月返し
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
あれ、踊り場の鏡、取り外しちゃったのか。だいぶ年季が入っていたもんね。
君も聞いたことがあるだろ? 4時44分にあの鏡の前へ立つと、色々と不可解なことが起こるっていう噂。一時期は行方不明の生徒が出たりすると、あの鏡の中へ吸い込まれたんだという人が、何人かいたっけね。
鏡の概念ってものすごく歴史が古いと聞く。今でこそありふれた、水面に顔を映すというシーンが、その興りだという話だ。
自分の姿を映すものは、特別な力を宿している、という考えは古今東西でよく見られる話。
この日本でも、鏡を巡る話は事欠かない。いい機会だし、僕の知っている話、聞いて見る気はないかい?
むかしむかし。あるところに、宮中で仕事をする若い貴族がいた。
その日はたまたま、一番に出勤。そして一番の目撃者になったんだ。
仕事場である広間が水浸しになっている。
上から見ると、入り口部分に向かう箇所だけが途切れる「コ」の字型に、長机が囲っている広間。その全域に、小山のごとくこんもりとした隆起をたたえた水たまりが、いくつもできているんだ。
彼が話を伝えたことで、続々と目撃者が増えていく。すぐに掃除をするように命じられて、その日はやや遅れての業務再開。貴族の仕事は昼前に終わるが、その日は陽がわずかに西へ向く時間帯まで続けられたという。
しかし、翌日になって更に困ったことが起こる。
再び広間が水たまりでいっぱいになっていたことに加え、何名かの貴族の使いの者が訪れ、体調不良のため欠席する旨を伝えてきたんだ。それはいずれも、水たまりをなくすための吹き掃除に従事した者ばかりだった。
迷信深さが、今とは違う深みを帯びていた時代。貴族たちはこれがどのような兆しなのか、僧を始めとする有識者たちに連絡を取り、判断を仰いだらしい。
現状を見て、多くの人がうなりをあげる中、ひとりの老僧が名乗りをあげる。
「それがしの知った、兆候のひとつによく似ております。確認のため、ご協力を願いたい」
そう告げて、老僧は貴族たちにある提案が成されたんだ。
その晩、暇を出されても障りがない下人たちに掃除された広間で、老僧は見届け役である貴族ひとりと共に、正座をしながら待ち受けていた。
外は曇りがちで、広間の入り口には御簾が引かれていたが、部屋の中に明かりはない。
念のための護身用として、木刀を携えている貴族としては、何が起こるのかと気が休まらない。一方の老僧は、ずっと前から微動だにせず、ほとんど目を閉じていた。
「寝ているのではないか」と貴族が思うのとほぼ同時に、老僧が目を開く。
御簾越しに、青白い光が差し込んでくる。
月の明かりだった。あたかも扉を開けるかのように、広間の床板にはべる暗闇を、じわじわと切り拓いていく。それが老僧と貴族の二人の膝元近くまで伸びてきた時。
ぴちょん、と音を立てて、差し込む明かりの中央部に一粒の水滴。
水面が跳ねる。高いところから落ちたことに違いなく、老僧の視線は天井へ。自然と貴族もそれを追う。
天井近く、横に渡された太い鴨居。そこから滴っているようだった。
しかし、この水滴はほんの一端に過ぎない。後を追うように、二人の周りから同じ水音がし始める。
ひとつ落ちたら、もうひとつ……などという、悠長な早さではない。音は連なり初め、次第に部屋の中は、雨降りと見まごうような轟音に包まれる。
「外へ」と老僧は立ち上がり、年取った身なりからは想像できない軽やかさで、水たまりを踏み越えていく。貴族もそれに続こうとしたが、長時間の正座のせいか、つま先がいうことをきかない。
前にのめって、最初に落ちた水滴の上へもろに倒れ込む。むき出しの霜柱が刺さったかと思うほどに痛い。そして、冷たい。
その間も屋内の雨は降り止むことなく、無防備な貴族の背中へしたたかに、躊躇なく注がれる。どうにか這い出した時には、身体中が凍り付く一歩手前だった。
先に出ていた老僧はというと、雲の覆いを外された月を一心ににらんでいる。
「見ませい」と突き出された指の先を、震える貴族はどうにか捕らえる。
指の先は、部屋の中へ入ってきている月の明かりの延長線。屋敷の半分ほどの広さがあり、舟遊びも行われる池の上を指していた。
ぼんやりと、水面を照らす光。そこへ注がれる光の線の中へぐっと目を凝らしてみると、無数の粉らしきものが浮かんでいる。
同じような姿は塵やほこりにも見受けられるが、それとは違う。色がいささか緑がかっていて、まるで蛍のように淡く輝いている。
「わしらは月粉と呼んでおります。時折、月明りに混じって降り注ぐ細かい粉。これはたちまち病気を引き寄せるものなのですじゃ。
ただし、その相手は人でも生き物でもない。見ての通り、家々が相手なのでしてな。今、あの広間は、いや厳密にはあの広間の屋根から下に至るまで、皆、病にかかっておるのですじゃ」
あの雨漏りにしては、やけに盛んな降り方も、鴨居をはじめとする家の端々から生まれたもの。人でいえば、唾液や鼻汁に相当する。
もちろん、それは病に冒されたものであるために、それに触れると体調を崩し得るのだとか。貴族はすぐさま身体を清めることを勧められた。
翌日。その対策が講じられることになった。
用いられるのは鏡。人が全身を映し出す時に使われる、鏡が八つ用意され、三日三晩の間、広間を外側から囲うようにして、配置された。
容姿も体調も、他の誰かが見ることによって、はじめてその具合を知ることができる。家そのものに、自分の無様な姿を自覚させることで、回復を促そうという役割があるのだとか。
そして鏡には、もう一点。大切な仕事がある。
三日間立て続けた鏡は寺へ運ばれ、二つずつ、合計四組の合わせ鏡の状態へされた。老僧曰く、「月粉はそのまま放っておくわけには参りません。これは返さねばならないのですじゃ」とのこと。
あの時の貴族はせきが出るようになっていたが、滞っていた政務をしなくてはならない。代わりに使いの者が、老僧のいう儀式に立ち会うことになったんだ。
境内にある柳の樹の下。三日目の、あの時と同じ曇り空の晩、そこには合わせ鏡たちがずらりと並べられていた。
いずれの鏡の中にも、相手の鏡が映り、更に相手の鏡が映す、自分の鏡の姿が映り……と、鏡の大きさが許す限りに、繰り返しの風景が延々と鏡の奥へと続いている。
「月粉は三日間、この長い鏡の中を行き来しました。そろそろ疲れて、外へと出てくることでしょう。
有限な広さしか持たぬ家々では、彼らは決して満足しないのです。どこまでも、飽きるまで広がる世。それは鏡の中にこそあるのです」
老僧がそう語るうちに、再び月明りが差し始める。
今度分け入ってくるのは、境内の中。じょじょに伸びた光の端が、やがて四組の合わせ鏡たちを照らし始める。
細長い長方形に象られた、八枚の鏡面。そこから一斉に、藻が生えたかと思うほどの緑色の光が、瞬時に湧き上がった。
月粉の話はすでに貴族から聞き知っていた使いだが、実際に目の当たりにすると、何を口にすればいいのか分からない。
ぽつぽつ、とひとりでに剥がれていく鏡の上の藻は、今や自分たちの真上にかざされた月の明かりの中へ、ふわふわと漂い、登っていった。
それらすべてが吸い込まれ、鏡がもとの姿を取り戻すと、老僧は口を開く。
「彼らも家へ帰るのです。きっと新しい遊び場を求め、ここへやってきたのでしょうな。
月は陽と並び、目に見えるのに、こうも手に届かぬものですが、きっとその世界にも限りがあるのでは、と我々は考えているのです。
それと、かなうのであれば、あの広間は床板一枚残さず、すべて建て直されることをおすすめいたす。彼らが遊び、身体を壊した部屋。決してただでは済みますまい」
その忠告は、間に合わなかった。
翌日には広間が、屋根の内側へ引き込まれるように倒壊。幸い、仕事場をいったん移していたために、けが人は現れなかった。
その広間を構成していた木々たちが改められたところ、その内側が、無数の針が通り抜けた後のように穴だらけとなっており、自重を支えられなくなったのだろう、と考えられたそうだ。