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竜を駆るもの  作者: なろうなろう
第一章
3/33

 ――人は、探し求める生き物である。竜もまた、常に何かを追い求めている。




 ウィルたちの劇的な勝利から一夜が明けた。


 ダルネフの生徒たちは、週に一度の武術訓練のため、屋内訓練場に集まっていた。


「おう、一等賞さまのお出ましだ」


 ウィルが訓練場に出ると、まるで隠す気のない陰口が耳に飛び込んでくる。言葉の主は、いがぐり頭と、その仲間たちだ。


「昨日のは、どんなペテンを使ったんだ。なあ、教えてくれよ。あのドラゴン、なんか仕込みがあったんだろ。見るからに普通の竜じゃなかったしなあ」


 少年たちは、ウィルの神経を逆撫でする方法を心得つつあった。ウィルは、彼自身を馬鹿にされるより、彼の周りの者を中傷されるほうが憤る。


 しかしウィルは強いて押し黙ったままでいた。ここで言い争うことは、自分とライムの誇りと名誉を傷つけることになる。


「おい、なんとか言えよ。今どんな気分なんだ?ズルをして一等賞を取った心地って、相当快感なんだろうな」

「なんだ、今日は何も喋らないんだな。それとも何か、一位を取った俺様は、お前たちのような落ちこぼれとは話さないとでも言いたいのか?」


 今日のいがぐり頭たちは粘着質だった。ピントを視界の奥に合わすと、他の生徒たちもその様子を見てせせら笑っているようだった。なるほど、彼らは皆の気持ちを代弁しているのだ。


 正面二階、窓際の日時計に目を向けると、訓練が始まるまで、まだ大分時間があった。ウィルは、もう少し遅れてくるべきだったと後悔した。


「そんな所に突っ立つな。邪魔だ」


 背後から、刺すような声。白き竜を駆る少年、イグルクのものだ。ウィルたちを、いつものような冷ややかな目で睨み付けている。


「あっ、イグルク。今こいつのしでかした悪行をさ――」

「どけと言ってるんだ」

「わ、わかったよ。ほら、行こうぜ」


 有無を言わさぬ催促に、いがぐり頭たちはようやく道を開ける。イグルクはその通りをツカツカと歩きながら、ボソリと一言漏らした。


「――レース優勝の名誉を、汚すな」


 その言葉が誰に向けられたものなのか、本人以外には定かでない。けれどウィルは、それが自分に対して発せられたものだと思えてならなかった。


 ウィルに対する嫌がらせは訓練中も続いた。イザ流武術では反則とされる危険な関節技を繰り返し行ったり、道着をわざと脱がそうとしてみたり、はたまた組手以外の場で足を引っ掛けようとしたり。教官の目に隠れてやるものだから、質が悪かった。


 いくら虐げられていると言っても、今までこのような露骨な嫌がらせは無かった。レースに賭ける思い。それが強かったからこそ、ここまでの暴挙に至っているのだろうと、ウィルは理解した。だからこそ抵抗はしないし、教官たちに抗議しようとも思わなかった。全て自分が招いたことだから仕方ない。そんな風に、悲しく割り切っていた。


 さて、午前の訓練を終えた訓練生たちは、兵舎西側の大食堂に向かった。


 この食堂は一度に百人以上収容できる大部屋で、中央に大きな石造りの竈がある。そこに大人十人掛かりでやっと運べるほどの鍋を大置いて煮炊きしたり、肉を焼いたりするわけだが、今日は天井から角の立派な雄牛を吊り下げ、竈からの火で直火焼きしている。当然あまり火の通しがよくなく非効率的なのだが、名物だ伝統だ等と言われて、今日まで存続している次第である。


 食事をする者の席は、この竈を囲むように同心円状のテーブルが内周と外周の二層に分かれて配置されており、おかわりのしやすい内周側から席が埋まっていくのが常である。ただし、内周は少し暑い。


 ウィルはこの場所でも理不尽な目に遭うことになった。普段は一人で外周側の最も入口から遠い席で食事を摂っていたのだが、今日はそこに他の訓練生たちがやってきて、「そこは俺たちが使うから」と席を追われた。しかも、一度ならず、二度三度と。それでもウィルは嫌な顔一つせず、黙々と従う。ここまで来ると、罪悪感は寧ろ心の支えとなる程だった。


 やっと、外周側の入り口付近の席に落ち着く。少し硬くなった牛の肉を奥の歯で噛みちぎっていると、珍しくも隣に座る者が現れた。


「やあ。隣、いいかな?」


 調竜師のイナだった。ウィルは話し掛けられる直前までその存在に気付かなかったが、彼女の登場に室内はざわめき立っている。無理もない。これは、非常に稀な光景なのだ。


 軍事科の訓練生たちは、午前の訓練を終えた正午丁度から食事を摂るが、彼女たち調竜師はその間、戻ってきた竜たちのお世話をしなければならない。だから、調竜師が昼を摂るのは、いつも訓練生たちが訓練に戻った昼過ぎの頃合いなのである。


「どうしてここに?」

「今日の午前は竜を使役しない、一般武術の訓練だったでしょ?だからわたしたちも、この時間にお昼を摂れるの」


 言われてみればその通りだ。イナはその後、「本当はいつも週に一度くらいそういう日があるんだけど、男ばかりで怖いからやめようって言われてるの」と、付け加えた。ウィルは彼女のおどけた言葉に、小さく笑みを漏らした。


「そう言えば一昨日食堂で出されてたイノシシ肉は、ウィルくんが捕ってきたんだよね?あれってもしかして、ライムに食べさせるためだったのかな?」

「勘がいいね。その通りだよ」

「わあ、やっぱり。ちょっと獣臭かったけどね」


 イナは楽しそうにけらけらと笑っている。別に嫌味で言っているわけではないのだろう。寧ろ、ウィルを楽しませるために道化役を演じているに違いなかった。


 それから、ウィルは色々と尋ね聞かれた。年齢、生まれ、好物、趣味……。初めて会う人と話すとき、その人となりを訊くのは彼女の性分らしかった。


「俺からも一つ聞いていい?どうして俺のことを前々から知っていたの」

「そりゃだって、有名だもん。訓練所で唯一、竜に乗れない人が居るって。たまーにどうしても竜の飛行に慣れなくて乗れないって人は居るらしいけど、そういう人はすぐに辞めていっちゃうから」

「確かに、そうらしいね。じゃあ、変な奴だと思った?」

「ううん。でも気にはなってたかな」

「気になってた?」

「竜に乗れないのに訓練所に残るなんて、何かよっぽどの理由があるんだろうなって。それって何なんだろうって、すごく気になってた」

「……別に、大した理由はないよ。ただ、どうしても竜に乗りたかっただけ。いや、半分は惰性だったという方が、もっと正しいかもしれない」


 ウィルは、自分を大きく見せるような言動を疎んだ。イナは、殆ど表情を変えずに話を聞いている。そうして、ウィルの心を見透かしたように、急に話題を転換した。


「ライムは普段、南の池の畔に居るんだよね。今頃何しているのかな」

「さあ、のんびり寝ているんじゃないかな。ただ、食事をちゃんと摂っているのかは心配だな。俺が持って行った物も、結局ライム以外まともに口にしなかったし」

「それでライムって名づけるなんて、ウィルくんもなかなか安直だよね」


 イナは茶化すように言った。前に同じ名前の雛鳥を飼っていたことは、余計に恥ずかしくなるから言わないでおいた。


「でも、ご飯の問題は心配だよね。怪我の具合も気がかりだし」

「うん、そっちも問題だ。飛ぶ前に見たときは大分よくなってたみたいだけど、あんな無茶な飛び方をしたから悪化してるかもしれない」

「もしよかったら、わたしに見せてくれないかな?」

「――えっ?」


 思わぬ申し出に、ウィルは一瞬言葉に詰まった。


「ライムの脚を、見てくれるの?」

「うん。差し出がましい申し出とはわかってるけど、わたしにできることがあったら力になりたいから」

「ありがとう、助かるよ。じゃあ午後の訓練が終わったら、一緒に森へ行こう。兵舎前の広場で待ち合わせ」


 再び落ち合う場所を決めると、二人は別れた。まだ昼休みの終了までには時間があったけれども、周囲の視線に堪えられなかったのだ。訓練所に出入りする数少ない若い女性であるイナは、まさしく生徒たちのマドンナ。二人きりで懇ろに話し込もうものなら、猛烈な嫉妬を集めてしまう。イナはそれを意に介さないようだったが、これ以上不穏の種を増やしたくないウィルにとっては無視できぬ案件であった。


 午後の訓練は、ウィルにとって比較的楽なものであった。あまり得手としない弓術訓練の上に、他の訓練生たちからの嫌がらせも相変わらずだったが、終わった後にライムと会えると思えば気が楽だった。


 実はウィル自身、ライムに会いに行く理由を密かに探していたのだ。病み上がりのライムを用も無く訪ねるのはどうにも気が引けていたが、イナのおかげで立派な用ができた。ウィルは知り合ったばかりの調竜師の少女に、並々ならぬ感謝の念を抱いていた。


 放課後。約束通り、ウィルとイナは例の池の畔へと向かった。ウィルの方からライムを訪ねるのは、これで三度目である。森を歩く途中、オオカミの遠吠えが何度も聞こえた。いくら巨体と言えど、手負いの状態で肉食獣の相手をするのは危険が伴うだろう。二人は逸る気持ちと同調させるように、歩を急がせた。


 木々の遮りが視界から失せると、桃色の花に囲まれた池が姿を現した。水面に蒼い星を鮮やかに映し出しているので、どうやっても見逃すことはない。周囲の様子は、色彩が寒色に傾いている以外にはほぼ変化がない。……いや、ほぼないと言うには大きすぎる変化が、ウィルにとってはあった。いつもの定位置――朱色の実をつける大木の傍の岩陰に、黒竜ライムの姿が見当たらない。


「あれ、いないな。普段はずっと、あの場所でうずくまっているのに」

「どこか、近くを歩き回っているのかもね」

「そんなことするかな。この辺りは木がびっしり生い茂ってて、巨体のあいつには歩きづらいだろうに」


 ウィルたちは、手分けして周囲を探索した。木々の影。叢の合間。池の底面。しかし、どこにもライムの姿は認められない。これ以上森の奥深くに足を踏み入れようとすれば、今度は二人が迷子になってしまいそうだ。ウィルは焦った。不安で心が支配されて、ひどく取り乱してきた。


「どうして、どうしてどこにも居ないんだライム」


 青紫色の星が、狂ったようにぎらぎらと輝いている。ウィルは、首筋の紋様が激しく疼くのを感じた。それは『熱い』とも『痒い』とも違う、ドラゴンボーンに固有の感覚。


 ウィルの隣には、薄灰色のローブをまとった調竜師の少女が居る。一人では、ない。しかしそれが却って、ウィルの狼狽に拍車をかけた。


「嘘じゃないんだ。俺、本当にここであいつと出会ったんだ。それで傷口を止血して、イノシシを捕まえてきて、一緒に日向ぼっこをして……」

「大丈夫、わかってるよ」


 冷静なのは、寧ろイナの方だった。


「落ち着いて。今ここに居ないからって、ウィルくんとライムの出会いが否定された訳じゃない。この後ずっと見つからないってこともない。そんなに取り乱す必要はないんだよ」


 イナはあやすような口調で言った。きっと、いつもドラゴンに対してそうして来たのだろう。ウィルはほんの少しだけ、平常心を取り戻した。


「――ごめん、なんだか混乱しちゃって。もう大丈夫。さ、今日は帰ろう。あの星は、夜が更けると急に輝きを失ったりするものだから」


 ウィルは、帰り道も繰り返し後方を振り向き、友人の影を探そうとした。しかし何度体を捻っても、瞳に映るのは蒼い照明に照らされた木の肌と、それが作り出す陰影ばかり。結局その夜、ライムの姿――いや、それが存在したことを示す痕跡すら何一つ見つからなかった。


 そして、ライムはそのまま現れなくなった。




 翌日の飛行訓練。ウィルは、ライムが再び自分の元に舞い降りてくれることを期待した。昨晩の出来事はほんの些細なすれ違いで、再び日が昇れば何事もなかったかのようにまた姿を現してくれるのではないかと。――しかし、ライムは来なかった。ダルネフの上空で、黒い大きな翼が風を切ることはなかった。


 ウィルはまた以前のように、他の竜騎士たちが飛ぶのを茫然と眺めていた。お馴染みの、林檎の木のある丘の上で。


 そのウィルを見下ろす上空の少年たちは、心底愉快そうな、それでいてひどい悪意のこもった表情を浮かべている。


「よくもレースを滅茶苦茶にしてくれたよな。これでやっと借りが返せたぜ」

「ああ、清々する。やっぱりウィルには、その丘の上が一番お似合いだぜ」


 そんな怨嗟の声が、脳内に直接響いてくるかのようだった。


 けれど今のウィルには、彼らに対する憧れや嫉妬はない。自分とライムだったら、もっと速く飛べるのに。あの白い竜騎士の背を超えて、前方に誰の影も無い景色を眺められるのに。そんな夢想をした。


 次の日も、その次の日も、ライムは姿を見せなかった。時には、ウィル自ら池の畔に足を運んだ。それでも、ライムの足取りは一向に追えなかった。


 さて、更に悪いことに、ウィルに対するいじめは一層悪化した。数日前には最速の竜乗りであった者は、その相棒を失ったことで、純然たる卑下の対象に陥ったのである。


 廊下ですれ違うと、わざと体をぶつけられた。所有物を壊されたり、隠されたりした。教官たちに、根も葉もない讒言を吹き込まれたりした。


 ついにウィルは、笑みを保つのが難しくなった。彼らの言いがかりを、平静にあしらうことができなくなった。それでも、泣いたり喚いたりはしない。そんな事をして、自分が弱虫になるのも、周囲の者が悪者になるのも、好ましいとは思わなかった。


 ただひたすらに、自身の感覚が鈍くなるのを待った。それから、学友たちが戯れに飽きるのを期待した。全ての負の感情が、風化する時を祈った。ウィルは、その態度が他者にとって諦めにしか映らないことを理解していなかった。


 ――しかし一方で、この異常を悟る者があった。


「貴様らあ!」


 朝の訓練前の広場。既に訓練生の大半が集まっている。そこにいつもよりやや早く現れた教官マグタンクは、隣の竜舎や寄宿棟にも届くほどの轟音で怒鳴り散らした。それは眠気眼だった少年たちの目を括目させ、全身を傀儡人形のように強張らせるくらいには威力があった。


「最近君たち訓練生間で起きているトラブルについては、全て承知している!この私が把握しているのだ。君たちの中に知らぬ者がいるとは言わせない。随分と大それたことをしてくれているようだな!」


 マグタンクは訓練生たちの間を練り歩き、相変わらずの轟音で説教を続ける。近くを通った時には、掌で塞いでおかないと耳が潰れてしまいそうだ。


「道徳観とか、学内の規範とか、君たちを糾弾するための基準はいくらでもあるだろう。だがそんなことはどうでもいい!君たちは愛すべきわたしの弟子を貶めた。それが許されると思うなよ!」


 その眉間はしきりにひくひくと動いている。本気で怒っているようだ。これを見るのは、ウィルたちも初めてだった。


「よし、自分の胸に少しでもやましいところがある者は前に出ろ。今から私が、一発ずつぶん殴ってやる」


 少年たちは首を動かさず、視線だけで目を合わせた。畏れのあまり、迂闊に動くことはできない。


「言っておくが、これは罰でも償いでもない。ただ私が殴りたいから殴るだけだ。それが嫌な者は、さっさと竜舎で相棒を連れ出して来い!」


 少年たちの一部はいくらかほっとしたような表情を見せ、打擲を逃れようと決心したようだった。だがそこで、一人の少年がおずおずと前に出た。


「一番手は貴様か。いい度胸だな」

「い、一番悪いのは多分俺ですから……」


 いがぐり頭だった。右の手でとげとげした頭を何度も掻き回し、必死に恐怖をこらえようとしている。


 ウィルには、彼が名乗り出た理由がなんとなく判った。いがぐり頭は、マグタンクの名に惹かれてこの訓練所を選んだと聞く。心酔にも近い敬愛を抱いている教官の前で、嘘を貫くことに堪えられなかったのだろう。


「トップバッターの特権だ。一番強い一発をお見舞いしてやろう」


 マグタンクは体を時計回りに捻り、強烈な一発を炸裂させた。まるで鉛と鉛がぶつかったかのような、鈍い快音がダルネフの高い空に響き渡る。


 殴られたいがぐり頭は地面に転がり込み、嗚咽をこらえている。よっぽど痛かったのだろう。打撃を受けた左頬からは、赤い血が幾筋か滴っている。


「さあ、次はどいつだあ」


 呼びかけに応じて、いがぐり頭の取り巻きが名乗り出た。彼らに対しても容赦なく、個人的怒りの鉄拳がお見舞いされる。


 そこから連鎖するように次々に少年たちは前に出て、順繰りに拳を受けて行った。場所は漏れなく左頬であるから、お揃いの打撃跡がなんだか滑稽である。


「次は――む、ウィルか。なんだ、君にもやましいところがあるのか」

「やましいところは特にありません。でも、皆が殴られている中で自分だけが免れるのは目覚めが悪いので」

「いいだろう。ならば、一発」


 ウィルは知らなかった。凄まじい衝撃に晒された時、粉砕音は体の内側から聞こえてくるということを。


 今まで感じたことのない凄まじい痛みが、衝突部に走る。ウィルは、痛覚への評価を改めざるを得なかった。痛みの最大値というものは、想像していたよりもずっと高くに設定されているらしい。なんとか直立を保つことできたが、倒れ込んだまま起き上がれない者がいるのも致し方なしと思われた。


「もう殴られたい奴はいないな?ならば説教はこれで仕舞だ。この一発一発は、私から君たちへの貸しだ。君たちが私の前に堂々と立てるようになったとき、直接返しに来るがいい」


 マグタンクは太っ腹なことを言った。だけど、全員でいっぺんに借りを返しに行けば袋叩きじゃないかと、ウィルは想像して滑稽に思った。


「今日、私は君たちに怒った。だが忘れるな、君たちは全員私の大事な弟子だ。何か困ったことがあればすぐに私に言え。――では、訓練を始めようか!」


 と、マグタンクが無理やり転換しようとするのに、一人の訓練生が声をあげた。


「教官、痛すぎて訓練どころじゃありません!」


 場に笑いが生まれた。先ほどまでのギスギスした空気は大分緩和されていた。ウィルも、隣の学友と目を合わせて笑った。


 腫れた頬を手で押さえながら、訓練生たちは竜舎へと向かう。それを見たイナたち調竜師は、ひどく驚き慌てふためいていた。六十いる生徒のほぼ全員が、片頬を真っ赤に腫らして現れたのだから、当然の反応だろう。無傷だったのはただ一人、白竜の乗り手イグルクだけだった。


 ……この一件によって、ウィルへのいじめは目覚ましいほど解消した。ウィルといがぐり頭たちには長い確執があるから、ぎこちない関係性は簡単に拭えないけれども、それでも以前よりはずっとましになった。


 ただし、ライムが戻ってこないことに変わりはなかった。一週間経っても、二週間経っても、黒竜はウィルの前に姿を現さない。ウィルがレースで一番をとったことなんて、皆の記憶から消え去りつつあった。


 そんな時分。事件は起こった。


「サームのやつ、まだ戻ってこないってよ。予定では昨日の昼に戻るはずだったのにさ」

「本当?じゃあ、いよいよ行方不明ってわけか」


 サームというのは訓練所の生徒で、竜騎士見習いである。今は輸送科で学んでいるが、当初は軍事科に属していたということもあり、ウィルたちとも面識があった。サームは根が優しく、竜に乗れないウィルとも偏見なく交際した。接する機会が少ない今でも、折が合えば親しく語らうことがあるほどで、ウィルにとっては学内の数少ない友人の一人である。


 だからこそウィルは、隣の席で展開される噂話を聞き捨てすることができなかった。椅子を引きずり、身を乗り出すようにしてお隣の会話へと参入する。


「その話、確かなの?サームが行方不明って……」

「輸送科の奴に聞いた話だから、多分間違いねえよ。――そういえば、ウィルはサームと仲が良かったっけか」

「……うん」


 鼻の長い訓練生は、ウィルを邪険にしなかった。繰り出される質問に、誠実に答えていく。


「サームは、北方諸島へ資材を運ぶ、実務訓練の最中だったんだよね。その途上で行方が知れなくなったってことかな?」

「恐らく。島への到着は確認できているらしいから、きっと帰り道で何かあったんだろうな。事故に巻き込まれたか、あるいは休憩中に強盗にでも出くわしたか。どうにか無事に戻ってくるといいんだが……」


 ダルネフ訓練所の規定では、連絡が途絶えてからが丸一日以上経過した場合には任務放棄、即ち行方不明とみなされる。サームからの応答がなくなったのは前日のお昼前。本件の正式な行方不明宣言は、この日の正午になされていた。


 昼休みの食堂は、軍事科の生徒のみで占められている。輸送科の学生は、遠隔地での演習を行うために訓練所を離れているためだ。ウィルは、サームの仲間たちから事の詳細を聞けないことを口惜しく思った。


 と不意に、食堂の引き戸が勢いよく開け放たれた。勇ましい足取りで堂内に入り込んで来るのは、滅多に顔を見せないことで有名なダルネフ所長と、マグタンクら教官たち。


「軍事科の諸君、食事中に済まないが耳を傾けてほしい。もう噂を耳にしている者も多いだろうが、輸送科の訓練生が一名行方不明になった。それも、訓練所の外で行われる実務訓練中にだ」


 目もとの皺が深い所長は、事のあらましを改めて説明した。それに依ると、サームはダルネフから北西のハジュの街上空で目撃されている。そこまで来て引き返したり、道をそれたりすることは考えづらいから、どうやら訓練所の付近で何かに巻き込まれたらしいのだ。


「これから我々は捜索隊を結成し、サーム訓練生の行方を追おうと思う。しかし一口に訓練所の北側と言っても、如何せん範囲が広い。そこで是非とも、君たち訓練生の手をお借りしたいのだ」


 説明を引き継いだマグタンク教官は、午後の訓練は中止し、これから全員揃って捜索に出ることを伝えた。普段ならば、こういった臨時の任務には冷めた姿勢をとる者が多い。だが、今回ばかりは別だ。愛すべき旧友のピンチとだけあって、多くの者は溢れんばかりの熱意を露わにしている。訓練生たちは、昼食を終えた者から順に、竜舎に戻って出立の準備を始めた。


「集団飛行訓練の時と同じ要領だ。バラバラにならず、ある程度固まって行動するように。一定の間隔で我々教官たちが停留しているから、何か見つけたらすぐに知らせてくれ」


 兵舎前の草原にて、自身も騎竜の支度をしながら説明を付け足すマグタンク。レースの時とは違って、騎士たちの足並みは必ずしも揃っている訳ではない。準備が出来た組から順に地上を発ち、遠い空へと駆けていく。彼らが今日急ぐ理由は、一番乗りになるためではなく、友人の発見を急ぐため。「どうか無事でいてくれよ」とか、「待ってろよ。すぐに見つけ出してやる」とか、思い思いの台詞を口走っていた。


 にも関わらずウィルは、何もできることがなかった。友人のピンチに、ただ手をこまねいて宙を仰ぐしかなかった。空を飛べない。地面を這いずり回るしかできない人間は、行方不明者の捜索において、毛ほども役に立たないのだ。


 やがてウィルは、一人取り残された。いつもの、林檎の木の下。その緑がかった影の中、サームの無事をひたすらに祈っていた。今度ばかりは、時間が勿体ないと言って本を読んだりもできなかった。


「悔しくないなんて、真っ赤な嘘だったな」


 竜に乗れない自分を詰る気持ちも、乗れる彼らを嫉む思いも、全て消え去ったと思っていた。けれども、それは正しくなかった。本当はずっと、羨ましくて仕方がなかったのだ。緊急を要する今になって、空を飛ぶことへの羨望が、自分でも嫌になるほど湧き上がってくる。


「俺が馬鹿にされていると、よく慰めてくれたっけな。試験でいい点数を取ると、すごいって言ってくれた。イグルクと初めて言葉を交わした時も、サームが仲介してくれたっけ……」


 助けたい。捜し出してやりたい。なんとしても見つけ出して、訓練所に連れ帰ってやりたい。あの、根の優しい純朴な少年に、


「――今度は俺が、恩返ししたい」


 その時だった。頭上から猛烈な旋風と、凛々しい咆哮が降ってきたのは。


 止まっていた心臓が急に動き出したかのように、ウィルの肉体は躍動した。生気を失っていた肌に、桃色の血色が宿った。


「ライム……?」


 木の影から飛び出して、空を見遣る。そこにあったのは、久しぶりに拝む黒き相棒の姿。黒曜石の硬い鱗が、西日によって宝石のようにギラギラと輝いていた。


「――ばか、ずっと探していたんだぞ」


 ウィルは、半分泣きそうになった。今この時ほど、ライムに逢いたいと願った時はなかった。だからこそ、再会は劇的であった。嬉しくて、喜ばしくて仕方が無かった。紅い瞳同士を見つめ合わせて微笑み、それからウィルは穏やかに語りかけた。


「ライム、俺の友達が行方不明になったんだ。一緒に探してくれないか」


 黒き竜はまた、言葉の意味がすべて分かっているかのように、快活な返事をした。ウィルは急ぎ自室に戻り、装備一式を携えた上で、ライムの背に乗っかる。


「北東の方角が手薄だ。そっちに向かってくれ」


 ハジュの街上空を通ったのなら北東に居る可能性は薄いけど、昨日は西からの風が強かった。東の方向に流されている可能性は、十分にあると思われた。


 ライムは翼を大きく広げ、前回のようにゆっくりと上昇する。そして直後に、信じられないような加速を見せた。他の竜の十倍の速度はある。これなら、今からでも十分に広範囲を探せそうである。


「これ以上スピードは出さないでいいよ。もっと速くなったら、何かあっても見落としてしまうからね」


 北東の方向には、名もなき小さな山からなる山脈と、複雑に入り組んだ谷間があった。痩せて黄色みがかった土壌は植物を育まず、辺りは極端な不毛地帯である。そのため、付近の住人は縁起が悪い場所だと言って、なかなか近づこうとしない。ウィルは、この周囲が怪しいと踏んでいた。


「少し、速度を落として」


 ウィルの呼びかけに、ライムは的確に応じる。山の高い部分は、木々が無いだけに見通しが楽である。しかし、谷の深い所は陰になっている上に死角も多いので、上空から眺めているだけではとても見通しが効かなかった。


 ウィルはライムの高度を落とし、一定範囲ごとに何度か周回するというスタイルに切り替えた。これであれば、見落としが大分減るだろう。


 茫漠で何も無い空間を眺め続けるのは、なかなか精神に応える。しかしウィルは、集中の糸を切らさなかった。もしこの一帯にサームが居たのなら、自分の見落としは致命的な過失になる。何がなんでも、手がかりを見逃してはならない。そんな心持ちを維持し続けていた。


 そして、日が沈みかけた頃。ウィルは、地上の谷間の陰に何かを見つけた。


「何だろう。ライム、あれに近寄って」


 徐々に高度を落とす。すると、ウィルの目にもはっきりと、その形状が浮かび上がってきた。緑色の物体。人よりもずっと大きい。表面に、僅かな光沢がある。


「竜だ。――あれ、サームの相棒のドラゴンだ」


 地上まで大分距離がある時点で、ウィルは半ば確信を得た。頭の一本角に結び付けられた数珠状のアクセサリー。サームが以前、相棒にプレゼントしたと語っていたものだ。


 果たしてその正体は、ウィルの予想した通りだった。見覚えのある優しげな顔つき。サームの名が刻まれたアクセサリー。地上に降りて、はっきりと確認できた。


 緑竜は何かのはずみで地面に落下したらしく、体のあちこちを損傷していた。特に、腰から尻尾にかけての部位から、ひどく出血している。だが、まだ息があった。


「この子、まだ助かる。待ってろ、今少しでも楽にしてやるから」


 捜索隊に駆り出された生徒たちは、救援器具を配布されていた。ウィルはそれを預かれなかったが、自力でそれを用意していた。


 傷はあちこちに渡っているが、その一か所一か所が大きく、なかなか思うように処置は進まない。包帯一つ巻くのにも重たい体の一部を持ち上げねばならず、大変な力仕事である。


 最中、乗り主の安否の方が気になり始めた。相棒がこの大怪我なら、サームもただでは済んでいないだろう。ひどい怪我を負っていた場合、一刻も早く見つけ出さないと命に係わる可能性がある。


「ライム、この子の主人を探してきてくれないか。きっとこの付近に居るはずなんだ。背の高い、髪を短く切りそろえた男の子だ。見つけたら、俺に知らせてほしい」


 ウィルはライムに頼みこんだ。ドラゴンにそんなことを頼むのは無理難題かとも思ったが、ライムならできると思った。ライムはコクリとだけ頷いて、のしのしと歩いてその場を離れていった。


 辺りがすっかり暗くなった頃、ウィルは竜の応急処置を終えた。傷口を塞ぎ、水を与え、麻酔で睡眠につかせた。竜の自己治癒能力があれば、これで徐々に回復できるだろう。


 ふと、仕事を放任したライムの事が思い出された。さっきは焦りのあまりあんな仕事を任せてしまったが、ひどく荷が重いのではないか。ウィルは、自分の軽率な行いを悔いた。


 急ぎ、周囲を走り探し回った。近くには居ない。相当遠くに行ったみたいだ。


 ウィルは、再度焦りを募らせた。もしかして、あのまま何処かへ消えてしまったのではないか。再び別れの苦しみを味わう羽目になるのか。それに、このままでは自分は訓練所に帰れない。訓練所からこの谷間までの凸凹道を歩き通そうものなら、丸三日以上掛かる。これでは、ミイラ取りがミイラだ。


 と、あわや絶望の渦に呑まれそうなところ、すっかり目に慣れた黒曜石の輝きを視界の端に捉えた。居た。ライムだ。谷間の複雑な構造に体を隠しているが、あの鱗だけは見紛う筈がない。


 走り回って疲れ果てたウィルは、大声で呼びかける気力も無く、ふらふらとした足取りでゆっくりその陰に近づいた。尻尾がちらちらと動く様子が窺える。こちらから見えているのは背中側のようだ。


 谷間は風が強いためにかき消されていたが、距離が詰まってくると、バリボリという、何か硬い物を砕くような音が聞こえた。それはどうやら、ライムのいる方向からしているらしい。


 丁度同じ高さの平面まで辿り着き、やっと全身を確認する。ライムは首をやや下に向かって垂れ、口をしきりに動かしている。何か、食べているのだろうか。


「ライム、食事中かい?ゆっくりしている所悪いんだけど、サームの捜索を――」


 歩幅十個分くらいの距離まで詰め寄ってようやく、ウィルは声を投げかける。が、それは途中で断絶された。ウィルは、気付いてしまったのだ。


 黒竜の頭の下には、赤黒い血だまりが出来ている。それは、今まさに竜の口元から垂れている液体で形成されたものだった。


 ライムの長い首が一度、何かを呑み下そうとするかのように、真っ直ぐ上を向いた。その瞬間、ウィルの目によく見親しんだ物が映り込んだ。紺色の布地。白色のボーダー。竜の形を模した国章。一年半、毎日のように着た。自分も、他人も、皆同じものを見に着けた。あれは、ダルネフの訓練生たちが着用する制服だ。


 ウィルの脳裏に、人生最悪の予感が跋扈する。その場から逃げ出したい気持ちで一杯になった。だが、確かめざるを得なかった。忍ぶような足取りで、ライムの正面の方へ回り込む。鮮血でひどく汚れた口元。その歯の隙間からはみ出ていたのは、確かに――。




「――お前、人を食うのか……」

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