Ⅰロビンとレハト
悲鳴が聞こえる。誰かが助けを求める悲鳴が。
「うわぁぁぁ!!!」
「逃げろ!早く逃げろぉ!」
「誰か!アイツを倒して!」
時が止まったかの様な錯覚を覚えた。逃げ惑う人の波に飲まれながら、僕達は目の前に迫る怪物の姿に恐れて足がすくんでいた。
「早く僕達も逃げよう!この距離なら、いつ襲われてもおかしくない!」
隣で怪物を睨んでいる少年に、僕は至極真っ当な意見で訴える。しかし、彼は歯を食いしばりながらそれに抗った。
「おい待てよ、俺達トレイルブレイザー志望だろ!?助けなくていいのか!?こんなに大勢の人達が襲われてるんだぞ!」
彼はあまりに無謀であまりに勇敢だった。ドクドクと鼓動する自分の心音が直接鼓膜に響いてくるのを感じる。僕は彼を見上げて、その眼に尚も訴えた。
「何馬鹿な事言ってんの!?このままじゃ僕達の命も危ないんだよ!?」
「だとしても、あの人達を見捨てるわけにはいかないだろ!!」
震える唇を噛み締めて走り出そうとする姿がとても眩しくて、いつの間にか僕は彼を掴んでいた腕を無意識に離していた。誰かの為に命を賭すその姿こそが、僕にとっての“憧れ”そのものだったから。
「…悪いなロビン。俺は行くぞ…!!
「待って!待ってよレハト!!!」
レハトは下ろしていたハンマーを両手で強く握り締めた。その瞬間、ハンマーに嵌め込まれた鈍色の宝石が彼の覚悟に呼応するように淡い光を放った。
僕の静止を振り払った彼は迷いなく、そして力強く地面を蹴った。目の前で恐怖に包まれる人々をその手で護る為に———
*****
地恵期20年2月10日
マインズ ストネア区 午前7時半
その日はいつにも増して静かな朝だった。
ほとんど光が差さない裏路地。錆にまみれ、埃を積もらし、汚水が地面を濡らす。そんな寂れた場所を、場違いにも小綺麗な服を纏った少年が1人で歩いていた。
白い肌と可愛げのある整った顔立ち。優しくも儚い表情に光る碧色の瞳。華奢な体に気品のある緑のコートを纏い、背部に取り付けられた革製のホルダーにはそんな様相には似つかわしくない黒い鉄製の弓が固定されている。艶やかな黒髪に生えたアホ毛がふわりと揺れて、その少年はふと空を見上げた。
「今日も、少し寒いな」
彼の視線の先では外の世界に繋がる巨大な換気扇がゆっくりと回っていた。辺り一帯の淀んだ空気が外界の冷えた空気と交差する。微かな肌寒さを感じた彼は少しばかり歩みを速めた。
やがて道幅が広くなると街の賑やかな声が聞こえ始める。広場の中央にある大きな噴水の前に立つと、彼は何気なくその水面を見つめた。ガラスの様に透き通る水面に、緊張で少し引きつった少年の顔が映る。
「悪ぃなロビン、待ったか?」
黒髪の少年は、背後から語りかける陽気な声に反応し振り向いた。
彼の目の前に立っていたのは、190㎝はあろう屈強な肉体とは裏腹に、子供のように無邪気な笑顔を見せる茶色い短髪の少年だった。肌は褐色でお世辞にもハンサムとは言えない顔立ちではあるものの、活力が漲って溌溂とした容姿である。色褪せたカーキのシャツの上にブラウンベストを羽織っていて、下半身には白いカーゴパンツを穿いている。この少年の名はレハト・ダイア。黒髪の少年——ロビン・クィリネス──とは古くからの幼馴染である。
そんなレハトが背負っているのは、不自然なほど巨大な黒い物体。長さ2m程の巨大なハンマーである。銀色の柄にギラギラと輝く黒い鎚が乗り、その中央には鈍色の宝石が埋められた殺意に満ち溢れた鈍器。ロビンにとってこれを見るのは初めてではなかったが、相変わらず規格外すぎる大きさに、彼は微笑を禁じ得なかった。
「何ボサっとしてんだ?さっさと行こうぜ!」
ロビンの表情を気にも留めず、レハトはすぐそばの駅を指さしてワクワクとした表情で催促をしてくる。気を取り直したロビンがそれに頷くと、2人は足並みを揃えて噴水を後にした。眩しい広場の街灯とは裏腹に、上空には相変わらず石の空が広がっている。どこに行っても、どれだけ時間が経とうとも、その景色が変わる事は無い。実に退屈な空模様であった。
駅の改札を通り、エレベーターが縦に連なったような形のモノレールに乗車する。エレベーターの様に直下に移動するこの乗り物の中は、普段ならくたびれたサラリーマンで溢れている。ところがこの日だけは少々事情が異なっていて、10代~20代の若者が多い。彼らに圧迫されている常連の大人達は、少々肩身が狭そうな雰囲気で今日の朝刊を読んでいる様子だ。
どこか緊迫した空気に満ちる車内。そんな中、唯一緊張感のカケラも見せずに真っ暗な窓の外を眺めていたのが、他でも無いレハトであった。周囲とは少々ずれた心持ちをしているレハトに、ロビンは呆れた顔で話しかける。
「レハト!ボーっとしてる暇があるなら、最後に参考書の確認でもしたら?」
「いやぁ~やる気が起きないというか…」
「この期に及んでまだそれ言う?今日がテスト当日だよ?じゃあ僕が問題出すから、ちゃんとそれに答えてみてよ。」
ロビンはそう言うとバッグから分厚い参考書を取り出し、最初の方のページを開いた。
「じゃあ第1問。時刻0sにX軸上の原点Oから、X軸の正の向きに初速度6.0m/sで…」
「おい待て」
「…?どうしたの?」
レハトは顔に冷や汗を浮かべながら、動揺した口調で喋り出した。
「そんな問題聞いた事もねぇぞ。絶対範囲じゃないだろ」
「いや、物理の基礎問題だよ?過去問にもこの類の問題は山ほど出てるけど…」
「知るかそんなもん!俺がそんな問題分かるわけないだろ!?」
レハトの無知具合は、彼のことをよく理解しているはずのロビンですらも思わず面を食らってしまうほどであった。その後も問題をいくつか出してみるも、正答率は脅威の0%。普段良好なはずの2人の雰囲気は問題を重ねるごとに徐々に険悪になっていき、ロビンの脳内では最悪の結果も頭に浮かび始める。こんなやり取りを数分続け、ロビンの頭にもいいかげん血が上り始めていた頃だった。
「もういいよ、歴史から出そう。地恵期0年、つまり今から20年前に全世界で発生した、大規模地震を発端とする人類滅亡クラスの超巨大災害の総称を一般に何と呼ぶ?」
少々怒りが込められた状態で出題されたこの問題。これは今の人類が暗闇の世界で過ごす原因となった出来事である。この世界に住むならば誰もが周知している恐るべき大事件。地球に存在した豊かな生命を一度に葬り去った残酷で無慈悲な悲劇。どんなに無知なレハトであっても、それだけは知らないはずがなかった。
「流石にそのくらいは分かるっての!ずばり……!」
ガガガガガガガガガ
その時、モノレールの外から耳障りな騒音が鳴り響いた。それと同時に目に入ったのは、暗闇に慣れ切った目に差し込む無数の光。彼らは咄嗟に目を背けて、その後ゆっくりと車窓の外の景色を見た。
「これが…っ!」
そこから見えたのは、全長100メートル程のタワーと煌々と輝く無数の建造物達。無機質なビル街が洞窟内を圧迫するように立ち並び、天井に取り付けられた環状の白い照明が街中を照らしている。その中央に広がる巨大な湖が照明と街灯の光を受けて鮮やかに輝き、ロビン達を含めた車内の受験生は例外なく息を飲んだ。
「いよいよだな」
「…うん」
それまで苦い顔を浮かべていたレハトの表情にいつもの笑顔が戻る。夢を見る無邪気な子供のような真っ直ぐな目だった。それを見て、ロビンも不意に自分の少年時代を思い出した。緊張と恐怖はあったが、それでも決して後戻りしたいとは思わなかった。ずっと昔から、そう覚悟を決めていたのだから。
「行くぞ」
小さく呟いたレハトの凛とした声に、ロビンは強く頷いた。
ここは【第7洞窟】。文字通り洞窟の中の地底世界。全人類の8割を葬った大災害【ワールドレイジ】から20年経った現在、人間はこの洞窟の中で空の見えない生活を送っている。
これは血と闇に包まれ、数多の人々が涙を流すこの哀しき洞窟の中で、滅亡したこの世界の謎を解き明かす為に、未来ある若者たちが命を賭けた冒険に出かける物語。