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竜を駆るもの  作者: なろうなろう
第二章
28/33

決戦④命運尽きる時

 雪が降りやんだ大地に轟くは、イザ兵の猛々しい叫び。つい一時前まであちこちで鳴り響いていた多重奏は、粗野で勇猛な叫喚によってすっかりかき消されている。商団の奇術に屈していた情けない侵略者の面影は、もうどこにもない。息を吹き返したイザ軍は、戦場のあらゆる地点において明確な有利築きつつある。


「中央道の左翼部隊よ、一気に攻勢をかけよ!敵の射撃部隊は弾薬を切らしている今が、畳み掛けるチャンスだ!」


 マグタンクの指揮は、知略に富んでいる訳でも、敵の意表を突くものでもない。それは生ける魂の咆哮。大空を駆る一対の竜虎の号令が、イザ兵の全身全霊を揺り動かしていた。


 ……この戦況の激変に、シルデン本営のユウェインは戸惑いを隠せずにいた。刻一刻と悪化する戦況を報されるその表情に、いつもの涼やかさは感じられない。


「中央の戦線は崩壊寸前です。広い場所で戦っているので、地力負けする我が軍は苦しい状況にあります」

「――真正面から当たっているのか?我々には、相手を錯乱させる術が様々あるだろうに」

「それが、商団員の楽奏も偽情報の流布も、まるで効力を失っているのです。というのも」 

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「……このような有様でして」


 マグタンクの怒号は、丘陵の西外れにあるシルデン本営にまで届いていた。天地を震わすその唸りは、たとい耳を塞いだところで、骨伝いに響いてくる。努めて取捨選択をするまでもなく、イザの騎士たちは司令官の命令だけに耳を貸すことができるわけだ。


「クヴィス将軍はどう動いている?愚直な突撃戦法にすら対処できない器ではないだろう」

「丘陵内で指揮を振るい続けていますが、戦線を維持するのがやっとです。何せこちらは、戦況を把握してから前線に指示を下すまでに、伝令を一往復させる必要があります。一方の敵将は、状況報告を受けたその場で前線に直接命令を送れる訳ですから、竜の移動は半往復で済みます。情報伝達の速度でどうしても敵いませんから、クヴィス将軍は常に後手に回るしかないのです」

「……無茶苦茶だ」


 ユウェインは、かの猛将を侮っていた。マグタンクは、軍規や命令に忠実な模範的騎士。大将ザスティンの首さえ落としてしまえば、取るに足らない一将兵に陥ると踏んでいたのだ。


「どうしますか」

「……すぐにでもマグタンクを撃ち落とせ。あのやかましい陽光を、大空から引きずり下ろすのだ」




 ジエンは砂礫の地面に突っ伏していた。その顔は醜く腫れ上がり、四肢のあちこちから血を垂れ流している。それを高い位置から見下ろすのは、かつて彼と肩を並べていたイザ生まれの傭兵たち。


「一人でよく粘ったと思うぜ、小隊長。さすが俺たちの元上官だ」

「……」


 ジエンは何も返さない。出血は口内にも至っており、舌を動かすことすら辛いのだ。その無様に飽き足りたゲディは、踵を返して身を屈めた。今度こそ縦穴の中に潜り、その先の様子を己の目で確かめんとする。が、片足を穴に突っ込んだところで、もう片方の足首を背後から掴まれた。


「――しつこいな、あんたも」

「行かせ、ない……絶対に」

「あんたには随分世話になった。そのよしみで命は奪わないでやろうと思っていたが、あんたが死に急ぐってなら話は別だ。今この場で、引導を渡してやろう」


 ゲディは、仲間から長柄の戦斧を受け取る。それを両手で強く握りしめると、右足で地面を踏み切って、勢いよく空中に舞い上がった。


「うわああああああっ!」


 半分裏返ったような、みっともない悲鳴が響き渡る。ただし、実際に深手を負った者は居ない。斧はゲディの手に握られたままだし、その刃先には一滴の血液も付着していないのだ。


「何が起こってやがる!どうして俺は、空に浮かんでいるんだ!」


 悲鳴の主は、ゲディだった。崖上の小さな雪空には、一翼の竜が滞空している。碧玉の如く光り輝く青き飛竜は、天空の色彩をその鱗に取り込んだかのようだ。そのロ元には、悪しき傭兵の首根っこが咥えられている。


「てめえ、すぐに頭を下ろしやがれ!」

「見た事ねえ格好だぞ。イザの竜騎士か?それとも、メルセルの騎士なのか?」


 突如現れた謎の飛竜に、周囲は激しくどよめきたつ。傭兵たちは、幾分いきり立ったような調子で乱入者に問いかける。


「どっちでもねえよ。俺はただ、友達を助けに来ただけだ」


 青い竜の騎士は軽妙な口調で答える。地に這いつくばるジエンは、その声を聴いてやっと、乱入者の正体に気が付いた。裂傷だらけの体を無理に引きずり起こして、背筋をまっすぐに伸ばす。古い友人を前にして、情けなく地面にうずくまる姿を晒したくなかったのだ。


「……よう」


 ジエンの方から、再会の第一声。嬉しさと、気恥ずかしさが妙な割合で混じり合って、意味のある単語を捻り出せなかった。


「――うわ、ぼろぼろじゃん。全くジエンは、変わってないなあ。そうやっていっつも。一人で頑張りすぎる」

「うるさい。誰のせいで、こうなったと思ってる」


 唖然とする傭兵たちを置き去りにして、二人はお互い視線を交わす。竜に乗るノートルの方が、若干目線が高い。ジエンは、旧友と同じ視点に立てない今の自分を、少しだけ悔しく思った。


「にしても、久しぶりだなあ。七年ぶりだっけ?」

「八年ぶりだ。仮にも商人を名乗るなら、数字くらいまともに数えられるようになったらどうだ」

「再会していきなり説教だなんて。そんなとこも、全然変わっちゃいない。逆に少しほっとしたよ」


 二言三言交わす間に、傭兵たちは急速に事態を理解し始めた。新たに現れたこの竜騎士は、イザ士官ジエンの味方。即ち、傭兵団の敵であると。


「それでジエン、俺あんまり状況呑み込めてないんだけどさ、こいつらはやっぱりお前の敵なのかな?」

「そうじゃなきゃ、俺はこんなにボコボコにされていないだろう」


 うん確かに、と竜乗りの商人は頷く。


「この数を捌くのはしんどそうだなあ」

「何を弱音を。俺とお前が組んで、一度でも負けたことがあったか?」

「ないね。俺たちは負け知らずだった。――あのぶっ壊れ教官を除いたら」


 ジエンは差し出されたノートルの左手を掴んで、友人の伴侶の背に乗り込む。人懐こいノートルの青き竜は、懐かしい主人の親友を、殊更歓迎しているようだった。


「隠し道を発見された以上、こいつらをただで返すわけには行かないな。商団にチクられたら、俺たち商売上がったりだ」

「それだけじゃない。今隠し道が敵の手に渡ったら、イザの仮本営は敵の急襲に晒される羽目になる。俺たちのこの戦いが、イザとシルデンの命運を分けるんだ」

「……へえ、そいつは面白いや。だったら猶更、負ける気がしないな――」




 騎士ウィルは、石橋の上で熱戦を演じていた。相手は十二年前の英雄の片割れ、ハイス。かつて大陸最強と謳われ、今それを取り戻さんとしている男である。


 動きの捕えられないハイスに対し、ライムの火球を以て応じようとするウィル。しかしハイスは、烈火の砲撃を当然のように躱し続ける。黒竜の騎士の攻撃は、一片たりともハイスに届かなかった。


「駄目だね、これじゃ無駄に消耗するだけだ。作戦を切り替えようライム。どうにかして奴に近づいて、肉弾戦に持ちこむ」


 とは言うものの、事態を打開する術はなかなか浮かばなかった。ハイスは造りの悪い蹴鞠玉のように宙を踊っては、急接近し大剣を振るう。そして反撃を与えぬ内に距離を取り、再び不気味な空中運動を始めてしまう訳だ。


「……厳しいな」


 せめてザスティンから賜った毒矢があれば、もう少し楽だったかもしれない。敵騎に直接命中させることは難しくとも、それを起点に立ち回ることはできただろう。まさか自分がハイスと対峙するとは思わなかったから矢を手放したのだが、結果的にそれがウィルを苦しめている。


 黒竜ライムのダメージは、徐々に蓄積している、黒曜石の硬い鱗も、斬撃が命中するたびに綻んで、一部は皮膚か剥き出しになっている。未だ致命的な損傷こそ背負ってないけれど、大打撃を受けるのも時間の問題のように思われた。


「タフだな、黒竜の騎士。これだけ一方的に攻撃を受けておきながら、まるで焦る様子がない」


 ひとたび動きを止めたハイスは、相対する騎士ウィルに語りかける。彼の本質は、殺戮ではなく戦闘を好む気風にある。決闘の相手と会話を楽しもうとするのも、昔からの癖であった。


「諦めませんよ。マグタンク教官の、教え子ですから」

「師匠譲りの諦めの悪さか。やはりこっちに来て正解だった。何をするかわからない分、面白味が増す」


 ハイスは、自ら好んでこの石橋の地を訪れたことを告白した。その口ぶりからすると、ウィルが石橋に向かうのをわかっていた風である。


 快楽を増して更に勢いづいたハイスは、攻撃の機会を一層増やした。攻撃頻度はさっきの三倍、四倍になるだろうか。ウィルも長槍を以て反撃を試みるが、その矛先は宙を掻くばかりである。


 流石のライムも、傷の影響が目に見えてきた。呼吸が大きく乱れ、ウィルの命令に対する反応もやや鈍くなっている。


「もう終わりなのか、黒竜の騎士。この様じゃあ師匠にも劣るぞ」

                   

 ぼやく旧英雄の竜騎は、不規則な軌跡を描きながら急加速し、目にも止まらぬ速さでウィルに突進してきた。いよいよ息の音を止めんとする勢いである。


 と俄かに、ウィルは閃いた。先程まで、自ら接近することばかりを考えてきた。しかし、敵が攻撃の際に近づくその瞬間を狙い澄ました方が、よほど効率がいいように思われる。相手の攻勢を己の打撃へと翻す、カウンター。それこそが、最適解!


 熟慮する猶予は無かった。ウィルはその先の結果予測が不明瞭なまま、ライムに命を下す。


「上へ!回転しながら!」


 ハイスが間近に迫ったその時、ライムは水平方向に体を捻じりながら、わずかに高度を上昇させた。ただの回避とは思えぬ奇妙な動きに、ハイスとその竜は、一瞬身を強張らせる。


「一体、何の真似だ――」


 その答えは、空から降ってきた。旋回して位置を微調整し、竜騎ハイスの真上に差し掛かる直前のタイミング。ウィルは足場の留め具を外して、ハイスの漆黒竜の背に向かって自由落下した。


 飛び降りのタイミングは完璧だった。ウィルは空中で体を翻し、きちんと両足で漆黒竜の尾の根本に着地する。そして息つく間もなく、背中の短弓を構えた。牽制の構図。これでハイスは、迂闊に動くことができない。新旧二人の英雄が、同じ足場の元で相対する最初の画。そして恐らく最後になるであろう光景が今、氷雪のキャンバス上に描かれた。


「……まさか自ら敵の土俵に乗り込んでくるとはな。大した度胸だ」

「最初から、こうするつもりだったんです」

「最初からだと?」


 ハイスは当てずっぽうの推理を失笑するように、顔を渋くした。けれどウィルは、冷静な表情を崩さない。


「英雄ハイスの弱点は、至近距離での戦闘ですから」

「どうしてそう思う?」

「あなたは、本来の利き腕である左腕を負傷している。そうでしょう?」


 ハイスは驚いたように、かつ幾分嬉しそうに目を丸くした。自らの弱点に気づかれているとは、夢にも思っていなかったようだ。


「どうしてそれがわかった?」

「以前あなたが僕の竜に乗り込んできた時、違和感を覚えたんです。当時はその正体がわかりませんでしたが、後になってわかりました。訓練所に飾られた肖像の中のあなたは、左腕で槍を振るっていた。ところが、僕と相対した時のあなたは、右手に大剣を握っていたのです。後でマグタンク教官に確認を取りましたが、騎士ハイスは間違いなく左利きだったと裏付けしてくれました。あなたは十二年前の戦争で墜落した際、左腕に傷を負ったのでしょう?そしてそれを隠すために、わざわざ両手で握る必要がある大剣を得物に選んだ。初めてイザ軍と遭遇した時敵の竜騎に乗り込んだのも、『騎士ハイスは近接での剣捌きに自信がある』という先入観を僕らに植え付け、弱点を突かれないようにするため。違いますか」

「いい眼を持っているな、若き英雄。大凡その通りだよ。流石に幾多の修羅場を潜り抜けてきただけある。――お前は騎士として生きるよりも、軍師になった方が幸せだっただろう」

「……どういう意味ですか?」

「軍師だったら、今こうして俺と相対することもなかっただろうという話だ」


 ハイスはおもむろに立ち上がり、ウィルに向かって猛然と駆け出した。鱗の凸凹で安定しない足場も、物ともしない。流石に自ら敵の竜騎に乗り込むだけあって、竜の背上での動きに慣れているのだろう。


 ウィルは咄嵯に左方向へ転がりこみ、突進を躱す。勢いづいていたハイスは反転にやや時間を要したため、ウィルもその間に体勢を立て直すことができた。


「たとえ弱点を知られたところで、お前如きの剣が俺を斬れるかよ」


 ハイスはちっとも取り乱していない。寧ろその変わらぬ攻撃性に、ウィルの方が冷や汗をかいているくらいである。


「いつの間に留め具を外していたんです?」

「そんなもの、元から使っていねえよ。いつでも敵の竜に飛び移れるように準備しているんだから」

「それでよく、あんな激しい動きができたものですね」


 会話で時間を稼ぎながら、ウィルは改めて戦闘準備を整えた。短弓とハイスの長槍を外し、腰にぶら下げた細身の剣を抜く。狭く動きづらい竜の背という空間内では、小回りの利く武器の方が適当であると思われた。


 さて防具についてだが、ウィルは伝統的なイザ竜騎士の恰好をしている。上体を覆うのは鉄の胸当てと、竜の鱗を編んだ腕当て、それに彼のトレードマークとなった黒いフルヘルム。下肢を守るのは、腰回りの皮の防具だけである。つまり腹、背中、脚が完全にむき出しで、その他の部位にも隙が大きい。


 一方のハイスは、重装歩兵さながらの分厚い鎧で全身を包んでいる。蒸れを防ぐためかパーツとパーツのつなぎ目には隙闇があるが、ウィルと比べれば防御力は雲泥の差だろう。ただし、獲物の重さも相まって、機動力ではウィルに分かあるように思われた。


「話は終わりか?ならさっさと打ち合おう」

                           

 ウィルが足場に慣れるのを嫌ったのか、ハイスは再度果敢に飛び込んできた。体が重い分動かずに待った方が有利に思えるが、ハイスにはセオリーを遵守するという選択肢がないのだ。


 岩の如き大剣と、針を伸ばしたような細剣がぶつかる。パワーの差は歴然だったが、ウィルはこれをいなすのに慣れていた。両者の打ち合いは一瞬では終わらない。一見ただの力の押し付け合いのようだが、その実はお互いの癖の読み合いと、次の行動の予測の応酬である。


 二人はやや慎重になっていた。一度不利を背負ったら逃げ場のない舞台。先に少しでも剣を掠らせた方が、勝負をものにする。一分のミスも許されないこの闘いで最もすり減るのは、剣先でも体力でもなく、互いの精神力の方だっただろう。


 ウィルは、先に仕掛けた方が勝つと確信していた。互いに極度の緊張状態にある中では、リズムを崩された側が適切な対応を取るのは難しい。その崩しの一瞬を見極め一歩踏み出せたのなら、必ず敵を打ち崩せる。


 果たしてウィルは、その瞬間を見出した。相手の一撃を払いのけたウィルが一歩後方に下がると、ハイスは直前の太刀よりほんの少し深く、剣を振りかぶった。高い威力は望めるが、接触までの猶予はやや長い。


 ――いける。


 ウィルは素早く体を屈めると、ハイスの斬撃に合わせて左腕を大きく突き出した。竜鱗の寵手が剣先を受け止める。骨を軋ませる振動が、腕を伝ってウィルの全身を走った。

                     

 しかし、衝撃を感じているのはウィルだけでない。剣を振るったハイス自身も、その反動に身を硬直させている。ウィルは、敵の肩当てと胸当ての僅かな隙間をはっきりと剣先に捉えた。


 痛恨の一閃がハイスの胸を貫く。ウィルの髪を、黒く濁った血液が濡らした。


「よし、入った――」


 しかし、ハイスは怯まなかった。まるで受けた傷がほんの虫刺されだったかのように、平然と敵の顔を見下ろしている。隙を作ったのは、寧ろウィルの方だった。防御と攻撃によって両腕を遊ばせているウィルの腹部に、強烈なカウンターの一撃。ウィルの体は、竜の背の端にまで吹き飛ばされた。


「この程度の痛みで隙を晒すと思ったか?空から落ちた時の俺たちの傷は、こんな生温いものじゃなかった」


 ウィルは剣をこぼしていた。にじり寄るハイスに抵抗を試みることができない。無論、逃げ場もどこにもない。


「で、次はどうする?まさか、俺に切り傷一つ作っただけで満足とは言わないよな」


 紅い血を滴らせた大剣が、ウィルの間近に迫る。銀白色の刃先は、水晶の一片のように眩しい光沢を輝かせている。ウィルは、その剣がまるで自身の屍を映し出す鏡のように思われて、恐ろしくてたまらなかった。


「うわああああああああああああっ」


 ウィルは叫ぶ。それは悲鳴と言うほか、形容しようがない。尻餅をつき、相手に首を向けたまま、なんとか距離を図ろうとする。それは丁度、腹を空かせたライムを目の前にした人間たちと同じ格好だった。


「ちっ、うるせえな。声のでかさまで師匠譲りか?みっともなさすぎる」

「ああああ……あああああああああっ!」


 ハイスの興奮は急速に冷めていった。まだ若年とはいえ、大陸の英雄と呼ばれた男。死に瀕しても、もう少し毅然とした態度を保ってくれるだろうと期待していたのだ。


「もう何を話しても無駄か。とにかく、頂けるものは頂いておこう」


 ハイスは竜翼の根本に引っかかった長槍を回収する。かつて自分が愛用した神器を、今まさに取り戻したのである。ただし、彼がウィルから預かるものは、まだもう一つあった。


「この決闘、俺の勝ちだ。大陸の覇者の称号は返してもらおう」


 ハイスの本来の目的。改めてウィルの息の根を止めれば、今度こそ完遂される。


「あああっ!いやだ、いやだああああああああああ」


 けたたましく喚くウィルを、右足の蹴りで竜騎からはじき落とす。黒竜の騎士は、徐々に消散する叫びを漏らしながら大河の奈落へ落ちて行った。


「所詮、覚悟のなっていない餓鬼だったか」


 嫌気が差したハイスは、落下するウィルから目を逸らす。雑魚の死の瞬間など、取り立てて見る必要を感じない。彼の注意は、自身より下に位置するものには一切払われないのだ。


 一刻も早く丘陵に戻り、今度はマグタンクとの決着をつけよう。奴を滅ぼせば、漆黒の竜騎士の覇権は疑いようもなくなる。と、すぐ先の未来を見据え始めている。


 ――ウィルは、それを見ていた。その瞬間を、待ちわびていた。そして水面との接触直前、戦士として最後の言菓を発する。


「今だ、ライム。食べていいよ」


 降雪を斬る神風。漆黒竜の背中にあったハイスの体は、別の巨大な闇に擢われた。


 風は、断末魔すら封殺してしまった。空に散るは雪に映える紅い血飛沫のみ。ライムは分厚い鎧丸ごと、ハイスの体を噛み砕き呑み込んだのだった。


 平常のハイスだったら、ライムの神速にも対応していただろう。だが、出血の痛みとウィルの陽動によって注意力が散漫になっていたことで、反応が遅れた。敵の騎士に気を取られすぎていたハイスは、黒竜ライムの動きを把握しきれていなかったのだ。


 上空から急降下したライムは、凍える大河に落ちたウィルを、素早く掬いあげる。全身をびっしょり濡らしたウィルだったが、体温は未だ十分に保たれていた。


「おかえり。ちゃんと食べてきた……みたいだね。口元に血がついているよ」


 橋の上にあがってライムに体を乾かしてもらっているウィルは、代わりにその口元を拭ってやる。相棒は実に見事に仕事をこなしてくれたようだ。


「……あなたの勝ちですよ、ハイス将軍。そもそも、僕があなたに勝てる訳ないじゃないですか。けれど、戦史に名を連ねる英雄も、伝説に謳われる巨竜には敵わないでしょう?」


 ウィルは、ライムの腹を撫でながらハイスに語りかける。つい一瞬前まで激戦を繰り広げていた騎士は、今や肉片となってサラマンドラの腹の中に収まっている。その返事を聞くことができないことを、ウィルは少しだけ惜しく思った。


 体にまとわりついた水気をひとしきり払うと、ウィルは再び竜に跨り本来の任務を開始した。石橋は強固で、ライムの力を以ても全壊するには至らなかったが、橋の真ん中を通行不可能なほどに崩すことができた。これで、パスティナの援軍を暫く足止めすることかできるだろう。


「用は済んだ。丘陵に戻ろう、ライム」


 黒竜の騎士は北に舵を取った。それは決闘の勝者にだけ許された、栄光の凱旋。だのにウィルは、ちっとも嬉しそうではない。寧ろ、主戦場で戦う仲間たちの安否が心配で仕方なかった。


「ん、俺の体は大丈夫かって?腹の傷なら、思ったより深くなかったから問題ないよ。教官の腹巻がうまくクッションになってくれたんだ。この腹巻、やたらと繊維が硬くて、ちっとも刃物を通さないんだよ、ほら」


 ウィルは羽織ものの裾を捲って、ライムに腹巻を見せてやる。防寒用とは思えぬ堅牢な装備品は、まるで霊験あらたかな命のお守りのようだった。


「俺はライムの方が心配だよ。もう戦わせないって言ったのに、傷を負わせてしまってごめんね。本営に戻ったらすぐに手当てしてやるから、少しの間辛抱してね」


 ウィルとライムは、兄弟のように砕けた会話を繰り返しながら、帰還を急いだ。日は少しずつ地平に近づいている。同時刻、彼方で起こる丘陵の戦いも、いよいよ決着がつきつつあった。




「軽装兵は脇道を迂回して敵の裏を取れ!退路を絶ってしまえば、強引に交戦へと持ち込める!」


 丘陵上空のマグタンクは、槍を振るいながら指揮を執り続けていた。イザの全兵士は、この号令に従って動く。裏を返せば、マグタンクさえ失えばイザ軍は機能しないことになる。


 それを理解しているシルデンは、いよいよ可能な限りの戦力をマグタンク討伐に投入した。戦場の各地からかき集めた竜騎はおよそ百五十。しかし敵将ユウェインは、それでも戦力不十分だと感じていた。


「……二人乗り?面白い策を取るな」


 新手のメルセル竜騎部隊には、竜乗りでない一般兵士が同乗している。これによって、本来空を駆る騎士に対抗できないはずの精鋭歩兵を、怪物退治に参戦させてみせたのだ。


 騎士を二人乗せた飛竜たちは、忽ち円陣を組みマグタンクを取り囲む。元々孤立していたマグタンクは、更に仲間たちから隔絶される形となった。


「その陣形なら何度も見たぞ。通用しないと学ばなかったのか?」


 というマグタンクの忠告を無視して、メルセルの竜騎団は一斉突撃する。なんてことないスピード。マグタンクは先程から何度もそうしたように、易々と上方向に回避する。


「むっ」


 そこに、長射程の弓矢射撃。マグタンクの動きを見て放ったのではない。回避を予測して、あらかじめ置いておいたのだ。そうでなくば、この快速竜騎に触れることなど叶うはずない。


 矢を放ったのはライダーの後ろに乗った一般兵。彼らは背中に長槍を差している。そこに、マグタンクの油断が生まれた。突撃してきた竜騎は、後方の兵士を使って突刺攻撃をしてくるものと思い込んでいたのである。


「まんまと目くらましを喰らった訳か……不覚!」


 矢は勿論、竜殺しの毒矢。いくつもの深手を負った朱竜カーネリアンは、即座に意識を失った。


「カーネリアン、起きよ!このままでは地に墜ちてしまうぞ!」


 眠る相棒に必死で語りかけるマグタンク。しかし、カーネリアンは全く目を覚ます気配がない。揚力を失った体は、やがて真っ逆さまに地へと引き寄せられていった。


「私の声が聞こえないのか、カーネリアン!こんなにも強く、お前を呼んでいるというのに!」


 その声は、戦場の誰しもの耳に届いている。即ち、猛将マグタンクの窮地を全ての人間が知り得ている。それだのに、最も傍にいる相棒だけには、呼び声が届かない。


 マグタンクが、墜ちる。丘陵にある全ての人間が、同じ予感を共有した。彼の墜落は、イザの灯火が絶える事を意味する。シルデン・メルセルの兵士の顔には生気が戻った。イザ兵の瞳からは光が消えた。両陣営の明暗は、前線兵の表情にくっきりと表れたのだった。


 マグタンクの脳裏に、三十余年の記憶が走馬灯のようにが甦ら……なかった。そんなものには一瞬で幕を下ろした。生きるか死ぬかという瀬戸際において、後ろ向きな邪念など何の役にも立たない!最後の可能性が潰えるまで、全力で足掻き続けてやる。そう思うのが、マグタンクという男でさる。


「貴様と私は、こんな所で終わる器ではないだろう!転んだら立ち上がり、傷を受けたら癒し、再度空に昇ってきたではないか。もし貴様の魂が潰えかけているのなら、私の魂を半分分けてやる。さあ目覚めよ、流星カーネリアン――いや、我が半身ネオターーーーーンク!」


 翼が、空気を揺らした。周囲の温度は、灼熱が舞い降りたかのように急上昇する。中心にある熱源は辺りの寒気を集めて、渦巻くような烈風を起こすに至る。熱風は雪の結晶を塵と蒸気に分けて、視界は驚くほど明瞭になった。先ほどまで見通せなかったシルデンの都が、今でははっきりと影形を捉えることができる。


 朱き竜は、ついに覚醒したのだ。騎士マグタンクと魂を分け合った、ツインとして――。


「ゴオオオオオッ」


 唸り。ほんの直前まで聞いていたはずの声なのに、嫌になつかしく感じる。歓喜のマグタンクは、相棒を真似して自身も凄まじい雄叫びをあける。声量は、およそ三倍増し。


「ははははは、やっと目覚めたか。それにしても、ようやく認めてくれたようだなネオタンク。私たちが、ツインであることを!」

「…………」

「ええい、意地っ張りなやつめ。まあいい、とにかく急ぎこの場を脱する。私はまだ、死んではならぬ身だからな」


 マグタンクは、己の立場をよく理解していた。今の自分に求められる役割は、指揮を続けることより、士気を維持することにある。もう何の指示が無くとも、イザ兵は敵部隊を撃破してくれるだろう。ただしそれには、軍のシンボルたる自分が生き残ることが不可欠である、と。


「逃げる?いいや、違うな。私たちは前線の仲間たちに合流するのだ。そして共に分かちあおう。イザ王国勝利の、栄光の瞬間を!」




 ――ウィルが丘陵に戻った時、勝敗は既に決していた。イザの本営は、武装解除したイザの兵士たちが歓喜に沸いている。結果は聞かないでも分かる。イザの勝利だ。


「勝ったみたいだよ。ライム、あの辺りに降りよう。人が集まっているから、情報が得られるはずだ」


 知っている顔を探して参謀天幕の周辺を歩き回っていたウィルだったが、その途上で声を掛けられた。逞しく頼りがいのある、懐かしい声。


「おお、愛しのウィルよ!無事だったか、安心したぞ!」


 ウィルを見るなり抱擁をしてくるマグタンク。その愛情表現は、いつにも増してオーバーである。


「ど、どうしたんですか。本営に帰還してきたくらいで大袈裟ですよ」

「心配するさ。敵兵から聞き出したが、君の向かった国境の石橋にはハイスが待ち構えていたというじゃないか。それだけならまだしも、増援の竜騎士が数十騎も橋に送られたとなれば、いよいよ悪い予感を禁じ得なかったぞ」

「……増援の騎士ですか?ええ確かに、石橋にはハイスが待っていましたが、それ以外の敵兵は見かけませんでした」

「む、ではそちらは誤情報か。いずれにせよ、君が帰ってきてくれたことはこの上なく嬉しい」


 ウィルは自身の任務の成果を報告した。思いがけぬ達成に、イザの同胞たちは大きな喜びを隠せない。橋の破壊によって、パスティナからの援軍も大分足止めできる。それは来たるべき都の包囲戦に向けて、大きな猶予が生まれたことを意味する。


「ところで、皆は無事ですか?」

「竜騎士の被害は小さくなかったが、先陣を切ったボドワール隊の者たち以外は、概ね無事だ。ほら、噂をすれば君の上官があそこに。彼は大活躍だったんだぞ」


 遠い天幕の影から姿を現したジエンは、ウィルの姿を見るなり駆け寄ってくる。彼も、ウィルの生還を心から願っていた者の一人である。


 ジエンは、共闘を演じた旧友ノートルとはとうに別れ、単身軍営を歩き回っていたらしい。片方の陣営に与することをよしとしないノートルの隊商は、イザ士官ジエンと長く行動を共にする訳にはいかなかったのだ。


「ああ!本当にウィル本人だ。実に安心したよ。君の身が一番心配だったんだ。ジエン隊の面々は皆無事だよ、アレク、シン、ラディにクルスも、大した怪我がなく戻ってる」


 ジエンは、ウィルが世話になった者たちの名を列挙した。ウィルと多少なりとも親交を結んでいた者は、大体生存しているようである。ただし、一番聞きたい名が、そこには含まれていない。


「――あの、イグルクは?」

「イグルク?彼は君と一緒じゃなかったのか?」

「……どういう意味です?」

「彼の所属部隊長曰く、イグルクは任務を途中放棄して、南南東の方向に飛んで行ったとのことだ。俺はその話を聞いて、てっきりウィルを助けに向かったんだと思っていたよ。しかし、君と合流してないとすると……」


 ウィルは全身がざわめき立つのを感じた。瞬時に踵を返すと、ジエンにもマグタンクにも何ら告げず、自身の竜の元へ一直線に走る。


「どこに行く、ウィル!」


 説明なんて、後ですればいいと思った。あの学友の無事がわかったなら、後でどんな懲罰を受けてもいい。だからウィルは、無言を貫いたまま三度宙へと繰り出した。


 雪は既に止んでいる。内容物を落とした雲は痩せ細り、その隙間から彩度を孕んだ光が漏れ出している。


 ウィルは相棒に全速を命じた。けれど地上の景色は相変わらずの冷たい雪原で、ちっとも道を進んでいる気がしない。じれったさが募った。逸る気持ちに、飛行速度がついてきていないと思った。この時ばかりは、ライムをのろまだとさえ感じた。


 早く、姿を見つけられたいいのに。さもなくば、空を駆る途上ですれ違ったらいいのに。そうしていつものように、無愛想に悪態をついてくれればいいのに。同じ願望が、何度も形を変えてはウィルの心に浮かび上がり、しつこく焦りを募らせた。


 ウィルの願いは、間もなく叶えられた。ただし、その姿があったのは空ではなく地上。見紛うことなきイグルクの白竜ワンダは、両翼を広げたまま地面に横たわっていた。


「嘘、だろ……」


 辺りには、無数の竜騎の残骸。どの飛竜も傷だらけで、激しい戦闘があったことを窺わせる。鎧の色は、全て青白色だった。


 イグルクの身体は、ワンダから少し離れたところに、千切れた木材のようにだらしなく放り出されていた。風に吹き晒しになっているのに、ピクリとも体を動かさない。遠目から見ると、生き物じゃないみたいだった。


「――イグルク!」


 ウィルはライムが地上に足を着くよりも早く背中から飛び出して、若き騎士の元へ走った。皮膚に触れた瞬間、蝋燭の炎のような淡い熱が手に伝わる。まだ、息があった。


「……お前か。よかった、敵の生き残りじゃなくて」

「敵がこんな風に手を握る訳、ないじゃないか。ほっとしたのはこっちだよ。間に合わなかったかと思った……」


 イグルクの血色は明るい。表面から見える傷は多いけれど、会話を交わすくらいの元気はありそうだった。


「ここいらの敵騎、全部一人でやったの?」

「……ああ。途中まではうまくやれていたんだがな。流石に数には敵わなかった。腹に弓を一つ喰らって、この様だ」

「十分だよ。やっぱりイグルクは強いや」

「やめろ。お前に言われると、何だか腹が立つ」


 イグルクは、誇りを失っていない。いつもの表情で、いつものように悪態をつく。


「ハイスへの応援部隊が見えたから、任務を抜け出して足止めしてくれたんだよね。もうこんな事は何度目だろう。ライムの正体がバレそうな時には、俺に代わって証拠を隠滅してくれた。傭兵たちが不穏な動きをしている時には、苦手な根回しまでして牽制を図ってくれた。君のおかげで命拾いした回数は、数えきれやしない」

「……なんだ、全部気付いていたのか」

「君以外の誰が、それを出来るって言うんだ」


 イグルクは、それもそうだと皮肉な笑みを浮かべる。その皮肉が誰に向けられているものなか、今のウィルにははっきりとわかる。


「俺、やっぱりわからないよ。イグルクがどうしてそこまでして、俺たちを守ってくれるのか」

「――守る、だと?俺がお前を?ふざけたことを抜かすな」


 イグルクは、急に語調を切り替えた。憤慨と嘲笑が入り混じった、刃のような言葉尻。彼は許せなかった。『ウィルを守る』なんてフレーズを、己に適用されることを。


「二年間も行動を共にしていて、気付かなかったのか?俺はお前が嫌いだった。常に多くの注目を集め、全ての評価を攫い、俺の行く手を阻み続ける。そんなお前さえ居なければ、一体どれだけ楽になったかも知れない。邪魔で、鬱陶しくて、憎たらしくて仕方が無かった。大嫌いだったよ、お前の事が」


 ウィルだって、そんな事はわかっている。今まで自分に向けられてきた冷たい視線が、嘘でも演技でもないことは百も承知だ。


「お前は、どうしようもない馬鹿だ。周囲から蔑まれ、存在を疎まれているのに、竜騎士になることに固執して訓練所に居残り続ける。能力があるにも関わらず、取るに足らない者たちに笑われて、それをへらへらと受け流している。それを見る度に、反吐が出る思いだった。だから一刻も早く、お前を訓練所から追い出してやりたかった。なのに――」

「……俺は、訓練所をやめなかった」

「そうだ。そしてお前は、その黒竜を見つけた。以前にも勝る愚かな道を突き進んだんだ。人を殺して、自分を殺して、その先に何があるかも考えずに。俺が全てに気付いた時には、お前はもう引き返せない所に居た」

「――もっと以前に気付いていたら、止めようとしてくれてたんだ」

「話が通じたかどうかはわからないがな。お前は一つの事に気を取られると、途端に周りが見えなくなるとんだ痴れ者だ。ここまで生き残れたこと自体、信じがたい奇跡、だ……」


 饒舌に話すイグルクの呼吸が、急激に乱れてきた。ウィルはこの時点でようやく、イグルクの容体が安泰なものでないことに気付かされた。


「そういえば……礼を、言い忘れていたな。お前から譲ってもらったあの弓矢、役に立ったよ。最後の一騎はそれで仕留めたんだ。もし、あれが無かったら、お前は今頃――……」

「イグルク、君は――」

「この際だから、自分の事も話させてくれ。俺はこれまでずっと、お前を馬鹿にし続けてきた。愚かで、お人好しで……、どうしようもないうつけ者だって。だけど本当は、気付いているんだ。他人に矛先を向けて、自分だけは傷つかないように分厚い殻を閉じている。誰かの為に動いているってわかっているのに、それを認めず、独りで強いふりをし続けている。そういう、俺自身こそが、一番……」


 気付けば、イグルクの舌は風を切ることを忘れていた。戦友の腕を握っていた指は脆く崩れ落ち、雪中に埋もれていく。体表を覆う微かな熱は、徐々に、かつ急速に白染めの地面に奪われていった。


 ウィルは逸る気持ちで口を動かすが、言葉が出ない。気持ちだけが焦るばかりで、思考はほんの一糸たりともまとまりを得ていなかった。


「待って……イグルク、待って!」


 ようやく紡いだ言葉は、意味のない懇願。決して叶うことのない絵空事。


「まだ何も。俺は何も、君に返せていない。礼くらいさせてよ。それに、レースの決着だって、まだつけてないじゃないか。ねえ今度は、絶対にマグタンク教官に勝とうよ。今の俺たちなら、きっと勝てる。だってこんな厳しい戦いを生き抜いたんだからさ――」


 その言葉は、イグルクの鼓膜を振るわすことがない。傷だらけの騎士は、薄れゆく思考の微睡みの中にあった。


 ――誰かが、何かを叫んでいる。ああ、あの馬鹿か。最期を看取るのがこいつになるだなんて、夢にも思ってなかった。けれど、不思議だ。案外悪い気分じゃない。寧ろ、こいつで良かったとすら思う。そうか。俺はやっぱり、こいつの事を憎みきれちゃいなかったんだ。あの人に対する態度と、まるで変わらない。


 そう、俺は何も成長しちゃいない。あれから十年以上経った今でも、俺は惨めで捻くれた子どものまま。ほんの少しも、前に進めちゃいなかったんだ。


 だけどそれでも。それでもやっと、自分の愚かさに気づけたんだ。だから、今こそ――。


 ウィルは、腕の中のイグルクの口元が、最後に少しだけ動いたのを見た。優しく、空気を撫でるような息吹。それは、誰か大切な人の名を呼んでいたように思われた。


 広漠とした雪原に、静寂が蘇る。風の無い大地を揺らすのは、一人と一頭の呼吸音のみ。


「オオオ……」

「――ライム」


 背後から、黒い相棒の唸り声。少年騎士二人が語らう間、ライムはまだ息のある者を中心に、周囲の竜乗りたちの身体を貪っていた。五、六――いや十以上の人間を喰らっただろうか。それでもライムは飽き足らず、今度はたった今息を引き取ったイグルクの屍を見て涎を垂らしている。


「――駄目だよ、ライム。この人は、この人だけは、食べちゃ駄目だ」


 ウィルの口調は普段と変わらない。しかしそこには、相棒を強く制止する何かが確かに込められている。その語気は強かで、そして拭い去れない物悲しさを帯びていた。


「食べちゃ、駄目なんだ……」

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