河童との遭遇
河童は本当にいた
《part2》
――河童だ……河童が、本当に……!
薄れゆく意識の中、彼は後悔に苛まれていた。渓流の水は真夏にも関わらず冷え切って彼の体温を奪う。はるか遠くの水面……きらめく陽光……彼がいくら水をかいても体はまるで浮き上がらず、肺の酸素だけが虚しく減っていく。
彼の浮上を阻むのは、疲れでも川の流れでもない。
足首をがっしりと掴んで離さない、死人のように冷え切った異形の手に他ならなかった。
『北の淵にゃあ河童が出るだ。あだに近づいちゃなんね』
某県の山中にひっそりと佇む集落に生まれた彼は、八十歳近い祖父に常々そう言い聞かされて育ってきた。彼だけではなく、村の数少ない子どもたちや、あるいは彼の両親世代の大人たち、祖父と同年代の老人たちまで、北の淵に出る河童の話を知らない者は村に一人もいないと言ってよかった。
だが山奥とはいえテレビもネットもあるご時世、実際に信じているのは老人会の顔馴染みだけだった。街から来た学者に『おらぁ餓鬼ん頃に河童と相撲っこば取って勝ったじゃよ』などと祖父は得意げに語っていたが、彼の目には迷信深い耄碌爺さんでしかなかった。
河童なんて居るわけがない。川にいるのはヤマメやイワナ、サワガニにカジカガエルといった人間より弱い生き物ばかり。たまにヒルやハチは出るけれど注意していれば問題なし、この山に怖いものなんて無いんだ――。中学に上がったばかりの彼は若々しく傲慢で、軽い身のこなしで渓流を行き来して釣りに勤しむのが夏休みの日課となっていた。
その日も彼は、夜も明けないうちから沢に赴いて釣り糸を垂らしていた。だが昨晩の大雨で水は濁ってごうごうと剣呑な音を立てており、昼過ぎになっても釣果はゼロ……類を見ない大不漁である。何度か場所を変えた彼はやがて、村の北に位置するその淵に辿り着いていた。
危機感は一切なかった。祖父の古臭い民話など忘れ去っていた。
急カーブする川の内側は拳ほどの石が溜まった小さい川原になっているが、カーブの外側には壁のような大岩が複数立ち並び、水深も一際深くなっている。ここまで来たのは初めてだったが、流れが激しい今日は魚が深いところに身を隠しているかもしれない……と思うと、むしろ絶好の穴場であるように思われた。
湿った苔を踏んで岩の上に立つ。視界は良好。この高さから見下ろすと濁流も幾分迫力が薄れたように感じられて、気が大きくなった彼は大きく振りかぶってルアーを投じた。
上流側に着水した糸は渦巻く流れに従って近づき、彼の正面まで来て、――沈んだ。入れ食いを喜んだのも束の間。彼がいくら引き上げても竿はしなるばかり……獲物が上がる気配がない。かと言って、左右に揺れる糸先が川底に引っかかったわけでもないことを教えている。
……何かがおかしい。彼が悟ると同時に一段と強く竿が引かれ、浮遊感が訪れる。
ぬめる足場でバランスを崩した彼はあっけなく岩から転落していった。
滑落から着水までの一秒足らず……スローモーションとなったその一瞬の間に、彼の瞳は確かに捉えていた。
糸の先、濁った水の向こうから現れる、尖った嘴と禿げた頭頂部を持った緑色の顔――。
絵本や図鑑と寸分違わない、見まごうことない河童の顔が、彼をニヤリと嘲笑っていた。
本来泳ぎが得意な彼もパニック状態では為す術がなかった。まして彼を追い越して潜行した影が、彼の足首に手を掛けて万力のように握り込んでいるのだ。あっという間に彼の体力は尽き、吐き出された気泡の代わりに水が気管を埋め尽した。
ブラックアウトしていく視界――水底に薄っすらと見える河童のにやけ顔。
――河童は本当に居たんだ……じっちゃん……ごめん…………。
後悔が全てを塗りつぶす。何かが飛び込む水音が聞こえたのを最後に彼は意識を失った。
今週分は明日と明後日に投稿します!