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竜を駆るもの  作者: なろうなろう
第二章
22/33

偽りの告白

 ――蝋燭の炎は、自分の心臓を燃やしている。必死で相手の左胸に押し付けても、少し風が吹けば、直ぐに自分の方へ向き直ってしまうもの。




 ウィルの帰還によって士気を盛り返したイザ軍は、戦術も新たに再攻勢を仕掛けた。彼らの作戦の肝は、陸・空軍のスワッピングであった。即ち、今まで歩兵と歩兵・竜騎士と竜騎士がぶつかり合っていた戦線を改め、歩兵で敵竜騎を陽動する間に自竜騎で厄介な楽器使いたちを叩こうと試みたのだ。


 当初この作戦は一定の成果を上げたが、シルデン側もすぐに対応した。戦線は再び膠着状態に陥ったが、情勢はややイザ側に傾きつつあった。敵戦術への適応を進めたイザ歩兵部隊は、疲弊したシルデン歩兵隊を相手に徐々に盛り返し、空中戦を間接的に支援できる形となった。こうなると、地力で勝るイザ竜騎士が後れを取る理由は無い。戦線は徐々に徐々に、シルデンの都に向けて西進を開始した。


 ウィルはこの間、一切前線に出されることはなかった。例の事件以来姿を隠している敵将ハイスだが、ウィルの生存を知ればその首を今度こそもぎ取らんと狙ってくるかもしれない。もし黒竜の騎士を軽々しく戦場に出してその首が討ちとられることがあれば、名実ともにイザの敗北は決定づけられてしまう。だからこそザスティンは、療養という名目でウィルを後援部隊に縛り付けていたのである。


 ウィルは、負傷者用の天幕で退屈な日々を送った。薬と包帯の香りがする白地の屋内を、読み飽きた専門書を捲って過ごす。幸い、イグルクとマグタンクという旧知の存在が同じ天幕にあったので、話し相手にはそう困らなかった。と言っても、無愛想の戦友は無駄な世間話には応じてくれないし、やたら元気な教官の方は『絶対安静』の診断を無視してひもねす外を走り回っていたので、口を動かす時間はそう長くなかったのだが。


「教官、また鍛錬に出たみたいよ」

「……そうだな」

「君も早く自由に動きたいと思う?」

「医者から安静にしろと言われている」


 こんな会話が、彼らの典型であった。


 ところで他の怪我人の話によると、マグタンクの生存は実に奇跡的な事だったらしい。ハイスから逃れて本営に辿り着いた時、マグタンクの傷は更に増えていた。曰く、敗走中にも敵別部隊に遭遇して追撃を受けたのだが、部下を先に行かせて一騎応戦したらしい。そんな無茶苦茶のせいで、医者が診た時には既に全身血液の半分(これは致死量の倍以上にあたる)を失っていたそうだ。それでも薄ら意識のある英雄を見て、医者は「どうして生きているんだ」と呟いたが、更に翌朝天幕を訪ねてみれば戸口の前で野良仕事に奮闘しているものだから、今度は頭からひっくり返りそうになった。――まるで神話に出てくる超人そのものだが、証言がいくつもあるのだから疑うべくもあるまい。


 そのマグタンクにも、まだ出撃命令が下ってなかった。理由は大凡ウィルと同じで、怪我人で且つハイスに狙われる危険があるからとのこと。無論、マグタンクの場合は、一つ目の理由が名目ではないはずなのだが……。


「二人とも、体調は万全か!」


 と、噂の男が突然天幕に戻ってきたかと思えば、彼なりに怪我人を気遣ったであろう控えめの大声で、教え子二人を呼んだ。


「教官、どうされましたか」

「ええい、説明するより直接出向いた方が早い。体を動かす元気があるなら、今すぐ竜を連れ出したまえ!」

「しかし、お医者さまの診断が……」

「大丈夫だ、私が既に許可を取っておいた!」


 本当か?ウィルとイグルクも、この時ばかりは教官の言葉を疑った。あんたは一度も医者の許可を得て外出してないだろうと。


 とは言っても、狭い屋内にずっと閉じ込められていた二人は、外に出たくて体がうずうずしていた。結果的に、迷わずその誘いを受けたのである。


 兵営を少し離れた更地で、白黒朱の三色の竜が並び立つ。この光景が再現されるのは、訓練所を出る時のレース以来だ。


「静かですね、今日の戦いはもう終わったのでしょうか」

「ああ。我が軍がシルデン歩兵連隊を複数破り、地上戦を制した。敵は敗走さながらに全軍撤退。我が軍の勝利は早いぞお」

「どうしてそれを知ってるんです?まだ竜騎士たちも戻ってないのに」

「前線に行って見学してきたのだ」


 この男、病室を抜け出したかと思えば、戦地に出向いていたのか。絶対安静の重傷患者のくせに、恐らく司令官より耳が早い。


「現在、騎士たちが南北の山地に広がって、制圧作業を行っているところだ。物資の補給のために、地方の小集落も訪れなきゃならんからな」


 それが必要なのは、自分がテジュータを燃やしてしまったせいだ。ウィルは仲間たちに余計な労働を強いていることを、心苦しく思った。


「それで、どうして私たちが外に出る必要があるんです」


 マグタンクの不可解な言動に堪えかねたイグルクが、ついに口を開いた。対してマグタンクは、語調を変えずに話を展開する。


「この地図を見たまえ。青線で囲った部分が、イザ軍の現在の制圧地域にあたる。その南西に、面白い文字が見えないかね」

「面白い……――あっ」


 ウィルは思わず感嘆を口に出してしまった。子供みたいなあどけない声を漏らしてしまい、恥ずかしくなる。けれども、やはりこれには関心を隠さずにはいられない。


「『別れの大地』……」

「そう!流石、ウィルにイグルク。シルデン文字も卒なく読みこなすな。我々はようやく目的の地、『別れの大地』に辿り着いた訳だ!国王陛下――ひいてはイザの全国民が臨む千年王国の手がかりが、この地にある!」


 『別れの大地』――それは千年前、サラマンドラが出現したとされる秘境。それを遡ること数百年前、同地でフィニクスが姿を消したことから、『別れ』という呼称をされている。この戦争より以前にシルデンを訪れたことのないウィルには知る由もないが、ライム――現代に蘇ったサラマンドラも、この地より生まれ出でたのだろうか。


「イザの申し出を断固拒否したシルデンのことだ。きっと大地には多くの守備兵が配置されていることだろう。……もしかすると、守っているのは商団の方かもしれんが。いずれにせよ本格的調査に乗り出せるのは、戦争を終えてかの地の武装を解いてからになるだろうな」


 確かに、現実的に事を運ぶならそれが一番だ。とは言っても、すぐそこに目的があるのに手を出せないというのは、なんだかもどかしく感じるウィルだった。


「だがしかし!せっかくこんなに近くまで来れたのだ。一見もせず横を通過してしまうというのはあまりにも惜しい。そこでどうだ。私と君たちで、ひっそり遠くから、あの大地を見てやろうではないか!」


 なんと無邪気な発言だろう。そんな事を勝手にしていいのかと思ったが、天下の大将軍の命でお供しましたという名目が立つのなら、二人とも大きな不安を抱かなかった。


「話はわかりました。私も同行します」


 先に返答したのはイグルクだった。


「ウィルは?」

「――僕も行きます」


 なんとなく、悩む時間が惜しまれて即答した。この機会を逃すと、二度と『別れの大地』を見られないかもしれない。


「では決まりだな。マグタンク決死隊、いざ参る!」


 どんな命名なんだ。いや、きっと意味なんて無いのだろう。この教官は、一々深く物事を悩んだりしないのだ。


 決死隊はシルデンに吹く三叉の突風となって、高い空を南西に進んだ。遠くに岩肌の山々が峰を成している。シルデンとパスティナを分かつ大山脈。あの高地に取り囲まれるようにして、件の大地は盆地の形状で存在している。


 周辺の山々は特に険しく切り立ち、夏場でも頂上の雪は解けない。そのため人が寄り付くことは殆ど無く、空を駆ける竜騎士でなければ、その威容を眺めることさえ難しい。まさしく、神が人類から隠したもうた秘境と呼ぶのにふさわしい立地だ。


 大陸でも有数のスピード狂たちは、ほんの一時余りで高峰の淵に達した。そこからふっと見下ろせば、大陸に開かれた異界に通ず門のような、深い縦穴が臨まれた。


 騎士たちの周囲は、蒸気が凝固した白霧で覆われていて、盆地の方もなんだか得体の知れぬ淡い発光に包まれているものだから、その視界は明瞭でなかった。辛うじて確認できるのは背の高い緑樹の頂と、それと同じ高さで点在する人工塔のてっぺんくらい。そこから推測できるのは、以前――あるいは現在でもかの地に人が居住していたということだけ。三人の中にある『伝説の息づく土地』に関する漠然としたイメージは、殆ど崩れ去ることはなかった。


「うーむ、よく見れぬなあ。もう少し近寄ってみるか」

「あまり近づくと危ないのでは?敵兵が控えているかもしれませんよ」

「その通りだ。用心して進まねばならぬな」


 そういう意味で言ったのではないのだが。と付け足す前に、朱い竜騎は盆地に向かって動き始めていた。


 ウィルとイグルクは軽くアイコンタクトを交わし、無言でその後を追う。


 しかし往けども往けども、視界は明瞭にならない。どころか、強まる吹雪によって視界はどんどん制限され、近づいているはずなのに、その姿はますます捉えづらくなった。


「教官、もう諦めましょう」

「……男は引き際も肝心だな。ようし、そうしよう。私はもう少しだけ進んでくるから、君たちはここで待っていてくれたまえ」


 それ、諦めてないじゃないですか。というウィルの心の呟きも虚しく、長身の益荒男の影は吹雪の中に溶け込んでいった。


 ウィルは再び、戦友の方に体を向ける。今度は目を合わそうとしてくれない。黙って待とうということらしい。その意を汲んで、一旦は視線を空に移した。


 ――ウィルは、自分たちが今どこに居るのか、測りかねていた。どこまで進んでも、目に映る光景は眼前の降雪だけで、真下の地面すら確認できない。峰々は越えたから、大分地面は遠くなっているはずだが、今地表からどれだけ離れているのだろう。


「ねえ、ちょっと下に降りてみない?」

「……どうしてだ。動いたら、教官に見つからなくなるだろう」

「すぐに戻れば大丈夫だよ。宙を漂ってるより、地表の方が少しは暖かいんじゃないかなって」

「変わるわけないだろ、馬鹿馬鹿しい」


 と言いつつも、イグルクは勝手に降下を始めたウィルに付き添った。案外、心配性みたいだ。


「こけるなよ」


 普段通りの体勢で地面に足をつこうとするウィルに、注意喚起するイグルク。今日の彼は、いつもと違って妙に優しい。


「平気だよ、ほら。ちゃんと降りれたでしょ?イグルクも早くおいでよ」


 イグルクは誰がお前の言うとおりにするものかと、わざと大袈裟にゆっくりと竜を降りた。ウィルは、なんだかそれがおかしくてたまらなかった。


「何を笑っている」

「ううん、別に」


 無愛想の少年は、ウィルが笑う理由をまるで解せぬ風だった。それがまたおかしくて、いよいよウィルは上機嫌になった。


「雪、ふかふかだね。空から降ってくるやつは肌に痛いくらい鋭かったから、もっと感触悪いと思ったよ」

「……そうだな」


 ウィルは、唐突に昔のことを思い出した。寒冷なイザの地では、しばしば雪が降り積もる。特に子供の頃は、大雪になることが多かった気がした。そんな時は決まって外に飛び出して、ティナと一緒に雪遊びをした。母に編んでもらった毛玉の多い手袋をはめて、白い雪をこねたり、まるめたり、投げ合ったりした。率先して動くのはいつもティナの方で、ウィルはその背を必死で追いかけた。時には父が混ざったりして、三人で軒先を大はしゃぎで駆け回った。


 懐かしい。冷たい感触が頬に蘇る、暖かき思い出――……。


「ねえイグルク、雪合戦しない?」


 その勢いのまま、思い切って提案してみる。今日のイグルクなら、こんな戯れを口にしていい気がしたのだ。


 イグルクは首を捻ってウィルを一瞥する。それから老人のような深いしわを眼窩に彫りこむと、口元は動かさずにすっと元の方向へ向き直った。


「……」


 気まずい沈黙。吹雪の音が、一際強く耳元で唸り始めた。


 ……まさか、何も言ってくれないとは思わなかった。子供じみた発言をして、ちょっと引かれただろうか。さて、どうやって取り繕ったものか――。


 と、その時だった。辺りで騒いでいた吹雪が俄かに息を潜め、視界を遮る白煙が霧散する。二人の周囲は忽ち晴れ渡り、一寸の小景色は一面の大パノラマに姿を変えた。


 正面に映るは、雪山に穿たれた大穴。無彩色の地面が果てしなく広がる中、その中心部だけが、生命の息吹を色鮮やかに映し出していた。


 二人の少年は、どちらかが指摘するでもなく、無心に大地を見つめていた。短草に覆われた起伏に乏しい平原。その上に、渦模様の樹皮を巻いた木々が、土製の円筒と兄弟のように並び立っている。鳥や獣は遠くの水場に集まって、目を疑う程のどかに佇んでいる。まるで辺りの草花を愛でて、歌を詠み合っている最中のようだ。


 やがて、池の後ろの雑木林から小さな影が現れる。動物たちはそれを見るなり、四方八方に散っていった。現れたのは、彼らの仲間ではないようだ。あれは一体何なのだろう?よく目を凝らしてみるに、それは蒼白の鎧を身に着けたシルデン兵だった。


 途端、ウィルは現実に引き戻された。凍てつく空気が首回りを撫でる。地面から伝う冷気が、ズボンの裾から入り込んで、全身に鳥肌を這わせた。


「やっぱり、敵兵が見張ってるんだね」

「ああ」


 同じように覚醒しただろうイグルクに語りかけると、やはり明朗な受け答えが返ってくる。それだけ、例の俗っぽい鎧はあの大地から浮いている。


「あ、ねえ。向こう側」


 ウィルの指差す先。盆地を挟んで対岸の山の斜面に、朱い竜騎士が羽を休めていた。ウィルらに背を向けているのを見るに、まだ背後の光景に気付いていないらしい。


 もう少しだけと言いながら、随分遠くまで進んでいらっしゃる。――まさか、盆地の上空を突っ切った訳じゃないよね?


 ウィルは相変わらず無茶苦茶な師匠の行動に、苦笑を禁じ得ない。


 暫くその姿を黙って眺めていると、不意に道化は体を翻した。真っ先に飛び込んできたのは教え子二人の姿だったらしく、右腕を高く掲げて左右に振り回す。どうやら口を忙しく動かしているみたいだが、音声は伴っていない。いくら大音量とはいえ、ここまで離れていては声も届かないのだろう。


「二人とも、見えるか!『別れの大地』が顔を覗かせているぞ!」


 ……届くのか。音が減衰しきったのだろうと思ったが、実は距離が有りすぎて音が遅れて届いただけらしい。


 ウィルは慌てて、口を塞ぐようサインする。そんな馬鹿でかい声を出したら、シルデン兵に居場所を知らせてしまう!マグタンクもすぐにそれがわかったようで、首を垂れて謝罪の姿勢を作った。


 大将軍の小さな影は愛竜の背と同化すると、さらに南西に向かって低空飛行し始めた。敵兵に見つからぬよう、山脈を大きく迂回して戻ってくるらしい。


 ウィルとイグルクも、盆地から死角となる岩陰に身を隠すことにした。シルデン兵がこちらを警戒する可能性もあるし、用心に越したことはない……。が、ドラゴンたち――とりわけライムの体は大きすぎて、完全に物陰からはみ出てしまっている。


「……これ、意味あるかな?」

「ないだろうな」


 イグルクは即答する。


「じゃあもう、隠れるのはやめよっと」


 ウィルはライムの背に飛び乗った。さっきよりも少しだけ高い位置から、盆地が見渡せる。池の周りをうろついていた兵士が、西の山々を訝しげに覗いている。やっぱり、さっきの叫喚が聞こえていたみたいだ。


「――そんなにあの大地が気になるのか」

「うん。伝説に纏わる土地だもの、できる限り眺めていたいさ。イグルクは、興味ないの?」

「俺は別に」


 氷雪を伴わぬ風が、騎士たちの間をすり抜ける。濡れないだけましだが、それでも体を震わすには十分だ。ウィルは強張る口周りの筋肉をほぐしてから、再度言葉を吐き出した。


「あの場所で、フィニクスが生まれた。きっとサラマンドラにも所縁があるんだろう。研究者が調査を行えば、ライムがサラマンドラだって判ってしまうかもしれない。だから俺は、あの場所が少し怖い。本当は、誰にも立ち入ってほしくないくらいだ」


 それを聞くライムは、甘えたような、怯えたような唸りをあげた。ウィルはその背の鱗をそっと撫で、やさしく宥めてやる。


「大丈夫。俺がお前を守るから。たとえ誰が敵になったとしても、俺だけは味方でいるよ」


 イグルクは、すぐ傍の地面からその光景を眺めていた。単なる相棒への愛情に留まらない、危ういまでの傾倒。他の竜騎士には見られぬ特別の絆が、彼らの間に見てとれる。


「――一つ聞いていいか。どうして、その竜にそこまで拘る?」

「……拘るって?」

「訓練所に居た頃のお前は、簡単に人を殺すような人間じゃなかった。……少なくとも、俺の目にはそう映っていた。だが今のお前は、相棒を守る為ならば何でもやる。人を殺すことも、欺くことも、利用することも一切躊躇わない。そうさせるだけの何かが、その竜にあるのか」

「……」


 ウィルはしばし考え込んだ。なんて言葉を口に出そうか、悩ましかった。――後から思えば、自分がどこまで素直になれるのか測っていたのだろう。


「妹を、死なせてしまったんだ」

「……妹?」

「大切な、何より大切な、唯一のきょうだいだった。病気になって、苦しんで、それなのに俺は、どうすることもできなかった。食べ物一つ、与えてやることができなかった。妹は、何の願いも叶えぬまま死んだ。悔しくて、悔しくて、あれから十年以上経っても心に引っ掛かり続けてる」


 イグルクと視線が合う。大丈夫、話についてきてくれている。ウィルは安心して話を続ける。


「でも、今の俺にはライムが居る。今度こそ、大切なものを守ってやることができるんだ。そのためだったら何だってしたい。どれだけ手を汚しても、自分や他人を傷つけても、一向に構わないと思える。――それだけだよ」

「……そうか」


 イグルクはこれといって所感を漏らさなかった。何も感じてない訳ではなかろうが、下手な言葉を投げかけるのを嫌ったのだろう。


「イグルクが竜に乗るのも、家族が関係しているの?」


 急な立場の転換。次は自分が質問する手番だ。そう思い込んだウィルは、今まで敬遠していた話題を、敢えて恐れずに突き出していく。


「何の話だ」

「大切なお母さんがいるんでしょ?そのために竜騎士を目指してたのかなって」

「……前にも言っただろう、俺はあの人を憎んでいる」

「嘘。憎んでいたら、聖像の前で母親の名を呼んだりしない」

「嘘じゃない。――俺は、あの人に捨てられたんだ」


 予想していなかった言葉。ウィルの心臓は一瞬その活動を鈍めて、肺は生ぬるい空気を体から押し出した。それでも、硬直する体を無理に揺り起こす。なんだか、ここで引き下がるのは違う気がした。


「どういうこと?」

「そこまで話してやる義理はない」

「……俺は自分の事を話したのに?」


 イグルクは、また眉間だけで露骨な嫌悪を示す。しかし、ウィルにはもうその威嚇が通用しない。


「しつこい。話を聞きたいのなら交渉材料くらい用意したらどうだ?」

「交渉材料……」


 自分がイグルクに施せるものなんてあるだろうか。彼が欲しがるものなんかわからないし、そもそも物欲がなさそうだ。――いや、心当たりはある。イグルクが何より気にしそうな事を、俺は知っている。


「この前君を助けたことを、無かったことにするよ」

「何?」

「ずっと貸しがあるって思われるのも癪でしょ?話してくれたら、綺麗さっぱり忘れる。それでどうかな?」

「……」


 イグルクは、別段いい交渉条件とも思わなかった。ただ、センスは悪くない。恩着せがましさは感じるが、自分が借りを感じていることも事実なのだから。


「そんなに、聞きたいのか?」

「うん。イグルクの事知りたいから」

「長い上につまらないぞ」

「君って、結構言い訳するのが好きだよね」


 ウィルはイグルクの弱点を突くのがうまくなった。おかげで彼はたびたび、返答に窮して口をつぐむ羽目に陥っている。


「自分の脆い部分を晒すのがかっこ悪いだなんて、俺は思わないよ。いつまでも強がっていても、誰もいい気分になんてならないから」


 イグルクは、こういうウィルの饒舌さが、堪らなく苛立たしかった。自分だって似たようなものの癖に、どうして他人の時ばかりこんな強者顔ができるのだろうか。――そう、堪らなく苛立たしかった。


「わかったよ、それ以上畳み掛けるな。話してやる、少しだけ。少しだけな……」




 イグルクは、シルデン北西の小さな町に生まれた。とりわけ裕福でもないが、貧しくもない家庭だった。父は大工で、商売は概ね繁盛していた。母はイグルクを産んでから病気をしがちになって、ずっと家に居た。だから、小さなイグルクの面倒を看たのは常に母だった。


 イグルクが七歳になった頃、父の仕事は忙しさを増した。メルセルの商団がイグルクの街にもやってきて、大工だった父は、街の改装のため忙しく駆り出されたのだった。父は、何日も家を空けることが多くなった。その寂しさからだろうか、母は外に男を作った。若いけれど、冴えない面をした男だった。イグルクも一度だけ二人が並んで歩いているのを見かけたから、よく覚えている。


 母は隠し事をするのが下手だった。噂は忽ち街中に広まり、当然父の耳にも入った。醜い喧嘩があった。罵詈雑言が飛び交い、父のこさえた美しい家具群は、ぼろぼろに破壊された。やがて争いが収まると、母は家を飛び出した。幼く、まだ事情を把握しきれぬイグルクを連れて。


 イグルクは、「どこに行くの?」と尋ねた。母は、「祖父母の家に向かう」のよと答えた。何も知らぬイグルクは「ふうん」という反応を示すのみだったが、それは無謀だった。母の実家はイザの東端にあり、その旅路は大陸の横断を意味した。碌な支度もせず飛び出した女と子供の歩き旅。しかも、母は一文無しに等しかった。


 二人の旅はすぐに行き詰った。イグルクは飢えと疲れで歩けなくなった。母は息子をおぶって街道を歩き始め、疲れ果てた顔で「お金が必要ね」と、よく口にするようになった。やがて母は、体を売ることを選んだ。道行く人に手当たり次第声を掛けて、小銭を稼ぐ。おかげで、二人は飢えを凌げた。足の皮が擦り切れた時には、馬車にも乗れるようになった。母は目の下の隈を濃くする代わりに、再び笑みを取り戻した。一方イグルクは、次第に口数が少なくなった。母が何をしているか、知ってしまったからだ。


 少年は、なんだか母親が以前と違う人間になってしまったように感じた。それで、元の母を取り戻すべく、わざとおどけてみせたりした。あまり慣れない冗談を言ってみた。何でもないときに、にやにや笑ってみせた。けれども、普段と違うその行動は、母を余計に心配させるばかりだった。


「ねえお母さん、これ見て」


 ある時イグルクは、道中で小さな石を拾い上げた。それは夜――蒼星が夜空に輝く時に光を放つ珍しい品だった。


「夜になると光るんだよ。ぼく、これを宝物にする」


 しかし、母はそれに興味を示さなかった。


「ただの石ころじゃない。ばっちいから、捨ててしまいなさい」

「えっ、でも……」

「お母さんの言う事が聞けないの?」


 母は苛立った様子で言った。気が弱く、物静かなイグルク少年には、逆らう術が無かった。イグルクは、路道の脇に石を投げ捨てた。カラン、という悲しい音が響いた。


 苦慮の旅は長く続いた。途中イグルクは、大病を二回した。一回は本当に命を失うかの瀬戸際で、医者が間に合ってなかったら死んでいたかもしれない。ただし、イグルクが本当に悲しかったのは、病気そのものでなく母の不在だった。寝込む一人息子を寝屋に放って、母は姿を消した。幼いイグルクが夜中に目を覚ますと、辺りは言い知れぬ真っ暗闇であった。それが、イグルクには堪らなく悲しかった。


 半年の旅路を経て、親子はようやく目的の街に辿り着いた。長い苦労がようやく報われると、二人は安堵した。――だが、祖父母は母の受け入れを拒んだ。老夫婦は義理の息子――イグルクの父である――から寄越された手紙によって、夫婦喧嘩の真相を知らされていた。母は必死で自分の言い分を展開したが、取りつく島もなかったのだった。イグルクは、今までの辛苦はなんだったのかと憤り、母を詰った。


「大人しく、お父さんと仲直りすればよかったんだ」


 母は、悲しい瞳で、「そうね、そのとおりね」と零すばかりだった。その日以来、イグルクと母の会話はめっきり少なくなった。


 どうにか街で空き家を借り入れた母は、親子二人で暮らすべく動き出した。彼女が選んだ生業は、道中に引き続いて娼婦の真似事だった。


 借家は小さな間取りを衝立で区切った二部屋構成。大きい方の空間が母子の居住空間で、小さい方が母の仕事場だった。薄い壁をすり抜けてその音が耳元に届くのが、イグルクにはこの上なく不快だった。


 ――嫌だ、嫌だ。もうやめて。聞きたくない!


 そう呪ううちに、嫌悪の対象は、行為そのものでなくその動作主へと移り変わっていった。


 イザでの貧困生活が半年ばかり続いたある日、街に行商がやってきた。まだ国王が代わる前の時代。国も、かの一大勢力に対する規制をそこまで強めていなかった。――現れたのはまたしても、メルセルの商団だった。


 物売りの集団など、貧しい自分たちには関係のないこと。そう思っていた母子であったが、ある笛吹きの男が、路地で一人遊びするイグルクに目を留めた。


「君のそれは、ドラゴンボーンの印じゃないか」


 シルデン出身のイグルクたちは、かの幾何学紋様の意味するところを知らなかった。「気味が悪いから隠しなさい」と言われていたのだが、その日はいつもの腕飾りをつけ忘れて、右手首の紋様を発見されてしまったのだった。


 笛吹きの商人は、少年に家まで案内させて、すぐに母と面会した。母は丁度客を帰して、着衣を整えている所だった。イグルクは忽ち恥ずかしくなって、母に一層の嫌悪を覚えた。


 商人が事情を話すと、母は目を丸くして驚いた様子を見せる。冷静に思い返せば大変愚かなことだが、騙りであるとは全く疑わず、男の話をてんで鵜呑みにしていたようだ。


「それで、ものは相談なのですが、息子さんを私の手に委ねてもらえないでしょうか。勿論、謝礼金はお支払いいたします」


 イグルクはびっくりした。無垢な少年は、笛吹きが自分を連れ去ろうとしているなどと、夢にも思わなかったのだ。


「それは、息子を売り物にしろということでしょうか」

「売り物とは言葉が悪いですが、お金のやり取りがある以上そう表現もできますね。しかしご安心を。私は彼をイザの竜騎士訓練所に紹介するつもりでして、決して奴隷商人に売り渡しなどしません。……ええ、きっと悪いようにはいたしませんよ」


 イグルクは当然、母がこの申し出を断るものと想定していた。だが、母の口から出てきたのは、期待とはかけ離れた言葉だった。


「――イグルクは、どうしたい?」


 目の前が真っ暗になった。視界に映る二つの人影が、薄汚い泥人形のように見えた。そして何より、自分自身が最も価値のない土くれのように感じられてならなかった。


 行きたくないと言えばよかったのだろう。さもなくば、怒り散らすか泣き喚くかすればよかっただろう。何でもいい、感情の一かけらでも見せてやれば、行き先は違っていたかもしれない。ただし少年は、そうするだけの素直さを持ち合わせていなかった。


「……どっちでもいい。お母さんの好きなようにして」

「――そう」


 笛吹きの商人は「三日後にもう一度来るから、その時までに答えを出しておくように」と言った。だが、二人はその間一切話し合わなかった。厳密には、イグルクが母を忌避し続けていたのだった。


 果たして約束通り、三日後に笛吹きは現れた。商人は「お母さんと二人で話したい」からと、イグルクを家から追い出した。子供の駄々が商売に介入しないようにしたかったのだろう。


 日が暮れてイグルクが自宅に戻ると、薄ら笑いを浮かべた商人が出迎えてくれた。母は、部屋の奥でいそいそと洗いたての着物を畳んでいる。その瞬間、イグルクは察した。自分は、売られるのだと。


 失望という程でもない。地獄の底に叩き落とされた気分だなんて、誇張が過ぎる。暗い部屋に灯る蝋燭の火を、ふっと消されてしまった。丁度、それくらいの感傷だった。


「もう三日後に馬車で迎えに来ます」


 そう言い残して、商人は家を出て行った。成長したイグルクが思うに、あの商人はさして悪い人間じゃなかった。その三日間は母子が最後の思い出を作るための猶予期間であったろうし、母の仕事場も使用された形跡がなかった。故郷の街を出て馬車に揺られている間のことはよく覚えていないが、比較的親切だった気がする。それでも、商団に対する悪印象を覆すには到底至らないが。


 イグルクと母は、この三日間もついに一言さえ口を利かなかった。だから母は息子が何を思っているのかわからなかったし、イグルクとて母が自分を売った経緯を知る術がなかった。自分の世界に閉じこもりきったイグルクは、次第に恐ろしい妄想を膨らませていった。


 ――生活に困窮した母は、自分を売ることでお金を手にする道を選んだのだ。きっと、気に入った男と一緒に暮らすためだろう。最近毎日のように母を訪ねる若い男を知っている。他の客に対する時とは違うにこやかな顔つきが、憎らしいほど目に焼き付いている。


 何たる自分勝手な母親。事の発端は、奴がよそに男を作ったせいだ。それを悪びれもせず、家出の道連れに自分を引きずって何日も歩かせる。やっと祖父母宅に着いたかと思えば門前払いを受けて、道中と同じ酷い生活を自分に強いる。そこで金が尽きたとなれば、遂にわが子を捨てることも厭わない。こんなひどい人間がこの世にあるだろうか。信じられない。奴は人の心を持っていないに違いない……。


 イグルクはその三日間、憎しみの炎を決して絶やさなかった。この先一生忘れず、いつか必ず復讐してやる。そんな悍ましい決心までしていた。


 やがて、約束の朝が来た。商人は以前よりも少し上等な服を着て、丸太組みのみすぼらしい娼館を訪れた。正式な取引にあたって、この親子にも礼儀を尽くしたつもりだったのかもしれない。


「本当にいいのですね?」

「ええ」


 そんなやり取りが大人たちの間にあったのを、イグルクはよく覚えている。


 やっぱり自分の事はどうでもいいみたいだ。今更ショックなどは受けないが、つくづくその自分勝手さに呆れさせられる……。


 数日間母と目を合わせることもなかったイグルクだったが、最後に憎むべき女の顔をよく目に焼き付けておこうと、その面立ちをしかと凝視した。


 出発前よりも随分老けた気がする。頬に老婆のような大きな皺が刻まれており、髪はところどころ解れて、不細工な編み物ののようになっている。シルデンの街に居た頃は美人で通っていたが、今やその面影は感じられない。それもこれも、全部自分が受けてきた苦しみと重なるかと思うと、イグルクは一層憎らしくて堪らなかった。そして、この憎しみは一生絶えないものだと予感した。


 ……なのに、そうはならなかった。イグルクが馬車に乗せられて、最後にもう一度だけ後ろを振り向いた時、母の口が微かに動いた。




「――その時、あの人は言ったんだ。『頑張ってね。頑張って、立派な竜騎士になってね』って」


 イグルクは、淡々と話す。まるでそれが、誰かから伝え聞きした話のように。


「俺は咄嗟に頷いてしまったけど、その言葉の意図はわかっていなかった。自分の事を思いやって言った台詞なのか、それとももう息子の事なんかどうでもよくなって、投げやりに吐いた台詞なのか。長い間無視している間に、俺は母の感情すら読み取れぬ息子になっていた」


 彼が実際にウィルに語った言葉は、そう多くない。自分の素性をすっぽり知られるのが嫌で、覚えている過去をかいつまんで説明した。――それがどれだけ功を奏したかは、彼の知るべきところではないが。


「俺はその時点ではまだ、母は俺を愛していないと確かに信じこんでいた。あれだけ酷い目に遭わされておいて、『頑張ってね』の一言で全てのわだかまりが解消するわけがない。……変わったのはその日の夕方。移動を終えた馬車から降りて野道を踏んだ時、俺は上着のポケットに何かが入っているのに気付いた。――お前が見つけてくれた、これだ」


 イグルクが差し出したのは、以前ウィルが美貌の詩人から譲り受けたもの。ユウェインと同じ光を発する、小さな石片だった。


「それを確かめた瞬間、俺はわからなくなった。この石は、旅の過程で俺が拾い、そして投げ捨てたもの。その事を知っているのは、母と俺しかいない。どうしてそれがポケットに入っているのか?その答えはすぐにわかりそうで、でもそれを頑なに拒否する気持ちもあって、答えが出せなかった。母は俺を思っていたのか?それとも、本当にどうでもよかったのか?」


 イグルクは、石を乗せた手をぎゅっと握りしめ、その決意を確かめるように続けた。


「その答えを知るために、俺は竜騎士になって、誰もが認める功績を残そうと誓った。もしそれが叶ったなら、俺は今一度母に会いに行って、その真意を確かめるつもりだ。母が俺を大切に思っているのなら、もう一度あの人の息子になる。そうでないのなら、きっぱりと縁を切り、これからも一人で生きていく」


 雲間に隠れていた太陽が顔を出し、岩陰は日向とのコントラストを一層強めた。ウィルはイグルクの瞳から視線を逸らさぬまま、自分の心の中を手探りしていたが、一向にうまい言葉が見つからなかった。


「おかしな話だろう?大昔の真意もわからぬ言葉をいつまでも引きずって、こんなちっぽけな石ころにいつまでも囚われ続けている。本当は、忘れてしまえばいいんだ。竜なんか降りて、メルセル商人の舎弟にでもなった方が、ずっと楽に暮らせる。……だけど、どうしてもそれができない」


 ウィルは焦る。彼を慰める名文句がなくとも、傷を癒す魔法がなくとも、せめて心に寄り添う言葉一つ見つかればいいのに。それが、見つからない。見つからない間に、戦友は次々と言葉を紡ぎだしてしまう。


「母を憎んでいると言ったな。お前が指摘するように、あれは嘘だ。憎い、憎いと言えば本当になると思って、わざと口に出し続けている。母を憎んでいると割り切ることができれば、もうこんな下らぬ呪縛に囚われずに済むと思って、必死で暗い感情に上塗りしようとしている。だが、どれだけ恨みを口に出しても、結局うまくいかないんだ」


 間に、合わない。ウィルの無言の間に、彼の心のひび割れから、最後の砂粒が零れて地面に落ちた。


「どうしても、憎みきれないんだ――」

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