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竜を駆るもの  作者: なろうなろう
第二章
24/33

絶望

 ――妹は死んだ。幼き少年は、『希望』の儚さを知った。『期待』の無益さを覚えた。




「……もう戦場に出たくない?」

「はい。戦うことが、怖くなりました。今の僕は、それがたとえ敵兵であったとしても、人の命を奪うことに堪えられません」


 ジエンはウィルの心情を測りかねた。あれほど率先して前線を駆けていた少年が、なんだってこうも突然、意気消沈に陥ってしまったのか。


「意向は了解した。だが、君の出撃停止は俺の一存では決められない。本部に報告を入れてくるから、少しここで待っていてくれ」

「すいません、お手数をおかけします――」


 朝方のジエン隊天幕は閑散としている。今日の第四小隊には休暇が申し渡されていたが、多くの隊員は自ら志願して後方支援や南方偵察の任務に回っている。顔なじみのイグルクは自主鍛錬から戻って体を休めているが、ウィルたちの会話を耳に挟んでも身じろぎ一つする様子はない。と言っても今朝が特別冷淡なのではなく、これが彼らの平常の距離感である。


 暫くして、ジエンが天幕に戻ってきた。開かれた戸から、屋内に向かって二つの影が伸びている。この状況でジエンが伴う人物と言えば一人しか考えらない……と思いながら視線を上向けるウィルだったが、その人相は予想外のものだった。


「おはよう、ウィル!」

「……教官」

                                       

 ジエンの傍らに肩を並べているのは、司令官ザスティンではなく、恩師マグタンク。小隊長はウィルと目を合わすと、神妙な調子で瞳を細める。どうやら彼が、かの熱血漢を連れてきたらしかった。


「顔色は悪くないみたいだな。うむ、少し安心した」


 マグタンクは訓練所に居た頃と同じ調子で、ウィルの肩に分厚い掌を乗せる。その感触は懐かしいと共に、どこか心地悪かった。


「……あの、小隊長からお聞きになったかもしれませんが――」

「外に出て話をしよう。屋内に閉じこもっていては、気持ちも塞ぎこむばかりだ」


 言い淀むウィルの体を引き寄せて、マグタンクは教え子を外に導いた。空は厚い雲が一面広がっており、どんよりと薄暗い。それだけに湿気が多く、昨日までの寒さはめっきり鳴りを潜めていた。


 新旧の英雄が並び歩く姿に、好奇の目が向けられる。そういった視線を苦手とするウィルだったが、前を進む恩師があまりにも堂々と胸を張っているから、比較的楽にやり過ごす事が出来た。


 歩くこと暫く。野営地から少し離れた水場でマグタンクは足を止め、おもむろに切り出す。


「もう戦いたくないと語ったそうだな。何か、あったのか?」

「……大したことではありません。昨日の任務中、急に人を殺すのか恐ろしくなってしまって」

「司令官殿から聞き出したよ。調竜師を暗殺する任務を君に与えたと」


 今度の指令についても、マグタンクは事前に知らされていなかったようだ。ザスティンはわかっている。弟子煩悩のこの将官が、教え子にかような非人道的任務を課すことに猛反対するであろうことを。


「ウィル、君は一体何を抱えている」

「えっ――」


 急に、核心をつかれた。いや、核心のすぐ手前まで手を伸ばされた。少しでも心を揺り動かせば、忽ち掴まれて外に引きずり出されてしまう。ウィルはこの事態を全く予想していなかった分、激しい動揺を隠せなかった。


「不安や悩みは特にありません。本当に、昨晩の件で怖くなっただけで」

「――若人よ、あまり他人を侮ってはいけないぞ」

「!そんなつもりは……」

「これでも丸二年間、君のことを見てきた。以前の君と様子が違うことくらいはわかる。だが悲しいかな、私は人の悩みを完璧に見透かすことはできない。その口を開いてくれなければ、君の胸に何が秘められているかまでは知り得ない」


 ウィルは急に自分が恥ずかしくなった。今まで何もかも隠し通してきたつもりだった。それこそ灰髪の学友以外には、自分の弱みを一切漏らしていなかったはずだった。でも、それは勝手な思い上がり。自分を覆う殼は、思っていたよりずっと薄っぺらで、細かな隙間からいくつもの暗い筋が漏れ出していだのだろう。


「それでも、語ってはくれまいか」

「……すみません。教官を信頼していない訳ではありません。でも、どうしても告白することはできないのです。そうでないと、大切なものが守れないから――」                             

「そうか。ならばもう私から問うことはない。だが、訓練所で私が言った言葉を忘れるな。私はいつだって、君たちの味方だ」


 ウィルの抱える暗闇は、ほんの少しもマグタンクの手に渡っていない。それでもウィルは、幾分心が軽くなったような心地がした。


「僕はこれから、どうしたらいいでしょう」

「今や君は、イザの英雄だ。この重要な局面で軍を抜けるのは難しいだろう。――そうだ、暴力が怖いのなら、私と共に後方支援の任に就くといい。勿論、君さえよければの話だが」         

「それは、願ってもないことです。ですが、そんな都合のいい異動が可能なのでしょうか」

「大丈夫。私に任せておけば、大抵のことはなんとかなる」


 マグタンクは軍内部で随分幅を利かせているようだ。それが彼の実績と名声故ということを、本人は自覚していないようであるが。


 翌日から、ウィルは後方支援の仕事に回ることになった。親しんだジエン隊の面々から離れて、およそ半日遅れで行軍する後方部隊の護衛をする。護衛と言えど、実際にすることは周囲を見回しながら上空を飛行するだけで、前線の職務と比べれば大層気楽だった。

 

 しかもマグタンクは、明日を憂いて沈みがちなウィルをよく気にかけてくれた。しばしば自分の持ち場を離れては、ウィルの隣に竜を並べて、世間話を持ち掛ける。ウィルの興味も手伝ってか、話題に多く上ったのは敵将ハイスの事だった。


「騎士ハイスは、どうして姿を隠しているのでしょう」

「我ら二人を討ち取って満足した。と考えるのが筋だが、奴の性格を考えるとそうも言いきれない所だな。ハイスは元来、根っからの戦好きだ。私たちが戦場に無くとも、イザの兵士を討つために前線に躍り出る方がそれらしい。もしかすると、出撃ができない何らかの理由があるのかもしれないが」

「何らかの理由、ですか……」


 恩師が居る間、ウィルの気分はそれ以上落ち込むことはなかった。が、異動から三日目にして、マグタンクには前線への復帰指令が下った。決戦での出撃に向けて、少しでも体を慣らしておこうという狙いがあったようだ。ウィルは再び、孤独に陥った。それも、医務天幕で軟禁されていた時よりも、ずっと程度が悪い孤立だった。


 今度同行する部隊は、以前ジエン隊と傭兵たちが護衛したのとは別の、パスティナ経由でシルデン入りした部隊。都の陸軍所属の彼らは、華々しい活躍を示す竜騎士たちによい感情を持っておらず、若き英雄たるウィルに対しても冷えた態度を貫く者が多かった。訓練所時代のような貶めこそ受けることがなかったが、居心地の悪さを払拭するのはなかなか叶わない。


 ウィルの苦痛の種は、それだけに留まらなかった。同行部隊は、捕虜としたシルデン兵を伴っている。それらが捕食対象と知るライムは、旺盛な食欲を露わにする。だが、今のウィルはそれを満たしてやることができない。何度も謝罪を口にしながら、興奮する相棒を宥める。軍務が終わった夜中にできることは、空腹で苦しむ愛竜に、ただただ寄り添うだけ。ウィルは自身の不甲斐なさを呪う。敢えてもう一度心を殺そうとさえ試みる。しかし、一度効かなくなった麻酔は、何度打ち直しても効力を取り戻してくれない。


 心臓は日に日に重くなる。放っておけば次第に隅から錆びついて、血の循環を止めてしまいそうにも思われた。


 そんな霧中に光が差したのは、護衛任務に就いて五日目の事だった。


「林の奥に逃げ込んだぞ、追いたまえ!」


 口髭の護衛隊長の号令が飛ぶ。護衛隊は進路上で怪しげな集団と遭遇し、それらを逃がすまいと追跡していた。ただし、戦闘を拒むウィルは、隊の後方でライムの背を撫でるばかりである。


 追跡劇に興味のないウィルは、西の空に飛ぶ竜騎の姿を目で追った。豆粒ほどの大きさになった飛竜の影は、にも関わらずはっきりと翼の動きを捉えることができる。そのはためきがやけに力強く感じられるのは、騎士たちの気分が高揚しているだめだろう。目指すべきシルデンの王城はもう目と鼻の先。残された砦は、都の東に広がる大丘陵のみ。誰が語るまでもなく、戦場に臨む全ての者が、かの地での最終決戦を理解していた。


 趨勢はイザに大きく傾いているが、次戦が楽に進むと考える者はいない。イザの進撃に峰な抵抗も見せないシルデンだが、まだ十分な余力を残しているのは確かだ。物資や地理条件の面でアドバンテージを握っている上、猛将ハイスと、大陸の覇者ユウェインという切り札を隠し持っている。イザの騎士たちは己の力に自信を確かにしつつも、決して事態を楽観視せず程よい緊張感を保っていた。


 暫くの後、林の奥から騎士たちが戻ってきて、ウィルの周囲は俄かに騒がしくなる。ちらりと視線を向けると、騎士たちは意外な身なりの者たちを伴っていた。鮮やかに染まった絹織物に、腰回りに下げた装飾と楽器類。どう見ても商団の人間だ。  

                  

「怪しげな集団というのは、メルセルの商隊だったのですか?」


 出し抜けに問いかけると、気のいい同僚の一人が答えてくれる。


「そうみたいだね。非武装だから、今度の戦争には直接関係ないらしいが」

「こんな道外れに、何の用があったんでしょう」

「詳しくは知らないけど、なんとかっていう珍しい木の実を探してたらしいぜ。ここから南の山奥の集落で採れるとか。全く、金もうけには余念がないことだ」

「木の実……」


 この地より南というと、別れの大地の西側の高山地帯に当たる。――となれば、伝承との関連性も期待せざるを得ない。


「その人たちから、話を伺ってもよろしいでしょうか?」

「そりゃあ問題ないと思うが、一応隊長にも断っておけよ」


 全く同じ状況を、ウィルは以前に一度体験していた。美を好む商人たちは、例によって簡単にウィルに心を開く。目の前の少年が、同胞の命をいくつも奪った悪魔とも知らずに……。


 彼ら曰く、南方の集落には『叡智の実』と呼ばれる希少な果実が実るという。その名の通り、食べたものに優れた知恵をもたらし、また情欲や醜い感情を抑えつけるとされている。実は、集落にある世界でたった一つの神木にしか生らない、結実は、百年に一度。しかもその周期は、千年遷移の間隔と、丁度同期しているというではないか。


 ウィルは、まさしくこれだと思った。サラマンドラから災厄の性質を奪い去る奇跡の食物。それは、叡智の実に違いがない!


「その実は手に入ったんですか?」   

      -

 興奮を隠せぬウィルとは対照的に、商人は冷え切った声色で返す。


「入ってないよ。あんたらが邪魔してくれたおかげでな。この足止めがなきゃ、今頃相当量の金貨を得られていただろうに……」

「そうですか…」


 己の都合で頭がいっぱいのウィルの言葉には、きちんと同情のニュアンスがこもってなかった。商人は訝しげにウィルを見るが、それにすら気を留める余裕がない。


 商人は実を持っていなかったが、件の集落に行けばそれが手に入るはずだ。正確な場所こそわからないが、竜乗りならば山野の目標物を探し回るのも大した骨折りにならない。確証はないが、自分は必ずその地に行かねばならぬと直感が告げていた。ウィルは商人たちに礼を告げると、部下の報告に耳を貸す隊長の下へ歩み寄る。


「隊長、少しだけお暇を戴けませんか。彼らの言う叡智の実を、どうして手中に収めたいのです」

「む、随分厚かましい申し出であるな。黒竜の騎士は奇特な放浪家であるという噂は本当であったか」


 口調の仰々しい隊長は、手癖らしい口髭を撫でる動作をしながら、ウィルの申し出を検討する。眉が大きく垂れ下がっているのを見るに、やはり気は進まないらしい。


「しかし、敬愛すべきマグタンク将軍から、お主の意向をなるべく通すようお言葉を頂いておる。日没までに隊に合流すると約束できるならば、一時離脱を許可しよう」


 言葉尻とは裏腹に、判断は思いの外柔軟なようだった。これが国境越えの時世話になったボドワールだったら、断固拒否されていただろう。ウィルはマグタンクの計らいと、自身の幸運に感謝する。


「しかし、そうまでして自分の知恵を磨いて何をしたいと言うのかね?」

「いいえ、自分で食べるのではありません。実を必要とするものが別に居るのです」

「ほう、知人に食べさせるつもりと。しかし、他人の頭がよくなったところで、君に得があるかね?」

「ありますよ。この世界を救うことができます――……」




 目標の集落を発見したのは、その日の昼過ぎだった。山脈のただ中に突如現れた、すり鉢状の地形。かなり勾配のきつい斜面の上に、同心円を描くようにして規則的に家々が並び立っている。集落全体が周囲の山々の影にすっぽりと覆われており、まるで人目を逃れるために築かれた里のようだ。立地条件だけ見れば、別れの大地とよくよく似ている。


 無用な警戒を避けるため、村の外れで羽を下ろし、木陰にライムを隠す。数日の絶食により痩せ細ったライムは、不安げな瞳で主人を見つめ返した。


「無茶をかけてごめんね。でもきっと、もうすぐ楽にしてあげられるから。少しの間だけ、ここで待っていて」


 霜が張って滑りやすい地面を、慎重に踏み抜いていく。瞳孔が開かれて、濃い陰に包まれた街の容貌が次第にはっきりと見えてきた。なんてことはない、普通の田舎村。目に映るのは藁葺きの家屋と吹きざらしになった畑ばかり。他の山村との唯一の違いは、集落の中心に深緑の巨木が聳えている点だ。樹の周りには杭と縄による囲いが施されており、安易な接近を拒絶している。あれが叡智の実をつける神木に間違いないと、ウィルは確信した。


 屋外には、少なくない村民が手持無沙汰にうろついていた。こんな冬場に大勢が出歩くのは全くの不自然で、突然の来訪者に気づき物見に出て来たに違いなかった。きっと付近の空に大竜が駆けているのを、地上から目撃していた者があったのだろう。


 黒い甲冑も相まって一際人目を引く容姿のウィルは、忽ち村民に取り囲まれた。敵意は無いようで友好的な仕草が見て取れるが、言葉の訛りがひどく、ほとんど内容が理解できない。什方なく愛想笑いで曖昧に誤魔化そうとするが、人だかりは退くどころか益々膨張していく一方で、埓が開きそうにない。止む無くウィルは、率直に自身の目的を示すことにした。すり鉢の底にある巨木を指差して、意図を伝える。すると群衆は首を横に振って、否定的なニュアンスを示した。ウィルは詳細な意味を理解できないが、雲行きがよくないことだけはわかる。


「僕はあの場所に近寄ってはならない、ということでしょうか」


 無駄とわかっていながら、標準のシルデン語で問いかける。当然、村民たちは言葉の意味を理解してくれない。


 時間の浪費を悟ったウィルは、民の包囲を退けて村の中心へと歩き始めた。強引な真似はしたくなかったが、その場で効率の悪いやり取りを続けるよりずっとましな手段だと考えたのだ。


 住人たちはウィルの背中を見つめて立ち尽くすのみで、阻もうとも追いかけようともしない。思っていたほど重大な禁忌ではないのかもしれないと、ウィルは想像した。


 その後には特に困難もなく、集落の最下部に到達する。黒い少年騎士の前に、艶やかな妙木が現れた。幹には年輪を思わせるはっきりとした渦模様が刻まれている。以前別れの大地で見たものとよく似ていた。囲いの縄は思ったよりも長い半径で張られていて、いくら体を乗り出しても、葉の一片にすら触れられる気がしない。


 樹を眺めるウィルの肩に、真円状の分厚い緑葉がひらりと落ちる。面を上げると、葉の並びは疎らになっており、隙間からたおやかな枝が見え隠れしている。巨木は再寒期を迎えた今になって生命活動を緩めて、長い急速に入ろうとしているようだった。


 ウィルは枝葉の隅々を具に観察する。果実らしきものはどこにも生ってない。まだ実りの時期でないのだろうか。それとも――。


「イザの、兵士か」


 真後ろから、ややくぐもった老人の声。いつの間にか背中を取られていたことに、ウィルは肝を冷やす。樹に夢中になる余り、周囲への警戒を怠っていた。


「いかにもその通りです。名はウィルと言います。突然の訪問でお騒がせしてしまい、申し訳ありませんでした」


 慇懃に挨拶を試みるが、老人は自分の名を口にすることもない。来訪者の素性になど、全く関心がない様子だった。老人はぶっきらぼうに詰問を続ける。


「叡智の実が目的か?」

「はい。実を譲って頂きたく参上したのです」


 老人は「やはりそうか」と言わんばかりに、愉悦の笑みを浮かべる。この手の輩への対応には、慣れきっていると見えた。


「生憎だが、実は既に収穫して村民に配り終えた後だ。よそ者よ、あんたの分け前は残っちゃいない。――無論、収穫前に訪れていたとしても譲るつもりはなかったがな」

「既に収穫後……」


 遅かったのか。やっと希望を掴んだと思ったのに、僅かな差で間に合わなかった?ライムを救う道は絶たれてしまった?――いや、そう決めるのはまだ早い。可能性は、未だ残されている。


「収穫したのはいつ頃のことですか」

「一週間ほど前だ。あと一日二目早ければ、食べ残している者もあったろうが、今頃貯蔵している者はおらんだろう」

「そう、ですか」


 体内に入った食べ物が排出されるまでは、およそ一日程度かかると聞く。もし咋日実を食した者が居れば、体内にまだ実の成分が残っているはずだ。だったら、その分厚い肉の皮を含めて、丸ごと……。


「ウィル、だいすき」


 悍ましい想像は、脆く崩れ去った。記憶の中にあるたった一言が、ウィルの汚れた刃を完全に取り上げてしまった。


「でき、ない」

          

 ウィルはその場に跪く。全身に力が入らない。直前まで鬼神が宿っていた肉体は、人の魂ではうまく操れない。

目の前の若者の異変に、老人は眉を顰めるばかり。まさかこの一瞬の間に、自分を含む村民の命が天秤にかけられて、しかもその皿の高低が逆転したとは思いも寄らない。


「できないよ、ライム。俺にはもう、誰かの痛みを無視するなんてできない――」




 時刻は正午を一時ほど回った頃。若き英雄の姿は、再び上空にあった。限下に広がるは、なだらかな斜面と、疎らな枯れ木の並び。積雪は一部が融け出して、所々茶色い地面が顔を覗かせている。シルデンの冬は、少しずつ終わりに近づいていた。


 とはいえ、日没はまだまだ早い。急がねば明るいうちに所属部隊へ合流することができない。だが、ウィルには急ぐつもりがなかった。唯一の希望が経たれた今、実益の見込めない軍務に熱意も責任感も抱けなかった。


「ウゥ……」


 ライムの咆哮。その声色は、食を絶たれた腸の状態を映し出したように、空虚な響きを内包している。


「ごめん、お前にまで心配かけているね。なんでもないんだ。期待してたことがうまくいかなかった。ただ、それだけだよ」


 ウィルはそのまま黙りこむ。すると突然、ライムは首を上下左右に揺すり始めた。鼻先がすんすんと動いているのが確認できる。これは、進行方向を変えたい時に、ライムがよくする仕草だ。


「……そうだね。軍に戻っても仕方ないし、このままどこかへ飛んで行こうか」


 ウィルは一切の指示を止めて、ライムの気が赴くままに空を進み始めた。進路を竜に任せるなど、竜騎士にとっては言語道断。騎士号は当然剥奪だし、名誉も著しく傷つく。けれども、今は見ている人間など全くない。どんな風に飛ぼうが、咎められる余地はないのだ。


 スピードは、さっきよりも少し速い。逆風がウィルの髪をさらって、黒い棚引きをなしている。ウィルはゴーグルもヘルメットも脱ぎ捨て、五感全体で空気を感じた。細めた瞳の隙間から、大気が形を成して流れるのが知覚される。風の烈音が様を変えながら唸るのは、誰かの心のざわめきを暗示しているようだった。


 やがて、ライムは羽を止めた。柔く閉じた瞼をゆっくりと開くと、前方には相変わらず仄暗いシルデンの空。ただし、地上の世界は無彩色に染まっていない。遥か下方に広がる閉じられた大地には、季節から取り残された淡い緑模様が繁茂していた。


「……別れの大地」


 以前見た時に地上を覆っていた靄は、すっかり失せている。目にはっきり飛び込むのは踊る草木と唄う獣たち。白雪と紅血で染まった戦場とは隔絶されたそれは、まるで神話の舞台を思わせる。


「ここに来たかったの?」


 黒き相棒は、黙って頷きだけを返す。サラマンドラであるライムにとっては、やはり何か惹かれるものがあるんだろうか。


 少し滞空位置をずらして、シルデン兵が潜んでいた林の方を観察する。人影は見当たらない。念のため距離を寄せて周辺をぐるぐると探索してみたが、人の気配はどこにも感じられなかった。イザとの決戦に備えて、配備していた兵を本隊に合流させたのだろうか。


 安全を確認すると、いよいよ地上に降下した。触れた地面は、綿のように柔らかく少し弾力がある。獣や草花の放つ粒子が暖気に溶けたような、春の匂いに全身が包みこまれていく。益々ここが現世とは思えなくなる一方だ。


「敵は居なさそうだよ。好きに遊んでおいで」


 主人から自由行動を申し渡された黒竜は、はしゃぎ気味に獣たちの方へ駆け寄る。自身も輪に入って戯れたかったらしいが、獣たちは巨躯のライムに恐れをなして逃げ惑った。薄情なようだが、いきなり見慣れぬ大生物が迫ってきたら逃げ出すのが動物の本能だろう。仲間外れになってしょげるライムはしかし、他にも美しい友人が居るのに気付いた。草原の中には、種々の花々が甘い香りと共に咲き誇っている。巨竜はその場に寝そべり、花を愛で始めた。決して花を切り裂いたり、引っこ抜いたりはしない。黒竜は、それらが生きていることを、きちんと理解している。


 その光景をぼんやりと眺めるウィルは、今一度出会いの場面を思い返していた。池の畔で眠りこける巨竜の周りに、桃色の小さな花が風に身を揺らしていた。周囲にはその場を歩き回ったらしい足跡がはっきり残っているのに、どの植物も押し潰された形跡はない。思えばあの時も、可憐な花々に魅了されていたのかもしれない。


 あの峙、ウィルの心はざわめいた。自分に慣れてくれる飛竜に深い慈しみを覚えた。それから先の毎日に、華やかな想像を描いた。


 ――今の自分はどこに居るのだろう。必死で歩いてきた茨道は、なだれ岩に塞かれてしまった。やっと見つけた、楽園に続く石畳の道も、半ばで途絶えている。他に道はない。元来た道を引き返しても、路傍に転がる屍のせいで、以前のように留まることができない。


 どこにも進めない。戻ることもできない。だったら、逃げ出してしまいたい。野を分け帷を分け、人から外れた獣として生きた方がずっと楽そうだ。


 でも、一体どこへ逃げればいいんだ。どんなに遠くまで足を延ばしたところで、きっとそのうち見つかって軍に連れ戻されてしまう。以前、実際にそうだったじゃないか。


 イザの騎士は優秀だ。いくら巧妙に逃げ隠れしても、その追跡から逃れられるとは思えない。本当に誰も寄りつかぬ山奥にずっと潜んでいるならば話は別かもしれないが、相棒がそれを許してくれない。生きるためには人と関わらなきゃいけない。そう、ライムと共に生きようとする限りは、隠れる場所などどこにもない。


 その時、ウィルは自分の言葉を反芻してしまった。そしてとあるフレーズが持つ重大な意味に、気が付いてしまった。――ライムと共に、生きようとする限りは。


「……そうか。俺は逃げ方を、間違えていたんだ」


 ライムから逃げ出してしまえばいい。人を殺めることを止めた自分には、サラマンドラの面倒を見ることなんてできないのだから。


 もっと早くにそうすればよかったんだ。サームの骨肉を噛み砕いている所を見た時。あるいは、正体がサラマンドラであると知った時。遅くとも、イグルクに真実を知られた時。いくらでもチャンスはあった。なのに、いつまでもこんな化け物に固執して。


 偶然出会って、怪我の手当てをしてやっただけだ。血は繋がっていない。共にした時間も僅か。言葉を交わすことすらできない。どうでもいいじゃないか。きっぱりと縁を切って、また竜に乗れない竜騎士に戻ればいい。たったそれだけのこと。どうして今まで、それに気が付けなかったんだろう?


 ウィルの心は、急に静かになってしまった。ついさっきまで唸りを上げていた荒波は急に鳴りを潜めて、水面には波紋の一つすら浮かんでいない。こういう状態を、人は『悟り』と呼ぶのだろう。


 ライムは依然花畑の前に体をうずめて、重たい瞼を半分閉じている。思いがけぬ春の陽気に、眠気を誘われたのだろう。ウィルはそれに近づき額の岩石を二、三度撫でてやると、いつもの調子で優しく語った。


「ライム、」


 眠気眼が、僅かに開かれる。体躯の先端にある尾が、左右に少しだけ触れた。これは、「何?」のサインだ。


「俺、もうライムに無理を強いたりしないよ。これからは、お前が好きな時に、好きなだけ食べるといい。もう怒ることはない。道を急がせることもない。武器を持った敵兵と闘うことも、もう無いんだ」


 ライムは聞いているのかいないのかわからなかった。キュウと甲高い鳴き声をあげると、そのまま瞼を完全に閉じきってしまった。


「眠いか。なら、おやすみ――」


 意味を悟られなかったのなら、今だけは気が楽だ。きっと後からもっと心を締め付けられるだろうが、決心が鈍らなくなるという意味では都合がいい。


 手を黒曜石から離し、背を向ける。この時以上に苦しい半回転を、ウィルは知らない。何故ならそれには、もう二度と振り返らないという誓いが込められていたのだから。


 ウィルは、軽いのか重いのかわからない脚で、ふらふらと歩き始めた。山の地平に、塔でも木でもない高いものが見える。あそこまで歩いて行こう。ぼんやりと、そう思った。


 日は朱く染まり始めた。そろそろ護衛部隊長との約束の時間だが、もはやどうでもいい。軍にはもう、戻らないのだから。いや、竜騎士であることすら、やめるのだから。


 いつの間にかウィルは、目標物の手前に到達していた。頭上には、鳥の卵のような球体上の大岩が聳えている。卵状岩を支えるは、太い円筒状の台座。とても自然の力で出来上がったとは思えないから、岩山を削って彫り上げたのだろう。恐らく、ドラゴンを用いて。


 半周して裏手に回り込むと、卵の下部に綺麗な円形の大穴がぽっかり空いている。きっと出入り口だったのだろう。開口部の先端から梯子の残骸のような木片が、はっきりと見て取れる。地面にまで伸びていたはずだが、そちらは風に晒されて崩れ去ってしまったようだ。


 折角ここまで足を延ばしたのだから、中を見ずに引き下がるのは憚られた。ウィルは一番下の肌着以外を脱ぎ置くと、持ち前の身軽さで岩山を登り始めた。見た感じは光沢に乏しく硬い印象を受けるが、いざ触れてみると案外脆く、力の入れ具合を間違えると崩れてしまいそうである。幸いだったのは、表面の凹凸がはっきりしていたことだ。そのために指を引っ掛ける場所は見つけやすく、さした苦労もなく登りきることができた。


 開口部の先端に立つ。と、鋭いコントラストが網膜を焼いた。大穴から差し込む西日は、その正面だけを真っ直ぐ照らして、橙色の道筋を作っている。その両脇は青みがかって見える暗い陰で、壁面もその色分けを継いでいる。地上からは確認できなかった高い位置にもう一つ採光用らしい穴が空けられてぃるが、この時間帯では陽の光を取り込めていない。


 夕日の道筋の先には、反対の壁面に寄り掛かるような形で人の姿がある。それに近づこうとして足を踏み出そうとした瞬間、ウィルは体を硬直させた。


 床には何かが敷き詰められている。いや、床前面に散乱し積み重なったものが平坦に広がり、床の表面に一つの層を作っていると言うべきか。黄ばみが進んで元の白さを失ったそれは、しかしどう見ても人の骨であった。図説で眺めた頭蓋骨や大腿骨は、他の動物と見紛うはずがない。中には砕けて元の形がわからなくなっているものもあるが、別種の骨が混ざってはいないように思われる。


 これを踏んでいいものか。ウィルは逡巡したが、結局進むことにした。この場所が何であるか知るためには、光の先にあるあの人影に尋ねてみる他ないと思ったからだ。ごり、ごり、と鈍く重い音が足元から鳴り響く。それと連動するように下層からもう一つ、しやりしやりという軽快な物音。でこぼこの道を進んでも足取りが安定してぃるのは、不均等に伝わる圧力を、下層の微細な粒子がうまく吸収してくれているためだと思われる。多分、最下層の屍は腐食が進んで、細かな砂粒に姿を変えているのだろう。


 ウィルは歩きながらある感覚を抱いていた。目分は今、とある歴史の堆積を踏みしめている。それは誰かが歩いた道のり。人を殺して生きた軌跡。かつて、自分と同じ道を歩いた人間が居た。だから、この先にある者は――。


「……死んでる。当たり前か」


 人影は屍だった。ただし、骨ばかりを散らかす他の遺体とは趣が違う。つばの長い帽子。袖が解れた麻の羽織りものに、革製のズボン。生きた人間の姿をしている。だからこそ、遠目からは生体だと見間違えたのだ。


 遺体の顔を覗き込む。プンと、嫌な匂いが鼻につく。頭蓋の黄ばみは、床に散乱するものと変わらない。だが、欠損はほとんど無く、標本ままの綺麗な輪郭を保っている。それは、この人が決して食べられる立場ではなかったからだ。


 ここには竜の遺体は残されてぃない。他に間違いないと思えるような証拠もない。けれど、ウィルは確信していた。かつてこの場所で、サラマンドラと一人の人間が暮らしていたのだ。そうでなくば、床を敷き詰めるほど沢山の人間を殺した人間が、こんなに安らかな顔で眠れるものか。


「あなたは、最後まで友に寄り添ったんですね」


 千年前、サラマンドラと出会った一人の男は、結局友を見放すことはしなかった。どれだけ罪を重ねても、どれだけ昏い未来が先に広がろうと、友を見限ることをしなかった。だから現世は、災厄と受難の、『サラマンドラの千年』なのである。争いを重ね、強者だけが甘い汁を吸う、醜い世の中なのである。


「イザの国王があなたを見たら、多分に糾弾するでしょうね」


 けれどもウィルは彼を非難しようとは思わない。自分と同じ立場にあって、友を守り続けた男に畏敬すら覚える。勿論、それが正しかったかどうかは別の話だ。


 ふと、遺体の脇にある皮の残骸が目に入った。手に取ってみると、冊子の形状をしていることがわかる。ひどく風化が進んでいるが、獣の皮で編まれたらしいページは、しっかり元の形状を保持していた。中を開き、内容を確認する。半分消えかけた千年前の言葉は判読が難しかったが、男の書き迫した手記らしいことはわかった。


「……これは」


 とあるページが、ウィルの目を釘付けにした。そこには筒条書きでいくつもの食べ物が列挙されている。中には雲や雷雨といった食物らしくないものも書き綴られてぃるが、その並びには覚えがあった。これは「実」の候補だ。一番左上の単語の綴りがメイズから教わった「実」の発音と一致するから、間違いないだろう。


 単語の多くは、横向きに一本線が引かれている。きっと既に試して駄目だったものを意味するのだろう。男がサラマンドラを救うために並々ならぬ労力を割いたことが読み取れる。その並びの中には、直近に耳慣れしたある単語も含まれていた。


「叡智の、実――」


 千年前の男は、既に件の果実を試していた。しかし結果は、効力無し。百年に一度しか実らぬ貴重な果実も、サラマンドラの血を変えることはできなかったのだ。


「そっか、あれ違ったんだ。よかった、集落の人々を殺さないで……」


 そう呟くウィルの心には、深い淀みが渦巻いていた。今度実が手に入らなかったとしても、ライムがサラマンドラでなくなる奇跡が確かにあるのだったら、どこかに希望を持っていられた。でも、その希望は打ち砕かれた。他に候補となりそうな食物も、全て千年前に試されている。本当はサラマンドラを無害化する手段なんかない。そう思わざるを得なかった。


「そうだよ。やっぱり、そんなうまい話がある訳ないんだよ」


 全身からふっと力が版けて、ウィルはその場に膝をつぃた。大穴から差す最後の筋が消えて、人骨を包む巨大な卵は夜の帳に包まれた。


 床の骨はわずかに温まっている。硬くてごつごつしているはずなのに、今のウィルには上質の寝床のように思われた。春の香りが夜の空気に溶けていくのと同時に、ウィルはまどろみに包まれていった。そして、あたかも帽子の遺体と鏡合わせになるかのような姿勢で、暗い眠りに落ちて行った。




 ――暖炉に赤い炎が燃えている。木目が少し目にうるさいテーブルの周りには大きい椅子が二つと、小さい椅子が二つ。テーブルの上にはパンがいくつも入った大きいバスケットと、薄いプレートに盛られた黄色のスープが人数分置かれている。幼い頃、よく見た光景。でも、今席についているのはウィルだけだ。


 暖炉の奥、二階へ続く階段の手前には、暗色の髪の少女が手を後ろに組んだまま佇んでいる。


 ウィルは「座らないの?」と問いかけようとした。だが、何故だか声が出ない。


「小さい頃のウィルは、あんまりご飯を食べなかったよね。好物の果物が出てきても大抵食べきれずに、わたしが残りを食べちゃうの。お父さんは苦笑いを浮かべてて、お母さんはお小言してたっけ。そのうちわたしの方が大きくなるぞって、皆噂してた]


 確かに、そうだった。首を縦に振って同意を示すと、少女はゆったりと前方に歩き始めた。


「どこに行くの?」と間おうとするが、声はまたしても出ない。視線だけで動きを追っていると、少女は玄関の戸を開けて、外に躍り出た。ウィルは背もたれの頼りない椅子から跳ね起きると、急いでその後を迫う。喉は機能していないけど、四肢は十分に働いてくれるようだ。


 扉の外には、一面の芝生が広がっていた。硬質で、寝転ぶのには具合がよくない低草。草原のただ中には、若い林檎の木がポツリと一本立っていて、大きな木陰を作っている。ついこの間まで、毎日繰り返し見ていた風景。ここは、ダルネフの訓練所だ。


「レースの時ね、すぐにあなたがどこに居るのかわかったよ。ウィルは昔から皆の輪に入るのが得意じゃなかったから、きっと一人で居るんじゃないかって。そしたら案の定、あの林檎の本の下で木を読んでるんだもん、おかしくなっちゃった」


 そうだ。君の言うとおり、俺は昔から全然変わっちやいない。でも、どうして。


「ウィル、なんだか変な顔してるよ。なんで?」


 だって、それは。


「ううん、言わなくてもわかってる。本当はね、私もずっと目を背けてきたんだ。ウィルが竜騎士で居ることが嬉しくて、ずっと気づかない振りをしてた。でも、もういいんだ。わたしがどんな形になろうとも、あなたはずっと傍にいてくれるとわかったから」


 持って、君の言っている意味がわからない。


「わたしはもう覚悟が決まったよ。あとはあなたが一歩踏み出すだけ。だからお願い、勇気を出して。もうわたしは、あなたの期待を裏切ったりしないから。約束、するから――」




 蒼い光が瞼の奥を刺激している。ユウェインの光が、天井の穴から岩の隠れ家を覗き込んでいた。


 視界が滲んでいる。ウィルは自分が泣いていることに気付いた。何か、悲しい夢を見ていた。それは確かなのだが、つい一瞬前まで記憶していた映像は、急速に色槌せて涙という形だけを残していた。


「ライム……?」


 相棒を呼ぶ声は、虚しく屍の骨身に吸い込まれていくのみ。ここに、親しんだ友の姿はない。


 いつもはこんな時寄り添ってくれるのに、何故来てくれない?この場所に居ることがわからないから?いいや、違う。あの賢い飛竜は、主がどこにいたって居場所を嗅ぎ付けて、いつも寄り添ってくれる。今だって、捜そうと思えば見つけられるはずなんだ。ここに現れない本当の理由は、ウィルがさよならを告げたたから。あの賢竜は、友から別れを告げられたことをしかと認識していた。わかっていながら、わざと眠気にあてられたような振りをして、主人の悲しみを誤魔化したのだろう。


「ライム!」


 ウィルはその場を飛び出した。殆ど転げ落ちるように岩山を下ると、イザの鎧すら置き去りにして、肌着のままに地を駆け始めた。風は冷たく、露出した皮膚に霜を降ろすよう。往きは四半日かかったから、走ってもその半分くらいの時間が掛かるだろう。でもそんなことはどうでもよかった。とにかく、一刻も早く相棒の姿を見たくて、無心に脚を動かした。


 蒼色に輝く草木や水面は造り物のように艶やかで、不規則に息を乱すウィルだけが情景から浮いている。抵抗するようにわざと大きく息を吐き川しても、それを嘲笑うかのように風景はしじまを保つたままである。

   

 目的地――大地中央の原っぱには目印となるオブジェクトがなく、いつまで経っても近づいた気がしない。走って走って、ほんの少し近づいたと思ったら、次の瞬間にはさっきよりも遠くなった気さえする。それでも脚を止めずに済むのは、進んでいればいつか必ず目的地に着けると知っているから。


 夜の明かりは大分勢いを弱めた。近くのものの輪郭がぼんやりと認識できる程度の薄暗闇の中、ウィルは漸く辿り着いた。ライムは昼間別れた時と同じ場所で、弱りこんだような様子で俯せていた。丁度、初めて出会った時と同じ体勢だ。


 お互いに気が付いたのは、全く同じタイミングであった。少年が竜の紅い瞳を見つめた時、竜も同じ色の少年の瞳に視線を送っていた。両者とも、死んでしまったように体を微動だにさせない。ライムは、信じられないものをみたように目を見張っている。ウィルは息切れしていたことを忘れてしまったかのように、口を少し開いたままで固まっている。  

                                      

「変な顔をしているよ、ライム」


 すごく饒舌でいるつもりで、ウィルはそれだけしか言葉を出せない。必死に舌を動かしているはずなのに、音になるのは期待している十分の一程度だ。


 ライムは子犬のようにか細い鴫き声を、一度だけ上げた。ウィルの心房はきゅっと締め付けられて、反対に瞳の滴と言の葉は堰を切ったようにどっとあふれ出した。                             


「馬鹿だなあ。俺に捨てられると思ったの?そんなことしないよ。できないよ。俺がライムを置いていくなんて、ある訳ないじゃないか……」


 ライムの鱗を撫でる手が震える。その言葉が自分にどう作用するかなんて、どうでもよかった。


「ねえライム、今まで言ったことなかったけど、俺はお前のことが大好きだよ。ずっと傍に居てくれて、強くて、速くて、賢くて、どんな時も頼りになる。こんな素晴らしい友達、他に居ないよ」


 無言のライムは、その大きな体でウィルの言葉を全て吸収してくれる。だからこそウィルは浮かんだ思いを全て吐き出すことができる。


「これからもずっと一緒に居るよ。何があっても見捨てたりしない。少し無茶を言ったり、今は食べちゃ駄目だってうるさく言うかもしもないけど、許してね。その代わり、もうお前にひどい事はさせないから。必要のない殺しなんてさせない。誰が敵になっても、お前の事は絶対に俺が守る。だから、だからお願い。俺を、許して……」


 蒼い星は地平の先に沈んでしまった。日も昇らないこの幾ばくの時間帯は、大陸で唯一真っ暗闇が広がる瞬間。だから、この人知れぬ地で寄り添い合うこの画を見る者は、絶対に居ない。


「ウゥ……」

「うん、そうだ。めそめそしている場合じゃないね。俺たちにはまだやることがある。急ごう」


 明るくなる前に、ウィルたちは大地を発つことにした。もしや敵兵がまだ潜んでいるかもしれないし、大きな移動は暗いうちにしたいと思ったのだ。


 ウィルは飛行中、しきりにライムに話しかけた。返事が返ってくる訳ではないから殆ど独り言に等しいのだが、これが何故だか気分を楽にしてくれる。戦争中はこんな交流も稀だったから、なんだか懐かしさすら覚える。


「ね、戦争が終わったらどうしようか?軍に入っても戦が無ければ退屈な日々が続くだろうし、あんまり得は無さそうだよね。先の戦争の英雄だって祭り上げられても困るし。――そうだ、ノートルみたいに商売を始めようか。ライムの速さがあれば、きっと商団なんか蹴散らして天下をとれるよ」


 そんな夢物語を口にして、不意にウィルは現に戻った。


「……馬鹿だなあ、何言ってるんだろう。そんなこと、できるはずないのにね」


 だって、こいつは人を喰うから。普通のドラゴンのように、人間社会の中でうまく立ち回れる訳がないんだ。


 けれどもし、もしライムが普通の竜だったらどうだったろう。あの陽気な行商人のように、あるいはあの熱血の教官のように、無邪気に相棒を愛して、好きなように生きられたんだろうか。何の制限もなく、誰の目を憚ることもなく、自分のしたいように暮らして行けたのだろうか。


 そんなこと考えたって仕方ないのに、ウィルの想像は止まってくれない。ダルネフの訓練所で、他の竜たちと同じように竜舎で世話されるライムの姿。イグルクや、他の学友と対等に競い合う自分の虚像。


 そんな夢のような日常は、絶対に訪れることはない。何故なら、この竜は人を喰うから。世界に災いをもたらす、伝説のサラマンドラなのだから。

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