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竜を駆るもの  作者: なろうなろう
第三章
29/33

審判

 ――進んだら、戻らなきゃいけない。辿り着いた先に、街がない限りは。




 戦争は、イザの勝利に終わった。激しい抵抗が予想されたシルデンの都は、わずか三日で陥落。切り札ハイスを失い、パスティナからの援軍も見込めなくなったシルデン軍は、勢いづくイザの軍勢を暫し押しとどめることすら叶わなかった。


 シルデンの降伏宣言後、イザは全軍を即日撤退させる運びとなった。本来ならば兵を幾らか駐屯させておくのが常套なのだが、商団が激しく拒絶したのだ。イザは講和でより厳しい条件を呑むというユウェインの言質を得て、不本意ながらこの申し入れを受け入れたのである。


 イザ軍は、同盟諸邦へのお礼参りも兼ねて、パスティナ経由で帰国することとなった。ウィルはてっきり自身もその例に漏れぬと思い込んでいた。「帰国したら、ダルネフに戻ろうか。それとも一度故郷に立ち寄るべきだろうか」などと思案していたが、不意に思いがけぬ言葉を掛けられる。


「僕も、講和会議の場に出席するのですか?」

「うむ。国のお偉いさん方――とりわけ国王陛下が、君との会見を強くご所望されておられる。まだ傷の癒えていない君を駆り出すのは忍びないが、どうか要求を受け入れてもらえないだろうか」

「……わかりました。ではこれから、教官と共に都へ向かうことになるのですね」


 此度の戦争の講和会議は、大陸東端の地、イザの都にて執り行われる。講和会議と言えば中立国家領内で執り行われるのが普通だが、今回は戦勝国のお膝元での開催。この立地選考には、イザとシルデン――ひいてはメルセル商団間の優劣関係を内外にアピールする狙いがあった。即ち、「戦争の勝者たるイザ王国こそが大陸の覇者であり、シルデンや商団はそれに従属する立場にある」と、全世界に知らしめたいのである。


 会議に出席するマグタンクとウィルは、護衛もつけず、たったの二騎で都への空路を駆ける。ルートはシルデンに攻め込んだ時と同じ――シルデン山脈を横切っての最短経路。かつてウィルとイグルクが手を結び、共に通過した地だ。大陸でも群を抜いて速い二騎は、驚くべき快速で大陸の空を横断していった。


「ウィル、やはりまだ気持ちの整理はついていないかね」

「どうでしょうか。今はどんな感情を抱いたらいいか、よくわからない状態です」

「君は、気持ちを素直に表明するのが得意でない性質だろう。しかし、どこかで吐き出さねば苦しくなる一方だ。あまり自分を追い込み過ぎぬようにな」

「……はい。肝に銘じておきます」


 旅の間、師は教え子を労った。ウィルはそれを心からありがたく感じる。しかしいくら気遣ってもらえた所で、自身の抱える闇を告白することは叶わないのだ。ウィルの心の傷は、濁った膿みによって醜く塞がっていく一方だった。


「都に戻ったら、しっかり療養するといい。大変腕のいい医者を知っているんだ。どんな大怪我も忽ち治して、漲る英気を取り戻させてくれる。彼が居なければ、私は何度、甚だしい戦傷のために引退していた事だろう」


 あなたは医者に診てもらわずとも勝手に傷を癒していただろう――と思ったウィルだったが、敢えて口にはしなかった。なんとなく、茶化したりおどけたりする気分ではなかったのだ。


 さて、都に到着したウィルの毎日は多忙を極めた。一足早い凱旋パレードに、軍部への戦果報告、国王陛下との謁見。勲章の授与式や、肖像画のモデルなど、一兵卒として生きていたならば体験しようがない数々のイベントがウィルにのしかかった。それでも不平一つ吐かなかったのは、亡くなった戦友への礼を尽くすために他ならない。


 十日目から、講和会議が始まった。ウィルも席にはついていたが、特に役目はない。自身の象徴たる黒いフルヘルムと鎧を纏って、黙って椅子の上に座っているだけだ。黒竜の騎士はまさしく戦勝国イザのシンボルであり、かつそれ以上の役割を一切期待されていなかったのである。


 会議出席者の顔触れは、ウィルの知らぬ者ばかりだった。面識があるのはマグタンクとユウェイン、それに先日謁見を果たしたイザの若き国王くらい。列席の多くは両陣営の宰相や官僚など、戦の前線から離れた所にいた者たちで占められている。


 会議は予定調和のように淡々と進んだ。イザが要求を突き付け、それをシルデン・メルセル側が唯々諾々と承認する。会議以前に両者間での合意がある程度済まされていたことは、誰の目にも明らかである。決議された内容には『イザ王国が、別れの大地の調査権を獲得する』ことも盛り込まれていたが、既に伝説の真実を知っているウィルには、さした興味も湧かなかった。


 五日続いた会議の最終日。平穏に進んだ会議に波乱を起こしたのは、メルセル商団の首長ユウェインだった。全ての議題を終えて間もなく解散せんという所で、麗しの詩人はおもむろに立ち上がる。


「一つ、よろしいでしょうか。皆様にお話ししたい事があります」

「ユウェイン殿?会議の決定事項に、何か不服がお有りか」

「いいえ、そうではありません。私はイザ王国軍が犯したある悪徳に関して、告発申し上げたいのです。勿論、ここが司法の場でないことは百も承知。しかし、両陣営の重役が一堂に会す今ここで、どうしてもお知らせ申し上げておきたいのです」


 白黒基調の質素な会議場は、俄かにどよめき立った。騎士道精神豊かなイザの軍人が、一体どんな悪行を働いたというのか。情報を握るのはユウェインとその取り巻きの商団幹部数人だけのようで、多くの者は困惑の表情を隠せずにいる。そして、最も大きく動揺していたのが騎士ウィルであることは、言うまでもない。


 議長――白髭のイザの老宰相は、主たる国王と目配せした後、ユウェインに発言の許可を与える。詩人は妖しく目を細めて微笑んだ後、艶めかしい唇を動かした。


「単刀直入に申しあげましょう。そこに居座る黒竜の騎士……彼の相棒は、人を喰らいます」


 会議場の時が止まった。議場の面々は、瞬時にユウェインの言葉を理解できなかったのだ。事実を知らぬ大多数の者にとって、彼の告発はあまりにも荒唐無稽である。


「訳のわからぬ事を。敗戦のショックでとち狂われたか、ユウェイン殿」

「何の論拠も無しに言っている訳ではありませんよ。丘陵の戦いの直前、シルデンの都の調竜師が黒竜の騎士に襲われたのはご存知でしょう。あの事件の生き残りたる幼きドラゴンボーンたちが証言してくれました。黒曜石の大竜は、確かに人間を噛み砕き、呑み込んでいたと」


 あの蒼き夜に、ウィルが見逃した子供たちだ。狂気の瞬間を目撃した調竜師の幼子は、全てをユウェインに伝えていた――。


「言いがかりだ。そんなもの、口ではなんとでもでっち上げられる」

「物証をご所望ですか。だったらこれをご覧になって下さい」


 と、ユウェインが側近から受け取ったのは、両手からはみ出るほどの白く大きい布の塊。それを開くと、中から青白色の歪んだ金属片が現れた。表面の装飾をよくよく観察すれば、シルデン兵の鎧の欠片であることが判別できる。


「ただの鎧の断片じゃないか。それがどうしたと言うのだね」

「帯状の圧したような跡が残っているのが見えますか?剣や弓矢では、絶対にこんな傷はつきません。竜が噛み砕いてできたものとしか考えられない。そして、これが発見された丘陵の南部に立ち寄ったのが、黒竜の騎士その人なのです」

「確かに尋常の損傷ではないように見える。が、たったこれだけで我が国の英竜を食人鬼呼ばわりされては困るな」

「他にも、状況証拠が沢山あります。黒竜の騎士は、大きな作戦に臨む際、常に単独行動を選んだそうですね。時には上官の命令を無視しながら。それは己の竜に、ひっそりと人間を喰わすためです。第六砦もテジュータの街も、彼らが襲来した後には人っ子一人残らなかったのは、全て悪しき黒竜の餌食となっていたためです」

「……言われてみれば、ザスティンの報告には不可解な点が多かった。とりわけ黒竜の騎士の諸行動については不明瞭な点が多かったが、何か秘め事があったと考えれば筋が通る」

「報告書には『テジュータは全焼した』とだけ記してあった。住民の生存者が無かったことを隠している点で、前線参謀部の信頼は疑わしい」


 詩人ユウェインの巧みな言葉に、議場は徐々に呑み込まれていた。彼の妖声は、たとえメロディに乗せられていなくても、奇妙な魔力を孕んでいる。


「何を言っておられる、諸兄!あの男の言葉はまやかしだ!貴殿らは同じ国に生きる同胞よりも、敵の首魁の言葉を信じるのかね?」


 唯一ユウェインの言葉を頑なに否定するのは、猛将マグタンクである。彼の怒声によって、イザの高官たちはいくらか術中から醒めた。


「マグタンク将軍の言うとおりだ。我らが信ずべきは殉死したイザの司令と、国の若き英雄。断じて敵の讒言に惑わされてはならない」

「ひどい言い様ですね。ではこれを教えたらどうでしょう。英雄ウィルの黒き竜の正体は、伝説の厄神サラマンドラであると」


 二度目の衝撃は、密室の温度を奪ってしまった。議場の面々は、まるで凍りついたかのように身じろぎ一つしなくなる。瞳の輝きを保っているのは、饒舌を振るうユウェインただ一人だけとなった。


 凍り漬けから最初に回復したのは、これまで沈黙を保ち続けていたイザの国王だった。国王は、谷間で綱渡りをするかのような慎重な調子で、ユウェインに問い返す。


「どういう意味だね、ユウェイン殿」

「そのままの意味ですよ、陛下。私は千年遷移の伝説を激しく嫌っていますが、それだけに事について大変詳しい。イザの若英雄の愛竜は、伝説に記述されたサラマンドラの特徴をぴったり兼ね備えている。私とて信じたくありませんが、人喰いの黒竜は間違いなく、大陸に不穏をもたらす災厄の象徴です」


 ユウェインは確信を以て断言した。ライムが、サラマンドラであると。彼の商団は、旅の学者メイズ以上の幅広い見識を得ているのだ。莫大な財力と権力を併せ持っていることを鑑みれば、当然の状況と言える。


「馬鹿な!そんな突拍子もない話を、誰が信じられようか!」


 黙り込む国王の代わりに、マグタンクは吠える。しかしユウェインはまともに取り合おうとしない。気迫の飛ばしあいでは勝てるはずがないと、わかっているのだ。


「では本人に直接訊きましょう。黒竜の騎士殿、私の発言は真実ですか?それとも間違っていますか?」


 名指しされたウィルは、ゆっくりと立ち上がる。長時間同じ姿勢で凝り固まった肉体では、まともに発声すらできないと思われたのだ。


 ウィルは両手を持ち上げ、ゆっくりと兜を剥いだ。気密性の高いヘルムの中からだと、外に声が伝えられない。大仰な暗黒の中から、ユウェインに引けを取らぬ美貌が姿を現した。


「……やっぱり君だったのか、ウィル。信じたくは無かった」

「お久しぶりです、ユウェインさん」


 ウィルという名は、イザの地において決して珍しい名ではない。ユウェインは、あの寒空の下に出逢った少年が、黒竜の騎士と同一人物だとはどうしても思いたくなかった。詩人が抱えていた些細な願望は、今まさに潰えたのだった。


「質問に答えましょう。僕の竜――ライムは人を喰ったりなんかしていない。全部、あなたの言いがかりです」

「認めない、か。うん、君にも自分の立場があるんだもの。当然だね」


 ユウェインは落胆の調子を特に隠そうともしていなかった。それはウィルの返答に関する反応ではなく、やはり黒竜の騎士の正体に対するものである。


「ウィル、今一度問う。君の竜は、人を喰ったりしないんだね?」

「しません。何度問われても、答えはかわりませんよ」

「だったらそれを証明して頂こう。君の竜を、当分の間檻に閉じ込め、我々の監視下に置いてもらう。与える食事は、通常の竜が喰らう枯れ草や生肉。必要とあれば、他の食糧も用意しよう。もし君の竜が他と変わらないなら、提供された食事を訳なく食べ、平常に過ごせるはずだ。逆に一切の食事を摂らないのであれば――後はわかるね?」


 この提案は、黒竜ライムが人間を食べないことを前提としている。即ち、ユウェインには確信があったのだ。あの心優しそうな少年が、わざわざ戦場に赴いてまで相棒に人喰いを実行させるからには、そうせざるを得ない必然性があるはずだと。


「それは――」

「安心しなさい。私の商団が総力を振るって、可能な限り快適な監視空間を作ろう。君が相棒の境遇を憂慮する必要は何もない。それでも提案を拒否するのであれば、暗に私の告発を認めることになるよ」


 ウィルは追い詰められた。ユウェインは恐らく、ここまで織り込み済みだったのである。議場の人間たちは、知らず知らずの間に詩人の描いた楽譜上に乗せられていたのだ。


「……提案を受け入れましょう。このまま疑われているままなのは、釈然としません」

「決まりですね。ではすぐに場所を用意しましょう。マグタンク将軍、準備に協力して頂けますか?」

「私は構わぬが――陛下はどうお考えでしょうか」

「……商王の言う通りにしてみせよ。私も一刻も早く、真実を知りたい」


 議会はライムの監視の実行で一致した。こうして黒竜の騎士は、最後の――そして恐らく最大の受難を迎えることとなったのである。




 ライムが安置されたのは、都の竜騎士たちが常用する大規模な竜舎。ダルネフのそれと違って煉瓦組の堅牢な造りで、都の中では王城に次ぐ敷地面積を誇っている。


 割り当てられたのは、戦没した司令官ザスティンの竜が収められていた、広々とした座敷だった。竜が好む寝具や遊具が兼ね備えられている他、壁面には大きなガラス窓が複数張られており、閉塞感を味わうことも少ない。まさに何不自由のない、至れり尽くせりの環境だ。


 見張り役は、両陣営から選出された六人の信頼足る衛兵たち。彼らのうち二人が交代で選出されて、ライムの世話と監視を務める。ユウェイン、マグタンク、イザ国王といった要人たちは自由に部屋を出入りでき、不正が行われないかどうかを任意のタイミングで監査することができる。


 竜の主であるウィルは、日に一度だけ面会することを許可された。入室前に手荷物検査こそ受けるが、常に衛兵がぴったりついている訳でない。ウィルは、密かに囚われの相棒と会話することができた。凡そ人間は竜と言葉を交わすことなど不可能だから、衛兵たちも十分な警戒を払っていなかったのである。


「やっぱり駄目か。そうだよね、お前は人かライムしか食わないもの……。無理して食べさせようとして、ごめんね」


 ウィルは、どうにかしてライムに普通の食事をさせようと試みていた。形だけでもいい。せめて肉や草を呑み込んでさえくれれば、後はどうにでも誤魔化せる。そう思っていたが、やはりライムは一切の食糧を受け付けてくれなかった。ウィルがライムの果実を持って来ればきっと口にするだろうが、それをユウェインたちに見せたところでどうなる話でもない。


 ウィルの工作は連日続いたが、成果は一向に現れなかった。一日、また一日と時が過ぎ、何も口にしないライムへの疑念は深まっていく。絶食が続くライムの体も、次第に痩せ細りやつれていった。


「おはよう、ウィル。……今朝も何も食べていないようだな、君の黒竜は」

「――教官」


 ライムの軟禁から七日目。ウィルの面会時に、偶々マグタンクが居合わせた。


「具合が悪いのか、それとも我々が提供する食事が合わないのか……。何か事態の打開策は浮かばないのかね?ほら、訓練所やシルデンへの遠征中は、どんな食事をさせていたのかとか――」


 マグタンクは、未だウィルの言葉を信じていた。熱き血の教官は、決して教え子の言説を盲信している訳ではない。ただ、疑うことを拒否しているのだ。一度でも弟子の発言を訝ってしまえば、師として失格である。たとえ綻びが目についたとしても、相手の言葉を真摯に受け止め続ける。それこそが己の役目だと自負していた。


 師の愚直な言葉は、ウィルの心に深い切れ込みを刻んだ。それがきっかけで、今まで器用に縫い合わせてきた傷跡が一気に裂け、中から濁った暗闇が溢れ出てくる。もう何もかも、隠し通す事は不可能だった。


「教官。全て、お話しします」

「……ああ、言ってみよ」

「ユウェイン殿の言葉は、全て本当です。ずっと嘘をついていたのは、僕の方なんです」


 マグタンクは表情を固くした。緊張はあるが、驚いた風ではない。ここを訪れる前から、覚悟だけはしていたようである。


「君の竜は、人を喰うというのかね」

「喰います。これまで何人も、何十人何百人と犠牲にしてきました。第六砦の殲滅も、テジュータの悲劇も、皆僕が引き起こしたものです」

「……そうか、話してくれてありがとう。君の多大な勇気に感謝したい。だが私は立場上、真実を公にせねばならない。それは承知してくれているな?」

「はい。もう何もかも覚悟の上です」


 バシッ。と、強烈な殴打音が、天井の高い密室にこだました。驚いた衛兵たちは、何事かとダルネフの師弟に視線を向ける。が、二人はそんなことに一切の注意を払わない。


「馬鹿者!どうして――どうしてそれを、もっと前に伝えてくれなかった!あの黒竜と出会った時、もしくはダルネフを発つ前……いやせめて、国境を渡る前に私に話してくれれば、君たちを救うことができたかもしれないのに!」


 マグタンクの肩は震えていた。それは怒りなのか哀しみなのか。その矛先がどこに向いているのか。ウィルには、はっきりと判別できない。わかるのは、自分の行いが全てを引き起こしたという厳然たる事実と、吐き気を催すような凄まじい罪の意識だけ。


「……もういい。君に憤るのも自分に失望するのも、詮無きことだ。ただし、君が何と思おうと、私は君の味方だ。それだけは、ゆめゆめ忘れてくれるな」


 マグタンクは、踵を返し部屋を出て行った。残されたウィルは、マグタンクの去った方向を鋭い視線で睨みつけるライムを、優しく宥めてやる。


「大丈夫、痛くなかったから。あの人の痛みの方が、よっぽど痛いよ。大切な教え子に、ずっと騙されていたんだもん。ひどい事したなあ。俺は、本当にひどい事を――……」


 ウィルは、知らぬ間に涙を流していた。それは艶めくライムの黒曜石の鱗を伝って輝く灰色の水滴となり、やがて床を飛沫状に濡らした。鏡となった床の一端が映し出すのは、イザを沸かした英雄でも、市民を恐怖に陥れた殺戮者でもなく、何の力も持たぬか弱き一対の少年と竜の番であった。




 明くる日。黒竜の騎士は、法廷に立たされていた。国を救った若き英雄は一転、裁きを受けるべき邪悪な犯罪者へと身を落としたのである。


「では、テジュータの街を全焼させたのもあなた自身。それで間違いありませんね?」

「はい、相違ありません。傭兵たちに指示を下したのもこの僕です」


 彩度の低い法廷の大空間に、裁判官とウィルの声が虚しく響き渡る。相変わらず飾り気がちっともない内装の裁判場は、一見して講和会議の議場と区別をつけるのも難しい。ユウェインがやたらと退屈気に裁判を傍聴しているのは、このためだと思われた。


「もういいでしょうか。罪は全て認めますから、何卒早く審判を――」

「そう急くものではない。通常の規定に則り、これより証人の言葉を頂戴する」


 と、ウィルの弁護側で召喚されたのは、イザの大将軍マグタンク。厳かに入廷するその表情は強張っており、口元はかた結びしをたようにきつく結ばれている。イザの至宝は迷わずに姿勢よく証言台に上ると、裁判官から問いかけられる形で答弁を開始した。


「イザ空軍中将マグタンク、汝に問います。あなたの部下ウィルは、人喰いの竜によって多くの人命を奪った。これに異論がありますか?』

「いいえ、ありません」


 マグタンクは、明朗な声色できっぱりと言い切った。彼は言葉を偽ることをしない。たとい愛弟子の不運に繋がるとわかっていても、あくまで正直を貫き通すのがこの男である。


「騎士ウィルが多くの罪なき命を奪ったのは事実でしょう。しかし、それは相棒の命を繋ぐためです。人の肉を喰らわなければ生きていけぬ哀れな黒竜を、飢えから救いたかったのです!ウィルはとても心優しい少年です。誰かを傷つけるくらいなら、自分が犠牲になることを選ぶ。他人が窮地に陥っているのなら、全てを投げ打ってでも手を差し伸べに行く。そんな、そんな美しき心を持つ彼が、喜んで人を殺したはずがないんだ!苦しみ、もがき、独り涙を流しながら愛する仲間の為に血を流していたんだ!どうか、どうかそれだけは理解した上で、審判を下して欲しい。お願いだ――」


 それは弁護でも証言でもなく、単なる彼の心の叫びだった。言葉の蓋然性を裏付ける証左はない。他人を言いくるめるような説得力もない。公正なる裁判官たちの心象を揺らがせることすらできないだろう。訓練所や戦場では剛腕を振るうマグタンクも、この厳正なる法廷の場ではあまりにも無力に過ぎなかった。


 ウィルの頭の中に、一人の少年の面影がぼんやりと浮かんだ。無口で、他人と関わるのを好まない性質。それでいて、人を謀り、自分を欺くのがうまい人間だった。仲間に黙ったまま、多くの見えざる脅威と闘っていた。誰にも悟られぬまま、一人の英雄の運命を何度も救っていた。


 もしあの寡黙な雄弁家さえ隣に居たら、この絶望的な法廷の状況を覆してくれるかもしれない。遠くの席で無関心そうに頬づく商人の額に、一筋の汗を伝わせてくれるかもしれない。そんな、夢想をした。


「将校マグタンク、もうよいです。誰か、今の証言について問い質したいものはありますか」


 法廷は沈黙した。それは、マグタンクの証言は取るに足らないものだという、見解の一致の表れだった。


「……審議の時間は必要なさそうですね。では、これより判決を言い渡します」


 慇懃な裁判長は、一切の淀みなく続ける。聴衆に心の準備時間を与えぬかのような、強硬な進行。そして、春の訪れを忘れた無彩色の法廷に、冷たい正義の鉄槌が振り下ろされた。


「判決。騎士ウィルは無罪放免。その黒竜ライムは、イザの地下牢にて永久禁固の刑に処す」


 それはウィルにとって、死刑よりも残酷な法の裁きであった。




 翌日より、ライムは場所を移された。今度の環境は、それまでよりずっと劣悪である。王城の地下洞に広がる、重犯罪者専用の大監獄は、風も光も通らぬ停滞した空間。埃と悪臭にまみれた闇の回廊は、王都の暗部を凝縮して押し詰めたようである。重罪人ライムは、この嗚咽を催すほらあなで死ぬまで監禁されるのである。


 ウィルが小耳に挟んだ噂に依ると、刑の内容を決めたのはイザ王その人だという。


 ――黒竜の騎士が成した全ての罪は、伝説の厄神サラマンドラが引き起こしたものである。恐ろしき相棒を持ってしまった騎士ウィルは、まさに運命に翻弄された悲劇の英雄。国を挙げて、騎士ウィルの新たな道のりを応援しよう!――というのが、イザ王室の筋書きらしい。


 ウィルは憤った。せめて自分も同じ牢に入れてくれと懇願した。けれども、放り込まれるのは監獄ではなく、気取ったパーティー会場や厳粛な儀式の場のどちらか。そして、財や権力、美酒美食でウィルを誘惑するのだった。まるで、黒竜ライムの事など忘れてしまえと促すかのように。勿論そんな工作に、一塵の効果は無かったのだが。


「ライム、おはよう。今日も会いに来たよ」


 ライムが地下牢に移されて六日。ウィルは依然、相棒との対面を許されていた。原告たるユウェインたちは強い反発を見せたが、イザ陣営の必死な取り成しによって、どうにか面会権を維持できたのである。


「無理に起きなくていいって。寝転がってても話はできるからさ」


 ライムは、体が鉛に化けたかのように、鈍調に体を動かしている。無理もない。ここに移されてからはそう長く経っていないが、丘陵での食事を最後に、もう一月以上絶食を続けているのだ。尋常の生き物なら、とうに絶命していてもおかしくない。


 衛兵たちは、二人の動きに目を光らせている。ウィルが相棒の竜と意思疎通できることに、気付いているのだ。


「今日はさ、ライムの実を持って来たよ。これなら食べさせても構わないって、陛下からお許しを頂いたんだ」


 黄緑色の鮮やかなライムの実を、同じ名の相棒の眼前にちらつかせてやる。しかし、黒竜は何の関心も示さず、静かにうなだれたままである。


「あれ、どうしたの?ほら」


 格子の中に目一杯腕を突っ込み、大きく立派な口元に近付けてやる。するとライムは小鼻を痙攣させ、匂いに誘われるように長い首を伸ばした。しかし、その牙はライムの実を捉えない。宙に歯型を刻み、果実を持つウィルの右手を嘗め回すばかりで、一向に目的物を口に含めない。終いには、鼻先でウィルの指に体当たりし、実を落とさせてしまう。


「あっ……」


 落ちた実は、牢の傾斜に誘われてウィルの足元へ転がっていってしまう。まるで、黒竜の胃袋に収まるのを拒絶しているかのようだった。


「そうか。ライム、お前もう……」


 ウィルは、やっと気が付いた。ライムの目が、既に見えなくなっているという事に。一切の栄養源を絶たれた黒竜は、その生命維持と引き換えに、まず自身の視力を失ったのだ。


 ウィルは、その場で膝をついた。そして回廊の先に居る衛兵も憚らず、涙交じりの言葉を吐き出す。


「ごめんね。ごめんね。俺に拾われたばっかりに、苦しい思いばかりさせて。もっといい人に拾ってもらえれば、こんな目に遭わなくて済んだかもしれないのに。そうだよ、剛腕のマグタンク将軍ならきっと、ライムを戦争の道具にせずに済ませただろう。賢いイグルクなら、今頃とうに『実』を見つけて、お前を災厄の呪縛から解き放っていたに違いない。俺が、俺があの時、お前を見つけてさえいなければ――!」

「グオオ……」


 ウィルの徒な懺悔を制止するかのような唸り。ライムは、身を起こしていた。もう半分動かなくなった脚をずるずると引きずって、ウィルの間近まで迫る。そして太い鉄格子越しに、主人と頬をすり寄せた。


 否定、肯定、共有。愛おしくて、苦しくて、痛い。ウィルは、ライムの行動と、それに伴う自身の感情を形容する言葉を知らなかった。ただ、胸を圧迫するそれをせき止めるのに精一杯だった。


「……ライムの鱗、温かい。まだ生きてるんだね、お前」


 光を失い、体を鉛にしても尚、ライムはウィルに熱をを与えてくれる。ウィルは、自分も代わりに何かをあげなきゃいけないと思った。


「明日は、何か別のものを持ってくるよ。何がいい?俺に手に入るものだったら何でもいいよ。流石にご飯は駄目だけど、おもちゃでも、武器でも、会いたい人でも――好きなものを注文しておくれ」


 その問いかけに、ライムは光沢を失った太い前肢を動かす。それは指差し。鋭く尖った三本の爪先が向いていたのは、相棒ウィルの身体に他ならなかった。


「俺?――ああ、明日も来てくれって事?そんなの当たり前じゃないか。絶対来るよ、明日も、その次の日も絶対、絶対……」


 その時、ウィルは決壊した。もう人であることをやめてもいいと思った。あらゆる国と全ての人類を裏切り、敵とし、あるいは滅ぼしてもいいと思った。ずっと以前から見つけていた答え。そこにもう一度還ろうと思った。


「もう、やめにしようこんなの。俺は嫌だもん、これ以上ライムが苦しむのを、見たくない。お前は俺の全てなんだ。それ以外の取るに足らないことは、全部忘れたっていいんだ」


 歩幅五つ分離れた場所で椅子に座っていた看守は、囚人と面会者の不穏なやり取りに気付く。椅子を蹴り飛ばすようにして立ち上がると、乱暴な語気で忠告する。


「お前たち、何の話をしている!言っておくが、もしも良からぬことを考えているのなら――」

「ライム、食べていいよ」


 一瞬の後、看守の身体は、血と肉に細分化されていた。赤錆の鉄格子は大きくひしゃげ、ところどころ鋭利に切断されている。伝説の黒竜にとっては、鋼鉄の監獄も、藁葺きの小屋も、さした違いはなかった。


「今日は綺麗に食べ切らなくていいから、すぐに逃げ出すよ。まずは地上を目指そう」


 素早くライムに乗り込んだウィルは、看守の銃剣を奪い、そのまま地下室の入り口へと急いだ。


 地下の大監獄には、囚人と幾らかの看守がいるだけ。疾風怒濤のライムにとっては、何もない細長い空白に等しかった。


 試練は寧ろ、地上に抜けた後に訪れた。朝方とは言え、都の街中には既に沢山の人々が行きかっている。大翼の黒竜が空を抜ければ、多くの者に目撃されるのは避けられなかった。


「ドラゴンだ!ありゃ地下に監禁されてるっていう、若英雄の竜じゃないか?」

「いや、間違いない!脱走だ、脱走。えらい騒ぎになるぞ!」


 民衆は俄かに恐慌状態に陥る。ウィルにとって幸運だったのは、それらに武装兵が含まれないことだった。


 ウィルとライムが顔を出したのは、王城の裏手にひっそりと設けられた、地下牢への裏口。滅多に使用することがないこの入り口には、朝方の見張りが一人しか配備されていない。その一人は、地上に抜ける際ライムの餌食となった。


「街を大きく東に抜けよう。一度目くらまししてから、海上で方向転換する」


 素早くライムへ指示を下す。ウィルはすっかり、逃走に慣れ切っていた。追手が差し向けられる前に、最良のルートを構築するのもお手の物。応じるライムも、一体どこに力を潜ませていたのか――変わらぬ神速で空を駆けぬけてみせた。


 東の海は、荒れ狂っていた。概して穏やかだった西シルデンの大海原とは違う、自然の猛威。吹き荒れる潮風が体表にべたついて、ライムも翼を重たそうにしていた。


「さて、あんまり長居はしたくないな。しかし、どこに向かって舵を取ろうか……」


 というウィルの呟きに、ライムは不服そうな唸りで疑問を呈す。


「えっ、行く宛を考えてなかったのかって?そりゃそうだよ。だって、俺には落ち着ける場所なんてないもの」


 とは言うものの、宛のない放浪を続ける訳にもいかなかった。ウィルは数少ない伝手を検討する。母の住む故郷の街?――駄目だ。世話になった郷里の人々に迷惑はかけられないし、そもそも裁判の件が街に伝わっていたならば、受け入れてもらえるかすら怪しい。ならばノートルの所はどうだろう。人当たりのよい彼ならライムごと匿ってくれるかもしれないが、ここからシルデンの地まではあまりに遠い。各地を旅する彼らの居場所を探し当てること自体、至難の業だ。


 となると一番現実的なのは、やはりダルネフの訓練所であった。もうマグタンクもイグルクも居ないが、顔見知りの教官や訓練生たちが大勢居る。かつて寝食を共にした学友の窮地とあれば、中には手を貸してくれる人も現れるかもしれない。


「うん、決まりだね。とりあえずダルネフの近郊にまで行こう。後の事は着いてから決めればいい」


 ウィルは再びライムを風に乗せた。国のほぼ中央に佇むダルネフは、常竜がどれだけ急いでも四、五日は掛かる。が、疾風ライムに掛かれば、半日あれば十分到達可能な距離だ。


 追手は、姿を現さなかった。背後から迫っているのかもしれないが、速度が違い過ぎて気付かないだけかもしれない。兎にも角にも、脱獄の黒い竜騎士は、安全な飛行を続けた。


 ハイス亡き今、上空のウィルを脅かせるのは朱い流星マグタンクくらいのものである。そのマグタンクの竜カーネリアン……改めネオタンクも、最高速度ではライムに遠く及ばない。黒竜の騎士は、今や名実ともに大空の覇者という訳である。


「見えた、ダルネフだ」


 日没前に、ウィルはダルネフの上空に到着した。最も懸念していたのは、訓練所の上空に巡回の飛竜が飛び交っていないかという事である。だが、ダルネフの夕空にライム以外の影は無かった。意図せぬ形で不特定多数のイザ兵――及び準兵士に遭遇するのは避けられた運びである。


 ただし、ウィルは未だ恐れを抱いている。訓練所の懐かしき面々と、丸腰で対面することを。


 ウィルは、決して訓練所の人間と友好な関係を築いていた訳ではない。警戒なしにのこのこ顔を見せたら、その場で縄に縛られて都の看守たちに突き出される可能性もある。もしそうなれば、今度は更に過酷な刑罰が待っているやもしれない。


 慎重になったウィルは、その日の内に訓練所を訪れるのは止めにした。暫く遠くから様子を窺い、自分達への敵意が感じられなければ助力を求める。そうでない場合は、以前試みたように、人気のない山野でライムと二人寄り添って暮らせばいい。そんな漠然とした方針を固めていた。


「ん、南の森へ?ああ、あの場所に行きたいんだね。お前は本当にあそこが好きだなあ」


 滞空するライムは、二人が初めて出会った池の畔に降りることを要請した。ウィルはそれを呑む。あまり人里の近くに潜伏したくはなかったが、今日ばかりはわがままを許してやろうと言う気になったのだった。


 池の周りは、緑葉の青色を反射した穏やかな光に包まれていた。つい先日まで枝の生肌を晒していただろう木立ちは、新緑を豊かに成長させている。ウィルは何を考え込むでもなく、初めてライムと出会った季節が近づいていることを感じ取った。


「オォ……?」

「花?それならもうすぐ、色んな花が咲き始めると思うよ。それにしても、ライムは風流だね。まさか、花を愛でるためにここへ寄りたがったの?」


 今が脱獄中とは思えぬほど、二人の会話は平和である。それは逃げている事を忘れているからではない。この瞬間がいつまで続くかわからないからこそ、平静を演じたいのである。


 二人のやり取りは徐々に緩やかに、かつ静かな形に収束していく。ライムは小動物のように慎ましく体を丸め、空気が風穴を抜けるような微かな鼻息を鳴らしている。


 黒竜は疲れ切っていた。消耗し切っていた。もう尻尾の先を僅かに動かすことすら躊躇われる程だ。ライムは、脱獄からこの地に至るまでに最後の力を振り絞ったのだ。一応途中で二つばかりの肉体を咀嚼したが、そのエネルギーも音に並ぶような疾走を続けるうちに、殆ど使い果たしてしまっただろう。


 にも関わらず、ウィルは焦っていなかった。元より、逃げ切るつもりなど無かったのだ。優秀なイザ軍は、いずれ必ず、自分たちに辿り着くだろう。雑兵がいくらか押し寄せたくらいならば却って返り討ちにする自信はあるが、そんな争いを延々と続けても無意味である。もし追手に見つかったのなら、その場で腹をくくり、二人諸共自害するつもりなのだ。ウィルが勘定するのは、あと何日、ライムの隣で夢を見れるかということのみ。


「――見つけた」


 蒼い光を受ける背後から、ウィルの手首が掴まれた。脱獄者を探し回る闇の手は、彼が想定してたよりもずっと傍に迫っていたのだ。


「随分探したんだよ。ウィルくん、ライム――」


 捜索者の名は、イナと言った。

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