最後の犠牲者
――一度大切なものを失ってしまったら、後から出会うものは全てその代わりでしかない。
ウィル、ライム、そして調竜師イナの三名は、森林奥の洞窟内で体を休めていた。崖の側面を掘り進めたような天井の高い横穴は、周囲の森によって姿を隠されており、隠れ家としてはうってつけである。
「ウィルくんたちが居ない間に見つけたんだ。わたし以外に知っている人はいないから、山狩りでもされない限り見つかりはしない。当分の間、隠れていられるはずだよ」
「ありがとう。なんとお礼を言ったらいいかわからないよ」
イナは、ライムが民間人を襲った罪で投獄されたことを知っていた。が、ライムが人を喰うことや、厄神サラマンドラであるという情報は持ち合わせていない。イザの王室は、事の経緯が広まらぬよう情報統制を展開しているのだ。
「あれ、ウィルくん怪我をしてるよ。ほら、左手の甲に――」
「!……触らないで!」
ウィルは咄嵯に、差し伸べられた手を払いのけた。剥き出しになった自身の肌に触れられることを、堪らなく恐れたのだ。
「ごめん……でも、なるべく触れてほしくないんだ。俺の手は汚れている。軍人ですらない者を、沢山殺した。君に触れてもらう資格なんてない」
イナは一時的に戸惑いの表情を見せたが、すぐに優しい笑みを取り戻す。そして、震える者を宥めすかすように言った。
「わたし、人の事汚いって言えるほど綺麗な人間じゃないよ。汚してしまう心配なんてしなくていい。だから、ね、お願い。わたしにその怪我を見せて」
全く邪気の混じらない慈愛の一葉に、ウィルはすっかり牙をもがれてしまった。抵抗をやめて腕を差し出すと、イナは傷口に消毒と白布の保護を施す。
「結構深く抉れてる。どうしたの、この傷」
「……ライムを脱獄させた時に、砕けた鉄格子の破片が刺さったんだ」
「檻を破らせたの?思い切ったことするなあ。戦争で負った傷もあるんだから、あんまり無茶しちゃいけないよ」
イナは、まるで子どもの悪戯を窘めるような口調で言う。事態を深刻に受け止めるのを、努めて回避しているようだった。
「次はライムの番だね。ほら、ちゃんとドラゴンのお世話道具も持ってきたんだよ。悪いところはどこかな」
次いでイナは、巨躯の黒竜の世話を始めた。体表を丁寧に磨き、鱗が欠けてはどけた皮膚を消毒してやる。その動きは、ウィルが戦地で見たどの調竜師よりも献身的で、かつ美しかった。
「明日になったら、きれいな衣服を持ってくるね。血が付いた服のままじゃ、不衛生だもん。それから、寝具も必要かな。この洞窟は地面が凸凹してて、寝転がるには心地よくないだろうし――」
イナは元より、隠れ家を提供しただけで退くつもりはなかった。ウィルとライムが不自由なく過ごせるように、あらゆる手を尽くそうとしてくれる。ウィルはそれをありがたく思うと共に、不思議でしょうがなかった。
「どうして」
「ん?」
「どうして、こんなに親切にしてくれるの?俺にはわからないよ。君は戦争で起こったことも、俺自身のことも、ちっとも知らないのに――」
それは、少女の内部を深く抉る言葉だったに違いない。それでもイナは、笑みを保つ。慈愛ではない、もっと別の激しい感情で、崩れそうになる微笑をどうにか支えていた。
「そんな風に思えるのは、ウィルくんがわたしの事を知らないからだよ」
イナは、仕返ししてやろうと思った。無神経なウィルの発言に、同じ言葉で以て反撃してやろうと考えた。
「わたしね、ずっと前からあなたの事を見てたんだよ。あなたは、わたしの憧れだった。同じように竜に乗ることを夢見て、それを叶えられなかった人間同士。だけど、あなたは決して諦めることをしなかった。どれだけ周囲からやっかまれてもめげず、自分ができる努力を重ねていた。そんなウィルくんが身近にいたからこそ、わたしは調竜師として頑張ることができたんだよ。自分よりも辛い環境に頑張っている人が居る。だったらわたしも、できることを最大限頑張ろうって」
イナは捲し立てた。ウィルの返答など一切期待していない。ただただ、剥き出しの感情をそのままに震える声に押し込めた。
「ライムに乗ったウィルくんがレースを圧倒した時には、すごく興奮したよ。黒竜の騎士が戦場で活躍したって報を間く度に、自分の事のように心躍った。そして、再びあなたに会えるのを楽しみにしていた。戦争が終わったらダルネフに戻ってきてくれろって信じてたから。だから、空にライムの姿が見えた時には嬉しくて、一瞬目を疑って、それで、それで………ごめん、うまくまとめられないや」
イナは言葉を詰まらせた。要領を得ない彼女の言葉は、しかし却ってウィルの心にはっきりと響いた。
「――ごめん。何もわかっていないのは俺の方だった」
「ううん、取り乱しちゃって恥ずかしいな。あなたを困らせるために、ここへ案内したんじゃないのに」
ウィルは、イナの瞳を見た。それを通して、自分の像を映し出した。ずっと、自分の周りにはライムしかないと思っていた。正確に言えば、自らそう信じ込ませていたのかもしれない。けれど、実際には多くの人間がウィルを思っていたのだ。イグルク、マグタンク、ジエン――それに目の前の少女イナも、胸が痛くなるほどの思いをウィルに向けている。ウィルは、己が多くの可能性に目を向けず、目を瞑ったまま道を進んでいたことに気づかされた。本当は、もっと色んな道があったはずなのだ。自分を殺さず、他人を傷つけず、罪の意識に囚われず澄む平穏な道筋が。
「イナ」
ウィルは、脳裏に浮かんだ考えを告白すべきではないと思った。それでも敢えて包み隠さず言語化したのは、イナの実直さに絆されたためかもしれない。
「君と一緒に生きるのも、よかったかもしれないね」
二人は、口づけを交わした。甘い体臭が混ざり合って、洞窟内の空気を塗り替えていく。ウィルは、少女の気持ちを必死で掬い上げようとした。イナは、長く抱えた思いを、懸命に騎士の胸腔へと送り込もうとした。それでも、感情は歪になった輪郭の一片しか伝わってくれない。それがたまらなく歯がゆく、もどかしかった。
ふと、ウィルは自身の脳内が濁っているのに気付いた。瞳は現実を見据えているはずなのに、頭の中を流れる映像には別の少女が無表情に佇んでいる。それが単なる連想なのか、甲斐なき罪の意識なのかはわからないけれど、言いようのない息苦しさが胸を焼いた。
「やっぱり俺は、駄目だよ。人として破綻してる」
「どうしてそう思うの?」
「君の事を見れていない。こうして抱き合っている時ですらも、ティナの事ばかり考えている」
イナは妬みも憤りも見せなかった。そんな事は知っているとばかりに、全て包み込むような微笑みを浮かべたままである。
「妹さん、それだけ大切だったんだね」
「俺の、全てだった。彼女の一挙手一投足を見つめた。その口が紡ぐ全ての言葉が嬉しかった。彼女の隣に並んでいたくて、ずっとその背中を追いかけてきた。――多分、好きだった」
「……そっか」
ほんの一瞬、静寂が訪れた。イナはウィルの肩口に顔を埋め、両目を伏せている。だからウィルは、次に彼女が言葉を発する前触れを綱めなかった。
「一度大切なものを失ったら、後から出会うものは全てその代わりでしかない」
「……どういう意味?」
「調竜師になる前にわたしを世話してくれていた人が、よく口にしていた台詞。娘を失ったその人にとって、わたしは紛れもない代用品だった。その言葉がずっと嫌いだったけれど、今となっては多くの人に当てはまる真実だと思えるんだ。ウィルくんにとってわたしは、妹ティナちゃんの代わり。わたしにとってのウィルくんも、誰か別のひとの代役。本物が抜けた穴を埋め合わせるための、都合のよい存在でしかないんだ。でも、それで構わないって思うよ。だって、代わりのものが元のものより好きになることなんていくらでもあるもの。たとえいつまでも昔追いかけた影がちらついたとしても、今を生きる思いを否定することには絶対ならない」
「強いんだね、イナは。俺はとても、そんな風に割り切ることはできない」
「諦めただけだよ。いずれウィルくんも、同じように感じる日が来ると思う。それが必ずしも喜ばしいこととは限らないけれど――」
やがて、夜の帳が降りた。二人は火を起こし、イナの持参した食材を煮炊きして食べた。片づけを済ますと、火を囲んで飽くるまで語り合った。話題は、離れ離れであった半年の間に、それぞれが経験した出来事。ウィルが戦地での苦労話を語れば、イナは訓練所での珍事を報告する。二人は欠けた時間を共有するように、いつまでも他愛ない話を続けたのだった。そして、狭い洞窟で寄り添いあうように一夜を共にした。
目を覚ましたのは、ウィルが一番早かった。夕方には真っ暗闇だった洞窟にも角度の浅い光が差しこんで、入り口付近は濡れたように眩しく光っている。イナもライムも、未だ健やかな寝息を立てていた。ウィルがその愛おしい二つの寝顔を交互に眺めていると、やがて調竜師の少女が瞼を開いた。急に差し込んできた強い光に、眉間の周辺を忙しなく動かしている。
「おはよう、イナ」
「ウィルくん、おはよう。姿が見れてよかった。なんだが、目が覚めたら居なくなっているような気がして、不安だったんだ」
「奇遇だね。俺もそう思ってた」
と、視線を合わせた瞬間、二人はお互い目を逸らすことができずに固まってしまった。昨晩見せたような大胆さは、夢の中に置いてきてしまったようだ。
そうこうしている間にライムも目を覚まし、大きな鼻息を立てる。自分を蚊帳の外にするなと、強く主張しているようである。
「お覚めだね、ライム!体の具合はどう?」
幾らか誤魔化すような調子のイナの呼びかけに、ライムは甘えと喜びを混ぜたような唸りで応じる。黒竜ライムは、ウィル以外には一切懐かない。こんな親しげな反応を示すことすら、大変珍しいことである。
「さて、わたしは訓練所に戻って必要なものを持ってくるよ。ウィルくんたちは、念のためここに隠れていて」
「うん。でも、怪しまれないかな。何も告げずにここまで来たんでしよ?急に無断外泊して翌朝宿舎に戻るなんてしたら、変な目で見られると思うよ」
「適当に言い訳するから大丈夫だよ。ウィルくんこそ、わたしが居ない間にほっつき歩いて、誰かに見つかったりしないこと」
ウィルはすっかり、イナに主導権を握られている。一騎当千の活躍を見せたイザの若き英雄の面影は、どこにも見当たらなかった。
「……あれ、騎士が飛んでる。まだ日が昇ったばかりなのに」
洞窟の出入り口から顔を出したイナは、不穏な呟きをした。弛緩していたウィルの全身に、俄かに緊張が走る。
「どんな竜騎士?」
「大丈夫、訓練所の騎士だよ。見える範囲に飛ぶのは、全部で六騎。多分、今日は特別に早朝訓練でもしてるんじゃないかな」
その言葉でも不安を拭い去れなかったウィルは、自らも身を乗り出して、直接空を仰いだ。青い空を泳ぐのは、確かに見覚えのあるダルネフ所属の飛竜たち。記憶を辿れば、その乗り手たちの顔がありありと思い浮かぶ。一見すれば、イナの言う通り訓練所上空の何気ない光景。しかしウィルは、そこにある違和感を見逃さなかった。
「一番後ろを飛んでいる、あの白い竜が見える?」
「うん。イグルクくんの相棒だよね。彼も、昨日のうちに訓練所に戻ってきたんだ」
「それはあり得ない。イグルクは死んだんだ。どんなに頑張ったところで、空を駆けることはできない」
「えっ」
「昨日話しそびれてごめん。悲しい空気を作りたくなくて、言い出せなかったんだ。でも、イグルクが戦死したのは本当だ。その最期を看取ったのも、遺体を本営まで運んだのも俺たちなんだから」
「じゃあ、今空を飛んでいるあの飛竜は……」
「別の竜って事はないよ。二年間ずっとイグルクの近くに居た俺か、見紛うはずがない。あの竜に乗っているのは、イグルクじゃない別人だ。主が居なくなった飛竜まで駆り出して、訓練生が竜を飛ばしている風に装っているんだろう。脱獄者たる俺を油断させて、大空におびき寄せるためにね」
かつてイグルクが乗っていた白竜ワンダは、他の竜に追いつくのもやっとの鈍行運転を続けている。方向転換するにも舵取がおぼつかず、くねくねと蛇が地を這うようなみっともない動きを見せていた。
「イグルクは、あんなに下手くそに飛ばない。たとえ彼が生きていたとしても、こんな罠には引っかからなかったよ」
ウィルは憤っていた。罪人を捕えるためだけに、ツインを失った重傷の竜を飛ばせるなんて。これは侮辱だ。ワンダヘの、イグルクヘの、そして彼らと共に空を駆けた、全ての竜騎士への。
「でも、ウィルくんたちは昨日都を発ったばかりなんだよね。こんなに早く情報が伝わってくるなんておかしいよ」
「恐らく、マグタンク教官が遣わされてきたんだ。俺たちが逃げ隠れするとしたらここしかないと思い、山を張ったんだろう」
「……マグタンク教官は、敵なの?」
「そうじゃないよ。でも、軍人は上からの命令に逆らえないんだ。国王がウィルをひっ捕らえろと命じたら、それに従うしかない」
マグタンクは、誰よりも国家への忠誠が篤い男であった。戦争の後半を通じてかの猛将と行動を共にしていたウィルは、よく知っている。マグタンクという男は、教官であると同等、いやそれ以上に、一人の将兵であるということを。
やがて、飛行中の竜騎のうち半数が、地上に下っていった。上空からでは発見できぬから、森の影の中に身を隠していると判断したのだろう。ウィルたちが潜む洞窟が見つかるのも、時間の問題に思えた。
「あれに乗っているのは、ダルネフの訓練生じゃないんだよね?」
「多分、そうだ。乗り手は別人で、ドラゴンだけを間借りしてる。カーネリアンの背に乗せて、数人のドラゴンホーンを輸送してきたんだろう」
「だったら、あんな奴ら蹴散らしちゃおうよ。ウィルくんたち強いんでしよ?砦を一人で攻略し、英雄ハイスを撃破した大陸最強の騎士なら、あれくらいの敵訳ないよ!」
「蹴散らす……」
都を発った時のウィルならば、そんな選択肢は頭をもたげていなかっただろう。だが、今のウィルには生きる動機がある。目の前の少女イナを、愛しているのだ。
「できるんだったらそうしたい。でも、今の俺たちには多分不可能だ」
「どうして?」
「ライムは、ひどくお腹を空かせているんだ。空腹状態のライムは、まともなパフォーマンスを発揮できない。近くにマグタンク教官が控えている可能性を考慮すれば、空に飛び込んでも勝てる見込みはゼロに近いだろう」
「ライムの食糧が、手持ちにないってこと?」
「あるにはある。でも、食べさせることはできないんだ」
「――何を言ってるかわからないよ。食べ物があるなら、今すぐライムのお腹を満たして戦えに行けばいいのに、どうしてそうしないの?」
歯切れの悪い問答に、イナは混乱しつつあった。ウィルは、誤魔化しの限界を悟った。もう隠し通すのは無理だ。何もかも、洗いざらい告白するしかない。
「――いいかい、イナ。落ち着いてよく聞いてね。ユウェインが告発したように、俺たちは確かに第六砦やテジュータで殺戮を行った。でもそれは、作戦の遂行上必要だった訳でも、殺しの快楽を楽しむためでもない。生きた人間を、ライムに食わせるために行動した結果だったんだ」
「何を、言ってるのウィルくん……?」
「ライムはサラマンドラだ。喰らうものは、生きた人間だけ。それ以外の食物は、ライムの果実を除いて一切喉を通さない。つまり――」
ウイルは唾を呑み込んだ。それはどんな愛の告白や刑の宣告よりも重い、残酷な二択の提示だった。
「ライムの餌となるのは、君か俺――その、どちらかだ」
次回最終話の投稿ですが、推敲作業が滞っているため、予定日での更新はできないと思います。
来週末には更新できるようにしますので、今しばしお待ちください。




