですね……。不甲斐ない自分に嫌気が差したり、相手を見誤っていたと後悔するケースも多々あります」
「ですから若苗さん、指標から逸れることを恐れないでください。仮に私が落胆させてしまっても、挽回できるよう私なりに努力します。そうやって紡いだ関係にこそ、本当の価値があると信じてますから!」
なんか内容を伝える前に結論を出されてしまった。
俺ってそんなに分かりやすいのか?
壊すのも壊されるのも怖がっていては、強い絆を結ぶことなんて叶わないということか。
声に惹かれるのは変えられない。
しかしその直観的な好みで人を選ぶ以上、後に何が待ち受けようとも全て自分の責任。
だからこそ諦めがついたのになぁ。
結局それも安栗さんと桔梗によって、図らずも煮え切らない結果となっている。
それにしても、こんなに熱心に答弁する人だとは思わなかった。
見かけによらないな。