黒き竜
――世界に災いと破滅をもたらす竜が居るという。それは黒い体躯と紅い瞳を持つ、この世に又と無い存在。
明くる日は、土砂降りだった。予定されていた飛行訓練は中止され、舎内で座学が催された。しかし、元より予定されていなかった授業。教官たちも準備不足だったのか、講義はお昼前に放課となり、訓練生たちは早々に自由の身となった。
外には出られないため、各々室内で時間を潰す。寄宿棟に戻って談笑やゲームに興じる者もあれば、屋内訓練場で真面目に稽古を続ける者もあった。ウィルは、図書室で本を読み漁ることを選んだ。自室に戻らなかったのは、ルームメイトと顔を合わすのをなるべく避けるためだ。
日が傾き始めた頃、漸く雨が止んだ。分厚く黒ずんでいた雲は軽やかさを取り戻し、空の青色も所々顔を覗かせている。
天候の変化を見とめたウィルは、直ぐに外へと飛び出した。つま先が向いているのは、ほぼ真南の方向。訓練所は四方を森に取り囲まれているから、少し歩くだけならどの方向に行っても大差ない。ただし、南の林の奥には、美しい草花の咲き誇る小さな池がある。木々の影に隠れていてなかなか人目につかない、ウィルのお気に入りの場所である。その地で、憂鬱な気分を晴らそうと思ったのだ。
湿った草原を抜け、鬱蒼とした森の中に足を踏み入れる。普段聞こえる鳥の囀りや獣の足音は息を潜め、風と水の滴る音だけが空気を揺らす。いつもと異なる趣は、ウィルを少しだけ新鮮な気持ちにさせた。
やがて視界に、虹色に輝く池の水面が映り込んだ。周りの草花は薄暗闇に包まれて、どんよりと色彩を欠いているのに対して、その水面だけが異彩を放っていた。雨で濁った筈の水がどうしてこんなに輝いているのか、ウィルにはその理由がよく分からない。
ウィルは畔にしゃがみ込み、無心に周囲を観賞し始めた。地面を踏む左足の先端に、親指サイズの可憐な桃色の花が風に揺れている。先ほどまで雨が降っていたためだろうか、いつも辺りに漂わせている甘い香りは鳴りを潜めている。でも人差し指でその輪郭を軽くなぞってやると、微かに指先に香りがついた。
「……ん?」
ウィルはふと、池の対岸の岩陰に、黒い大きな塊があることに気づいた。岩陰の真上には傍に立つ巨木の枝葉が繁茂していて、夏の時期には朱色の実を地面に落とす。普段はこの実を狙った鹿や猪がよくたむろしているのだが、今日は別の客がいるようだ。
おもむろに立ち上ったウィルは、足音を殺し、慎重に歩を寄せる。すると段々、それがどんなものか分かってきた。人よりもずっと大きくて、ギラギラと黒光りしている。時折左右に揺れている細長い部位は多分尻尾で、先程から耳に入る規則的な風のような音は、あれの寝息なのだろう。その想像は、次第に具体的に、そして確信的なものに変わっていった。
ついに、それの真後ろに立った。足を止める際、最後に地面を踏んだ音が、やたら大きく耳に響く。……果たしてウィルの想像は、違っていなかった。
「ドラゴン――」
鱗で覆われた皮膚に、長い尻尾、大きな翼。それは間違いなく、立派な一頭のドラゴンだった。
けれども一方、目の前の竜はいくつかの異質さを備えていた。立体的な凹凸を持つ鱗は、まるで黒曜石のように分厚く、眩い光沢を放っている。爪は一様に大きく鋭いもので、触れただけで肌が裂けてしまいそうだ。丁度喉の辺りには、垂直方向に向かって見慣れない丸い膨らみがある。そして何より、体のサイズが尋常ではない。他の竜の倍近くはあろうかという凄まじい巨体の持ち主である。
姿を観察しながら体側まで回ったところで、ウィルは紅の瞳と目が合った。偶々そう見えたのではなく、明確にウィルの方を睨んでいる。眠っていると思っていた先客は、しっかり目を覚ましていたのだ。巨躯の黒竜は、突如場に現れた人間を威嚇するように低い唸り声をあげた。
「……休んでいるところ邪魔してすまない。でも、危害を加えるつもりはないんだ。安心しておくれ」
そう申告されると、竜はゆっくりと瞼を閉じた。目の前の人間に対する警戒を解いたようだ。ウィルはほっと胸をなで下ろすと、改めて竜の体をじっくりと観察する。すると右脚の踵あたりに、鱗の落ちた剥き出しの皮膚から赤黒い血が滴っているのを見つけた。
「――お前、怪我をしているのか」
ウィルは竜の運命を憐れに思った。足を怪我して飛べないのなら、地力で餌を探すこともままならない。堪えがたい飢えに苦しみながら、いずれ力尽きて死に行くだろう。誰にも知られることのないまままま、ひっそりと――。
「……よし」
決断は、思考の余地を挟まなかった。ウィルは池の岸まで戻ると、剣の鞘で水を汲み上げる。その水で竜の傷口を軽く洗い流してやると、今度は上体の衣服を脱いで、袖をナイフで切り取った。それを包帯代わりにして巻きつけ、止血を済ませてやる。
黒竜は心配そうにその様子を見つめていたが、処置が終わると安心したように再び瞼を閉じた。苦しそうに乱れていた鼻息が、少し穏やかになったように感じられる。
竜の容体に安心したウィルは、袖の千切れた服を着直す。すると今度は、ピーという甲高い管楽器のような音が響いた。ウィルはこの音をよく知っている。腹を空かせたドラゴンが、胃の空洞を振動させて奏でる音声だ。
「腹も減っているのか。そうか、動けないんだもんな」
竜の食性は様々だ。種や個体によって、全く食べるものが異なる。草や木の実を食べるものに、動物の肉を食べるもの。小さな昆虫を捕食すものもあれば、土や岩を頬張るものもある。果たしてこの黒竜は、どんな食物を好むのか。
「この巨体だし、きっと肉食に違いない。よし、少し待ってて」
ウィルは再びナイフを構え、林の陰に身を落としていった。一つ、野生の獣でも捕えてやろうと思ったのだ。
具合のいいことに、森の奥に赤毛のイノシシを見つけた。密かに距離を詰め、背後からナイフで切りつける。が、イノシシは物ともしない。頭部を振り回してナイフを払いのけると、ウィルに向かって猛突進してきた。
「うっ」
避けきれなかったウィルの体は、斜め前方に勢いよく跳ね飛ばされる。なんとか受け身を取ることができたが、そうでなかったら大怪我をしていただろう。
起き上がり辺りを見回すと、イノシシの通ったルートに、微かな獣道ができているのを見つけた。これを辿れば、再び標的に追いつくことができる。ウィルは身の回りに散らばる礫片をいくつか拾い集めた。接近戦が難しいのならば、今度は遠距離攻撃だ――。
イノシシとの格闘は長きに及んだ。やっと決着が着いた頃には、日は身の半分を地平の裏に隠していた。
ウィルの足元には、動かなくなったイノシシの巨体が横たわっている。少年は、戦いに勝利したのだ。しかし衣服の破損と身体の裂傷は頗る烈しく、勝者としての風格はどこにもない。特に、思い切り噛みつかれた左手の甲の傷がかなり深かった。池の水で洗い流して止血はしたが、まだズキズキと痛む。
「さあ、獲物が手に入ったぞ」
肉の塊になったシシの体を引きずって、池の畔まで運ぶ。黒竜はそれを物珍しそうに眺めた。次は調理の時間だ。
血抜きを済ますと、ナイフを使って皮を剥ぎ、肉片を取り出して切り分けていく。訓練所から支給されたナイフはあまり丈夫な造りでなく、イノシシの強靭な骨にぶつかる度、刃こぼれを起こしそうだ。
なるべく湿り気のない枝を集めると、携帯していた火打石をつかって火を焚いた。雨上がり故に苦戦するかと思ったが、案外スムーズに事が運べた。
小枝で串刺しにした肉を炎にくべ、火を通す。その間、池で体の汚れを落とした。鼻にこびりついた血なまぐささが徐々に薄れ、少しえぐみの混じった香ばしい匂いが漂ってくる。加熱は、順調に進んでいるようだ。
沐浴を終えて焚火の前まで戻ると、肉の焼け具合は丁度いい頃合いだった。表面は小麦色に染まり、下のほうからやや粘度のある脂が滴っている。串とは別の枝を肉に差し込んで、火の通りを確かめる。問題ない。中まで十分に加熱されているようだ。
「さあ、いいぞ。食べてくれ」
焼きあがった肉を、枝のついたまま黒竜の口元に差し出してやる。しかし竜は眉間に皺をよせて訝しむばかりで、一向に口にしようとしない。
「気に入らなかったのか?まさか、肉食じゃないとか……」
そこでウィルは、黒竜の視線が別のものに注がれていることに気付いた。体を九十度捻り、竜の目線を追う。果たしてその先にあったものは、肉を剥ぎ取られて骨と皮ばかりになったイノシシの残骸だった。
「……もしかして、生肉の方がよかった?」
竜舎に飼われる肉食竜たちは、しっかり火の通された肉を与えられている。それでドラゴンといえば加熱された肉を食べるものという先入観があったが、よくよく考えてみれば随分と自然の摂理に反した習慣かもしれない。元来が野生暮らしの動物は、生肉を喰らって生きるのが普通である。
「けど、そいつにはもう肉が残ってないんだ。ごめんな」
というウィルの忠告に、黒竜は反応を示さない。暫く茫然していたかと思うと、俄かに長い首を目一杯伸ばし、シシの首筋辺りにガブリと噛みついた。その勢いままに獲物の首根っこを胴体から切り離すと、殆ど咀嚼せずに丸呑みしてみせる。しかしやはり味気なかったのか、「キュウ」という弱弱しい鳴き声を上げると、それきり食べるのをやめて元の体勢に戻った。
ウィルは驚愕していた。ドラゴンの咬合力がとても優れていることは知っていたが、まさか顎の力だけで動物の首を外せるとは思っていなかったのだ。
と同時にまた、竜への申し訳なさを募らせた。うつぶせ状態の巨竜は先程よりも穏やかな表情を浮かべているものの、満足な食事を果たせたとは思えない。およそ食べ物とは言い難い粗悪な組織片に、不満を覚えているに違いないのだ。
「余計なことをしてしまったんだな。この肉は俺が食べるよ。……うっ、獣臭い。血抜きが甘かったかな」
小型のイノシシとは言え、その肉はとても一人で食べきれる量ではなかった。ウィルは、未加熱の肉を訓練所に持ち帰って給仕係に渡すことに決めた。
「もう暗くなる。俺、そろそろ戻らなきゃ」
ウィルは闇に染まりつつある北の空を見つめた後、もう一度黒竜に向き直った。
「お前、まだここにいるよな?明日、また来るよ。今度はもっとちゃんとしたものを食べさせてやるから、楽しみにしていてね」
翌日。その日は訓練の一切ない休息日だった。ウィルは沢山の食糧を背中の藁籠に抱え、朝早くから兵舎を出た。生肉や魚は勿論、チーズや干し肉、野菜や瓶詰の果物まで用意していた。あの黒竜が何を好むかわからない。だから、なるべく多くの種類の食べ物を持っていこうと思ったのだ。
森の道を駆ける途中、ウィルの心には不安があった。あのドラゴンは既に池の畔を発って、遠い空に飛び立ってしまったのではないかと。根拠など一切なかったが、どうしてだか寂寥の予感が脳裏につきまとって離れなかった。
けれども、竜は居た。あの見慣れた畔で身を屈め、池の水を美味そうに飲んでいた。
ウィルは、緊張の面持ちを崩した。
「それ、昨日俺が血を洗った水だぞ。……いや、そんなこと気にしないか」
ウィルの声を聴いて、黒竜は首をもたげる。その表情は無機質で、感情を読み取ることはできない。しかしウィルは、相手に敵意がないことをなんとなく直感していた。
「お腹、空いてるだろう。ほらこれ」
藁籠の食料を一つずつ取り出し、竜に見せてやる。しかし、どれだけ立派な生肉の塊をチラつかせても、黒竜はピクリとも反応しない。
「うーん、気に入らないか。じゃあこっちはどうだ?」
今度は生肉以外の食べ物を差し出してみる。だが、こちらにも殆ど関心を示さない。まるで、遊び方のわからぬおもちゃを提示されたかのような反応である。――結局竜は、何一つ口にしかなかった。
とうとう諦めたウィルは、腰を屈め、地面に広げた食べ物を籠にしまい始めた。とその時、胸ポケットから何かが転げ落ちた。それは、ウィルがお守りとして携帯している小さなライムの実だった。
ウィルが果実を拾い上げる前に、黒竜が素早く反応した。転がるライムの動きを目で追っていたかと思うと、鼻を近づけその匂いを繰り返し嗅ぐ。
「何だ、ライムの実なんかに興味があるのか?」
今度の黒竜は雄々しい鳴き声をあげ、確かに返事のようなことをした。
「――食べて、みるか?」
ウィルは親指と人差し指で掴んだそれを、おずおずと竜の口元へ運ぶ。ライムの実が口の中に落とされると、竜はおもむろにその口を閉じた。
咀嚼しながら、竜は繰り返し嬉しそうな鳴き声をあげる。その反応はちょっぴり不可解に映るけれども、喜んでいることは間違いなさそうだ。
「そんな物食べても、腹は膨れないだろうに。おかしな奴だな」
ウィルは半ば呆れたように言ったが、内心嬉しかった。やっと、この黒竜が喜んで食べてくれるものが見つかったのだ。
「よし、お前の名は今日からライムだ」
ストレートな命名。実は、その名を授けるのは二度目だった。一度目は、子供の頃飼っていた雛鳥に。台所に並ぶ数ある果物のうち、ライムの果実だけを好んで啄んだから、そう命名したのだった。ウィル自身、もう一度何かをその名で呼ぶとは思ってもみなかったが……。
黒竜ライムは、長い首をウィルの体に摺り寄せ、甘えるような仕草をした。ライムの実が美味しかったせいだろうか。それとも、ライムという名を喜んでくれたのだろうか。
ウィルはお返しに、ライムの頭を撫でてやる。ゴツゴツして硬そうな鱗は、触ってみると研磨された宝石のような柔らかな艶があった。決して慣れた手つきではあるまいが、ライムはその手を振り払おうとも、逃れようともしない。
「お前は、俺のことを怖がらないんだな」
竜に嫌われるドラゴンボーン。その特性は今、このライムという巨竜の前では発揮されないようだった。
「――実は、本当にあの時のライムだったりするのか?」
半ば冗談で、半ば本気でそう言った。勿論、その答えは分からない。ライムは、ただ優しい眼差しをウィルに向けるばかりである。
二人はそのまま池の岸辺に座り込み、ずっと空と水面の映像が移り変わるのを眺めていた。特に何をするでもないが、退屈はしなかった。ずっと憧れていた竜の隣に居れることが、とにかく幸せだった。
幸福の時間は、素早く過ぎ去るのが常である。やがて空は、紅色に染まり始めた。また、別れの時だ。
「明日は訓練後にレースがあるから、多分来れないと思う。ごめんな」
ライムは、ウィルの語りかけに黙って耳を貸している。ウィルは目の前の黒竜が話をきちんと理解してくれているような気がして、言葉の続きを喋った。
「足がよくなったら、また飛べるようになるだろう。そしたらいつでもここを出発しておいで。誰も止めたりしないから」
最後にもう一度だけライムの頭を撫で、ウィルは森の道を進んでいった。その姿が見えなくなった頃、ライムはようやく悲しげな鳴き声を一つあげた。
その次の日は、快晴だった。空には訓練を終えた生徒たちが竜を乗り回しており、あちらこちらから竜の伸び伸びとした鳴き声が響いている。この後のレースに向けて準備運動をはしているところなのだ。
「さあ、そろそろレースを始めるぞ。皆、スタート地点に着け!」
マグタンク教官の掛け声で、見習い竜騎士たちが一斉に地上へ降下してくる。その顔は普段と比べるべくもないほど引き締まっていて、闘いへの決意を感じさせる。
レースは訓練所の華であり、そこでの功績は絶対的栄誉。言ってしまえば、レースの順位によって竜騎士としての実力が格付けされるようなものだ。
だから皆、必死で取り組む。己の誇りのために。あるいは、卒業後によりいい待遇を受けるために。
「よお、今回も見学か。偉そうに俺たちのレースを拝んで、審判気取りってか?でもよ、竜騎士のレースには地上の審判なんて必要ねーんだよ」
いつも通り、いがぐり頭たちがウィルを揶揄しにくる。ウィルはすっかり慣れた風に、適当に受け流す。その横を、ルームメイトのイグルクが通りかかった。
「そんな奴に構っていたら、レースに出遅れるぞ。さっさと支度をしたらどうだ」
鋭い忠告を受けると、いじめっ子たちは「いっけねえ」と慌ててその場を立ち去った。イグルクも、それ以上何も言わず、すぐにそこを離れた。彼は、いつもこんな調子だ。
石灰で引かれた白いスタートラインの前に、竜騎士たちが並び立つ。大凡全員の準備が整ったところで、再びマグタンクが音頭を取った。
「準備はいいか?ルールはいつも通り。あの双子山の頂上に生える対の巨木。あの間をもっとも早く駆け抜けた者が優勝だ。ゴールすれば順位を与えるが、途中で棄権したものは全て同じ扱いとする」
このルールは、毎回変わらない。聞くところによると、ウィルの父の代から同じルールだったらしい。
「今日は軍事科訓練生・全六十一名中、六十名が参加する。夏最後のレースに相応しい大一番だ。皆全力を出し切ってほしい。では、時計の針が一周した後にスタートする」
先ほどまであちこちで上がっていた喧騒がぴたりと止む。皆、集中状態になった。それでもウィルだけは、ただ一人相変わらずぼうっと空を眺めている。
ウィルの脳裏には、一昨日見た夢が蘇っていた。
――ウィル、約束ね。必ず竜騎士になって、ぼくを空へ連れて行ってね。
これから訓練生たちは、また空を飛ぶ。竜の翼を羽ばたかせ、風に乗り、地平の先まで。国に仕える誇り高き騎士へと、着々と近づいていく。その先にあるのは、類稀な力と揺るぎない栄誉。――それなのに。
「どうして、俺は……」
烈風が吹いた。背後から、巨大な団扇で煽がれたかのような烈しい空気の流れ。
「オオオオオオオッ」
猛々しい鳴き声、竜の雄叫び。影よりも暗い、漆黒の体躯。そこに現れたのは、黒竜ライムだった。
「――ライム、どうしてここに?」
ウィルの感情は、もはや動転に近かった。黒竜ライムは何故自分の居場所がわかったのか。何ゆえに、自分の元を訪ねてきたのか。そもそも、空を飛べるような状態だったのか。
「お前、もう飛べるのか?足の怪我がまだ痛むだろうに――」
着地したライムの背中側に回り込み、右足の踵の様を確かめる。制服の袖で作った紺色の包帯が、しっかり巻きつけられたままだ。固く縛ったその結び目を解くと、ウィルは目を見張った。なんと、昨日までそこにあった傷は綺麗に塞がっており、しかも外側から少し色の薄い鱗が再生し始めているではないか。
「驚いたな、もう治ったのか。それで、わざわざここまで飛んできてくれたんだね」
この登場を、勿論他の訓練生も見逃しておかなかった。一体何が起きたのだろうと、興味津々にウィルらの様子を窺っている。
「あれは、ドラゴン?それにしては、あまりに大きすぎやしないか」
「まさか、ウィルの竜なのか?竜舎であんなデカブツは見た事ないが、一体どこから来たんだよ」
少年たちは口々に噂した。しかし、竜の隣に居るのが厄介者のウィルなだけあって、論調は段々ネガティブなものに傾いていく。
「真っ黒で不気味だ。見ているだけで呪われそうだよ」
「そもそも、あいつが竜を乗りこなせる訳がないんだ。あんなの無視して、早くレースを始めてほしいもんだぜ」
ウィルはそんな彼らの会話を気にする余裕はなく、興奮気味のライムを宥めるのに必死である。いつもは大人しいのに、今日ばかりはどうも気性が荒いように感じる。
とそこに、マグタンクが走り寄ってきた。間近でライムの姿を確認すると、いつになく真剣な表情でウィルに語りかける。
「ウィル、それは君の竜かね?」
「あっ、いえ、こいつは」
ウィルは、一瞬返答に窮した。
「僕の使役する竜ではありません。ただ、知っている存在ではあります。一昨日、森で怪我をしているのを助けたことで知り合って……」
「なるほど、友人というわけだな」
なんだか極端な解釈だったが、とかくマグタンクはそれで納得したようだった。
「それで、君はその竜をしてどうしたいんだ?」
マグタンクは相変わらず真っ直ぐの視線で、ウィルの両眼を見つめる。その言葉の意味するところは明らかだった。ウィルは不思議と、迷わず即答した。
「……乗ります。こいつと、レースに出させてください」
マグタンクは満足げに頷くと、他の教官や調竜師に指示して、すぐにウィルの装備や手綱を準備させた。ウィルがこの格好をするのは、随分久しぶりのことだ。
ライムの翼と頭を優しく撫でつけると、脚の付け根の膨らみから胴体によじ登り、そっと背中の位置に座りこむ。暴れる様子はない。騎乗は、成功だ。
「なかなか様になっているじゃないか。さ、スタート地点につきたまえ」
「あ、いえ。ここからでいいです」
「何?それでは小さくないハンデになるぞ」
「すでに決まっているスタート配置をずれてもらうのは申し訳ないですし、この場所の方が慣れ親しんでいますから」
「そうか。ならばそれでいい。順位など気にせず、思う存分自由に飛ぶがよい!」
マグタンクはやたら強くウィルの肩を叩くと、スタート地点にいる別の教官に合図を送った。
スタートラインの白線の端で、花火に火がつけられる。この花火が打ちあがったら、レーススタートだ。すぐ傍にいる訓練生たちはまっすぐ前を見据えているが、遠くの生徒たちは花火の打ち上げ地点をじっと見つめている。音で反応しようと思ったら、その分遅れてしまうからだ。
スタートダッシュは非常に重要である。しかし、フライングは反則、退場だ。レース中、最も緊張する瞬間。ジリジリと火花が散る音とともに、汗がにじみ出る。
誰かの顎の輪郭を伝う汗が、ポタリと宙に垂れる。草原に、一滴の雨。――その瞬間、花火が炸裂した。
六十の竜騎士が一斉に空へ飛び立つ。助走を取れていない分、スタートダッシュには踏切の瞬間が重要となる。これがかなり難しいのだが、多くの者がよいスタートを切れたようだ。
「皆成長しているな。さて、ウィルの様子は……あれ、どこにもいない?」
「まだここに居ます」
「なに!」
マグタンクが振り返ると、ウィルはライムの背中に乗ったまま、まだ地上に居た。彼らはまだスタートしていなかったのだ。
「花火の合図が見えなかったのか?もう皆出発しているぞ」
「わかっています。けれど、初めての飛行ですから。慌てて出発するより、自分たちのペースで出た方がいいと思いまして」
ウィルは目を閉じ、精神を集中させている。今までの記憶を、ゆっくり、鮮明に呼び起こす。父と、初めて竜に乗ったこと。本で竜の乗り方について調べたこと。教官たちの親切で、騎竜の代わりに騎馬を練習したこと。ライムと、池の畔で心を通わせたこと。
――行ける。飛べる。
ウィルは目を見開いた。その瞬間、何を言うでもなく、ライムは翼をはためかせ、体を宙に浮かせた。
翼を激しく動かしているでもないのに、まるでそこに上昇気流でも発生しているかのような、不可思議な浮遊。それは、他の竜には真似できない芸当だった。
「進もう。あの竜騎士たちの背を追いかけて」
その頃、順調にスタートを切った他の竜騎士たちは、後方を振り返り、地上のウィルとライムを嘲っていた。
「見ろよ、ウィルのやつまだスタートしてないぜ。やっぱり飛べないんだ」
「また一つ馬鹿にできるネタができたな。後で散々からかってやろうぜ」
最後方のいがぐり頭たちは、心の底から愉快そうにゲラゲラと笑った。
「さあ、高度をあげようぜ。今度こそあの仏頂面のイグルクの鼻をへし折ってやるんだ」
と、前方を向き直った瞬間。黒い音速が彼らの横を通過した。凄まじい突風と轟音で、一瞬ドラゴンごと体のバランスを崩しそうになる。しかし、それが何であったのか、彼らは未だ判っていない。
「何だよ、今の突風は」
「見ろ。後ろにウィルが居ないぞ!もしかしてさっきここを通ったのって――」
「は?いや、そんな馬鹿な……」
最後方を追い越したウィルは、彼らとの距離をくんぐんと引き離し、高度を上げていた。
「すごい、お前こんなに速かったんだ」
幼い頃乗った父の竜は、とんでもなく速かった。でも、ライムはそれを悠々と越えている気がする。訓練生たちが普段出すスピードとは、比べものにもならないだろう。
それから間もなく、中間の順位につける集団を視界に捉えた。その数、四十騎ほど。縦と横に大きく広がっていて、まるで蝙蝠の群れのようだ。
「あれ、ウィルじゃないか?本当に竜に乗ってやがる」
今度は追い抜かす前に気付かれた。前方の訓練生たちは、何やら大声でコミュニケーションを取り合っている。
「あいつ、速いぞ!」
「妨害しろ。道を塞いでやれば、通ることはできない!」
ウィルの接近に危機感を抱いた彼らは、密集して竜騎間のスペースを極端に縮め始めた。密集といっても尋常の竜一体分くらいのスペースは十分にあるのだが、体の大きいライムでは、そこを通り抜けるのは至難の業だろう。
「ライム、スピードを落とせ!」
本来なら迂回するなり、高度を上げて上を通るなりできたはずなのだが、もう距離は非常に詰まっている上に、速度が高すぎるのでそれは不可能だった。
――けれどもライムは、一向に速度を緩める気配がない。
「まさか、このまま進むのか?」
ライムは快活な咆哮で返事をする。誤解しようのない、イエスの意だ。
「……わかった。お前を信じよう」
ライムは再び、鞭を打たれたかのように急加速した。ウィルの眼前に鋭い竜の翼が迫る。
(ぶつかる……!)
衝突間近のその瞬間、ウィルの視界はぐらりと揺らいだ。ライムが、体側方向に体を傾けたのだ。そしてその勢いのまま、体を綺麗に一回転させた。
足場の固定が緩いウィルの体は、殆ど遠心力だけでライムの背に張り付いていた。これがもっとゆっくりの回転なら、きっと振り下ろされていただろう。
「掻い潜った、すごい……」
瞑った目を開き直した時、ウィルの眼前から竜騎の半分が消えていた。ライムは体の向きを変えることで、網の目の長い対角線にうまく体を通してみせたのだ。
ライムは体を更に一回転させて、もう一層あった竜の防波堤を突破すると、猛烈な勢いで空を突き抜けた。この黒竜の疾駆を遮るものは、もう何もない。
既に、ウィルには言葉を発する余裕が無くなりつつあった。全身に竦むような強い風圧がかかって、その恐怖を跳ね除けるのにやっとである。
ウィルが何も発さなくても、ライムはどんどん前方の騎士たちを追い抜かし、道を進んでいる。もう先を進む者は幾ばくもないだろう。後は、無事にゴールすればいいだけだ。
ついに、眼下に双子山の二つの巨木を捉えた。上から見下ろすのは、ウィルにとって初めての経験。傘状に広がる枝葉の美しいのを見て、少し胸が震えた。
ライムが繰り返し、鼓舞するような短い咆哮をあげる。「あともう少しだ、頑張れ」と、励ましてくれているのかもしれない。
その巨木のやや手前には、白い竜騎士の姿があった。イグルクだ。もう十分に高度を落として、ゴールする体勢を取っている。
「よし、高度を落とすんだライム。前に居るのはイグルクだけ。このまま行けば二位を取れるぞ!」
ウィルの叫びに応じて、相棒の黒竜は三度唸る。しかしそれは、厳密には『了解』の意でなかった。ライムは首を斜め下に向けると、体を縮こませ、恐ろしい速度で急降下を始めた。
(どうして、今ここで加速を――?)
全身が引き裂かれる程の強力な圧。実際に、いくらか皮膚が裂けた気がする。目を開けているのも無理だった。ウィルはただただ風圧と恐怖に堪え、落下が終わるのを待った。もう僅かな指示を繰り出す余裕だにない。できるのは、ただじっとしている事だけ。
その突進に、前方のイグルクは音で気付いた。何か、次元の違う速さのものが、落下してきている。原始的、あるいは生物本能的な恐怖が、少年イグルクの全身に走る。
「ワンダ、加速しろ!何か来てる!」
しかし、小鳥がいくら足掻いたところで、猛禽の追跡から逃れることはできない。ライムは、竜百頭分くらいの長い距離を、一瞬で詰めあげた。
次の瞬間、竜騎士が一騎、ゴールラインを通過する。ほんの少し遅れて、もう一騎が到達。……先にゴールしたのは、ウィルだった。
わずか頭一つ分の違いだったはずだが、巨木上の審判はそれを見逃さなかった。無精ひげの伸びた顎をさすりながら、小さく感嘆を漏らす。
「――今度の優勝は、飛び入り参加の黒竜か。しかしあの姿、まるで……いや、考えすぎか」
ライムは、ゴール通過後に急速に高度を回復させて、地上への衝突を回避した。そして緩やかにスピードを落としながら旋回し、訓練所の方向へ飛んで行く。
ウィルは、半ば放心状態だった。飛行の負荷で疲れ切ってしまったからではない。そんなものは、あの衝撃で吹き飛んでしまった。
――勝った。あの無敵のイグルクに。一位を取った。この、黒き竜のスピードで。一体あの速さはなんなのだ。こいつは、何者なのだ。どうして、俺が……。
やがてウィルはスタート地点に戻り、地上に足を下ろした。いつもレースを眺めていた、林檎の木のある丘に。
辺りに居た教官や職員たちは、ただ唖然とした様子でウィルの姿を眺め、誰も声を掛けようとはしなかった。全くこの事態を予想していなかったから、どうにも反応に窮していたのだ。
「ドラゴン!」
とそこに、飛び切り明るい声が降りかかった。声の主は、周りの目も憚らず、真っ直ぐにウィルの元へと駆け寄ってくる。それは、調竜師の少女・イナだった。
「レース、見てたよ!すごい速さだったね。最後、遠目からでよくわからなかったけど、多分ウィルくんが先にゴールしたんだよね?」
急なコンタクトに戸惑い、返事に詰まっていると、
「ああ、ごめん!知らない人から急に話しかけられたら困るよね。私はイナ。ここの竜舎で調竜師をしているの。まだ半分見習いだけどね」
イナは自分の名前を名乗った。それは知っている。寧ろ、どうして自分の名前を知っているのだろうと、ウィルは疑問に思った。
「順位は、はっきりとはわからない。結果を確認せず、ここに戻ってきてしまったから」
「そっか。それにしても、このドラゴン、すごくかっこいいね。うちの子じゃないみたいだけど、どこから連れてきたの?」
「南の池の畔で怪我をしているのを見つけて、手当てしてやったんだ。多分、恩返しのつもりで来てくれたんだと思う」
「優しい子なんだね。体が大きい分、きっと心も大きいんだ。この子、名前は?」
「ライム……俺は、勝手にそう呼んでる」
「可愛らしい名前。でも、この子にぴったりだと思う」
イナは、ライムという響きを繰り返し口ずさみながら、その名の持ち主の体を、愛おしそうに見つめていた。
「まるで岩石みたいだね。硬くて、立派な鱗――」
と、イナが首元の鱗に触れようとしたところ、ライムは威嚇するようなうなりをあげた。
「あっ、ごめん!そうだよね、うちの子と違うんだから、急に触れようとしちゃだめだよね。悪いことしちゃったな」
「大丈夫。多分こいつ、そんなに怒ってないよ。急に触られて、びっくりしただけ」
ウィルのフォローによって、イナは少し安心した面持ちになった。手で触れるのはやめて、言葉によってライムを手なずけようと試みだす。
そうこうしている内に、レースを終えた訓練生たちが続々と戻ってきた。皆いつものような達成感や悔しさといった感情は面になく、不可解、あるいは納得できないというような表情を浮かべている。
「もう、皆帰って来たね。私も竜舎に戻らなきゃ。ウィルくん、またね。今度はゆっくり、ライムのことを聞かせて」
「あ、うん。またねイナ」
駆け足で竜舎に向かうイナと入れ替わりで、今度はマグタンクがウィルの元にやってきた。そして、ウィルが一等賞を取ったことを伝え、祝福した。
「――そうですか、ありがとうございます」
ウィルは、素直に喜べなかった。自分が一位を取ることができたのは、すべてこのライムの力に依るものである。こんな形で、こんなに簡単に、自分が一位を取ってよかったのだろうか。他の生徒たちと同様、彼自身レースの結果に煮え切らないところがあった。
「さ、これから表彰だ。兵舎前の広場に急ぎたまえ」
しかしウィルは、それを断った。初めての飛行に酔って、体調が優れないと方便をした。マグタンクは少し眉を潜めたが、ゆっくり休めと言ってくれた。
教官が立ち去って、ようやく周囲に誰も居なくなる。ウィルは紅い瞳を見つめ合わせて、改めてライムを労った。
「ありがとう、ライム。すごい飛行だったよ。ご苦労様」
それで自分の役目が果たされたと悟ったのか、ライムは翼を広げ、悠然と青空へ飛び立った。方向は、ここから南。またあの池の畔に戻るのだろうと、ウィルは想像した。
ライムの影が小さくなるまで見届けた後、ウィルは素早く寄宿棟へと滑り込んだ。他の訓練生たちが竜を戻している間に、さっさと部屋に戻ろうと思ったのだ。が、それは無駄な働きだった。二階の一番端の自室には、既にルームメイトの姿があった。
「……あ、早かったんだね」
イグルクは何も返さない。背を向けたまま、振り向きもしない。ただ黙々と、甲冑の手入れを行っている。
かと思うと、ウィルが部屋に入ろうとした瞬間ふいに立ち上がり、ウィルと視線を合わそうともせず、無言のまますっと部屋から出て行ったのだった。
ウィルは、なんだか自分が、とんでもない罪を犯してしまったかのように感じた。これまで味わったことのない変なわだかまりが胸の奥につっかかって、呼吸を難しくしてしまった。
「どうして、勝ってしまったんだろう俺――」
それが最も敗者の誇りを傷つける台詞であることに、ウィルは未だ気付けていない。