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竜を駆るもの  作者: なろうなろう
第一章
4/33

生ける千年の伝説

 ――かつて、幸福の千年があった。人々の流すどんな涙も、富をもたらす宝石に変わった。かつて、災厄の千年があった。あらゆる善意が、他人を傷つける凶器へと変わった。




 ウィルは森でサルを狩っていた。サカゲザルという、黄金の体毛が逆立った珍しいサル。樹上のすばしっこい彼らに接近するのは難しかったから、弓矢を用いた。元々不得手な弓術、ましてあちこち動き回る相手ではなかなか照準が定まらない。樹の幹は打ち損じた矢尻が何本も刺さり、痛々しい様である。


「よし、当たった」


 残り矢数本というところで、なんとか仕留め得た。撃ち落とした獲物の息の根を止めて適当に解体すると、背中の木籠の中に押し込める。籠の中には他に、昆虫や甲殻類、色とりどりのきのこ等が入っていた。皆、ライムの食膳に差し出すためのものだ。


 ――ライムはあの事件以降、池の畔に戻ってきていた。足の怪我はすっかり治っていたが、一向に飛び立つ気配がない。どうやらすっかりあの場所に居ついたようだ。


 ウィルはその黒竜を、どうにかして世話してやらねばと思った。


 放っておけばいいのに。あれは人を喰らう恐ろしい生き物だ。近寄れば、自分にも災いが降りかかりかねない。寧ろ、人々のためにも退治すべきじゃなかろうか。そういう思惑も、無かったわけじゃない。けれど結局、ようやく巡り合った相棒を見捨てることができなかった。


 自分が食糧を供給してやらなければ、ライムは無差別に人を襲い、恐ろしい惨劇を引き起こすかもしれない。もしそうなれば、ライムは世に仇なす災厄として、人々に追い立てられるに違いない。そこから守ることができるのは、自分だけなんだ。


 まずは、人以外の食事を見出さなきゃいけない。世話をすると言っても、毎日人肉を用意するなんてことは不可能なのだから。毎日あらゆる食べ物を持ち運び、ライムの食べるものを模索した。この野草は草食性の竜がよく食べるものだから、気に入ってくれるかもしれない。このサルは人間の近縁の種族というから、あるいは口にしてくれるかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら。


 しかし決まって、ライムはどれも口にしようとしなかった。その日も、結果はいつも通りに終わった。ライムが食べるのは小さなライムの実だけ。そしてそれを食べ終わると、笛のような腹の音を鳴らす。全く腹の足しになっていないのだ。やはり、ライムの食べ物となるのは人間だけなのか……。


 ライムは、日に日に元気を無くしているようだった。心なしか少し体が細くなったように、ウィルの目には映った。しかし、食糧としての人間など、簡単に用意できるはずもない。ウィルの焦りは、日に日に高まっていくばかりだった。


「何か、考え事?」


 サームの行方不明事件から一週間。食堂でぼんやりとうなだれるウィルの隣に、イナが腰かける。


「あ、いや大したことじゃないんだ。サームの竜の具合はどう?」

「怪我の方は大分よくなってきたよ。ウィル君の応急手当のおかげだね。ただ、精神的にかなり弱ってるかも。あの二人はツインだったし、サーム君が亡くなったことのダメージは小さくないだろうね……」


 ツインとは、双子関係にある竜と人のことである。ツイン同士はとりわけ相性がよく、ペアを組むと互いに類まれな力を発揮するというが、その取り合わせは現実の竜騎士にも多くない。それには次のような理由があった。


 竜にもドラゴンボーンとよく似た文様が皮膚に浮かびあがり、その形が一致するもの同士がツインである。よって、印の照合によりツインは簡単に判別できるのだが、ここに一つの問題がある。竜の方は体表が分厚い鱗で覆われているから、印を確認するのが困難なのだ。その形をしかと認識できるのは、鱗が生え揃わない幼齢期か、下腹部など鱗の生えていない部位に印が現れた場合くらいのものだ。


 だから、実際の竜騎士たちの大半は、ツインではない(正確にはそうであるか断定できない)竜を相棒とする。このダルネフ訓練所においても、相棒とツインであることが確定しているのは、故サームと、イグルクだけである。


 さて、このツインは魂を分け合った存在。よって片割れに死が訪れると、もう片方も著しく精力を削がれる。その理由については、先立った魂があの世から半身を呼んでいるとか、肉体そのものに何らかの繋がりがあるためとか諸説あるが、これといった定説はない。けれど、ツインの片方の死がもう片方に影響を与えること(とりわけ、人間の方が亡くなった場合のドラゴンの衰弱は顕著である)は、記録上確かなことのようだ。


「――ライム、今日も訓練に出てこれなかったんだね」


 話が一度途切れた後、イナは気まずそうな口調で切り出した。彼女ははじめからこれを訊きたかったのだろう。


 ウィルはあの日以来、訓練所には来なちゃいけないとライムに念を押していた。それは腹を空かせたライムが、他の訓練生に食いかかったりしないかと心配であったためだった。


「うん、まだ本調子じゃないんだ。でも心配しないで。すぐよくなると思うから」


 イナには、「自分以外の人間と会うとストレスになるだろうから、面会は遠慮してほしいと告げていた。イナは頷いたが、今度は却って、日に日に憔悴するウィルの方を心配した。


「困ったことがあったら、なんでも相談してね。ドラゴンの事なら、きっとウィルくんより詳しいと思うから」

「困ったこと……」


 ウィルは少し迷ったが、竜の食性について尋ねてみることにした。調竜師のイナなら、竜の珍しい食性について知っているかもしれない。


「ドラゴンの食べ物?――そうだね、珍しいとこなら虫やコケ類。中には土や空気を食うもの、水だけで生活できる種類も居るとか。まあその辺りは半ば伝説の域で、現実には確かめられていないんだけど」


 その手の類は、思いつく限り全て試した。イナは、ウィルの想像以上の答えを持ち合わせていなかった。


「まだ、何を食べるかわかってないんだね。ライムは調竜師のわたしも見たことない、稀少な竜種みたいだし、他の竜とは違った食性なのかも。わたしも色々と調べてみるよ。何かわかったらすぐに知らせるね」


 いや、もう答えはわかっているからいいんだ。きっと、ライムは人しか食わない。けれど、それを正直に言うわけにもいかず、ウィルはただ微笑を湛えて「ありがとう」と言うしかなかった。


「人を、人しか食べない竜か……」


 ウィルはまた、ライムの正体が気になりだした。黒い岩石のような鱗で覆われた体。尋常ではない移動速度。風を生み出す謎の力。人の言葉を完璧に理解しているかのような振る舞い。一体あれは、何者なのか。


 次の休日。図書室であらゆる竜種を網羅した図鑑を借りて、初めのページから丹念に該当する種がないか探した。けれども、見つからない。人を食べる黒竜の事など、どこにも載っていない。当たり前だ、この本は以前に何度も読んだ。そんな記載があれば、前に読んだ時の記憶が絶対に残っているはずだろう……。


 夕刻になって、イグルクが戻ってきた。稽古をしていたはずなのに、汗ひとつかいた様子が見られない。ウィルは不思議に感じながら、机の上の図鑑を片付け始めた。イグルクが真っ直ぐこちらに歩いてきているから、「机を使わせろ」と言われると思ったのだ。


 ところが、そうではなかった。イグルクはウィルの読む図鑑のタイトルを見ると、一瞬ピクリと眉間の辺りを動かし、口を開いた。


「あの竜の事を調べているのか」


 ウィルが無言で頷くと、イグルクは懐から拳大の紙片を取り出し、カードを投げるようにして机の隅へ放った。一瞬呆気に取られているその間に、イグルクはもう着替えを始めていた。説明を加えるつもりはない、ということらしい。再び紙片の方を見直し、丁寧に綴られた筆記に目を通す。


『ハジュ図書館 古代幻獣辞典』


 それは本の題名と、その所蔵される場所のようだった。タイトルから察するに、これにライムの事が記述されていると訴えているのだろうか。一体イグルクはどこでこの本を知ったのだろう。不思議に思った。


「イグルク、この書物は――」

「知りたければ自分の目で確かめろ。俺の口からは何も語らない」


 相変わらず、冷たかった。


「自分で判断しろ。これから先、どうするのかも」


 またしても、不明瞭な捨て台詞。が、妙な胸騒ぎばかりは俄かにぷすぷすと燻った。


 翌日、ウィルは訓練を休んで、日中からハジュの街へと向かった。ダルネフの制服のままだと不都合が多いから、寝間着に青い麻織物を羽織って。


 ――ハジュは、辺り一帯でもっとも栄えた街。西の国境付近と東の首都近郊を結ぶ中継貿易地点として、ここ数十年で急速に発展した街である。商業活動の中心となるのは、一大商業組合、メルセル商団。商団は国境を跨いで大陸各地で商いを展開し、巨大な富を蓄えている。とりわけイザのお隣シルデン聖国では圧倒的勢力を誇り、在来の商業網は完全に駆逐されてしまったと言われる。その莫大な財力を用いてしばしば政治の場にも介入し、近頃では国王貴族を凌ぐ裏の権力者であるとも噂されている。ウィルは、この商団の面々を苦手としていた……。


 石畳で舗装された道を歩いて四半日。小高い石の壁に囲まれた、真四角の街に到着する。かつての古代王国時代に築かれた防壁を再利用したために、このような造りになっているらしい。


 巨石で組まれた真新しい門の前に立つ。そこをくぐると、管楽器を中心とした小気味のよい合奏が耳に滑り込んできた。メルセルの商人たちが奏でているものだ。彼らはこの独特の音色で人々を引き付け、情緒的な調べで客を虜にし、訪れた者を散財の奴隷にしてしまうのだ。彼らがメルセル楽団と揶揄される所以である。


 街の中心部より、やや北側に図書館はあった。ウィルは幻惑的な音楽が吹きすさむ、中央通りの市場を進む。あちらこちらから、思わず体を吸い寄せられてしまいそうな美しい調べが響いていた。ここに長居すると、どうにかなってしまいそうだ。二の腕で耳を塞ぐようにしながら、足早に市場を通り抜けた。


 図書館は大きな物見やぐらのそばに、ひっそりと佇んでいた。辺りの建物として比して、これだけが異様に古めかしかった。恐らく街が発展する前からあった建物なのだろう。それなりに高さはある建築なのだが、日の高い今頃には丁度やぐらの影にすっぽりと覆われていて、一層どんよりと物寂しい印象を受けた。


 戸を開けると、すぐ右脇に受付があって、丸眼鏡の若い女性が、背の高い椅子に座っていた。もっと年寄りがいると予想したのにと、ウィルは少し意外に思った。


「あら、いらっしゃい。へえ、今日のお客さんも若くてかっこいいわね。ゆっくりしていって頂戴」


 おまけに愛想もいい。殊更意外だった。


「この本を探しに来たんですが」


 ウィルはイグルクから預かった紙片を差し出す。すると司書の女性は、丸いレンズの奥をこれまた真ん丸くした。


「これ、昨日の男の子も読んでいった本じゃない。何、これ若い子たちの間で流行ってるの?不思議ねえ」


 昨日訪れた男の子とはイグルクの事だろう。やはり彼は、直接この建物に赴いて本の中身を確認したのだ。


「待っててね、この本探してくるから」

「あ、いえ。大まかな場所さえ教えて頂ければ自分で探します。梯子を使って本を探し当てるのは大変でしょうから」

「わあ、優しいのね。ほんとはね、ちょっと腰を痛めてたところなのよ。とても助かるわ」


 ウィルは司書から伝えられた番地をメモし、奥の蔵書部屋へ踏み込んだ。部屋は円筒状になっていて、周囲の壁に張り付くように、円弧系の本棚がいくつも積み重なっている。丁度床と天井の真ん中くらいに、壁の円周に沿うような丸い足場が設けられていて、そこから上の棚は足場の上に置かれているようだ。側面の棚には長い木製の梯子がいくつも立てかけられているから、察するに上の棚の本はこれを使って取れということらしい。


 明かりを窓からの採光に頼っている室内は昼間というのに薄暗く、埃っぽい印象を受ける。棚の中身こそ整理されていたものの、雑多に置かれた机群の上には、未整理のものと思しき表紙のきれいな本が無造作に散らかっていて、まるで来客に隠す気はない。無論本を閲覧するスペースはどこにもなく、これは図書館というより蔵書小屋と呼んだ方が良さそうだと思われる。


 目的の本は、足場の上の最上部の棚に所蔵されていた。梯子を棚の淵に引っ掛けて、慎重に上っていく。流石に丈夫な造りだが、うっかりすると倒れてしまいそうで、なかなか冷や冷やする。


「大丈夫?やっぱり支えに行こうか?」

「平気です。もう少しですから」


 司書からの手助けの申し出は断る。ウィルは、変なところでプライドが高かった。


 やっとのことで本を手にする。本はかなりの大判で、それも見た目以上に重かった。そのせいで、ウィルは一瞬バランスを崩しかける。が、寸でのところで踏みとどまった。


 傍から見たら、さぞ冷や冷やする光景だったことだろう。入り口の席でウィルの動きを眺めていた女司書も、慌てて立ち上がり梯子の足元へと駆け寄ってきた。


「もう、君心臓に悪いよ。それで、本はちゃんと目的の物だった?」

「ええ。すみませんが、この場で読ませてもらえませんか」


 司書に机上の本を片してもらい、閲覧席を得た。大判の、分厚い表紙を開く。少しカビっぽい匂いがした。


 辞典には伝説やおとぎ話に出てくるような生き物が、下手くそな挿絵付きで紹介されていた。ウィルは関係無さそうな記事を読み飛ばしながら、次々とページを捲る。すると、とある記事に目が留まった。


『漆黒の大トカゲ。黒い岩石状の鱗に覆われた、巨大な体を持つ。他のどんな生き物よりも高く、速く飛び、空の支配者となる。喉元に火炎袋を持ち、口からは灼熱の炎を吐き出す。気性は荒く、人にはまず懐かない』


 これだ。恐らくこの記事に間違いない。炎を吐くという記述には覚えが無かったが、そういえばライムの喉元には袋状の膨らみがあった。きっと、あれが火炎袋なのだろう。


 ウィルは改めて、頁の隅々に目を通す。挿絵はあまりライムと似ていない。が、体長や体高などの情報は、かなりの程度で一致していそうだ。そして、その絵の上側には、件の幻獣の名が太字で記されていた。


 “サラマンドラ”


 ウィルは、愕然とした。よく見知った名だった。多分、この世で二番目に有名な、伝説上の生き物だろう。


 一番目はフィニクス。紅蓮の体毛と、優美な翼を併せ持つとされる不死鳥だ。世界に繁栄をもたらす吉神として、未だに大陸中で篤く信仰されている。


 そのフィニクスと対をなす存在がサラマンドラである。両獣は合わせて、千年遷移の要とされている。


 千年遷移とは、大陸の歴史観における基本概念である。すなわち、この世界は千年単位で大きく時代が区切られ、そのスパン毎に大まかな世の趨勢が定まっているとする考えである。この千年の初めの年、世に強大な霊獣――フィニクスあるいはサラマンドラ――が現れる。前者の出現した場合には、大陸に太平と豊饒がもたらされ、人々は夢のような幸福のうちに暮らせるという。反対に後者が現れた場合には、大地は戦禍と貧窮のうちに包まれ、血と涙が絶えない時代が続くというのだ。


 ウィルたちの生きる現在は、サラマンドラの千年であるとされている。そして伝承によると、前にサラマンドラが出現してから、間もなく千年を迎えようとしているらしい。もっとも、殆どの者はそんな話を真に受けておらず、そもそも伝説自体を詳しく知らない者も少なくない。ウィル自身、千年遷移の説については、極めて懐疑的だった。たった今、この辞典を読む前までは。


「ライムが、サラマンドラ……?」


 そんな馬鹿な話があるか。ライムは自分を背に乗せて、空を駆けてくれた。暴れまわることもないし、自分の言うことをちゃんと聞いてくれる。巨大で黒光りする異質な姿かたちをしているが、他ととんと変わらないただの飛竜である。大体、サラマンドラなんて生き物が本当にあるのかも疑わしい。現れただけで千年間の趨勢を支配してしまうなんて、そこにどんな道理があるというのだ。


 ――でも、あいつは人を食う。


 必死の否定を、たった一つの思考の滴が無為にした。そう、奴は人間を喰らうのだ。他の食べ物には目もくれず、人肉だけを貪る。それだけで、災いをもたらすものと断じるに十分ではないのか。


 頬を、冷たい汗が伝った。その様子を、隣で佇む司書が心配げに覗いている。


「どうかしたの?」

「いや、何でもないんです。考え事をしていただけなので」

「そう。この前の子もその本をよんで、なんだか驚いたような様子だったわね。一体何が載っているのかしら」

「つまらないことです。訓練所内の者にしかわからない、一種のジョークのようなものですから」


 動揺しながらも、ウィルはうまく誤魔化した。そして即座に席を立ち、本を元の位置に戻しに行った。


「もういいの?ゆっくりしていけばいいのに」

「いえ、十分です。お邪魔いたしました」


 汗を軽く拭い、埃っぽい室内を後にする。外は、目が眩むほどの日差しが照りつけていた。日陰になっている蔵書小屋とのコントラストが強すぎて、頭がくらくらする。


 今日は妙に暑い。もう秋も目前だというのに、ジリジリと肌を焦がすような熱を、大気が帯びている。


 ウィルは元来た道に向けて歩き出した。市場は先ほどにも増して人がごった返し、盛況している。しかし、ガヤガヤという人の雑音は耳に届かない。代わりに届くのは、妖しく艶めかしい笛の音。先ほどから同じ主題を繰り返しているが、少しずつ調子が変化している。ウィルは、蛇が古い皮を脱いで、中から新しい肉体が外に出ようとしている様を夢想した。剥がれた皮は、灰色に黄色のまだら模様。対して脱皮後の蛇は、闇を体現したかのような真っ黒けで、全ての光をその身に取り込むが如くである。


 その変貌をじっとりと見つめている内に、ウィルはいつの間にか見知らぬ場所に立っていた。日陰。それを作っているのは、頭上に広がる葡萄色の幅の広い庇。それと同じ色の布製屋根の下には、色とりどりの品物が並んだ木製テーブルが置かれている。ここは、メルセル商団の露店だ。


 浅黒い肌をした美しい男女が、涼しい顔をしながら優麗に笛を吹いている。全く息を継ぐ様子がないから、まるで人間ではないみたいだ。彼らの視線の流れに誘導されて、正面を向くと、否が応でもご自慢の品々が目に入る。手前には、妖しい艶のある木籠がいくつか。とげとげしい皮に覆われた果物や、掌よりも傘の広い真っ白なきのこなどが、種類別に収められている。その奥には、奇妙なほど色鮮やかな液体が沢山瓶詰になっている。どれも、ウィルの見たことがない品だ。


 更に視線を奥に伸ばすと、テーブルの対面に座る店主らしき男と目が合った。男は元々細い瞳を更に細めて、囁くように「いらっしゃいませ」と言った。


「喉が渇いているでしょう。どうぞお求めください」


 ウィルは、それを喫する自分を想像した。きっと渇きは満たされるだろう。得も言われぬ潤いの内に、心は浸っていくだろう。苦しいこと、くだらないこと、どうしようもないこと、全てを忘れさせてくれるだろう。素晴らしい。きっと、素晴らしいものだ。


 ――けれども。ライムは、これを食べない。自分にとってどれだけ極上の品でも、あの黒竜の腹を満たすことはない。そう思った瞬間、ウィルはふと現に返った。


 店主の目が妖しく光る。ウィルが夢から醒めたことに気付いたようだった。


「すいません、手持ちが乏しいもので」

「お安くしておきますよ。なんだったら今日はただでも構わない」


 押しつけがましい。なんとしてでも、この来客を店の虜にしたいようだった。ウィルはもう一度はっきりと拒絶すると、半ば逃げ出すように天幕の外側へ出た。


 日差しがまた、強く照りつける。先ほどまで美しく響いていた音色は、急に調和を失って不協和音のように鳴り淀んだ。


 ウィルは頭に波打つような痛みを覚えた。平衡感覚が、急速に失われる。歩き出せない。立っているのもきつい。近くの建物の影に入り、頭を抱え込む。


 市場を通り抜けるのには、それなりに時間が掛かる。この状態で歩くのは大変苦労するだろう。かと言って脇道に逸れたのなら、入り組んだ路地の中で迷子になってしまうかもしれない。この街は古くから新しい道が切り開かれたり、家屋の建造で旧い道が塞がれたりという地形変更が激しく、迷路のようなつくりになっているのだ。


 悩んだ挙句、北の裏門から街を出ることに決めた。あちらに向かうのには、メルセルの笛の音を聞かなくて済む。用の済んだ蔵書小屋の前を再び通って、道を真っすぐ北へ進んでいく。やがてみすぼらしい北の門を抜けると、雑草を刈り取っただけの粗末な街道に出た。小さな石つぶてがあちこちに転がっていて、気を抜くとすぐに足を取られてしまいそうだ。普段こちらからは商人の出入りが無いから、こうまで差があるのだ。


 ウィルはその道を、南の訓練所に向かって、何も考えずに歩いた。いや、考えないようにしていた。さもなくば、最悪の結論を導いてしまうと思ったからだ。


 けれど、それでも無意識のうちに、ウィルは自分の中で答えを出してしまっていた。


 ライムはサラマンドラだ。人を食い、世界を暗黒の千年に包むものだ。


 だとしたら、俺はどうすればいい?……決まっている。比べるべくもないじゃないか。千年分の、人の幸福が掛かっているんだぞ。どうしてそれを、一個人の我儘で台無しに出来よう。


 ライムは俺の相棒?何を言っている。たった二度三度、背中に乗っただけじゃないか。心を通わせている?馬鹿らしい。あいつはティナじゃないんだ。大切な存在だなんて到底言えない。そう、あれは単なる不幸な出会いに過ぎなかった――。


 ウィルの運動神経は、その雑然たる思考の内に呑まれていった。烈しい日射が体の水分を奪っていく。辛抱ならなくなって、露店で赤い液体の瓶を一つ貰い受けた。蓋を捻り、一気に飲み干すと、今まで味わったことのない多幸感に包まれていく。気持ちがいい。渇きなんて、すっかり忘れてしまった。これなら、どこまででも歩いていけそうだ。


 ……ウィルは、それが妄想に過ぎないということを自認できないままでいた。やがて、地面に鈍い衝撃が伝わった。ウィルの体は熱く乾燥した地面の上に伏していた。そのままずっと、ずっと長い間、動かなかった。




 夜空に蒼い星があった。以前にはレビュウスと呼ばれていた、ドラゴンボーンの文様と同じ光を発する星。その光の下に、紫がかった暗い髪色の女性が背中を向けて立っていた。ウィルはこれを、すぐに夢だと気付いた。自分は今気を失っているところなのだろう。すぐに目を覚まさねばならぬはずだが、そうする気にはなれなかった。


 女性の方へ歩を寄せる。腰を伸ばしたまま歩いても、足音一つ立たない。これなら、こそこそせずとも良いと思った。が、その髪の毛の一本一本を視認できる距離まで近づいた時、女性が後ろを振り向いた。美しい顔だった。水晶のような瞳。真っ白な肌。筋の通った鼻。色味は淡いが、澄んだ潤いを湛えた唇。これまでに見たことのない眩い美貌。しかし、ウィルがその時抱いたのは、恋慕ではなく郷愁だった。自分はどこかで、この人に出会ったことがある――。


「やっと、竜に乗れたんだね」


 女性の麗しい口元から、透き通った声が発された。


 彼女は自分に語りかけているようだ。そう悟ったウィルは返答を考えこんだ。しかし、考えがまとまりきる前に、口が動き始めていた。


「うん。ライムって言うんだ」

「かっこいいね。それに速い。あんなのに乗れるなんて、素敵だなあ」

「そうかな。全然乗りこなせてないんだけどね」

「わたし、ずっと見てたよ。レースの時、他の竜をいくつも追い越して。最後の瞬間、うんと加速して。絶望的な距離を、一気に詰めた。思わず、鳥肌が立ったよ」


 会話がちぐはぐな感じがした。ウィルは言いたいことを上手く言えず、女性だけが一方的に言いたいことを言っている。


「わたし、ウィルが竜騎士になってくれてとても嬉しい」


 女性はウィルの名を口にした。やはりこの人は、自分のことを知っている人物だ。誰だろう。何という名の人だろう。自分のことを呼び捨てにするこの女性は、一体――。


「相棒さんを、大切にしてあげてね。あの子を守れるのは、あなただけだから」


 ウィルは、多分返事をしたような気がした。そうして女性の方へ歩み寄っているのだが、一向に距離が縮まらない。


「どうか、怖がらないで。たとえ道が途絶えているようでも、あなたにはもう空を舞う力がある。その力で、どこへでも飛べるのだから」


 わかった。この人は――。


 必死で口を開く。名を呼ぼうとする。しかしそれが叶う前に、火種の消えた炎のように、ふっと夢は途絶えた。




 虚ろな視界の中に、色褪せた空が浮かび上がった。ハジュの街の空だ。すぐに、先ほどまで感じていた暑さが衰えていることに気付いた。もう日が落ちたのかと思ったが、そうではなかった。


 ウィルは大きな日陰に包まれていた。人よりずっと大きい、ゴツゴツとした体が、それを作り出していた。体表を撫でるように触る。鱗は室内の金属のようにひんやりと冷たかったが、きっとこの裏側はひどく熱を帯びているのだろう。


 ウィルは地面についた尻を持ち上げ、膝を立てる。その物音で、影の主もウィルが起きたことに気付いたようだった。いつもよりか細く、心配するかのような唸りをあげる。


「お前、どうしてここに……助けに来てくれたのか――?」


 ライムは答えようとしない。じっと、正面を見つめ、ただ時折、尻尾を左右にふわりと動かす。


 ウィルも、暫くぼんやりと考え事をした。夢の内容を何度も反芻する。あの女性は、ライムの事を言っていた。こいつを守れるのは、自分だけだと。どうしてだか、それには賛同できる気がした。どうしてだか、わからないけれど。


「お前、俺と一緒に居たいか?」


 ライムは首を上に持ち上げて、空を見つめた。そのまま下には動かさないので頷いている風ではなかったが、ウィルはその意思を読み取れた気がした。


 ウィルはそのまま黙りこくった。ライムもまた何も発さず、ただ日陰を作ったままウィルに寄り添い続けた。


 遠くから、メルセルの笛の音が聞こえる。まだ街から遠くないのだ。今聞く音色は、さっきよりもずっと落ち着いた調子で、ただどこか悲しげだった。


 ライムの影が、その体高の倍ほどになった頃、ウィルは立ち上がって再び声を掛けた。


「帰ろうか」


 ライムは力強く喉を鳴らす。黒い背に乗り西の方向を見ると、丁度目の高さに橙色の日が光っていて、網膜を黒く焦がすかのようだった。


 黒い影は、翼をはためかせて緩やかに上昇する。高く上がるほど風が盛んに吹いて、肌が涼しくなるのを感じた。


「ゆっくりでいい。今日は急いでないから」


 その言葉通り、ライムは速度を緩めて飛行した。ゆったりと滑空しながら、一定のリズムで大翼を動かす。それは子を包むゆりかごのようで、以前の、暴れ馬のような物恐ろしさはどこにもなかった。


「今日、本を読んできたんだ。そこにライムのことが載っていて、やっぱり幼齢期は雛鳥の姿をしているって書いてあったよ。やっぱりお前、あの時の雛だったんだね」


 ウィルは相手からの返事を求めぬかのように、一方的に語りかけた。サラマンドラという言葉は口にしなかった。それを告げても、得にならないと思ったからだ。


 だけれども、心はいくらか穏やかさを取り戻していた。自分は独りではない。一緒に道を歩むものが居る。そう思えば、多少の困難は乗り越えられると感じられた。


 ウィルはまだ、この先に待つ未来を何も知らない。

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