選択
――幼き日。夕暮れの家路を急ぐウィル。衣服は所々破け、手足のあちこちに擦り傷をつくっている。
小脇に抱えた包みには、小さな野イチゴが三つ入っていた。病床の妹ティナが、食べたいと言ったからだ。しかし、ティナはそれを口にした瞬間吐き出してしまう。彼女の体は、何も受け付けなくなっていた。いつも母が作るスープも、食べ慣れた堅焼きのパンも、大好物のイチゴも。
それでもティナは、残ったイチゴに手を伸ばそうとする。ウィルが、無理をするなと止めているのに。
「ウィルが、取ってきてくれたものだから。絶対に食べたい。残したくない――」
結局ティナは、すべてのイチゴを吐き出した。ウィルが差し出すどんな食べ物も、ティナは受け入れる事ができなかった。
ウィルは、ライムに人を食わそうと決めた。ライムが人以外を喰らわない以上、残された手段はそれだけなのだ。ライムを守るには、手を汚すことを厭ってはいられない。
訓練が早くに終わったある日、南方にある墓地へ向かった。墓地は例の池よりも更に南南西にあって、木々を薙ぎ倒して更地になった場所に広がっている。訓練所や周囲の村々の死人が収容される大規模のもので、大小千以上の墓石が整然と立ち並んでいる。
曇り空のせいもあってか、辺りの土はじっとりと湿っていて、踏みしめる度しゃりしゃりと音を立てそうな具合だ。墓石以外には背の低い雑草が幾分生い茂るのみで、殺風景なことこの上ない。
ここを訪れたのは、ライムに食わせるための死体を掘り起こすためだ。勿論罪悪感はあったが、生きた人間を捕って食わせるよりはずっと楽なように思われた。
墓参りに来ている者は全くない。今が行動のチャンスだろう。ウィルは持参したスコップを構えて、墓地の中へと急ぎ繰り出した。
一つ一つの墓石を、じっくりと観察する。この墓地では、スペースの有限性故に、墓石の再利用を行っていた。時間が経ち、誰からも見舞われなくなった墓は掘り起こされ、遺骨は処分される。その際に、埋葬者の名が彫り込まれた墓石の表面は削り取られ、また新しい埋葬者の名が刻まれるのだ。故に、墓石の表面を見れば、それが新しいものか否か判別できる。
白骨や腐乱死体を掘り当てたところで、ライムには食べさせられない。どうにかして、まだ生前の形を保っている遺体を見つけなければ――。
丹念な観察の甲斐あって、割に表面の真新しい墓石群を見つけた。新しい墓石は横一列に三つ並んでいる。一番左の名前はスザーマ。昔の女性に多い名前だから、きっと老婆だろう。真ん中はミリア。これまた伝統的な女性の名前だが、最近でもよく付けられる名だ。一番右はベスクティアーノという異国風の名で、年齢は推し量れない。
「こんにちは」
その時、背後から声が掛かった。ウィルは咄嗟にスコップを地面に突き刺し、恐る恐る振り返る。そこには、三十代くらいの、身なりの小綺麗な女性が立っていた。
「あなたも、誰かのお墓参りですか」
「――はい。友人が事故で亡くなってしまったもので。そのお参りを」
「事故……それって、訓練所の若い竜騎士さんの話かしら」
女性はサームの事件を耳にしているようだった。ウィルは頷く。
「でも、その子ってまだ遺体が見つかっていないんじゃなかった?」
ドキリとした。そう、サームの遺体は見つかるはずもない。ライムの胃の中に、全て飲み込まれてしまったのだから。詰めが、甘かった。
「ええ。だからとりあえず墓石だけ立てたんです。もう命を落としたのは間違いないでしょうから、せめて供養だけでもできたらと」
「そう。お墓の下に体がないなんて、なんだか可哀そうねえ」
ウィルは女性の顔色を窺った。自分を疑っているのか、そうでないのか知るために。しかし、瞳は変わらず淡々としていて、感情を読み取ることはできなかった。
「立派な花束をお持ちですね。どなたのお参りですか」
「姪っ子です。まだ若かったのに、流行り病で死んでしまったの。わたしによく懐いて、とても可愛い子だった」
女性は悲しげに呟いた。その瞬間初めて、彼女の感情が表に現れた気がした。女性は続けて、姪の人となりや思い出話を語り始める。ただのおしゃべり好きなのか、懐かしい感情に浸っているのか、その心中は量り知れないけども、ウィルは執拗に釘を刺されているような息苦しい感じを受けた。
「……じゃあ、僕はこれで」
話が落ち着いたところで、一礼をしてその場を立ち去る。スコップは話の間に墓石の裏側へ隠しておいたから、見つからないはずだ。それでも歩いている間、女性がずっとこちらの背中を見張っているのではないかと怖くて振り向けなかった。
ウィルは森の木陰の、特に死角になっている所に身を潜ませて、女性の様子を窺った。特に怪しい動きはない。墓石の前に黄色の花束を置き、胸の前で両腕を交差させて祈っている。体がしきりにひくついているので、嗚咽をこらえているのではないかと予想された。
しばらくして女性は立ち去った。ウィルの居る方向とは違う、東の雑木道の方へ入っていく。
再び、好機が訪れた。先ほどの墓石群の前に駆け寄る。ウィルが目の前に立つのは、黄色い花束が置かれた墓石の手前。どうせ食わせるのであれば、老人より、若者の遺体の方がいい。偏見のようだが、老いくたびれた肉体よりも、若く瑞々しい血肉の方が、ずっと美味いはずだ。
「ミリア――」
ウィルは埋葬者の名を呼んだ。すると墓から魂が抜け出てきたように、鮮明に埋葬者のイメージが湧いてきた。活発でおしゃべり好きの、元気な女の子だったらしい。踊りが好きで、村の人々に得意の伝統舞踊を披露するのが何よりの喜びだった。髪は暗い茶色で、うなじの辺りで二つ結びにしていたというから、きっと叔母であるあの女性とそっくりの容姿だったのだろう。服は地域特有の、鮮やかに染まった麻織物だったに違いない。
望ましくない行いだと知りながらも、ウィルはその想像を禁ずることができなかった。心臓がバクバクと脈打った。自分は今から、その女の子の墓をあばくのだ。そしてそれを池の畔まで運んで、黒い竜の餌食とするのだ。
使命感と自制心がせめぎ合う前に、ウィルのスコップを握る手は俊敏に動き出していた。高揚感のような、酩酊感のような、よくわからないものが彼を突き動かしていた。
墓穴は思ったよりも浅かった。五十回もスコップを振ると、漆で黒塗りされた木製の棺に突き当たった。そこから全体が現れるまで掘り進めると、土を軽くはらって、金属製の錠を何度も打ち、無理やり破壊する。
上蓋に手をかける。思ったよりもずっと重たい感触だった。下半身の踏ん張りを利かせないと、元の位置から少しずらすのも難しい。もしかしするとその行為に対する畏れが、重みに拍車をかけているのかもしれない……。
棺の中には、肌の白い可愛らしい少女があった。想像よりも、更に一段と美しかった。身体にも服飾にも乱れは全くなく、ただ眠っているだけのように見える。今にも起きだして、得意の舞踊を始めそうだ。
その姿をもっとつぶさに見ようと一歩踏み出した瞬間。足を滑らせて、棺の中に身を投げ出した。ウィルの体は、殆ど少女に覆いかぶさった。唇のすぐ先に、少女の薄桃色のそれがある。間に蚕糸の一本さえ通せぬような、ほんの僅かな隔たり。にも拘らず、少女の口元からは、微塵の息吹も漏れていなかった。
ウィルは、少女が死んでいることを理解した。胸の高鳴りは急速に減衰していき、呼吸は平常に戻った。
木々の葉が揺れる音が、鮮明に聞こえる。ここにあるのは、土に埋もれた肉の塊に過ぎない。
体勢を起こし、少女の首と膝の裏に腕を潜り込ませると、壊れないように慎重に持ち上げた。支えきれなかった上肢がだらんとぶら下がる。甘いような渋いような、不思議な匂いがした。
墓穴をよじ登ると、丁度日が雲に隠れて、墓地は一段と薄暗くなった。周囲を注意深く見回しながら、元来た道に歩を進める。
屍への怖れが無くなったら、今度は生きた人間の存在が恐ろしくなった。風が音を鳴らす度、それが誰かの声のように聞こえて、慌てて体を振り向ける。しかしそこにあるのは薄灰色の墓石と、幹の細い痩せた木々ばかりなのが常なのだった。
落ち着け、大丈夫だ。辺鄙な場所にある墓地だから、訪れる者はそうそうない。もし仮に見つかったとしても、こんなに綺麗な遺体だ。きっと死んでいるとは気づかれまい……。何度も何度も、同じ台詞を自分に言い聞かせた。
いつもの池の畔に近付くころには、そんな警戒心も薄れていた。寧ろ、「ライムは今日の収穫を喜んでくれるだろうか」という期待さえ膨らみつつあった。
「ライム!」
池の水で喉を潤す相棒を見とめたウィルは、浮足立ったような、少し情けないような声で呼びかけた。ライムは体を翻すと、太い脚を動かして、自らも歩を寄せた。
「お前のご飯、取ってきたんだ。さあ、食べておくれ」
ウィルは少女の体を横たえて、ライムの食事を促した。やっと手に入れた、とっておきのご馳走だ。きっと美味しく味わってくれるだろう。ウィルは、自信に満ち溢れていた。
――けれど、ライムは少し遠くからそれを観察するだけで、一向に首を動かそうとしない。まるで金縛りにあったかのように、固まったままである。
「どうした、食べないのか……?」
ウィルの気持ちを汲み取ったのだろうか、ライムはようやく今一歩踏み出して、少女の左脚にかぶりついた。鶏の手羽を裂くかのように、いとも簡単に体から分離させる。しかし、数秒あまり咀嚼したかと思ったら、おもむろにそれを吐き出した。
地面に鈍い落下音。唾液にまみれた噛み痕だらけの肉塊は、精巧にできた蝋人形の一部のようだった。表面に刻まれた無数の傷口からは、一切の血が流れていない。
その瞬間、ウィルは理解した。死体は、生身の人間とは全く違う。そしてライムは、死肉を喰らうことはしない。生きた人間そのものしか、口にしないのだと。
ライムは、池の水に顔の半分を浸している。口をゆすいでいるのだろう。ウィルはそれを眺めながら、狭い歩幅でゆっくりと近づいていく。
ショックだった。苦労をして遺体を掘り起こしてきたのに、何の意味もなかった。これが食糧にならないというのなら、もう誤魔化しの余地はない。今度こそ、生きた人間を差し出さなくては。
生きた、人間を。
脳裏に様々な人の顔が浮かんだ。郷里の旧友たち。母や父の親類一族。ダルネフ訓練所の人々。いがぐり頭。イグルク。マグタンク教官。イナ――。
そこから先を想像することが恐ろしくて、茫然とした。かなり長い間、そうやって立ち尽くしていたと思う。その様子を、ライムはいつの間にかじっと見つめていた。
「――ごめん。ぼーっとしちゃって。せっかく持ってきたのに駄目だったから、残念でさ」
ライムは全く体を動かさず、ひたすら紅い目の少年を見つめたままである。
「ううん、お前が悪いんじゃないんだ。俺が勝手に期待して、やったことだから」
何をまごついているんだ、俺は。もう決めたことじゃないか。こいつを絶対に守ってやるんだって。なのに俺は、遠回りをして、逃げ道を探して、一向に現実と向き合おうとしていない。
ウィルは、自分が情けなかった。許せなかった。人として、外れているとさえ思った。
「生きている人間がいいんだよな?待ってろ、今度こそ。今度こそちゃんと用意してやるからさ……」
ウィルの心の中で、何かが決まった。同時に、別の何かが、音もなく崩れ去った。
その日の晩からウィルは、どうやって、そして誰をライムに食わそうかと考えた。しかしいくら考えたところで、竜の餌とすべき人などそう簡単に定まるはずもない。
「消灯するぞ」
「えっ」
「明かりを消すと言っている。もう寝るんだ」
「ああ、もうそんな時間か……」
自室で頭を悩ませていたら、すっかり夜が更けていた。イグルクは毎日寝る時間が変わらないから、今日もいつも通りの時刻なのだろう。
ウィルはイグルクに断って、部屋を抜け出した。このままではとても眠れそうにない。
向かったのは本棟の社。精霊像に、あの美しい少女の夢を今一度見させてくれと願うため。彼女と会えば、なんとなく前に進めるような気がした。
「また来たか、若いの」
社には、またしても名物爺さんがいた。厚ぼったい両瞼のわずかな隙間から、じっとウィルの顔を見つめる。
「こんばんは。今日もいらっしゃったんですね。腰の具合はいいんですか」
ウィルはここ最近頻繁に社を訪れており、老人とはすっかり顔見知りになっていた。こうして、軽く世間話をする程度には。
「眠れぬのか」
「悩み事がありまして。夢の中に解決策を提示してもらえないものかと、祈りに来たのです」
「熱心じゃの。もうここに精霊はおらぬというのに……」
ふと、ウィルはこの老人からヒントを得てみようと思った。年寄りの知恵というのは、時代を問わず大変重宝すべきものだ。
「ご老人は、死んでもいい人間は居ると思いますか?」
「急におかしな質問をするのう。どういう意図じゃ」
老人は眉を顰めて目を丸くしていたようだが、瞳の大きさはあまり変わらない。
「そうじゃの……儂自身の私怨によって、死に値すべき人間というのは何人も居った。長い人生だったからの。ただ万人にとって死すべき人間というのは、大衆に正当性を認められた法によってしか定められぬ」
「法によって……つまり、死刑宣告を受けた者、ということですか」
「それも、一つの例かの」
ああ、なるほど。どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのだろう。既に死が定め
られた人間なら、殺したって構わない。その通りじゃないか。
「ありがとうございます。大変参考になりました……」
ウィルは、老人の目を見ないまま、形だけが丁寧な礼を告げた。
その夜に、夢は訪れなかった。ただ暗い闇が広がるだけ。それは光の届かぬ深海に、延々と沈み続けていくような感覚。目覚めたウィルは、その荒涼とした印象だけをぼんやりと抱えていた。
時計を見ると、丁度起き出したい時刻だった。素早く着替えを済ますと、沈黙の寄宿棟を窓から抜け出し、半未明の草原を南に向かって突っ切った。
いつもの池の辺りには、霧が生じていた。辺りの草花や発行虫は一様に色彩を淡くしていて、辺りの空気に生気を吸われたようである。それは、黒竜も同じだった。体表は薄白くぼやけて、光沢の一切もない。まるで本物の岩そのものになってしまったかのようだった。
耳慣れた軍靴の足音に呼応するように、黒竜は体をぴくりと動かした。草を静かに踏みしめた僅かな音なのに、どうして反応できるのだろう。
「おはよう、ライム。起こしてしまってごめん」
優しく相棒の頬を撫でる。いつもと変わらぬ、滑らかな肌触りがあった。
「これからティメールの街に行こう。そこで食糧を得られるかもしれない」
ウィルにはとある算段があった。ティメールは、ダルネフから南東百数十里にある自治都市。古来から土着していた異民族が建てた街で、他の都市とは違う独自の風習が残る。最近では他地域との交流によって、大分同化が進んできたが、未だ変わらぬのはその独自の刑罰制度である。
ティメール法の最高刑は、受刑者に土でできた巨大な錘を脚にくくりつけ、湖に沈めるというものである。錘は水中で分解しやすい造りになっているから、いずれ受刑者の体は浮いてくる。それまで水中で耐えることができれば、受刑者は岸まで泳いで助かることが可能で、そうでなければ死体が水面に浮かびあがってくる。無論殆どの者は溺れ死ぬことになるのだが、一応受刑者に生存の余地を残しているというのが注目すべき点だ。
この刑の肝要なところは、受刑者を水に沈めてから、後日遺体が浮かんでいるか確認するまで、監視人が居ないところである。その隙を狙えば、生きた人間をライムに食わせることができる――。これが、社の老人の話を聞いて、ウィルの思い当たった計画だった。
「今日の昼に刑の執行があるはずなんだ。少し距離はあるけど、今から向かえば十分に間に合う。さ、行こう」
ウィルはライムを促し、その背に乗った。少しずつ慣れてきた飛行。もう何の緊張もない。
しかし、ライムの方は全くスピードを出さない。まだ寝ぼけているのかと思ったが、すぐにそうでないことに気付いた。
「何も食べてないせいか……」
ウィルは自分を責めた。自分で世話をしてやると言っておきながら、食べ物の一つも用意できていない。その癖、自分のピンチの時には何度も駆けつけてもらい、負担をかけている。――だが、それでも。
「今度こそ、絶対に食わせてやる。だから、あと少し。あと少しだけ頑張ってくれ」
日は徐々に高くなっていた。朝の靄は消え、鮮やかな世界が蘇る。雲のない空からは、日差しが直接降り注ぐ。黒いライムの体躯は徐々に熱を帯びていった。
ウィルはふと、自分も昨日から何も口にしていないことに気付いた。ライムの事に頭が一杯で、そんな余裕がなかった。
ライムが腹を満たしたら、俺も何か口にしよう。自己満足に過ぎないが、その方が幾分気が楽だ――。そんなことを考えた。
日が昇り切った頃、二人は目的地に辿り着いた。ティメールの街郊外の大きな湖。予定通りに事が運ばれたなら、既に刑は執行された頃だ。
ウィルは湖の全体が見渡せる高台にライムを着地させ、水面を凝視した。何も変わったところはない。岸辺に目を移す。そこにも痩せた木々が点在するだけで、人影らしきものは何もない。
「遅かったか。それとも、今日は刑の執行がなかったか……」
ウィルは毎週末に刑の執行があるという情報を当てに、この場所を訪れていた。しかし、その情報もどこまで正確なのかわからない。もう少し、しっかり下調べすべきであった……。
と諦めかけた瞬間、水面のほぼ中央に、ぷくぷくと泡が二、三立つのを目に留めた。ついでそれは、激しい水飛沫へと様を変える。
人だ。あそこに人が沈んでいる。
急ぎライムを飛び立たせ、岸辺へ移動させる。もっと間近で、水面の異変を観察しようと思ったのだ。
湖の淵に降り立って間もなく、人の右手と、頭部らしきものが見えた。やはり見間違いでなかった。今日、確かにここで刑の執行があり、あそこに溺れているのはその受刑者なのだ。
錘が大分小さくなっているのか、受刑者の体は十分な浮力を得ているように見て取れる。しかし既に体力を消耗しているせいか、岸辺まで泳ごうとする意志は感じられない。その直後、首から上が完全に水上に出た。額に大きな傷がある、人相の極めて悪い男だ。
やがて、男は岸辺にいるウィルたちに気が付いた。そして、どこにそんな力があったのか、やたら大きな声で叫びをあげる。
「おい、助けてくれ!脚が麻痺して泳げないんだ。頼む、手を貸してくれ!」
脚が麻痺して泳げない。そうか、このままでは助からないのか――。
後で自身不思議に思ったことだが、その時のウィルには一切の迷いが無かった。ただ、救いたい一心だった。
男は岸辺の少年が軽く頷き、隣の巨竜に何か語りかけるのを見た。よかった、助かる。獄中でずっと息を止める練習をしていた甲斐があった!
「ありがてえ、後で礼はするぜ。俺実は――」
男の言葉は、二人に届いていない。ウィルは慈しみに満ちた眼差しでもって、相棒に指示を出した。
「ライム。食べていいよ」
ゆっくりと浮上したライムは、その日一番の迅速で、水面の男の元へ駆けた。
安堵して顔を綻ばせる受刑者の男。やがて黒竜が間近に迫りその口が大きく開かれた瞬間、その表情は生命の危機という原始的な恐怖へと上塗りされた。
ライムの牙が、男の体を捉える。痛烈な断末魔が、辺りに響き渡った。しかしそれは一度きりで、後には水の激しく跳ねる音と、硬い物をかみ砕く鈍い音が聞こえるばかりだった。
湖中央の水面が紅く染まる。岸辺には、獲物が抵抗した際の振動が小さな波になって伝わってきていた。水上のライムは、嬉々として顎を動かし続けている。
やっと、やっとライムに食を与えることができた。その時のウィルの中では、複雑な感情がいくつも渦巻いていて、とても一つに割り切れるものじゃなかった。けれども、その時口をついて出た言葉は、
「よかった――」
ウィルはへたりと地面に膝をついた。出所の知れぬ涙が一筋、頬を伝った。