決戦③噛み合わない歯車
開戦から一時半あまり。丘陵の入り口から少し離れたイザの本営にて、ザスティンは部下からの戦況報告を受けていた。老け顔の司令官の眉は、八の字に折れ曲がっている。それは不服の感情というより、半信半疑の心持ちを表しているようだった。
「中央道の諸部隊は、後退しながら近隣部隊との合流を目指しています。控えの竜騎士を用いて状況の把握に努めていますが、各部隊の安否について詳細は定かではありません」
「……楽団の歌狐にまんまと化かされた訳か」
ザスティンは、こども向けの軍記物を聞かされているような気分だった。そう思うくらいユウェインの策略は馬鹿げていて、それにまんまと引っ掛かる此軍の部隊はおとぎ話の道化のように滑稽である。
「一旦、全部隊を丘陵の入り口前まで戻せ。南北の道を進む部隊も含めてだ。事実確認ができないままでは、何の策も取れない」
「承知しました」
雲をつかむような茫漠とした軍議を終えて、ザスティンは自席から立ち上がった。此度の兵力の配置について今一度顧みる。
丘陵内の部隊には、明確な強みがない。マグタンクは制空権を押さえるため上空に出しているし、ウィルに至っては主戦場を遠く離れて、南の国境まで遠征させている。やはりどちらかの切り札を丘陵内に投入すべきだったか。本人の意向など度外視して、作戦遂行を最優先すべきだったかもしれない。
そう思いを巡らせながら天幕の外に出ようとしたところで、戸外から血相を変えた報告兵が飛び込んできた。
「何事だ、騒々しい」
「司令官、大変です。シルデンの武装部隊が、すぐ傍まで迫っています!」
「……なんだと?」
聞くより見るが早し。戸を開いて外を眺めるに、向かって左の視界奥にイザの黒鎧をまとった者たちが武器を取って暴れ回っている。
「イザ兵に扮装しているという話は本当だったか……」
あまりに絶望的状況を目の前にすると、却って冷静になってしまう。ザスティンは思わず、てんで能天気な感想をもらした。
「司令、脱出のご準備を!敵は司令の首を狙っております!」
「わかっている。一度この場を放棄して、北方の小兵営に避難する。ある馬車を全て出して、なるべく多くの者を退避させよ」
ザスティンは愛用の槍と前王から授かった装飾を手に取ると、部下と共に天幕を出た。馬宿の前に用意された馬車を目指す途中、人のものよりずっと大きい竜舎天幕をちらと見遣る。あの中には、三十年来苦楽を共にした愛竜が居る。ザスティン自身の体力の衰えによって最近は前線まで乗り出す機会は減ったが、いくつもの危機を一緒に乗り越えてきた。だが、今はその相棒を置いていくしかない。皆が馬車で逃げ出す中で一人竜を駆り出す者があれば、すぐにそいつが竜乗りの司令官だとばれてしまう。
「必ず後で迎えに来る。待っておれ……」
断腸の思いで前を向き直る。馬車はもう、すぐ目の前。木製の背の低い扉は既に開かれていて、ザスティンたちが乗り込めばすぐに出発できる形になっている。
「高士官殿はこちらの馬車に」
敵からの特定を避けるため、司令官という言葉は使わない。扮装の敵集団はまだ馬車から遠いが、もし顔を知られたら後々不利になる。
ザスティンは馴染みの御者が繰る三人乗りの馬車へ、最後尾で乗り込む。あくまで特別扱いを避け、敵の目を眩ませる努力を惜しまない。そして、脚を大きく持ち上げ、座席の高い段差を乗り越えようとしたその時。
「うっ……」
ザスティンは刺された。背中から熱い血を垂れ流しながら、座席からずり落ちるようにうつ伏せで倒れ込む。獲物のナイフは、背面から心臓を的確に貫いている。医学の知識がなくとも、その絶命が避けられないことは明らかだった。
刺したのは真っ白のローブで全身を包んだ、細身の男だった。任務を終えた後、逃げ出しもせずその場に立ち尽くしたままである。
「暗殺者だ!すぐに捕えろ!」
誰かがそう叫ぶと、周囲の者はあっという間に白ローブの男を取り囲んで、怒りの鉄拳を振りかざした。司令官を刺されたことで怒りに血が上った兵士たちを止められるものは、何もない。暗殺者は碌な抵抗もせず、まもなく気を失った。全身が無様に腫れあがっている。放っておけば、恐らく助からないだろう。
「馬鹿者、安易に敵を屠るなといつも言っているだろうが……。実行者を殺してしまえば、敵の弄した策を聞き出せんだろうに……」
イザの本営は、丘陵外れの林をわざわざ切り開いた場所に展開させてある。事前に位置情報を知らされてなければ、容易に発見はできないはずだ。やはり、軍の中に内通者がいるに違いない。加えて、丘陵の入り口に配置された予備軍を躱してここまで辿り着いたのにも、何らかのからくりがあると考えられる。それらの真相を知る術を、ザスティンの配下たちは、みすみす一つ捨ててしまったのだ。
「……ここまでか。後は、新旧の英雄たちに委ねよう。故国イザに、栄光あらんことを――」
それがザスティンの最期の言葉になった。雪降るイザの兵営に、参謀たちの悲痛な叫びがこだました。
イグルクとその白い相棒は、丘陵の南にあった。入り組んだ坑道の内部、その中でも最南端の位置。ここでは屋根と屋根が噛みあっていなくて、道の半分はそのまま空に通じている。だから通路は、黄土の岩肌と白い雪道とで、二色ペンを引いたように縦に色分けされている。
少年は屋根の下で、火を焚いていた。本営から運んできた種火で薪を点火したので、苦労は少なかった。ただし、鼻孔の不快感は拭えない。燃やしているのは、人間。それも彼と同じ、竜に乗る人種。彼がこうして人を焼くのはこれが初めてでないので、罪悪感は大きくない。元々欠損が激しい原型を留めていない遺体ばかりだし、それは寧ろ無機質な単純作業に近かった。
イグルクの、その色素の薄い瞳孔に、赤い炎が映り込む。だが、彼が見ているのはそれではない。灰に変わりつつある屍でもない。もっとずっと抽象的で、目に映すことができないもの。
「――ん、どうした」
相棒ワンダが鳴き声をあげる。その視線の先にある真上の空を見遣ると、遥か雲の高さを、シルデンの鎧を纏った商団竜騎が駆けているのが目に入った。進行方向は、南南東。向かう先は、明らかだった。
「応援――このタイミングでか」
イグルクは逡巡した。自分はもうすぐにでも、南の道を進む所属部隊に合流せねばならない。正当の理由なくその任を放棄すれば、重大な軍規違反だ。だが、今そんな保身を優先すれば、仲間の命が危ないのもまた確かである。
隣の相棒の顔をもう一度眺める。雪原に紛れる白き相棒は、もう覚悟を確かにしているようだった。
「……そうだな。今までずっと、国に背くような働きをこそこそ続けてきたんだ。今更軍規に背くことを恐れても仕方ないよな。俺は自分にしかできないことをやり遂げる。ずっと前に、そう決めたんだから――」
白竜の騎士は、頭上を通過したメルセルの竜騎士たちを追いかけ始めた。何の得になるかもわからない、譲れぬ目的を果たすために。
同時刻、ジエンは北の坑道を徒歩で進んでいた。伝達任務を終えたジエンに申し渡されたのは、この通りのどこかにあるという、地下道の発見だった。
地下に空洞ができているこの丘陵地帯においては、いくつかの隠し通路があるとされている。現実主義的なザスティンはその情報を取るに足らないとして切り捨てたが、実際彼を襲った暗殺部隊は、その地下道を通ってイザ本営に到達したらしかった。
大黒柱を失ったイザ参謀は、最近になって周辺地域で噂され始めた、北通りの隠し通路に活路を見出した。シルデン側も未だ発見していない地下道を先に発見できれば、ザスティンがやられたのと同じ手段で、敵将ユウェインに報復できると思った訳である。意気込む参謀本部は、戦闘能力に乏しいと判断される兵士たちを、皆目その探索に投入したのだった。
そんな荒唐無稽な策を講じる参謀本部は、言うまでもなく焦燥に陥っている。元来司令官の権限が著しく強いイザ軍は、幹部たちの決断力・指揮力が十分に養われていない。今回のように突然最高司令官が居なくなってしまえば、碌な指示も下せない烏合の衆に成り下がってしまうわけだ。
それを承知しているジエンであったが、任務には懸命にあたった。現状を打開する有効策は他に思いつかないし、少数がより効率的な動きを求めて離反するより、全員で愚策に従った方がずっとましだと知っているからである。
「おや、ジエン小隊長じゃないか」
と、脇から話しかけてきたのは顔見知りの傭兵。思わぬ再会に、ジエンの不安と緊張は少しだけ解れた。
「――ゲディさん、無事だったのですね。あなたも参謀から指令を受けたので?」
「ん、ああ。まあそんなところだ。一緒に地下道探しを頑張ろうじゃないか」
ジエンは今日この時ほど、ゲディを頼もしいと思ったことはない。丘陵の道に詳しい彼の力を借りれば、複雑な道筋の中で隠し通路を見つけるのも現実味を帯びてくる。
「何か心当たりはあるんですか、地下道について」
「勿論。噂に依ると、その地下道ってのは、どこぞのもぐり隊商が地下の空洞と空洞を繋げて作り上げた、新しい道らしい。メルセル商団の目を出し抜くために、わざわざ骨折ったって訳だ。となると当然、普通に道を歩いてたんじゃあ見つからないような場所に隠れているに違いない」
「もぐりの隊商……」
ジエンは確信した。それはきっと、旧友ノートルが率いる一団であると。彼が商いのために掘った道は今、イザ軍最後の希望になっているのだ。
「それは、商団――いえ、シルデン側に絶対見つかってはいけませんね」
「向こうも今、躍起になって山狩りをしている所だろうよ。何せ、丘陵を東西に貫く秘密の通路だ。イザ側の手に渡ったら、自分たちの首が危なくなると冷や汗をかいているはずさ」
道端で話し込むジエンとゲディには、やや温度差が見られる。その会話に割り込むようにして、道の先からやってきたゲディの部下が言葉を挟んできた。
「頭、どうもあの崖の上が怪しいんじゃないかと」
「あれか。天面が外に晒されているな。なるほど、その方が却って人目につきづらいのかもしれない」
傭兵二人が注視する先には、これまた見覚えのある顔をした傭兵たちが、十数人単位で崖の上にたむろしている。見た限り、傭兵団構成員の多くがこの場に顔を揃えているようだ。
「皆この周辺に集まっているのですか?」
「ああ。中央の道は暫く進軍する気配がないみたいだから、全員ここへ呼び寄せた。進むつもりがないのなら、俺たちは部隊に必要ねえだろう」
「それはそうですが――」
だとしたら、ここで隠し通路を探すことには何か特別な動機があるんだろうか。イザの勝利に向けた積極的協力?いいやそれよりかは、地下道の利権を得て一儲けする腹だと言う方が納得しやすい。ジエンは少々、ゲディたちに対して警戒の色を示した。
報告に来た傭兵に案内されて、ジエンたちは件の崖の上へ登っていく。みぞれ状になった水分が岩肌にこびりついて、大変滑りやすい。身のこなしの軽い者でなきゃ、崖上に着くのも困難だろう。
崖上の開けた雪原は、東側に向かって高くなる急斜面を成していた。辺り一帯は背が低い常緑樹が散立していて、白い粉雪の堆積によって葉を重たくしている。
「木が邪魔で見通しがわるいな。俺も手伝うとしよう」
「今日の頭は、とりわけ働き者ですね。さっきは落石に見舞われて大変な思いをしたばかりだって言うのに」
「俺は無傷のまま撤収してきただけだからな。大変だったのは、慣れない竜に乗って伝達役をした小隊長の方だぜ。なあ?」
「いえ、私もさした苦労はしていません。敵と交戦することはありませんでしたから……」
そんな会話をしたせいか、ジエンはその後、中央通りでの戦いの事が再度思い出されて、頭から離れなくなった。前を往く二人が隠し通路を探す間も、ずっとその思考が巡ったまま。
――シルデンは、商団の楽隊を巧妙に配置し、イザに危険な心理戦を持ち掛けた。だけどその作戦は、容易に機能するものではない。イザ側の部隊編成と進路を把握し、その情報網をコントロールする術がなければ、机上の空論に終わってしまうはずだ。つまりシルデンは、イザの内部情報を高い精度で知り得ていたことになる。一体全体、如何なる手段を用いたのだろうか……。
「見つけたぞ!この大木の根元に深い縦穴が掘ってある。これが通路の入り口に間違いない!」
斜面の先端部に立つ一人が、大きな叫びをあげた。ゲディ含む傭兵皆が、一斉にその方向を向く。
「やったぜ、小隊長。きっと、シルデンよりも先に見つけただろう。こりゃあ俺たち、大手柄だ」
「そうですね。地下道さえ使えるなら、イザに再び希望が差す――」
ゲディらはジエンの言葉を聞き終えぬまま、喜び勇んで雪の坂道を駆けて行った。ジエンはその足跡をなぞるようにしながら後を追う。
縦穴は、確かに掘られていた。その奥はすぐ真っ暗闇で先が見通せないが、少なくとも人の腕がすっぽり入るくらいには深さがある。
「この穴で、間違いなさそうですね」
「入り口を木の根っこの下に隠すとは気が利いている。こりゃあなかなか見つからない訳だ」
「大した工夫をしたものです――」
その瞬間、ジエンの思考回路は繋がってしまった。イザ側には、シルデンの内通者が居た。各通りを進む諸部隊の編成と進路を伝え、内側からからくりの制御を行っていた。そして、それを成せる条件下にあったのは、恐らく彼らしかいない。
「……そうか、そういう仕組みだったんですね」
「何だい、小隊長。急に改まって」
「全て、理解したのです。ゲディさん、あなた方は敵と内通していたのですね」
それを聞くゲディは一瞬渋い顔つきになった後、口元を緩く綻ばせた。誤解しようのない、肯定の意。
「やっと気づいたか。随分時間がかかったもんだ」
「ずっと前から、スパイ活動をしていたのですか」
「最初からさ。だが、ユウェインの旦那から直接指示を受けたのは、たった二回だけ。あんた方に合流する前と、この戦いが起こる直前――つい一昨日の晩のことだな。なかなか連絡がうまくいかなくて、困り果てたもんだぜ。その間は何をすればいいかわからず、大人しくしているしかなかったからな。だけどそのおかげで大して怪しまれもせず部隊に馴染むことができたから、結果的にはうまく転んだのかもしれない」
「……まさかとは思いますが、ソドムの死を手引きしたのもあなたたちですか」
「よくわかっているじゃないか。奴とは懇意にしすぎたせいでな、途中から正体に勘付かれ始めちまった。事が大きくなる前に始末させてもらったよ。もっとも、気付いていたのは副隊長だけじゃなかったんだが」
「他に誰が気付いていたんです?」
「あの黒竜の英雄さまも薄々気づいていたみたいだぜ。確証がなかったのか、何か動きを見せる事はなかったが。ついでに言うと、目つきの悪い小僧の方も全部わかっていたようだ」
「……そうか。俺だけが、何もしらない道化だった訳だな」
ジエンの面に皮肉の笑みが浮かぶ。それは丁度、相対するゲディの面持ちと似た格好だった。
「あなたたちの目的は何です?」
「始めにあった指令は、黒竜の騎士の抹殺。ところが、そいつがうまく行かなかった。あの目つきの悪い小僧がいつも睨みを利かせていて、俺たちが迂闊な行動をすれば逐一副隊長に報告しやがる。何度か計画を立てたんだが、その度あの餓鬼に阻まれて断念したよ。俺たちの最優先任務は戦争が終わるまで部隊に居残り続ける事だと聞かされていたから、無茶をして正体を晒す訳にはいかなかったんだ」
「イグルクが……。彼の悪い噂はそういう事だったのか。やっと合点がいきましたよ。聞かせてくれて、ありがとうございます」
「いいって事よ。面従腹背とは言え、数か月寝食を共にした間柄じゃねえか」
と言って、ゲディは何も握らない右の掌を開けて差し出す。
「――これは?」
「協力しようって事だ。あんたはイザの情報をシルデンに売り込む。その代わりに、俺たちがユウェインの旦那に取り次いで、あんたに褒美が渡るようにする。あの人は義理堅いから、きっといい地位が約束されるぜ」
「国を裏切れ、という事ですね」
「どっちが得かわかるだろう?隠し通路は今、シルデン側の手に墜ちた。イザが勝つ未来は万に一つもない。戦後の事を思えば、答えは一つしかないだろう」
ジエンは揺らいだ。本心を言えば、そんなもの言語道断と切り捨てたい。だが、故郷には家族が居る。自分を待っている婚約者も居る。敗戦国の兵士として戻るよりも、商団の庇護下で生きた方がよっぽど豊かに彼らを養っていける。打算的かもしれない。仲間たちから酷く蔑まれるかもしれない。それでも、現実を顧みれば選択肢は一つしかない。
ふっと木の根元の縦穴が目に入る。長髪のよく喋る傭兵が、穴の中に潜り込まんと身を屈めていた。ジエンは、答えを決めた。
「――断る。あんたらの味方にはならない」
ゲディは目を丸くしていた。ジエンの回答がよほど意外だったのだろう。その表情をありきたりな言葉に翻訳するなら、「あんたはもう少し賢いと思っていたよ」になるだろう。
「理由は?」
「その穴を掘ったのが、俺の友人だからですよ」
ゲディは今度、愉悦の表情を浮かべた。その数奇な巡り合わせに、彼の中の好奇心が興奮しているのかもしれない。
「さあ、そこをどけよこそ泥ども。俺の友達が、その穴を通るんだ」
「……全くあんたってやつは、つくづく人の縁に恵まれないな」
白光の日は、雲の裏側で密かに最高地点を通過していた。一日の折り返し。時計の意味合いが、大きく変容する。ただし、丘陵の戦況は同じ方向に傾いたまま。各地のイザ軍団は、尚も熾烈な苦境に立たされていた。
北の道はノートルの地下道を巡って、両軍の小競り合いが繰り返されている。しかし、持ち場を失った敗残兵たちの寄せ集めでしかないイザ部隊は、指揮系統が不明瞭で、効率的な戦闘を展開できなかった。
崩壊した中央戦線の残党及び予備部隊は、丘陵の東側入り口で、敵の挟撃に苦しんでいた。兵自体の質は最も高い中央諸部隊であるが、士官を軒並み失った集団は、メルセル商団員の攪乱の動きに全くの無力だった。
南の坑道に至っては、本宮からの指令が十分に伝わらず、陸の孤島状態に陥っている。これをいいことに、メルセルの竜騎はイザ兵に成りすまして偽指令を伝える動きを取り、状況はますます混迷を深めていった。
その頃、上空で鬼ごっこを続けていたマグタンクは、漸くザスティン討死にの報を耳にし、丘陵の北東に設けられた仮本宮を訪れていた。
「これは、天下のマグタンク将軍。よくぞご無事で戻られました。私たちはあなたのご帰還を心よりお待ちしておりまして――」
「辞令はよろしい。それより、ザスティン元帥が討ち取られたというのは本当なのか」
「――事実でございます。捨て身の暗殺者に刺されました」
「……そうか、私の力が及ばぬばかりに。それで、今は誰が全軍指揮権を握っている?」
「軍規に則って、参謀長である私が総司令の座に就いております。実際にはここに居るもの全員で合議し、方針を決めていますが」
「……合議制、ね」
マグクンクは天幕の様子をつぶさに観察する。椅子や机は勿論、何の用途に使うのかもわからない調度品の類までしっかり並べられている。壁際には儀礼用の派手な武具に、イザの国章が描かれた軍旗。実寸大より大きな歴代国王の肖像まで、ご丁寧に飾られている。これだけ見ると、とても急ごしらえの仮本営には見えない。
その中でマグタンクの目を引いたのは、奥の大テーブルの上に広げられた丘陵の地図だった。地図の上には、目の玉ほどの木製のチップが無数に置かれている。これはイザの各部隊を表すもので、地図上の位置はそれぞれの現在地を示している。
「地図は最新の状況を反映しているのであろうな?なぜ中央道の部隊の大部分が、丘陵の入り口付近に留まっているのだ」
「本宮を守るためでございます。中央の道をがら空きにしてしまえば、本営に残した資源を相手に奪われてしまいますので」
マグタンクは眉を大きく持ち上げて、相手の顔を見た。参謀の言葉が、とても正気の沙汰と思えなかったからだ。だが、参謀は至って平然とした面持ちで、全く冗談を言っている風ではない。
「失礼ながら、あなたは前線の指揮経験がお有りか?」
「いえ。私は文官出身ですので……」
「左様か。ならば失礼ながら、あなた方に私の仲間たちの命は預けられない。今後は私が一切の指揮を執らせてもらう」
場の一同は言葉を失った。まさか一将校に過ぎないマグタンクが、かような大それた発言をするとは思いも寄らなかったのだ。
「越権行為であることはわかっている。後でいくらでも軍法会議にかけられよう。だが私は、これを断行する。君たちがどれだけ反対しようとも、退くつもりはない」
有無を言わさぬ口調で言い切ると、マグタンクは見た目だけそれらしい天幕を後にした。
すぐに、朱色の相棒を駆って上空へ昇る。眼下には、内部構造を秘匿した凹凸の雪原。まずは戦線の状況を詳しく把握する必要があった。配下の騎士たちをいくつかの組みに分け、丘陵の内部に潜らせる。その報告結果は、予想以上に悪いものだった。
「各地で死傷者が続出。士官の多くが死亡または戦闘不能。敵の攪乱行動で、情報は入り乱れ状態。これでよく、戦線を維持できているものだ――」
マグタンクは、地上の前線兵たちの苦境を憂慮する。そして、何も知らぬまま敵の竜騎とおままごとを続けていた自分が、無性に恥ずかしくなった。
「とにかく我々は、攻めねばならない。ここで時間を掛ければ、敵は態勢を回復するし、背後からはパスティナの援軍が迫ってくる。状況をしっかり整理できれば、敵の奇策にも対応できるはずだ」
しかし大将軍は折れていない。彼は撤退も敗北も考えていない。必ずこの戦いに勝利できると確信している。だからこそ、彼につく竜騎士たちも一層奮い立つ。
「将軍、次のご命令を。私たちが、迅速に伝令いたします」
「いや、その必要はない。私自らが、全軍に指令を伝える」
「……と言いますと?」
「そのままの意味だ。私の肉声で直接、兵士全員に命令を言い渡す」
勇む伝説の英雄は、部下たちから少し距離を取り、決意の声明を発した。
「イザの兵士たちよ、聞こえるか。よくぞ、ここまで堪えきった。幻妖な商団の合奏を聞くのは苦しかっただろう。同胞に扮した敵の偽報に、ひどく惑わされただろう。だが、もう迷う必要はない。君たちは、私の声だけを聴けばいい。この私だけを信じて、戦場を進んでいけばよい。さあ、共に戦おう。勝利の栄光は必ず訪れる!」
それは、大地を震わす怒号だった。
丘陵の上だろうが中だろうが、その声の届かぬ場所は無い。どころか、遥か地平の先、シルデンの都にさえ轟きそうな勢いである。
絶望の淵に立たされていたイザ兵たちに、闘志が戻った。出口のない迷宮に、眩ゆい陽光が降り注いだ。たとい総司令官を失おうとも、かの大将軍が大空にある限りはイザが負けることはないと、兵士たちは知っているのである。
戦場から、猛る雄叫びが沸き起こる。マグタンクの叫喚にも負けない、勇ましい呼応。それは司令マグタンクに継戦の意志を伝えると同時に、各地の部隊が相互に無事を確かめる意味を果たした。一人の将校の言葉が、イザ軍全体の士気を驚くほど底上げしたのである。
勿論、かの演説を聞いたのはイザだけではない。マグタンクの奇抜な意図を知ったメルセルの竜騎士たちは、その行動を止めようと牽制を図る。だが、マグタンクは怯まない。寧ろ自分から打って出て、敵騎を次々に落としていった。雑兵がいくら束になったところで、怪物の口を塞ぐことすら叶わない。
「中央の道に停留する兵士たちよ、自らに与えられた使命を思い出せ!君たちの任務は、敵兵を蹴散らし、シルデンの都までの道を切り開くこと。今一度攻勢に打って出る。まずは背後の扮装兵たちを追い払うのだ」
戦闘と指令を同時にこなすマグタンクには、未だ余裕がある。息を継ぐその一瞬に、天候の微細な変化をしっかり捉えた。重苦しい雲間に、ほんの小さく日が覗いている。今は雪の結晶が発光体のように美しく煌めいているけれど、少しでも雲が動いたら、また元の薄暗闇に戻ってしまいそうだ。
マグタンクは、はっと自覚した。自分がイザ最後の望みになっている。恐らくこの命が尽きるとき、イザ軍の希望の灯火も消えることだろう。敵も当然、それをわかっている。この偉大な竜騎士の首を、必ずや狙いに来るであろう、と。
「――さあ、出番だぞハイス。この私を止められるのは大陸でただ一人、お前だけだ」
マグタンクは懐の矢の感触を確かめる。先の戦いを経て、例の毒矢が無ければハイスには勝てないと直感していた。既に竜殺しの汚名を背負う覚悟はできている。故国に敗戦をもたらす愚将になるくらいなら、全ての名誉をどぶに投げ捨てることも厭わないと、心に決めているのだ。
「この矢で以て、奴の竜の心臓を射抜く――!」
若き英雄ウィルは、猛スピードで丘陵から南南東の方向に進んでいた。彼が目指すのはシルデンとパスティナ間の国境を成す大河。この河は大陸の最西方に端を発し、遠くイザの地まで流れている。幼い頃にこれを見物したウィルは『穏やかで清い河川』という印象を持っていたが、上流にあたる大陸西部では勢いの凄まじい激流である。そのため、河を超えるためには橋を渡る必要があるが、これは国境の東西に二本しか架かっていない。東側の大橋は、その一端が先の前哨戦でイザ側に着いたディアン辺境伯領内にある。橋のシルデン側もイザが制圧しているため、敵対勢力がここを渡るのは難しい。
一方、西側の大橋にはイザの勢力が及んでいないため、未だ自由往来が保たれている。パスティナの援軍が狙っているのは、こちら経由の越境であろうと思われた。そしてウィルの目的は、この人橋を敵が渡る前に破壊し、敵の援軍を足止めすることにあった。
この作戦は、当初よりイザ本宮の念頭にあった訳ではない。石の大橋を通行不能にするほど破壊するのは大きな労力と時間を要するので、現実的でないと考えたからだ。手持ち無沙汰のウィルが、自ら橋の破壊を志願したことで実現した次第である。
作戦の実行許可をもらったのは、前日の晩のこと。だからシルデン側かウィルの動きを知っていることはない。黒い竜騎士は、天候以外に一切の障害もなく快速飛行を続けていた。
「今日は速いね、ライム。やっぱり食べた後は違うや」
ウィルはこの大移動に臨むにあたって、久しぶりにライムに食事を与えていた。犠牲としたのは、丘陵の南側で孤立していたメルセルの竜騎小隊。勿論、正気を取り戻した心の痛みは小さくなかった。が、戦局を左右する重要な任務を担う身として、状態を万全にしておく以外の選択肢はなかったのである。
「ん、どうしてまた戦争に協力しようと思ったかって?――そうだね、教官やジエン隊長、それからイグルクに報いたいって気持ちもあった。でも一番は、早く戦争を終わらせるためかな。もう自分も、ライムも、傷つけたくないから」
相棒と会話をすると、雪の粒が勢いよく口の中に入り込んできた。液状になったそれを呑み込んでむせてしまい、ライムの前で少し恥ずかしい思いをする。
「丘陵の皆は勝つかって?大丈夫。こっちには無敵の大英雄が居る。この前は疲れ切っていたところでの一騎討ちだったから後れを取ったけれど、同じ条件だったらマグタンク教官は絶対に負けないよ。既にハイスの弱点にも気づいてるからね」
それは何?とライムは尋ねる。
「話すと少し長いから、後で聞かせるよ。またむせたら困るからね、さあ、橋はもうすぐだ。間に合わなかったってことはないと思うけど、パスティナの援軍と出くわす可能性もあるから、気を引き締めてね」
それから四半時経たずして、ウィルたちは石橋の上空に辿り着いた。人の頭くらいの大石を組んで作ったアーチ橋だ。そのすぐ下には、雪でかさを増した激流が唸りをあげている。河の水面までの垂直距離はそう長くないけれど、橋の両端には腰の高さの欄干が設けられていた。落下したら体を流される危険が高いためだろう。それ以外の節り気は一切なく、メルセルが台頭する前の大昔に、実用性だけを追求して造られたことを想像させてくれる。
氷雪の靄は、ここでも相変わらず視界を遮っていた。ウィルはライムを地表付近まで降下させて先の様子を窺うが、遠くパスティナ側の岸は見通せない。目立つ音は特に聞こえないから、少なくとも大人数が橋渡り中ということは無さそうだ。
まずは全貌を把握しなければならない。ウィルは、顔にささくれ立つ霜を指で払いながら、ゆっくりと相棒を前進させていく。鼓膜を震わす振動は、自身の相棒が立てる重たい足音だけ。国境の石橋は、心地よい静寂に包まれていた。
しばらく往くと、前方に何か黒い影があるのが見てとれた。人の大きさではない。それよりはずっと大きそうだ。丁度、ライムに乗るウィルと同じくらいの大きさだろうか――。
影を視認範囲の中に取り込むと、その正しい輪郭が明瞭に浮かび上がってくる。迫り来る人影の正体を見極めたのは、わずかに相手の方が先だったようだ。屍が声帯を雲わせたような悍ましい声で、旧い災雄は静かに語りかけた。
「待ちわびたぞ、若きイザの英雄」
「騎士ハイス……どうしてここに――」




