未知との遭遇
今週は木曜日まで1日1話更新、金土日は2話更新です!
《part3》
「…………ッガは、ぅげェッへっ、ぉおっほっ、ハッ、はぁ、はぁ……」
「君、大丈夫? ……ではないか」
しばらく咳き込んでいた彼は、自分がどこに居るのかさえ暫く把握できなかった。体を起こし、そこが淵の内側の川原であることを理解して、彼は掛けられた声の方へと視線を移した。
その人物は少女だった。彼から見れば歳上だったが、大人には決して見えない。ずぶ濡れのパーカーで目元が隠れて表情は窺いがたい。ぴったりと張り付いた衣服、浮かび上がるボディライン――彼は慌てて顔を背け、向こう岸の木を見つめながら口を開いた。
「助けてくれたんですか?」
聞くまでもなく、状況から明らかだった。少女は照れ隠しのように苦笑の口元を見せる。
「まぁ、成り行き上ね。さすがに見過ごすわけにもいかないし、それに……」
間をあけた彼女はほんの一瞬、言いにくそうに口の端を歪めて思案していたが、「まぁ今更か」なんて投げやりな呟きと共に再び苦笑を浮かべた。
「ちょっと河童に用があって」
――河童! 先程の記憶が蘇り、恐怖で彼の目が泳ぐ。
その時、突然川の真ん中で爆音とともに水柱が発生し、
「獲ったどぉぉぉぉ!!」
雄叫びが静かな山々に響き渡った。
怯えた声を上げて彼は川を見た。
段々と収まる水煙――人型の影が浮かび上がる。
そこに見えたのは、大きな甲羅と深緑の肢体をぬらぬら光らせる怖ろしい河童の姿。
そして、河童の首を両手で掴み、容赦なく絞め上げようと格闘する長髪の少女だった。
「……え? 河童を、えぇ? 何ですか、誰なんですかあれ!?」
「いや、その、まぁ、……うん」
傍らの少女に問いかけるが、返ってくるのは曖昧な笑みだけ。明らかに事情を知った上で説明責任を有耶無耶にするための顔である。汚い。お姉さん汚い。
言葉での状況把握を諦めて、彼は再び川に視線を戻した。河童VS少年少女が乱入したらしい……? この先の事態がどうなるか、彼は見守ることしかできない。
少年の混乱をよそに、一人と一体? いやむしろ二体? の競り合いは続いていた。
腰まで川に浸かった少女は、ツツジ色の髪を背中や顔に張り付かせたままチョーキングを継続していた。体躯は細く見えるのに激しい流れを物ともせず、河童を宙に吊り上げたまま離そうとしない。
河童が緑の腕を震わせて、水かきの張った四本の指で細腕を掴んだ。平たい両手で器用に握りしめ、拘束をこじ開けようと死力を尽くす……。しかし見た目に反して少女の腕は微動だにせず、むしろ白く長い指が河童の喉に深く食い込んでいく。
苦し紛れのもがきだろうか、ひょろ長い脚が少女の胴を蹴りつけるが、彼女にとってはそよ風程度のようだ。空を切った足ひれは、ばしゃん、ばしゃん、と水面を不規則に叩き、嘴から漏れてくる呻きとあいまって、河童の劣勢が揺るぎないことを示している。
やがて、パキ、と甲高い音が響き、河童の体が跳ね上がった。緑の腕がだらりと下がる。
遠目に見ても河童は白目を剥いており、嘴からは泡が垂れていた。だらりとはみ出した舌は意外なほどに赤く、顔の緑と同期してみるみるどす黒さを増していく。
パキ、パキ。パキパキ。
断続的な音は山の物音ではなく……確かに河童たちの方から聞こえてくる。
――あぁ、そうか。
――河童の骨が砕けてるんだ。
彼がそう悟った瞬間、
パキパキパキパキパキ――――
と連続した音が背筋を凍らせた。
一瞬だけ、鼓動が聴覚を支配する。そして訪れた、やけに静かな世界……ごうごうと流れを絶やさない川の音だけがそこを満たされていた。
彼も、岸の少女も、川の少女も河童も、動くものは何一つなかった。
彼は目を逸らすこともできず、本能的に息を潜めて身を固くする。
――あれは一体誰……、いや……『何』なんだ。
沈黙の圧力に耐えきれず、とにかく言葉を発しようと口を開く――。
と、同時。
少女の首がぐりりと傾いて、大きな瞳が彼を捉えた。
気付かれた……! 直感が警鐘を鳴らし、心臓が急に暴れだす。
向こうの顔面は木の陰に沈んでいる。陽射しが強烈なコントラストを作り、仔細な表情を汲み取るのは難しそうだ。
……だが爛々と輝く特徴的な眼光だけは網膜に焼き付いて離れない。
ばしゃりと音を立てて河童が下ろされる。片手で無造作にぶら下げられた、生々しい河童の死骸――そこに彼は数分後の自分を幻視した。
彼は川原に座り込んだまま、少女がざばざばと川を渡ってくる様を見ていることしかできなかった。夏も盛り……だというのに蝉が鳴き止んだ異様な空気の中、彼の奥歯がカチカチカチカチといやに大きな音を立てていた。ついさっきまで感じていた安堵は今や跡形もなく吹き飛んでいた。
ずるずる河童を引きずりながら、『それ』が彼の前に立った。
どさっ。物言わぬ肉塊となった河童が放り出される。喉にくっきり残った手形は思いの外小さく、それがむしろ事態の異常さに油を注いでいた。あの不気味な嘲笑とは似ても似つかない死に顔は憐憫を誘い、同時にこの場の絶対強者を雄弁に物語っている。
濡れそぼった長い髪から、ぽた……、ぽた……、と雫が落ちる。
まるで死刑執行を待ち望む水時計のよう。
こわばった首筋を震わせながら、彼は憑かれたように視線を上げて、それの表情を捉えた。
満面の笑み。
少女は小首を傾げ、初めて彼へと言葉を発した。
「いただきます?」
「おッッッ、おれっ! じっちゃん呼んできますっっ!」
ようやく金縛りが解けた彼は跳ね上がって後ずさり、そのままの勢いで獣道へと飛び込んでいった。逃げたら追われるとか、刺激してはいけないとか、そのような小賢しい考えは一切持てなかった。彼はただその場を離れたい一心で、村へ向かって全力で駆け出していった。
「……もう。『いただきます』は今じゃないって」パーカー少女の呆れ声。
「んー。かまど、難しいこと言うよね」
少年が消え去った方に目を向けたまま、河童を引っさげたペコが口を尖らせた。
明日は料理篇だよ!