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竜を駆るもの  作者: なろうなろう
第二章
23/33

微睡みからの目覚め

 ――長く見ていた夢ほど、目覚めた時の衝撃は大きい。




 真っ白な大理石で組まれた巨塔の内部。幾何学的な装飾が施された床柱が、両壁の開口部から差し込む陽光に眩しく照らされている。かつて安置されていた偶像や聖壇は一切取り払われ、千人を収容できる大部屋はからっきしがらんどうである。


 空間の中央には、竪琴を奏でる眉目秀麗の人影が一つ。いにしえの言説を嫌う革新者、メルセル商団のユウェインである。だが、今の彼は物売りでも革命家でもない。政治や経済とは無縁の、純然な音楽家としての顔を覗かせている。


 歌が本領のユウェインだが、楽器の腕前も並々ではない。とりわけ竪琴に関しては、大陸中を探しても彼の右に出る輩はないだろう。


 障害物の無い大空間は、至極の劇場のように演奏を豊かに反響させる。甘い琴の音は一つ一つが星の輝きのように艶やかで、その連なりが乳白色の銀河を成している。天空の調べを織りなす細い指先と弛まぬ弦の触れ合いは、創世の夫婦神の語らいのようだ。

     

「ユウェインさま」


 琴弾きの名を呼ぶ、若い男の声。演奏に一つの区切りがつくや否や、見計らっていたように従者の青年が現れて、主人を俗の世界に引き戻したのだった。


「――なんだい?」


 詩人から還った豪商は、やや不服そうに反応を示す。


「クヴィス将軍が見えております。閣下に直接お話があるそうです」

「……それは珍しい。いいでしょう、すぐに通しなさい」


 ここは普段、特定の者しか招き入れぬ秘密の空間。本来血生良い軍人など受け入れたくないのだが、聖戦の重要なパートナーをそう無下に扱うわけにもいかなかった。


 従者の手引きで、真白の立方空間に仰々しい甲冑姿の男が入場する。神聖な儀式の場に土まみれの野犬が侵入してきたような異物感が、そこにはあった。


「ここに入るときくらい、鎧は脱いだらどうです?」

「申し訳ない。しかし戦地から急ぎ馳せ参じた身、どうかご容赦願いたい」


 ユウェインはこの将官に一定の評価を与えていたが、人間としてはいまいち好きになれなかった。堅物で融通が利かず、話していても面白味がない。それはクヴィスの側も同じだったようで、両者の関係は全く進展する様子を見せない。彼らがこうして対面すること自体、未だ三度目か四度目くらいだ。


「私に用がお有りで?」

「……シルデンは依然厳しい状況に置かれています。地上の楽隊は対策を取られて効力が弱まっていますし、制空権は完全にイザヘ移りました。この状況をどう見ているか、貴公のご意見を伺いたい」

「黒竜の騎士が舞い戻ってきて、イザ兵の士気が高まっているのでしょうね。当の本人は戦場に出てきませんが、兵営に控えているだけで軍の力を底上げしてくるとは厄介なものです」

「ではやはり、黒竜の騎士を討つ必要があるとお考えですか」

「それができれば楽なんでしょうが、難しいでしょうね。戦場で倒すことも叶わないし、暗殺の方も遂行される見込みがなさそうだ」

「遂行される見込みがない、というと?」

「失礼、お話していませんでしたね。既に黒竜の騎士の元には、商団からの刺客を送り込んでいたのですよ。ところが、一向に目標を撃破したという報告があがらない。正体が割れてお縄についたのか、はたまたターゲットに情が移ったのかはわかりませんが。ここ最近は定期連絡さえ来ませんから、今後機能する可能性も低いでしょうね。勿論こちらから再接触を図ってはいますが、あまり期待はしないでください」

「そうですか……」


 クヴィスは落胆の色を隠せなかった。前線を離れて余裕の奏楽に興じているユウェインには、何らかの勝算があるものと期待していたからだ。


「しかし、そう悲観しないでください。黒竜の騎士を引っ張り出す方法は考えています。明後日の軍議の場で、詳しくお話しいたしましょう」

「なんと。それは頼もしい」


 急に晴れやかになる総司令官の顔つき。案外素直に感情を示す男なのだなと、ユウェインは印象を改める。


「それから、もう一つ気がかりなことがあります。黒竜の騎士を破って以降、ハイス殿も一切戦場に出陣なさらない。何か事情をご存じでありませんか」

「それは私にではなく、ハイス殿ご木人に訊かれたらどうです?」

「ハイス殿は貴殿の配下であるし、貴殿に訊くのが適当だと思ったのですが」

「英雄ハイスが私の部下?ひどいご冗談を。あの誇り高き騎士が、私などの下につくものですか。我々は利害の一致の為に、一時的に手を組んでいるに過ぎません。私は彼にシルデン軍将官の地位を与え、彼はそれに見合った働きをする。そういう、一種の契約関係です」


 なるほど、確かにそちらの方が納得できる。クヴィスは若い頃のハイスと対面したことがあるが、人の下につくのをひどく嫌う性質だった。


「私見を申しあげるなら、ハイス殿についての心配は無用だと考えます。今前線に参加していないのは、無闇に自身の姿を晒すのが得策でないと知ってのこと。黒竜の騎士――あるいは古い英雄の片割れがもう一度戦場に現れれば、自ずから先陣を切ってくれますよ」

「彼にも何らかの思惑があると。であるのなら、多少は気が楽ですな。黒竜の騎士を戦場に引きずり出したところで、ハイス殿が居なければ太刀打ちができませんから……」


 ユウェインは、クヴィスの不安を拭い去るカードを全て持ち合わせていた。それも当然だろう、彼はこの戦争でイザを打ち破る構想を綿密に描いていた。


 黒竜の騎士の除去。マグタンクの無力化。そして、来たるべき最終決戦での計略――。事は良好に運ばれている。このまま時計の針が進めば、必ずやシルデン聖国に勝利がもたらされる。その先にあるは、迷信や伝説に囚われない理性的な世界。


「リレーネ、もう少しだ。私の理想まで、あともう少し――……」




「二人の昇進を?」

「ええ。ウィルとイグルクはとてもよくやっています。このまま二等兵に留めておくのは、あまりにも不憫です。どうか彼らの階級昇進をご検討頂けないでしょうか」

                              

 参謀天幕を訪ねた中尉ジエンは、元帥ザスティンに直談判を試みていた。自分の配下で命を投げ打って奮戦する少年たちに、せめてもの報いを与えてやろうと思った次第である。


「君はつくづく気苦労が絶えない男だな。部下の安否を心配していたと思えば、今度は彼らの昇進の請願か」


 ザスティンも半ば呆れたような笑みを浮かべる。けれどもジエンは、この上官に侮られることを憚らなかった。いくら皮肉を浴びせられても、毅然とした態度で最高司令官の瞳を見つめ返す。


「しかし、若き英雄をいつまでも二等兵の身分で留めておくのは愚策なのも確かだ。恐らく陛下も同じように思っていらっしゃる。君が案じなくても、此度の戦争の功労者はすぐに特進を果たすさ」


 ジエンの表情筋が弛緩する。思いの外、歯切れのよい答えが聞けたものだ。


「安心しました。これで二人とも――」

「ただし、灰褐色の髪の少年。彼の昇進は認められない」


 希望の一部は、ぬか喜びに変貌した。それも、丁度半分というもっとも残酷な割合で。


「……どうして、ですか」

「訓練兵から昇格したばかりにしては、よく働いてくれている。だが、それはあくまで経歴の浅さを鑑みての話。現時点での昇進に見合うだけの働きをしているとはみなせない」


 実績不足。あんなに素晴らしい働きをしているイグルクが?確かに、ウィルと比べれば派手で目立つ功績は残していない。しかし、報告書の数字を見るに、彼の奮戦は明らかなはずだ。イグルクの敵撃墜数、鹵獲物資量、通算飛行距離……これらを総合的に鑑みれば、イグルクは隊の中でも三本の指に入る好成績を残している。これで働きが不足しているとなれば、大半の竜騎士は職務怠慢だ。


「それだけじゃないだろうと言いたげだな。いかにもその通りだ。彼を容易に昇進させられぬ第二の理由がある」


 ジエンの見当は違っていなかった。どことなく不穏な空気を感じつつも、司令官の言葉の続きを促す。


「素性のよくわからぬ者だったので、密偵に身辺調査をさせたよ。するとどうだ、彼はシルデンの生まれじゃないか」


 イグルクがシルデン出身であることは、容姿や言動からそれとなく察していた。しかし、


「それが何だと言うのですか。竜騎士の中には異国出身の者も多く混じっています。司令官は、出生地だけで兵士を差別するおつもりですか」

「落ち着けジエン中尉。私はなにも、出身地によってのみ人を判断しようとは思っていない。問題なのは、彼が商団と縁のある点だ」

「メルセル商団と……?」

「報告書によると、彼は齢七つの時に親元から離れ、商団に引き収られたそうだ。以後五年に渡り、商団の下で軍事訓練を受けている。十二の頃自分の意思でイザに渡ったというが、これを聞いて誰が商団の息がかかっていないと断言できようか」

「……彼はイザの心を持っています。国を守る矛に衿持を抱き、民を苛む商団を憎んでいます」

「それが演技でないという証左はどこにもないな」


 ジエンの苦しい反駁はしかし、ザスティンに取り合ってもらえない。


「ところで、イグルク少年はウィル少年と親しいそうだな?」

「私は詳しく存じませんが、他の者に対してよりは心を開いていると思います。それが何か?」

「二人の関係についても疑問が上がっているのだよ。……これは恐らく君の隊員からの口添えだがね、イグルク少年がウィル少年の周囲を嗅ぎまわっているという話を聞く。それも初めからではなく、ウィル少年の名声が大陸に広まりだした時からだ。訝しい話とは思わなんかね」

「――司令官は、イグルクニ等兵をお疑いなのですね」

「得体の知れぬ人間を、おいそれと信用できないという話だ。特に、私のような立場ではな」

「…………」


 司令官の言葉に嘘はないのだろう。その状況ならば安易に階級を与えられないというのも納得だ。しかしジエンの中には、どうにもやりきれない思いが燻ぶった。


 あれだけ忠実に任務をこなす男が、どうして国を裏切ろうか。あれほどひたむきに努力を続ける少年が、どうして何の報いも受けられないのだろうか。ジエンは悔しさを両の拳で握りつぶしてから、ようやく口を開いた。


「お話はわかりました。貴重なお時間を頂き、ありがとうございます」


 と、背を向けたジエンに、ザスティンは尚も問いかける。


「ウィル少年は医務天幕に居るかね?」

「そのはずですが」


 素直に返答した一瞬のち、ジエンは質問の意味に気付いた。だが、その流れに抗う術を彼は持たない。続く司令官の言葉を、黙って耳に挟む他なかった。


「よろしい。では後ほど、伺うとしよう。諸刃の剣を使わねばならぬ時が来た」




 ウィルは相変わらず、薬臭い天幕で毎日を過ごしていた。もう怪我は治ったのだからせめて外で体を動かしたいと主張したのだが、「どこで命を狙われるかわからない。大人しく屋内に居てくれ」と命じられて、ずっと閉じこもりっきりである。マグタンクらと共に遠出したことが知られた後はより監視が厳しくなって、天幕の周りには屈強な守備兵が常に十人以上控えている。これではまるで、王に偏愛された囚われのお姫様のようだ。


「イグルクも居ないし、退屈だな」


 傷を癒したイグルクは、数日前から前線に復帰していた。マグタンクにもようやく後方支援の仕事が与えられ、ウィルの親しい者は一斉に天幕から姿を消してしまった。――いや、イグルクに関しては決して親しいとは言えないのだが。寧ろ、先日彼の生い立ちを聞いた以降はどういう態度で接したらいいかわからず、よそよそしさが加速していた。


「ウィル、速報が入ったぞ!今日もイザ軍は快勝に次ぐ快勝!北方面の敵歩兵団は壊滅、楽団員も多数捕えたそうだ」

「そうですか。それはよい報せですね」


 同室の怪我人が、嬉々として戦況を報告する。だが、今やウィルの関心は戦争の趨勢には向いていなかった。彼の頭蓋を占めているのは、はぐれ学者メイズが語った言葉――サラマンドラを無害にしうる「実」のことだった。


 ウィルは軍を抜け出してその実を探しに行こうという衝動に、何度も襲われた。しかし残される仲間たちと、何よりライムヘの食糧提供のことを考えると、安易に軍を抜けることはできなかったのである。


 メイズはまた、実は大変稀少なもののはずだと言っていた。容易に入手できないからこそ、サラマンドラが無害化するのは稀な事例なのだという理屈である。


 珍しい実――一体どこに、それはあるのだろう。直感的に可能性が高そうなのは、別れの大地だ。人が寄り付かない幻の秘境となれば、常人が知りえない食物があってもおかしくない。けれどあの大地に入るには、シルデンを屈服させなきゃならない。となると結局、自分がすべきことはこの戦争への尽力の他に無いか……。


 そんな物思いに耽っていると、俄かに天幕の戸が聞かれて、薄橙の西目が屋内に差し込んだ。眩しさに目を細めながら戸口に目を遣ると、逆光を浴びた影がいくつか立っている。その中の一つは、司令官ザスティン。


ウィルは驕りでも自惚れでもなく、訪ねられたのは自分だと確信していた。時が来たのだ。黒竜の騎士を使わねばならぬ、運命の時が。


ザスティンは、ウィルの状況理解力に満足げな表情を浮かべながら、しゃがれた声でぼそりと言った。


「ウィル、出撃の時だ」




 凍えるシルデンの冬の夜。空には蒼い星が煌々と輝いている。ウィルとライムは、天幕の外に居た。闇色の鎧に、前面を覆う黒兜、背中にはかつての英雄が愛用した長槍が背負われている。


 息を吐き出すと、凝結した水滴が蒼光を乱反射して、儚い小運河を作りとげた。眠ったように大人しい黒竜の鱗に触れると、掌からすっと体温が奪われていく。その巨大な氷床によじ登ると、自分の背丈の次に見慣れた視点の高さが現れる。ウィルは瞼を伏せて、夕刻に語られた言葉を思い返す。

  

 ――イザは依然としてシルデンに連勝を続け、漸次敵の都に追っている。残った距離は、飛竜を飛ばして三日程。シルデン側は強固な補給経路を活かしてどうにか兵力と物資を繋いでいるが、戦いが長引けばいずれ持ちこたえられなくなる。そうなったら一気に前線を押し上げて、全軍で都を包囲し兵糧攻めでもしてやればいい。


 ……と見込みを立てていたイザだが、そう悠長なことを言っていられない事態が展開した。南方パスティナ諸邦が、シルデンに加勢すべく動き出しているというのだ。


 商団当主ユウェインはその経済力を背景に、商団への依存度が高いいくつかの領邦――それも先の前哨戦に加わっていないフレッシュな国々を味方につけた。当該軍はパスティナ・シルデンの国境を成す大河を渡り、イザを後方から攻撃してくると予想される。前後から挟み撃ちとなれば、いくら百戦錬磨のイザ軍とてひとたまりもない。


 イザは長期戦の選択が取れなくなった。戦争に確実に勝利するためには、パスティナからの援軍が届く前に、迅速にシルデン軍を撃破しなければならない。その為に成すべきことは、シルデンの持久力を支える後方支援体制の破壊である。


「そこで君の番だ、ウィル。君の竜の神速を持って敵の都を急襲し、敵重要拠点及び支援要員を撃破してほしい。うまく事が進めば、我々はシルデンの体力を大きく削り、安全に戦いを遂行することができる。これは闇夜に紛れて空を駆る、君たちにしかできないことだ」


 またしても単独での任務。しかも内容が破壊と殺戮とあれば、ウィルの十八番である。その具体的目標は――


「調竜師……」


 自軍竜騎士の機動を阻害するシルデンの騎竜隊は、依然として厄介な存在だった。その影響力を削ぐためには、ドラゴンたちのケアを行う調竜師を狙うことが何より効果的であると、イザの竜乗りたちはよく知っていた。


 人殺しに慣れたウィルも、この任務にはどこか心苦しさを覚えた。目分と同じ紋様を待った同胞の命を奪うのは忍びない。ふと、ダルネフで親しくなった調竜師の少女のことが思い出される。この任務が終わった時、自分は彼女に顔向けできるだろうか。


「躊躇っている場合じゃないか……」


 自分は個人である以上に、イザに使える騎士であり英雄である。故郷の民が、偉大なる国王が、ダルネフの友人たちが、黒竜の騎士に希望を抱いている。その期待に応えない訳にはいかないのだ。


「行くよ、ライム。また一つ、大きな仕事だ」


 出発の掛け声。凍りついた黒岩石は、俄かに大翼の生命体に姿を変えた。


 今宵は、一月の内で最も強くユウェインの星が輝くとされる日。雲よりも高く空を飛べば、蒼星は一層近くに感じられ、その光で身を焦がしてしまいそうな具合である。視界に映る何もかもが蒼い。体下の竜の鱗はその光沢に彩りを含ませていて、宝石詰めの絨毯に乗っているかのような錯覚を抱く。


 イザの軍営を一瞬で置き去りにすると、雲間の隙間から敵国の天幕が顔を覗かせた。松明の光が小さく揺らいでいるが、その炎はこの上空まで照らしえないだろう。一体誰が、こんな夜更けに自分たちの上を通過する騎士があると予測できるだろうか。

        

 唸る冷風を浴びながら順調に加速すると、谷間と小峰が複雑に入り祖んだ丘陵地帯が見えてきた。この地形が、シルデンの都を敵襲から守る天然の要塞。半島の先端にあって三方を海で囲まれる都を攻め入るには、ここを突破するしかない。幾重にも罠が施されているだろうこの地を歩兵が通るのは、多大な困難が伴うだろう。しかし、空を飛ぶ竜騎士にとっては、下位次元の戯れでしかない。


 竜乗りにとって本当に関門となるのは、寧ろ都の城門。恐らくテジュータ同様……いやそれ以上に要塞化しているだろう。その不安の対象が、やがてぼんやりと影形を露わにしてきた。


 近づくにつれて漂う潮の香り。大都市の背後には水平線を成す巨大な水たまりが広がっていた。奇しくもウィルが海を見るのはこれが初めてのことで、その匂いの正体を判別できなかった。


「何だろう、不思議な香りだね。――さあライム、もうすぐ着くよ。戦いの準備を」


 近づくにつれ明らかになる街の要望。シルデンの都は背の低い建物が並ぶ平たい街である。高層建築を好むイザの街並みとは好対照だが、これは高い建物を厭う商団の趣味らしい。人口が過密化しているためか、びっしりと小家屋が密集しており、狭苦しい印象を受ける。


「多分、あれじゃないかな。目標の建物」


 その特徴は、ウィルに有利に働いた。いくら背の低い建物が好ましいとはいえ、ドラゴンを収める竜舎にはある程度の高さが必要である。軒並み低い屋根が続く中で、頭一つ抜けた建物があれば、すぐに見当がついてしまう訳だ。     

                      

 さて、いざ城門上空に到達したウィルだったが、警備は拍子抜けするほど甘かった。胸壁上の見張り番も含めて、門の周囲には五、六人の兵士が控えるばかり。それも剣の握り方すら覚束ない雑兵ばかりで、ウィルに脅威を与えることすら叶わない。恐らくまともに戦える兵士は全て前線に駆り出されており、都には素人の寄せ集めしか残っていないのだろう。


 幾度か槍を振り下ろすと、忽ち城門は無人になった。なるべく物音を立てずに後始末を澄ますと、先程見当をつけた建物へと舵を切る。


「うん、順調だね。この調子で行こう」


 ――今回ばかりは余計な死傷者を出さぬよう、指示を受けている。司令官や小隊長の期待に報いるためにも、絶対無為な殺戮をしてはいけない。ライムにも、今回は食事をしないように指示しておいた。賢い相棒は、その言いつけをよく守ってくれている。


 街は死んだように静かだった。時刻は日付を跨いでから半時あまり。誰もが寝静まっていて然るべき、夜の更けだ。黒い疾風は、異国の空気に溶け込むように、まるっきり気配を消して西の都を低く飛んだ。


 目標の建物は、鉄格子で囲まれただだっ広い敷地内の中にあった。四方を森で囲まれているだけのダルネフに比べると、随分ものものしい厳重さである。例によって地上の障害を無視し、上空から囲いの内側に着地する。風音一つ立たない、お手本のような着陸だ。


 ウィルは竜の背から降りる前に、高い位置から敷地の内部構成を窺う。東方からやってきたウィルの向かって右手、即ち北側には粒の荒い砂地が広がっている。一見無味乾燥なグラウンドには、石灰によって敷かれた白線や等間隔に打ち込まれた杭、同心円の描かれた射的用の的といったオブジェクトが散見された。イザ――少なくともダルネフよりは、ずっとシステマティックな訓練を行っているようだ。


 一方左手には、目ぼしい建物が三つ。左端にはメルセル趣味らしい奢侈な装飾の大理石棟。それと並列するように、いくらか簡素で背の高い建築物が立つ。こちらが遠くから見えていた大建築だ。二棟は背の低い渡り廊下で繋がっており、その奥にはもう一つ同じ趣の建物が覗いている。遠目からは判断しづらいが、三棟の中で最も背が低いみたいだ。


「ライム、少しここで待っていてね」


 やっと地上に降りると、相棒に待機を指示し、忍び足で建築に近づく。足を踏み下ろす度に荒い砂粒がじゃりじゃりと音を立てて、凍えるウィルの腸を、さらに冷やした。


 最も大きな建築の間近に迫る。赤錆のない鉄の二枚扉の隙間から、細い風の筋を感じ取った。ほんのわずかに、戸が開いているようだ。


 肘から先だけを動かしてゆっくり右の鉄板を押すと、土と煙が混ざったような独特の匂いが鼻をつく。鍵慣れた、竜の匂い。――ここは、竜舎に違いない。


 果たしてその予感は違っていなかった。照明のないはずの高天井の空間は、一面の天窓から差し込む妖光に照らされて、冷たく淡い色に包まれている。通路を挟むようにして左右には木柵が張られていて、その向こう側には鱗を輝かせた飛竜たちが寝息を立てている。


 ウィルの通った入り口は、建物の一番右端。左に顔を向けると、柵の向こう側に同様の区画が続いているのがわかる。ざっと百以上の竜が収容されているだろうか。恐らく、都に控える飛竜はここにあるのが全部で間違いない。


 ふっと視線を傾けると、最初の角を曲がった所に人が立っている。赤茶の長い髪。若い女性のようだ。侵入者ウィルは、その方向に向けて慎重に歩き出す。


「――よしよし、これで安心して眠れるね。本当にお前は甘えん坊なんだから」


 距離を詰めて耳に届く、穏やかな囁き。女性は自分の髪色と同じ体色を持つ飛竜の額を撫でながら、慈愛の表情を浮かべていた。その左耳の裏側に、力強く光る青の幾何学紋様。今、ウィルの首筋で光る傷痕と同じ性質のもの。彼女はドラゴンボーン。そして、竜を慰む調竜師。


 竜に夢中な調竜師は、侵入者になかなか気づかない。腕を伸ばせば触れられそうな距離まで詰まって、やっと異物の存在に気付いた。


「あの、あなたは……?」


 赤茶髪の調竜師は初め純粋な怯えを見せたが、ウィルの相貌を見るなりいくらか恥じらいのニュアンスを含ませた。それに対して、ウィルはふっと微笑みを返す。黒い殺戮者は多数の暗殺経験によって、他人に自分がどう映るのかを大方理解していた。


「扉が開いていたものだから、つい入ってしまいました。あなたは、こんな時間に竜のお世話を?」

「はい。……本当は今日、非番だったんですけど。この子どうしてかわたしにしか懐かなくて、わたしが姿を見せないと夜も眠ってくれないんです。同僚たちは、わたしたちがツインなんじゃないかって噂するんですけど……」

「それは珍しいことですね。でも、本当だったらロマンチックだ」

 ウィルは、やっと瞼を閉じてうとうとし始めた赤茶の竜を見つめる。そして、悲しみからに目を逸らすように、そっと瞼を伏せた。


「えっと、この場所に何かご用でしょうか?」

「そうですね。僕はあなたに用があるのです」

「……私に?」

「ええ。とても、大事な用が」


 ウィルは、相手に警戒心を抱かせない誠意を漂わせて、かつ己を拒ませない威圧感を滲ませて、調竜師ににじり寄った。甘い果実の香りが漂う。女は逃げない。まるで催眠術にかかったかのように、微動だにしない。


 抱きかかえるように細い腰周りに両腕を回す。そして、潜ませた輝く刃をゆっくりと逆立てた。


「あっ……」


 調竜師は弱弱しい断末魔を残して、その場に倒れこんだ。きっと何が起きたのか理解できていないのだろう。その両目は眠気眼のように半開きで、どこか遠い場所を見つめたままだった。


 暗殺者はしばらくその場に留まり、目の前の竜がこのまま息を引き収りやしないかと心配していた。足元でブドウ色の鮮血を流す女性は気にも留めない。だから、彼女の耳裏の紋様が消えかけのガス灯のようにしきりに瞬いているのには、ついに気づかなかった。


 竜舎を奥まで進むと、隣の大理石棟に通ず渡り廊下に面した。大理石棟側だけに戸が取り付けられていたが、錠は外れていた。恐らくさっきの女性が外したのだろう。


 赤塗りの建物に足を踏み入れると、甘い香水の匂いが鼻孔をくすぐった。壁面の装飾は、軍事関連施設と思えないほど華々しい。恐らく、ここは女性ばかりが集う建物。調竜師に女が多いというのは、シルデンでも共通らしい。


 壁沿いには、等間隔で木の扉が立ち並んでいる。ダルネフの寄宿等と同じ造り。ここは間違いなく調竜師の休み処だ。錠をかけなおして出入りロの状況を確認すると、二階へ上った。


 一階と似たような形で、個室が並んでいる。階段は途絶えているから、建物は二階建てらしい。黒い侵入者はフロアの様子を一通り確認すると、手近な扉の前に立ち止まってノックした。


 コン、コン。


 静寂の夜に不古な音がこだまする。応答はない。やや間をおいて一回目よりも少し強くノックすると、意外なことに一つ右隣の戸が開かれた。背の高く痩せた女。ウィルの姿を見せて、驚嘆に顔を歪ませ固まっている。恐怖のあまり、声を出すことも叶わないらしい。


 ウィルは素早く獲物を握ると、英雄の長槍で女の腹を貫いた。槍を引き抜くと、肉塊は床に倒れ込んで鈍い物音を立てた。今の音で、確実に何人か目を覚ましただろう。


「順番に訪問しようと思ったけど、やっぱり無理か」


 ぼやきながら手拭いで刃の血をふき収っていると、今度は向かいの扉が開かれた。現れた小柄な女は、侵入者の顔、ついで廊下に横たわる亡骸を目撃して悲痛な金切り声をあげた。女は半狂乱で階段へと駆け込み、階下へ降りる。ウィルは敢えてそれを咎めず、横目で流し見るのみ。これで皆起き出すだろう。その方が、却って仕事が早い。


 冷徹な殺戮者は、二階の部屋から飛び出した者を二、三屠ると、階段を下りて建物の外へ出た。


「きゃっ!」


 冷気と共に耳に触れる、甲高い悲鳴。寄宿棟を飛び出した調竜師たちの前に、漆黒の相棒が立ちはだかっていた。


「ライム、片づけて」


 主人の命を受けて、黒竜は前肢を大きく振り上げて、鋭い爪で女の体を引き裂いた。調竜師の胸部から、噴水のように血が躍り出す。


「いいぞ、そのまま――」


 しかし、ここで思いも寄らぬことが起こった。次の瞬間、ライムは出血する女の体にかぶりつき、そのまま頭部を噛み千切った。肉と骨を粉砕する邪悪な調べが静寂に跋扈する。


 見物する女たちは、この世のものとは思えぬ聞き苦しい鳴き声をあげる。ウィルはその雑音にかき消されぬよう、腹の底から大声をひねり出した。


「ライム、やめるんだ!今日は食べちゃだめだって言っただろう!」


 しかし、捕食者は利く耳を持たない。最初の女を食い終えたかと思うと、次々に他の調竜師たちを襲い貪り始める。


「どうしたんだ、一体。今日に限って、こんな……」


 賢い相棒は、普段決して言いつけを破ることは無い。ウィルの許可無しに食事をすることなんて絶対なかったのに、今宵ばかりは完全に理性を失っているように見える。


 さて、女たちはライムの捕食をしかと目撃してしまった。だが、さした問題ではない。どうせこの場に居るものは全員殺す予定だった。無関係の者にこの惨劇が伝わらなければ済む話だ。大丈夫、状況はしっかり把握できている。竜舎の敷地は閉ざされているし、外にも人気はない。事態は隠し通せる。


「仕方ない。今目はお前の好きにしていいよ。でも、残したりせず全部綺匿に片づけるんだよ――」


 暴食の惨劇はものの四半時足らずで終わった。残されたのは砂場にしみ込んだ血液痕のみ。ライムの炎を以てすれば、ただの黒ずみに色味を変えるだろう、


「――なんだこいつは!」   

                                     

 安堵するウィルの背後から、調子の確かな男の声。振り向くと、頬に蒼い光を宿した青年の姿。その後ろに、似たような姿の男が更に数人。それらの更に後方からは、低く濁ったどよめきが立ち込めている。どうやら、奥にある小さな建物から現れたらしい。大きさからして物置小屋だろうと想像していたが、あれは男性用の寄宿棟だったらしい。


「その鎧、まさかイザの者か!」


 惨劇も遺体も目撃していない彼らは、まだ幾分穏やかな想像に浸っていた。目の前の少年が噂の『黒竜の騎士』とはいざ知らず、果敢に応戦しようと構えている。


「……ライム、まだ食べるかい?」


 しかし戦闘訓練も受けていない丸腰の男だちなど、ウィルとライムにとっては虫けら同然だった。目の前の男たちの影を一瞬で奪うと、物置紛いの宿舎に向かう。中には睡眠狂いと意気地なしが残るのみで、戦闘にすらならなかった。


 これで男の調竜師たちは全滅した。あとは女の残党を狩るだけだ。と物置小屋を出たところで、ウィルの目は大きく見開かれた。敷地の内外を分ける鉄門が開け放しになっている。物置小屋の掃除をしている問に、女の生き残りが外に逃げ出したのだ!


 ちらと大きい方の寄宿棟を眺める。逃げ出すのに十分な時間があった。恐らくあの建物には、もう誰もいないだろう。


 ウィルは敷地内での生存者探しは断念し、逃げた調竜師を追うことにした。もし敷地に人が残っていれば、取りこぼしが発生する。危険な賭けになるが、想定が当たっていることを祈るしかない……。


 鉄門前の砂場には、大小四組の足跡。逃げ出しだのは全部で四人だろう。大量の肉を食らって少し休を重そうにしているライムを羽ばたかせる。首筋の紋様が、さっきよりも熱を帯びているように感じた。


「やっぱり人手が無いっていうのはハンデになるね。さ、急いで追うよライム」


 敢えて余裕げなセリフを吐く。こういう時には焦りが最も禁物だと、ウィルは学習していた。


 上空から入り組んだ路地を俯瞰すると、城門のある東に向かって駆ける四つの影を捉えた。深夜の街を走る影は他にない。足跡の数とも一致するから、あれが離脱した調竜師の集団に間違いない。


 いざ、急降下。――と命じる直前、上空の脅威に気づいた集団は、ライムの入り込めない細く狭い路地へと逃げ込んだ。


「……先に気づかれたか。面倒なことになったな」


 仕方なく、付近の手ごろな家屋の平屋根に着陸する。ここから先は、自分の脚で捕えるしかない。


「ライム、ここで待っていて。見つからないようにね」


 今度は素直に頷き返す相棒に安堵を覚えると、勢いよく路地の底面に飛び降りた。薄暗いが、カビの匂い一つしない。さすがシルデン王室……いやメルセル商団のお膝元とあって、隅まで手入れが行き届いている。


 すぐには走りださず、地面に耳を当てて感覚を研ぎ澄ます。こんな静かな夜では、走る振動でもしっかり感じ取れるものだ。


「……こっちだ」


 敵の姿が見えぬはずの暗殺者は、まるで匂いで獲物を追う獣のように、迷うことなく枝分かれの多い路地を疾走した。


 間もなく、地面に両膝をつく目標の姿を捉える。周囲に他の調竜師の姿は見えない。どうやら転んだせいで置いていかれたらしい。


 背後から槍を突き刺すと、仕留めた得物を路傍に転がす。これで一匹目。残るは、あと三匹だ。ウィルは一切焦りを見せない。再び地面に膝をついて、もう一度聴覚を研ぎ澄ます。


「……遠くなったな」


 機敏に動く足音が一つあるが、振動が小さすぎておぼろげにしか方向を掴めない。止む無く、大よその見当だけで捜索を開始する。自分の足音は殺し、決して相手からは位置を悟られないように……。


 静かに歩き、角を曲がり、耳を澄ませる。その繰り返し。次第に音は確かに聞こえる。もうちょっと。あとほんの少し。次の角を曲がった所で――  

                         

「あっ……」


 若い女と遭遇する。少し縮れた髪を短くまとめた、利発そうな女だ。


「こんな時間にお敞歩ですか」                                     

「散歩……そうですね。散歩です」


 先に声を発したのは女の方だった。不意の問いかけに、思わず応じてしまう。


「わたしもなんです。なんだか最近寝付けなくて、夜中によく出かけるんですよ。家族から、危ないからよせと言われているんですけど」

「それはもっともだ。まもなくイザの軍が都に来て、治安はどうなるかもわかりませんからね」

「やっぱりイザの兵士たちって乱暴を働くのかしら。シルデンの騎士たちには頑張ってもらわないと」

「彼らは優秀ですし、メルセル商団が後ろ盾になっています。戦いの行方はまだわかりませんよ」


 井戸端会議の参加者のように饒舌に話す女。内容はとりとめもないのに、話を弾ませる特有の技量が感じられる。


「……ところで、この辺りで調竜師の女性を見かけませんでしたか」

「調竜師?いえ、その言葉を初めて間きました」

「……そうですか。それにしても、」


 この戯れに興じる自分は、一体どんな心持なのだろうか。ウィルは自身の内情すら測り兼ねていた。ただ言えることは、この女性の一挙手一投足が大変興味深い。なにせ今日が蒼く明るい夜じゃなければ、きっと何の疑いもなくこの会話を楽しんでいただろうから。


「演技が、お上手なんですね」

「えっ――」


 短い刃が、女の脇腹に突き刺さる。どくどくと、熱い血潮がウィルの手の甲を伝わった。


「でも、印は隠せていない。あなたの左胸、服の上からでも光が漏れ出ていますよ」


 女は、自分の間抜けさを自嘲するようにふっと口元を緩めて絶命した。残るは、あと二人――。


 三度地面に耳をあてるが、相変わらずそれ以上の音は届かない。移動していない……ということは、どこかに隠れているのだろうか。指針を失ったウィルは、仕方なしに路地をしらみつぶしに歩き回る。だが、その足取りすらてんで掴めない。


 何の手がかりも得られぬまま、かなりの時間が過ぎ去った。蒼い光がだんだん弱まってきたように感じる。夜明けが少しずつ近づいているのだ。――急がなくては。


「ォオオオオ」


 焦るウィルの上空から、耳慣れた威勢のある咆哮。主人を心配したライムが、言いつけを破って駆けつけてきた。


「時問かかりすぎて心配かけちゃったか、ごめんね。……うん、そうだね。空から捜してみよう」


 彼らはもはや以心伝心。使う言葉は違えど、お互いの考えが手に取るようにわかる。


 道脇の建物の壁をなんとかよじ登り、ライムと合流する。そのまま上空に昇って路地を見下ろすと、すぐ近くに蒼い光の筋を僅かに捉えた。


「なんだ、あんな近くにあったのか」


 急降下して、一番近い屋根に降りる。よく目を凝らしてみると、路傍に置かれた木箱の裏から光が漏れ出していた。


 気付かれぬようゆっくりと箱に忍び寄る。路地を吹き抜ける風の音に紛れて、ひゅーひゅーという細い呼吸音が聞こえてくる。胸の前で抱きかかえられそうなほどの、腐りかけの木塊。よくこんなところに隠れたものだ。


 間合いも置かず、素早く蓋を取り上げる。中から立ち上がる人の熱。そこには齢七つか八つほどの、手足の細い少女が身を震わせていた。その左肩には、因縁の蒼い紋章。


「――子供だったのか」


 思い返してみれば、竜舎の砂地には成人のものとは思えぬ小さな足跡があった。きっとこの子が残したものだろう。


「いやっ……!」


 少女は体を烈しく揺すって軽い木箱を四半回転させると、地面を這うようにして隠れ家から抜け出した。


「やめて、来ないで…!」


 尻もちをつき、後ずさりをしながら少女は懇願する。対するウィルは、表情一つ変えない。


 どうして人は、殺される時に相手の顔を見ようとするのだろう。背中を向けて全力で逃げた方が、まだ生存の可能性がありそうなものだが。殺人者に命乞いをするため?それとも、それが動物としての本能なのだろうか。


 殺人鬼の頭の中にあるのは、経験に基づいた科学思考。情や心といったものは、一切含まれていない。


 兵営を移動するのと同じ歩幅で距離を詰める。地面の霜が崩れて、足元からは水煙が立ちこめる。やがて、少女の体はすっぽりと影に覆われた。目の前に立つのは、彼女と同じ背丈の少年。


「く、来るなイザ兵め!」  

                                    

 ウィルは視線を横に移す。少女が隠れていたそれの隣にあった木箱の位置が、少しずれていた。さっきまで隠れていたのを、飛び出してきたらしい。


 少年の紋様は右の踝にあった。革靴が光を遮断して、空から見えなかったのだ。隠れていれば自分だけは助かったのに、どうして出てきたのだろう。  

                              

「お兄ちゃん、逃げて!」

「いやだ。お前を置いていかない!俺が絶対に守る」


 少年は膝を震わせせながらも、間近の敵兵から目を逸らそうとしない。瞳に熱いものが宿っている。ウィルは、それが何であるのか知っている。


「兄妹――」


 暗殺者の脳裏に、色鮮やかな何かが浮かび上がる。それはそのまま瞼の裏まで伝わって、現実の冷たい光景を塗り替えた。




 ――いつか、こんな出来事があった。父の友人が駆るドラゴンが逃げ出して、皆で森を探し回った。初めに見つけたのはウィルとティナだったが、興奮した竜は鼻息を荒くしてティナに迫った。普段勝気なティナだったが、この時ばかりは本当に怖かって泣き山してしまった。ウィルは震える足を引きずって妹の前に立ち、「どっかに行け」と嘯く。結局そのあとすぐに大人たちがやってきて場を収めたのだが、ウィルにとっては非常に意義深い出来事だった。臆病な自分が、初めて率先して妹を守ろうとした。自分の身を挺して、妹を庇おうとした。何故か。だって、それは――。




「う……うわあああああっ!!!!!」


 その瞬間、ウィルの中で何かが弾けた。まるで特効の麻酔が切れたかのように、今まで隠してきた痛みが一斉に襲い掛かってくる。


 皆、同じだったはずだ。土砂に川もれた若い婦人も、砦や街を守っていた兵士たちも、炎の中赤子を抱えて地を這った母親も、何か大切なものがあったはずだ。同時に、大切だと思ってくれる存在があったはずだ。それを、全て。この手によって――。


「……そうだ。俺は、ただの人殺しだ」

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