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竜を駆るもの  作者: なろうなろう
第二章
8/33

試練①

 ――伝説はいつの時代も、復活の時を待っている。




 戦場に行けば、簡単に食糧を確保できると思った。敵国の兵士ならば殺害しても咎められないし、その肉を食わせたところで良心の呵責も少ない。無論、その光景を目撃されないよう、慎重に行動せねばならないが……。


 マグタンクは、ウィルの申し出を一時保留した。未だ訓練課程を修了していない者を派兵することは、通常認められていないからとの事だった。


 半端な返答に、ウィルは悶々と夜を過ごした。自分はどうしても戦争に行かねばならない。もし断られたら、なんと言って粘ろうか……。


 翌朝、マグタンクが訓練所を発つ前日。その日は通常の飛行訓練が予定されており、訓練生たちは皆、相棒の竜と共に兵舎前の草原に出ていた。


 ウィルもライムを呼び寄せて騎竜の準備をしていたのだが、そこに一人の教官がやってきて一報を告げる。


「ウィル、君は別メニューだ。訓練所の裏手で、マグタンク教官が待っている。相棒のドラゴンも一緒にとのことだ」

「別メニュー、ですか?わかりました、すぐに向かいます」


 昨日の申し出に関係しての事だろうか。ウィルは少し胸をどきどきさせながら、訓練所の北側の林へライムを急がせた。


 訓練所の北方は北上するほど標高が高くなっており、林を抜けると見晴しの良い断崖に面している。視界には崖下の窪地と遠くの山々が臨まれて、辺り一帯の中でとりわけ景色のいい場所として、訓練所内外の者に大変人気がある場所だ。


 マグタンクは断崖のすれすれで、北の方角を真っ直ぐ見据えて佇んでいた。南側から来たウィルたちには丁度背を向けた形である。そこから少し離れたところに、何故だかイグルクとその愛竜の姿があった。彼は林の方を見張るように近くの小岩に座りこんでいたため、いち早くウィルたちの到着に気付く。しかし、決して目を合わそうとはしない。


 やや経ってから、マグタンクはようやく後ろを振り向き、ウィルらの登場を感知した。


「おお、ウィルも来たか。突然の呼び出しすまないな。しかし、今日以外に君たちを試す日がなかったのだ」


 試す、と言った。恐らくマグタンクは、ウィルが戦地に臨むに値するかどうか、その器を測ろうと考えているのだろう。しかるに、君たちということは――。


「どうした?二人とも、相手の顔を見るなりきょとんとして。まさか、お互い同じ申し出をしたことを知らなかったのか?ルームメイト同士だというのに、おかしな奴らだなあ」


 曰く、イグルクも昨晩のうちに教官の自室を訪ね、戦争への参加を志願したらしい。必要に迫られぬ限り言葉を交わさぬ二人は、お互いの事情を露とも知らなかった。


「驚きました。それで、僕たちは何を試されるんでしょうか」

「なに、そんな大したことじゃない。今から竜に乗って競争をしてもらう。勝ったら戦争に連れて行く。負ければ訓練所に残ってもらう。どうだ、わかりやすいだろう」


 竜乗りレース。なるほど、この前中止になった分の補填も兼ねているのだろうか。


「つまり、私とウィル、レースをして勝った方だけを戦場に連れて行くというのですね」


 今度は、イグルクが口を開く。


「いや、そうじゃない。君たちにはチームを組んでもらい、味方同士としてレースに臨んでもらう」

「チームを?しかし、それなら誰と競うんですか?」


 イグルクの問いかけに、マグタンクはにやりと不敵な笑みを浮かべる。


「相手はこの私だ。私と、君たち二人組とで競争を行う」


 それは思いがけない提案だった。今の今まで、イグルクとチームを組むだなんて、考えたこともなかった。ウィルはちらりと、イグルクの表情を窺う。平常仏頂面のイグルクも、流石に目を見張っている。というか、露骨に嫌そうである。


「崖下の窪地に、うっすらと街道の跡が見えるだろう。かつての千年王国時代に用いられたものだ。あの街道に沿って、遥か北に見えるイザ最高峰、ビシュレー山の頂までを競う。頂上に立つ黄色の旗印の下に、先に剣を突き立てたものが勝利だ」

「剣、ですか?今日は僕たち、剣を携帯していませんが……」

「私も剣は持ち合わせていない。それについては、レース中に自ずと明らかになるから、今は気にしないでよろしい。さて、話を戻そう。私は一騎でゴールまで駆けるが、君たちは継走してもらう。一人がこの崖の上から、もう一人が、対岸となる向こうの崖の上からスタートだ。審判として呼んでおいた教官が間もなく参上するだろうから、それまでにどっちが先に走るか決めておいてほしい」


 マグタンクは淡々とルール説明を行う。どうやら、二人組を拒否することはできないようだ。


 ウィルは、内心戸惑っていた。ただでさえどう接すればいいかわからぬイグルクと協力関係を築くなんて、やりづらいこと極まりない。しかし、自身の目的達成のためにはそんな我儘は言ってられなかった。


「……どっちが先に走る?」

「俺が先だ」


 イグルクは、即答だった。


「地図上で見ればよくわかるが、先発のコースの方が長い道のりだ。持久力のないお前の竜には向いていない。ゴール間際の爆発力が活かせるのも後発の方だろう」


 短い合間に、イグルクはしっかりと算段をつけていた。ウィルもその考えに賛同する。二人はその後、レース中の留意点や、バトンタッチの方法などについて確認を行った。レースの実戦経験が豊富なイグルクは、その知見を惜しむことなくウィルに伝授する。ウィルはさも自身が百戦錬磨の竜乗りであるかのような、妙な自信をも体得し得た。


「ご教授ありがとう。これで俺も、不足なく走れる気がするよ」


 話の区切りを見出して、ウィルは体を翻さんとする。すると、


「――おい、待て」

「?まだ何か」


 イグルクが再度呼びかけた。先ほどの不服そうな態度は消え、何か重大な覚悟を決めたかのような顔つきである。その口から、密やかな熱気を帯びた一言。


「勝つぞ」


 それだけ告げると、灰髪の竜乗りは自身の相棒の元へ進んで行った。ウィルは、その声が届かぬくらい距離が開いたところで、短く「ああ」と返した。


「――お、審判団が来たな。ウィルは彼に続いて継走地点まで渡ってくれ。レースのスタートは例によって正午。向こうの崖からはレースの開始がわかりづらいかもしれないが、審判が時計を持っているから、それで時間を確かめてほしい」


 それからルールの補足を何点か受けると、ウィルたちは継走地点へと飛んだ。レース前に体力を消耗しないよう、かなりゆったりのペースで。


 眼下にはイグルクたちが駆ける予定の、底の真っ平らな盆地が臨まれる。始めは低草の茂る草原が続いていて、半ば辺りからは針葉樹の深森が対岸の崖まで広がっている。ウィルはその様子を意識半ばで観察しながら、引率の教官に問いかけた。


「先程、窪地を進む間は四方の崖よりも高く飛んではならないと説明を受けましたが、何か意図があるのでしょうか」

「主任はそれも詳しく話していなかったのか。このレースコースの前半、地上付近を飛ぶといくつもの障害に直面する。実際の任務、特に戦闘においては過酷な状況で飛行を行うことも多いから、それを想定しての造りになっている訳だ。その障害を無視されたらコースを飛ぶ意味がないから、高度制限のルールがあるんだな」


 なるほど、遥か上空を飛んでしまえば、障害とやらは働かなくなってしまうのだろう。『旗印の下に剣を突き立てよ』というゴール条件についても、何か似たような意図があってのことと思われる。


「俺は反対したんだがな。このコースは本来、訓練所の卒業試験に使用される大変過酷なものだ。レース中に大怪我をしたり、ゴールに到達できなかったりして自信を喪失する者も多い。それを、まだ全課程を修了していないお前たちに走らせるなんて、少々無茶が過ぎる……」


 若い教官は愚痴をこぼすように言った。ウィルはしかし、なるほどこれは卒業試験の前倒しなのだと理解した。


 継走地点に着くと、自分たちが飛ぶ予定の後半の道のりが、より鮮明に映し出された。こちらも始め平原が広がるが、その先に深い森が続いている。森はそのままビシュレー山の麓に続いており、山の頂上付近には大きな滝の姿が見てとれる。


 険しい道のりになるだろう。そしてレースには必ず、勝たなきゃいけない。そんなプレッシャーに晒されながらも、ウィルは久しぶりのレースにどこか胸を躍らせていた。彼の本質は、生粋の竜乗りなのかもしれない。


 正午、予定時刻通りにレースは開始された。継走地点からではスタートが見えぬかもしれないと言われたが、視力の優れたウィルには、遠くで竜が飛び立つのがはっきりと確認できた。しかし、飛び立った竜はどう見ても一騎だけ。多分マグタンク教官は、ハンデとして後れて出発する事にしたのだろうと、ウィルは見当をつけた。




 時刻はやや遡り、レース開始直前のスタート地点。


「……教官は後から出発、ですか?」

「ああ、私はこのコースを駆ける上で、少なからぬ有利を握っている。せめてそれくらいのハンデを課さなければ不公平というものだ」


 マグタンクは自ら、スタートを遅らせることを申し出た。ただでさえ一対二のレースなのに、更に自分を不利に追い込もうとは、大層な自信である。


「わかりました。教官がおっしゃるのならば、それで結構です」


 プライドの高いイグルクは、少しむきになった。そんなハンデが与えられるほど、自分たちの相手は容易いというのか。教官は、自分たちを過小評価している……。


「間もなくレース開始だ。イグルク、準備はいいか」


 正午間近。審判員の教官が呼びかける。イグルクは相棒の白竜、ワンダの背に乗り空を仰いだ。


「これに勝てば、もっと遠くに行ける――」


 イグルクの瞳は、ウィルの居る継走地点よりも、その先にあるビシュレーの頂よりも更に遥か遠くの景色を見据えていた。今は地平の裏に隠れて見えない、ずっと遠くの場所を。


「正午だ。レース開始!」


 審判の声をきっかけに、イグルクは地上を発った。ワンダの銀白色の翼が光を弾いて、真珠のように煌々と輝く。その影はすぐに崖の下へと隠れて、マグタンクたちからは全く見えなくなった。


 崖の標高下を保ちながら、緩やかに加速していく。ウィルとライムのような爆発力は無いが、彼も訓練生たちの中では群を抜いて速い。白銀の竜騎士はみるみるうちに出発地点から遠ざかり、豆粒ほどの大きさになって崖下から現れた。


 速度と高度を安定させ、滞りない飛行を続けていく。重大な試練に臨んでいながら、いつもと寸分違わぬ滑らかな飛行だった。滑り出しは頗る順調と言えよう。


 第一の関門に差し掛かったのは、それから間もなくのことであった。


 イグルクの真下には、濃い霧の立ち込める針葉樹森がある。彼の走る崖の高さすれすれ辺りに至れば霧はすっかり散っているのだが、こうなると地表の街道が満足に視認できない。それは大変困った事態だ。前述したように、レースの参加者は街道に沿って進む義務があり、街道から大きく外れれば失格になると申し渡されている。このまま道標を見失ったまま飛び続ければ、そのルールに抵触してしまう可能性があったのだ。


 止む無くイグルクは、木立の高さまで高度を落とした。するとようやく、うっすらと石畳敷きの街道が見える。さてこの街道、草原のそれとは違って、うねうねとしつこく蛇行していた。舗装の真新しさを見るに、このレースコース用に改めて敷設されたものに違いない。霧を無視して前進せんとすれば、街道沿いからすっかり外れてしまうよう設計されているのだ。


 もはや石畳の道を注視しながら往くしかあるまい。と相棒に指図するイグルクだったが、首を埋めて地表を確認するのはそれだけで骨折りであるし、速度も大きく緩めざるを得ない。白竜の快速は、ここに至ってついに歯止めを掛けられたのだ。


 きっとマグタンクはこの道標を全て記憶しており、下を眺めないでもルールに触れることなく飛行できるのだろう。それで、自分には少なからぬ有利があると豪語したのだ。


「……侮られていた訳ではなかったのか」


 こうした合点のために、イグルクは却って落ち着き払った。己に正当な判断が下っていると知れれば、自尊心とも違う変な安堵を覚えるのが彼の性質である。


 白い競争者は、しきりに体の向きを変えながら、慎重にかつ効率的に道を進んでいった。何度も身を翻したために方向感覚は滅茶苦茶になる。おまけになるべく速度を落とさず飛んでいるから、今にも目が回りそうだ。


 苦心しつつもどうにか森の半ばほどに到達した頃、突如街道に変化が現れた。今度は、道が枝分かれしているのだ。


「――つくづく、意地が悪いな」


 どちらに進むのが正しいのか?イグルクは一時逡巡したが、すぐに向かって左側の道を選んだ。訳もなくあれこれ迷っている時間は、まるで徒に過ぎないとわかっているのだ。


 左側の道はその先で間もなく途絶えていた。踵を返し、今度は先ほどの分かれ道を逆に進む。そちらの道は先まで長く続いていた。今度こそ、正しいルートだったようだ。


 街道の分岐は、その後いくつも現れた。始めのうち、袋小路はすぐにそれと判る単純なものだったが、そのうちに枝分かれの数が増え、突き当りで折り返して別の支線と繋がるようなものまで現れた。街道はまさしく網の目状に広がり、迷路の様相を呈しているのである。


 さあ、どうしたことか。一本ずつ虱潰しに進んでいくのが堅実な手ではあろう。だが街道以外の印もなしに彷徨い始めたら、いずれ道を見失うのは必至だ。どうすれば迷わずに済むか……。と考え始めた直後、一つ妙案が浮かんだ。


「ワンダ、上だ」


 イグルクは木立よりも一回り高い位置まで飛翔すると、相棒の竜翼によって疾風を舞い起こさせ、辺りの霧をぶんと振り払った。すると、ごく短い時間だけ、遠くの方まで景色が見渡せる。イグルクはその僅かな晴れ間の隙に、正しいルートを補足した。


「最初の分かれ道を右。その後左の細道を進んで、後は中央の道を真っ直ぐ――」


 素早く順路を記憶し、再び白竜を駆る。一瞬歩を止めることになったが、時間のロスを最低限に抑えることができたはずだ。これならば、道半ばで後発に追いつかれるようなことはないだろう……。


「流石、訓練所一の竜乗りイグルクだな。この短時間で最適解を見出すのは、並の者にはできまい」


 競争者に並走する審判員は、思わず賞賛の言葉を漏らした。レースの最中に立ち止まるという行為は大変勇気が要るもので、多くの訓練生はこれを実行できない。それをイグルクは、ほとんど時間を浪費せず答えに辿り着いてみせた。全く以て非凡の才と評さざるを得ない芸当である。


 白竜を覆う濃霧は段々と薄くなってきた。もうすぐ森の上を抜ける。継走者が待つ崖が視界に映し出されるまで、あと幾ばくも無いだろう。




 ……その頃、スタート地点にて。


「主任、イグルクは直に霧の中を抜けるでしょう。そろそろ出ないと追いつけなくなりますよ」

「そう急かすな。まだ慌てる時ではない」


 マグタンクは、未だ発進すらしていなかった。


 ところが、競争相手が道のり半ばを過ぎようという状況で猶、一切の焦りを滲ませていない。余裕綽々に、前方の教え子の飛行を慈愛の瞳で見守っているのだ。


 審判員たる教官は、そのあまりに真っ直ぐな眼差しに絆されて、すっかり呆れるのを忘れてしまった。堂々と佇む主任の視線を追って、窪地の底部に目を向ける。


 それを見計らっていたかのように、小さな白い影が彼らの視界の奥に再び現れた。イグルクは、迷いの霧中を突破したのだ。


「速いな。私が初めてあそこを通った時よりも一層速いかもしれぬ。彼らの才能には驚かされるばかりだ」


 にも関わらず、マグタンクは相変わらず呑気である。言葉の内容とその調子が、まるで噛み合ってないようにすら思われた。


 流石に見かねた審判は、いつになく強めの語調で、催促するように焚きつける。


「主任、いい加減に――」

「わかっているさ、そろそろ頃合いだろうな。今から出発すれば、丁度いい勝負ができるだろう」


 そう言って、マグタンクは悠々と出発の準備を始めた。橙色の美しい愛竜にどっしりと跨り、いかにも彼らしい爆音で決起の雄叫びをあげる。


「よし、行くぞネオターンク!!」


 ネオタンク、彼の愛竜の名。しかし、本当の名ではない。自分と相棒がツインだと信じて止まないマグタンクは、愛竜に一族伝統の名を授け、それで呼称している。しかし竜の方は愛称をお気に召さないようで、専ら反応を示さない。


 今回も、例によってネオタンクは押し黙ったままである。審判は、今度こそ呆れたようにマグタンクの顔を見つめていた。軽蔑の視線が、身に染みる。


「カーネリアン、出発だ……」


 先程とは打って変わって、蚊の鳴くようなか細い声。しかし実名を呼ばれたことで、ネオタンク――改めカーネリアンは、急に体躯に血が通ったかのように躍動し始めた。


 翼を傘のように柔らかく開いて、眼前の崖に向かって悠然と滑走する。カーネリアンは、しっかり助走をとってから飛び立つのを常としていた。


 崖の先端間際、橙色の飛竜は土を踏みきって、空の世界へ飛び出した。窪地の街道の真上を、達人の矢の如く真っ直ぐに突き進んでいく。その速度は、イグルクをも一層上回っている。


「これでもイザ一のスピード狂と言われた男!すぐにその背中を捉えてみせるぞ、イグルクよ!」


 マグタンクの馬鹿でかい声は、このだだっ広いレースコースの中でもよく響く。それによってイグルクは、マグタンクが既にスタートを切っている事を知った。


「教官の声……もうそんなに迫られているのか、くそっ」


 実際にはマグタンクは陸を発ったばかりなのだが、霧の森で少なくない時間をロスしたと自覚するイグルクは、二者間の距離を錯誤した。


 が、逃げ切れる自信はあった。開けた視野の先には、既に対岸の断崖が明瞭に映り込んでいる。少し高度をあげれば、継走者とその黒き相棒の姿も目に入るだろう。イグルクは努めて己を鼓舞しながら、徐々に高度をあげていった。


 崖の先に、黒曜石の眩い輝きを捉えた。あの異質な鱗は、今や苦労を讃えるゴールテープに等しい。


 と、それとほぼ同時に予想だにしていなかったものを発見する。正確には霧を抜けた時からずっと視界に入っていたのだろうが、この時点に至るまで全く意識の範疇に入らなかったのだ。


 継走地点に先立つ垂直の断崖。そこには地割れを起こしたかのような太い亀裂が一本走っていた。それだけであればなんてことはない、ただの溝だ。だがイグルクは、溝の底面に最悪のものを見とめた。


 街道だ。街道が続いている。あの溝の奥まで!


 これがレースでないのなら、溝など無視して崖の上まで昇ってしまうだろう。しかし、溝の脇に逸れれば「街道から大きく外れたら失格」というルールに当てはまるし、溝の上空を飛ぼうとすれば、「崖よりも高く飛んではいけない」というルールに抵触してしまう。つまり、レースの参加者はあの溝の内側を飛んで行かねばならないのだ。


 イグルクは後ろを振り返る。マグタンクは依然、霧の外に出てきてはいない。まだ、それなりの距離があるはずだ。あの溝の中を飛ぶのは厄介そうだが、この条件なら十分に先行を保てるだろう――。


 崖に接近してくると、いよいよ溝の内部がはっきりと視認できた。間隔は思ったよりも広く、竜が一騎通るのには十分でありそうだが、奥に行くほど道が狭まっているように見える。その両脇の壁、及び地面からは極彩色の岩があちらこちらからせり出していて、中には建物の梁のように左右の壁を繋いでいるものもある。どうやらここは、ある種の鉱床の溜まり場らしい。


 イグルクは竜騎の高度を微妙に下げて、溝の中腹辺りからその内部に滑り込まんと図る。中に入る間際、吸い込まれるような強烈な追い風が吹きつけた。空気がやや熱を帯びているのを感じる。恐らく、奥に何らかの熱源があるのだと予測された。


 強い追い風を受けながら、快速で溝を進行していく。鉱床は邪魔なことに間違いないが、ドラゴンが高度を下げたり体を傾けるのには十分なスペースが確保されている。訓練所一の飛行技術を持つイグルクの進行を阻むには値しなかった。


 だがしかし、順風満帆もそう長くは続かなかった。溝の奥行き半ば辺りまで進んだ頃であろうか。道幅が急激に狭まり、行く手を阻む鉱石群も大きさと数を増したのである。竜が細やかな動きをする空間はすっかり失われていた。――いや、それは些か正確さを欠いた表現である。立ち止まって器械体操をするかの如く振る舞う分には、まだまだ申し分のない自遊空間があった。が、競争者である彼らにとって、そのような可能性が何の意味も持たないことは自明の理である。


 さてさて、それは幾層にも重なった蜘蛛の巣に喩えられる。少しでも糸に触れればからめ捕られ、動けなくなってしまう。かと言って立ち止まろうとすれば、後ろから迫る巣の主に捕まってしまう。即ちここは第二の難関。微細な飛行技術を持たぬ者を振るい落とすための、極限の試練である。


「ワンダ、速度を緩めるな。行き止まりな訳じゃない、俺たちなら潜り抜けられる」


 が、イグルクは臆さない。例によって素早く先の見通しをつけると、相棒を上下左右に動かして、複雑な鉱床を巧みに抜けて行った。その翼の先端も、両脚の爪も、一切岩の障害に触れていない。白き飛竜は、過酷な迷路に迷い込んだとはよほど思えぬ、驚くほどの無傷である。


 家屋の床下のごとく薄暗かった溝の先端から、光の槍を差し込んだかのような力強い一閃が覗かれてきた。地上は近い。最深部まで、あとほんの少し。


「追いついたぞ、イグルクー!」


 隘路にマグタンクの声が轟いたのは、正しくその時だった。背後を見るに、橙色の竜に乗ったマグタンクが、目と鼻の先まで迫っている。速度は、イグルクよりもずっと上だ。彼は停止も減速も一切していないのだから、当然だ。


 けれど、継走地点はもう目前。これ以上スピードを緩めなければ、追い越されるはずはない。イグルクは鼻孔から大きく息を吸い込み、自身を奮起させた。


 残りわずかな道のりに向けたその意気込みは、決して油断と言いくくることはできまい。だけれども、その一瞬にごく微細な意識の緩みがあったこともまた事実だ。


 呼気を噴出せんとする直前、イグルクの見る世界がぐらりと揺らいだ。何を確かめずとも、原因はすぐに推し測ることができた。彼の相棒ワンダが、鉱床に体をひっかけたのだ。


「つっ!」


 バランスを失ったワンダは、左側の壁に勢いよく体側を打ち付け、そのままずるずると地上に降下し始めた。竜騎の体をあちこち見回すに、左翼の先端部に負傷がある。鉱床と衝突したのは、どうやらその部位らしかった。


 翼の負傷は、飛竜にとって致命傷。ワンダは高度を回復させること能わず、地上までずるずると滑り落ちていった。すぐさま相棒の体から飛び降りたイグルクは、傷の具合を詳細に窺う。壁に身を擦ったせいで鱗はあちこち欠けて、真珠のように美しかった光沢も幾分失われている。けれどもその分、内組織への影響はほぼ無さそうだった。心配された左翼も、鉤爪の一部が折れているだけで骨や翼膜の異常は見られなかった。


「すまない、痛い思いをさせたな。俺の注意力が足りていなかったばかりに……」


 イグルクは上ずったような声で誠実に謝罪する。凡そ人間相手には見せない愚直な態度を、この身白き相棒にだけは晒すのであった。


 言葉を紡ぐその間隙に、彼らのすぐ真上を橙色のドラゴンが通過した。宙を仰いだイグルクは、高速で飛ぶ逞しき騎士とばっちり目が合う。


「やあ、無事で安心したぞ!が、先に行かせてもらう!」


 教官マグタンクは鉱床突入前の速度を保ったまま、一切の迷いなく複雑な隘路を通過していく。これも、経験のなせる業だ。


 墜落の騎士は、それを見送ることもないまま、すぐに相棒へ向き直った。瞳と瞳を通じて意思を交わす。彼らには共通の言語がないけれど、こうしているだけで大凡の疎通はできたのだった。


 イグルクは医療具を携帯していない。助けを求める相手も居なければ、そうしようという気概もまるでない。勿論、ここで諦めるという選択肢ほど論外なものは存在し得ない。だから、彼が表明する可能性のある主張は、端からただ一つしか残されていなかった。


「……無理を言うのは自覚している。だが俺は、俺たちは、ここで敗れる訳にはいかないんだ。行かなきゃいけない場所がある。会わなきゃいけない人が居る。――もう一度、俺を乗せて飛んでくれるか?」


 ワンダはイグルクの顔をもう暫く見つめていたかと思うと、何も発さず再度離陸体勢をとった。騎士と同じように、飛竜もまた諦観を心得てなかった。


「――ありがとう。さあ、行こう」


 亀裂を走る疾風は二つになった。イグルクは相棒を最大限加速させ、マグタンクの後を追いかける。しかし衝突によって身を痛めたワンダは、満足な飛行をすることが叶わない。二騎の距離は伸びこそすれ、縮まることは一向になかった。


 それでもイグルクは、道の先で小さく浮遊するマグタンクの影を捉えて離さなかった。もはや先行者に追いつくことは不可能かもしれない。が、たとえそうだとしても、一寸でもいいから相手との距離を縮めたい。そんな執念に近い根性が、少年の心を痛くゆすぶっていた。


 イグルクの両眼が、ついに溝の最深部を捕捉した。その底面には、燃えるように紅いドロドロとした塊がある。岩の割れ目から、灼熱の溶岩が噴き出ているのだ。隘路に走る吸い込むような猛風は、それが原因であると思われた。


 先行するマグタンクは、マグマの熱に押し上げられるようにして地表へ昇っていく。イグルクも少し遅れて、それに続いた。それは大体、瞬きと瞬きの間くらいの時間差であっただろうか。大きくはない。しかし決して、小さくもなかった。


 気流に乗るイグルクは、苦虫を潰したような面をしていた。あれだけ大きなハンデをもらいながら追い越されてしまった悔しさ。そして、継走者への強い後ろめたさが滲み出すのを禁じ得なかったのだろう――。




 崖上のウィルは、少し離れた位置から、亀裂の先端を見つめていた。


 ――あの場所からイグルクが飛び出してくるはずだ。そうしたら、自分も滞りなく出発して、最大限有利を保たねば。


 が、その思いとは裏腹に、先に地上に現れたのはマグタンクだった。


「やあ、準備は万端のようだな。この先で待っているぞ、ウィル!」


 火砕流のごとく地下から飛び出してきたマグタンクは、地上の少年に向かって猛然と叫ぶや否や、あっという間に北の空を駆けて行った。ウィルには、まともに反応する猶予さえ与えられなかった。


「追い越されたのか、イグルク――」


 ウィルの位置からだと地割れの内部の様子は窺えないが、溝の入り口付近はある程度見渡せる。溝に滑り込んだのは、確かにイグルクの方が早かった。マグタンク教官との差は相当あったはず。一体あの溝の中で何があったというのか――。


 そう考えている間に、今度こそイグルクが飛び出してきた。その愛竜は所々の鱗が激しく摩耗していて、乗り手の方にも相当の疲労が見て取れる。しかし、その理由を問うている場合ではない。ウィルは先の取り決め通り、後方に腕を伸ばして相手の掌が触れるのを待つ。それに呼応するように身を乗り出した白い騎手は、後任者の手を弱弱しく叩き、そうしてあたかも誰かを恨むかのような口調でそっと呟いた。


「――済まない、抜かされた」


 謝罪。あのイグルクの口から、詫びの言葉が出た。自分は責めるつもりなどないのに。そんな資格は持ち合わせてもいないのに。彼とて、それは重々承知の上のはずなのに。


 然らば、かの台詞は自分への糾弾。期待される結果を残せなかった己への落胆と憤慨。その重みを朧気ながら感じ取ったからこそ、ウィルは次のように返した。


「大丈夫、すぐに追いつく」


 ウィルはもう一度、今度は己の方からチームメイトの差し出した右手を力強く叩くと、手製のゴーグルを装着して、空に舞った。そして次の瞬間、まるでその姿は幻だったかのように、一瞬でその場から消え失せてみせた。ウィルとライムは、この世の誰よりも速い。

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