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竜を駆るもの  作者: なろうなろう
第二章
15/33

名を冠するもの

 ――捨てられないものがある。そばに置くと、息苦しい。失ってしまえば、自分が自分でなくなってしまう。




 逃げ出した。ライムの翼を目一杯はためかせて、全力で逃げ出した。


 見られた。ついに見られてしまった。ライムが人を食うのを、目撃されてしまった!


 イグルクは、上官に見たことを報告するだろう。そうなれば、何もかも終わりだ。


 わかっている。いけないことをしていたのだ。生きた人間を、竜の餌にしていたのだ。まだ可能性のある命を、身勝手に奪っていたのだ。ライムは人に仇なす存在とみなされるだろう。捕まり、晒され、無残に殺されるだろう。


 嫌だ。それだけは絶対に嫌だ。逃げなくちゃ。誰も届かないところまで、逃げ切らなきゃ。


 ウィルは、一心不乱にライムを飛ばした。できるだけ遠く、遠く。追手が届かない所まで。それだけしか考えていなかった。


 気が付くとウィルは、とある山の中腹に築かれた、小さな村落の真上に居た。藁葺きの粗末な家屋がいくつも並び立ち、雑草に浸食された田畑が不規則に点在している。よく観察すれば、破損した農具や衣服の欠片も散見された。人影こそ見当たらないが、生活の痕跡は確かに感じられる。


 ここはどの辺りだろう。無我夢中だったから、どれだけ飛んだのかも、どの方向に向かっていたのかもさっぱりわからない。でも多分、隊の野営地からは相当離れたはずだ。


 竜の背を降り、静寂の立ち込める村落を歩き回る。どの民家も留守だった。どころか、直近まで人が住んでいた気配すら感じられない。


「とうの昔に打ち捨てられた村か……」


 それならそれでいい。ここでは人を殺さずに済む。ウィルはほっと胸をなで下ろしながら、相棒を残した村の入り口まで戻る。藁と木で作られたみすぼらしいアーチゲートの前で、ライムは蹲るようにして羽を休めていた。


「急に走らせてごめんよ。疲れたよね。今日はもう暗いし、眠ろうか」


 体の疲労と脳の混乱のために、もはや何をする気も起きなかった。たとい無理に働こうとしても支離滅裂になって、まともな成果を得られぬだろう。それがわかっているからこそ、あらゆる倦怠感をシャットアウトして休息することを選んだのだった。


 ウィルは相棒を誘導して村落の中心にある空き地に据えると、自分は比較的造りのましな民家に入っていった。できればライムの傍で一夜を過ごす希望があったのだが、寒さがそれを許してはくれなかったのである。


(…………)


 藁敷の上で寝そべりながら、思いを巡らす。これからどうしようか。本当に、騎士たちに見つからずやり過ごせるだろうか。思考は漠然としたまままとまらず、ウィルの意識は次第に闇へと埋もれて行った。


 明くる日は、どんよりとした曇り空だった。目覚めは思ったより悪くない。ウィルの体には活力が満ちていた。不思議なことに、眠っている間に意思が整理されたのだ。


 今の自分たちは何も持っていない。だけど、ここから新しく始めていけばいい。何をしても自由、咎める存在などないのだ。


 まずはライムの寝屋を確保しよう。昨日のように野晒しにしてしまっては、あまりに可哀そうだ。ライムは屋外での休息に慣れているかもしれないが、それに甘えてしまうのは、己のプライドが許さない。


「……こんなことに巻き込んでしまって済まない。でも今に、もっと楽にしてあげるから。ちょっとの間だけ辛抱してね」


 外で未だ眠りこくるライムに、そっと語りかける。きっと昨日の急飛行で消耗したのだろう。ウィルはライムの岩石状の鱗を、優しく撫でてやった。

 

 体を解して寒さを打ち払うと、改めて村落をあちこち歩き回った。昨晩は暗くて見通しが悪かったが、日中なら色々新たな発見がある。衣類や調度品の程度を見るに、暮らしは思いの外貧しくなかったようだ。


 しかし所詮は人が立ち去った村。これといって役に立ちそうなものは見当たらなかった。せいぜい、取っ手の危うい金バケツと先端の解れたロープがぎりぎり使えそうなくらいか。せめてまよもな斧の一つあれば、大分助かったのだが。


 仕方なく、手持ちの槍で幹を突き刺し、木を倒すことにした。しかし、本来の用途とは全く異なるもの。如何せん事は捗らない。


「ん……ああ、起きたんだね。どうしたの?」


 ウィルが骨を折っていると、目を覚ましたらしいライムが背後に現れて、警告するような調子の唸りをあげる。どうやら、「どけ」と言っているらしい。


 それに従うと、ライムは翼で烈風を起こし、ウィルの狙っていた木をなぎ倒した。非力なウィルを見かねて、仕事を手伝ってくれたのだ。


「ありがとう、やっぱりお前は頼りになるな。本当は俺一人でやらなきゃいけないんだけど、手伝ってくれると助かるよ」


 続けて何本か木を倒すと、今度は丈夫な草の茎を集めて、藁をこさえた。十分な強度とは言い難いが、束ねたり編み込んだりすれば、なんとか使い物にはなるだろう。


 材料が一通り集まったら、加工の時間だ。ナイフと槍を用いて、倒木を丸太に切り出していく。これがなかなかの力仕事で、多くの体力と時間を消費した。


「喉が渇いたな……」


 すっかり作業に夢中になっていたが、ウィルは村落についてから未だ水さえ口にしていなかった。本来、最優先で確保すべき必需品であるが……。


 幸い、村を探索した時に井戸を発見していた。ばけつとロープを使って、簡易式の汲み取り器を作る。こっちは、案外すんなりこさえられた。


「うん、美味しい」


 汲み上げた水を一杯。渇きのせいもあったろうが、イザの水よりずっと美味しく感じる。土壌の性質のせいだろう。多湿な気候も手伝ってか、水の量も大変豊富だ。これなら当分干上がる心配はなさそうだと思われた。


 ウィルはライムにも水を一杯くれてやると、もう一度バケツで水を掬いあげて、水浴びをした。このところまともに体を洗う機会が無かったから、大変気持ちよかった。


 夕方までに、ライムの寝屋は一応の形を整えた。丸太で組んだ柱と梁に藁を葺いただけだったが、何も無いよりは随分ましだろう。


 それから燃料や食糧を林で集めているうちに、辺りはすっかり暗がりに包まれていた。雲が空にかかっているせいで、蒼い光は地上に届かない。昨晩よりも一層深い闇が村落を覆っていた。


 ウィルは軍の仲間たちに思いを馳せた。彼らは今、自分を捜しているのだろうか。ひっ捕らえて、断罪するつもりだろうか。それとも、既にライムには興味を無くし、テジュータに向けて進軍しているのだろうか。


「オオ……」


 ライムが唸りを発した。自分を見てほしいと訴えかけるような声色だった。


「ああ、済まない。考え事をしていたんだ。でも、意味ないよな。これからは二人で過ごしていくんだから」


 そうだ。こうなった以上、ライムと二人で生きていくしかあるまい。他人の事なんて考えている場合じゃないんだ。まだまだ、やるべきことが沢山ある。


「今日は何も食べさせてあげられなくてごめんよ。明日から、ちゃんと食べ物を探そうね」


 食べ物……ライムが食べるものは、ウィルとは違う。どうやってそれを確保しようか。もう軍属でないから、安定して人間を得るのは難しい。人里に自ら出向くしかない。しかし、そこでどんな行動を取る?強硬な手段に出れば、自分たちを追う存在が増えるだけだ。しかし、穏便な方法となると……。


「こんなところに居たのか。随分捜したぞ」


 思考回路が、砕かれた。ウィルではない、誰かの声。集落の入り口に、黒い影がある。竜から降りたそれは、ゆっくりとウィルたちの方へ近づいてくる。逃げ出すこともできるはずなのに、脚が動かない。ウィルはまるで全身が石と化したかのように、その場に釘付けになってしまった。


 影が交わるほんの数歩手前というところで、ウィルはようやく、その正体を見極め得た。夕闇の廃村に姿を現したのは、第四小隊長・ジエンだった。


「あ……」


 言葉にならない音が漏れた。隊員たちは、やはり自分を捜していたのだ。ライムと自分を連れ戻すため、はるばる竜を飛ばしてきたのだ。


 どうする。殺してしまおうか。自分とライムならいっそ造作のないこと。目の前の彼は今、武器すら構えていない。

――いいや。そんなことをして何になろう。これから先、ずっと同じことを繰り返すループに呑みこまれていくだけだろう。殺すために逃げ、逃げるために殺す。ただ徒に、罪のない命が奪われていくばかり。


 やめよう。


 こんな下らないことはもう、やめにしよう……。


 次いでウィルは、何と言ってその観念を伝えようか考えた。なるべく疑われぬように、誠実な態度を相手に示すには、どういう言葉を投げかけたらいいだろうか。どうしたら、もう嘘をついていないって信じてもらえるだろうか。

けれど、その思慮は実を結ばなかった。


「皆待っているよ。さ、隊に帰ろう」


 えっ。


 今度は、声を伴って返せなかった。あまりにも、予想外の台詞だった。どうして、糾弾しないのだ。自分たちを捕えに来たのではなかったのか。


「あ、の。隊長は、どうしてここに……?」

「イグルクから聞いたよ。シルデン兵が崖から身投げしたのを見て、ショックで飛び出してしまったって。神経が細いんだな、ウィルは」

「そう、ですか――」


 イグルクは、隊長に真実を告げなかった。いや、嘘をついた。ウィルが、無事に軍へと戻って来られるように。


 どうして?


 わからない。


 罠じゃないのか?


 ――いや、目の前のジエン隊長が演技をしているようには思えない。


 ウィルはただ盲目的に、眼前の好都合を受け入れる他なかった。


「帰って、いいんですか。僕は――、軍に帰っていいんですか」


 取り乱したままのウィルに、ジエンは優しく笑いかけ、すっと右の掌を差し出した。


「おかえり、ウィル」


 ウィルはジエンに伴われ、隊の兵営に戻った。竜を飛ばしたのは、ものの半時あまり。村落と兵営は、思ったほど離れていなかったらしい。混乱した状態で空を飛んでいたから、色々と感覚が狂っていたのかもしれない。


 隊員たちは、ウィルの帰還を快く歓迎してくれた。その表情に翳りは見えない。本当に心の底から喜んでくれているようだった。


 イグルクと顔を合わせたのは、翌朝のことだった。


 前日の疲れで起床が遅れたウィルは、着替えを済ますと急いで外に出た。分厚く重たい雲はどこかに消え去り、冬の細い日差しが辺りを照らしていた。


 くすんだ髪色の少年は、兵営の外れで、白い竜の隣にポツリと佇んでいた。首を下に傾けて、右の掌に包んだものをしげしげと見つめているようだった。ウィルに背を向けているから、顔つきのほどはわからない。


「おはよう、イグルク」


 ウィルが背後から声を掛けると、イグルクは慌てて拳を握って、手中のものを隠した。一瞬ウィルの目に映ったそれは、小さな石の欠片のように見えた。


「ごめん、取り込み中だったかな」

「いや、構わない。何だ」

「訊きたいことがあるんだ。……一昨日の夜の事。どうして、皆に本当のことを伝えなかったの?」


 そう問い質すと、イグルクは軽蔑するような視線を向けて、


「そんなことをして何の意味がある」


 と、ぶっきらぼうに答えた。


「上が例の黒竜の真実を知り、お前たちを罰したところで、俺には何の得もない。ジエン隊……いやイザ軍には、お前の黒竜の力が必要だ。だから見たことを正直に告げなかった。それだけだ」


 筋は通っている。だけどウィルは、その台詞だけではどうしても納得いかない部分があった。


「俺が……俺とライムが、ひどいことをしているとは思わないの?」

「さあ。国際法違反になるかもしれないな。だが俺は、法律家でも哲学者でもない。自分とイザ王国軍に不利に働かないことには、目くじらを立てようとも思わない」


 その時、ウィルは直感した。イグルクは、すごく言い訳がうまい人間だと。


「……そっか。うん、ありがとう」

「今日からは全速飛行だそうだ。途中で竜がばてないようしておくんだな」


 ウィルの離脱も相まって、ジエン隊は先頭集団から大きく後方に取り残されていた。その遅れを取り戻すために、その日の隊は今までにない快速で空を駆けた。


 ところで、ウィルは一つおかしなことに気付いていた。民兵組織の壊滅という任務を終えたのに、その助役である傭兵たちが、未だ部隊に留まっているところだ。


 聞くところによると、当初の契約が完了した後にゲディから申し出があったらしい。「給金は無くていいから、今後もジエン隊に同行したい」と。曰く、イザの崇高な理念に触発され、自分たちもその目的を果たす手伝いがしたいとか。ウィルは、傭兵たちが然る政治理念上の動機で働くのを奇妙に思ったが、ひとまずそれで納得することにした。


 騎士たちが空を飛ぶのに対し、傭兵たちは宿場で馬を借りて地上からそれを追いかけた。竜には地形に囚われず移動できるという特長があるが、平地を走るのでは馬に優位がある。彼らはお互い競い合うように、先を急いだのだった。


「……ん、あれは本隊の伝令騎だ。何かあったのかな」


 昼過ぎ、最後方のジエン隊に報せが届いた。南方パスティナの遠征軍が、いよいよシルデン領内に侵入したという。休戦の講和と進軍の準備に手間取っていたようだが、やっと彼らもシルデン戦に参入してくれたのだ。


 となれば当然、皆例の将軍を噂する。


「あの人の竜なら、二日もあればテジュータに着くだろう。俺たち、途中で追い越されるんじゃないか」

「と言っても、歩兵部隊が一緒だからな。今度ばかりは単騎で進軍なんてできないだろうし、流石に到着は遅くなるだろう」


 将軍マグタンクは、その場に居なくても明るい話題を提供した。カリスマ性のある将官というのは、やはり存在するだけで頼りになる。シルデン侵入がここまでうまくいっているのも、やはりマグタンクによる全体士気の底上げが一因である。


 しかし、いい報ばかりでもなかった。今までまごつくばかりだったシルデン国軍がついに兵隊の召集をかけて、イザ軍への迎撃態勢を整えたというのだ。その数はおよそ三万。シルデンの兵力の大半を動員した、大規模軍だ。それに対しイザ軍は、パスティナ遠征組を合わせても、二万に満たない。単純な兵力差は決して小さいものとは言えぬだろう。


 が、騎士たちは全く恐れていなかった。己の実力とイザの正義を信ずる彼らの内に、敗北の予感は微塵も存在しなかった。


 夕刻、隊は進路上にあった街へ降り立った。これまで人里には何度も立ち寄っていたが、いずれもおよそ近代的とは言い難い、時代に取り残された集落だった。だから、文明化された標準的なシルデンの街を訪れるのは、これが初めてとなる。


 イザの村々とは違う香りの土地。ウィルの第一印象は、『綺麗な街』だった。


 街には鮮やかに塗装された煉瓦の家々が並立つ。木々や石造りのモニュメントは目にうるさくない程度に散在し、街の風景に彩りを加えている。通り道には落ち葉の一つすら転がっていない。いたずら描きも、下品なポスターも見当たらない。すごく、クリーンだ。


 それでも、この町を好きだとは思わなかった。人影がまるでない。まるで作り物の街のようだ。


 街の奥に足を踏み入れても、その印象は変わらなかった。人の姿はあった。それは、人形のようだった。異国の人間に対する差別感情がそう思わせている訳じゃない。彼らの顔には、生気が宿っていなかった。


 敵国兵がやって来たから?いや、略奪も乱暴もしないのに、そこまで絶望するものか。きっと、何か別の理由があるのだ。住人の心に暗い陰を落とす、何かが――。


 ウィルは兵糧の確保のため、中心街の食材屋を訪れていた。カウンター脇の長机に並ぶのは、色の鈍い粗悪なパンと野草ばかり。干し肉すらまともに置いていない。


「あの、果物か野菜はありませんか」

「新鮮なものはないね。乾物ならあるが」

「それで結構です」


 無愛想な店主は、大声で二階の誰かを呼んだ。すると、店主の娘と思しき若い女性が出てくる。疲れが溜まっているのか、髪は傷みきり、両瞼が腫れぼったく膨らんでいた。すごく美しい顔立ちなのになんと惜しいものだと、ウィルは思った。


「あ……えっと……」


 娘はウィルの顔を見るなり、立ちすくんでしまった。美しいウィルの容姿を見て、気が引けてしまったのかもしれない。あるいは自分の窮地を救ってくれる王子様のように、錯覚したのかもしれない。


「それ、ください。蓮の根ですよね」


 だが、ウィルはそれに応えることはできなかった。自分は武力を背景に、この街の物資を接収していく身。決して、彼女から憧れられる存在ではないと、わかっていた。何の感情も無く客としての用件を告げるのが、唯一の選択肢だったのだ。


 ウィルは、店主が娘を恐ろしい目つきで一瞥するのを捉えた。きっと、暗い家庭なのだろう。だが、事情を察したところで何もできるわけではなかった。勘定を素早く支払うと、頭を軽く下げて、さっさと店を出て行った。


 去り際に、彼女の瞳がひどく悲しいのを見た。自分に何かを求めていたのかもしれない。けれど、もう二度と、彼女と逢うことは無いのだろう……。


 黄昏の朱色は、いよいよ最盛の時を迎えつつあった。ウィルが西の空を眺めていると、足元に何かがぶつかってきた。視線を落とすと、そこにはひび割れした土色の壺。風に流されて転がってきたらしい。


 ぼうっとそれを見つめていると、五歳くらいの小さな男の子がやってきて、壺を拾い上げて行った。そして少し離れた所で壺を地面に置き、転がしまわる。


 ああやっていつも遊んでいるのだろう。壊れた壺は、彼の大切な玩具なのだ。


「そっちの買い出しは済んだのか」


 暫く足を止めていると、正面からイグルクがやってきた。大瓶に入った油を、片手にぶら下げていた。灯りの燃料に使うものだ。


 ウィルが何を見ているのかに気付いたらしく、同じ方向に顔を向ける。「さっさと行くぞ」とは、言わなかった。


「この街、見た目よりずっと貧しいんだね。イザの方がよっぽど豊かだった」

「シルデンの街は、どこもこんなものだ。商団は各地の街に現れて、富と活気を根こそぎ吸い取り去っていく。残されたのは虚しいほど華やかな街並みと、魂の抜き取られた人の形だけ。この街はまだマシな方だ。冬でも人が飢えずにいる」

「この国の事情に詳しいんだね」

「……多少な。昔、縁があった」


 不意に、一際冷たい風が頬を撫でた。軽装の少年二人は、思わず身震いをした。


「体が冷える。宿に戻るぞ」

「うん。――ねえ、あの宿には全員が泊まれるほどのベッドがあるかな」

「あの宿の具合だと怪しいものだな」


 街の宿は小綺麗な外装に反して内部は大変ひどくみすぼらしく、旅人を寄せ付けないほどに寂れていた。傭兵たちと出会った商団傘下の宿とは、実に好対照だった。


「そしたら、一つのベッドに二人で寝ることになるかもね」

「だとしても、お前とだけはごめんだな」

「どうして?」

「寝相が悪い」


 ウィルは少しショックだった。自覚のない欠点を唐突に指摘されるのは、なかなか堪える。だからつい、お返しをしてしまった。


「君は、寝起きがすごく悪いよ」


 それに対して、イグルクは何も返さなかった。彼は反論に困ると押し黙る癖があるらしい……。


 その日には宴会もなく、とびきり静かな夜が流れた。結局、ウィルとイグルクは別々の部屋でまどろんだ。




 ――何か聞こえる。


「はあ……はあ……」


 女の吐息。何かが擦れ合う不愉快な音。時折、苦悶交じりの嬌声が混じる。


 幼い少年は母を呼ぶ。何も返ってこない。ずっと同じ演奏が繰り返されるだけ。


 やがて、事を終えた母親は、冷たい声で「邪魔しないで」と息子に告げるのだった。それが、常だった。


 毎日毎日、少年はその音を聞いた。隣の部屋から壁を叩く代わりに、自分の心臓の壁をドンドンと叩いた。それが音を立てずに苦痛を表明する、唯一の方法だった。けれど、効果は一向に現れなかった。


 次第に少年は、母を醜く汚いものだと思うようになった。ただの親に対する反抗ではない。女のその行いを、激しく厭ったのだ。そして、自分を見てくれない彼女に、深い失望を覚えたのだ。


 憎い。俺はあの人が憎い。憎い、憎い、憎い、憎い。


 ――――ニクイ。


 目覚めたイグルクは、全身汗にまみれていた。冷風が肌を撫でると、凍えるような寒気が襲う。速やかに汗を拭い、どうにか呼吸を落ち着かせた。


 昔から繰り返し見る夢だった。ウィルの見る、初めて竜に乗った時の夢よりも、ずっと高い頻度で。


 周囲を見回す。暗黒の寝室には、寝息を立てるベッドが五つ六つ並ぶばかり。まだ人が起き出すような時間ではなさそうだった。


 イグルクはすぐにベッドにもぐり直す気になれず、暫く暗闇の中で視線を遊ばせていたその顔には、自分を皮肉る乾いた笑みが張り付いていた。


「なんなんだ、今更。折角ここまで来たんだ。もうこれ以上――これ以上、迷わせないでくれ……」




 隊は、その後も順調な進軍を続けた。先頭集団との距離は徐々に縮まっている。テジュータの手前で、無事合流できそうだ。


 ジエン隊はその働きを認められて、隊の全員に褒賞が与えられる運びとなっていた。それだけに、本隊と近づくこの頃は皆の心が浮き足立っている。


 同時期、戦線にちょっとした異変があった。即ち、シルデン国軍との遭遇である。


 長い準備期間を経てようやく動き出したシルデンは、イザ軍の進路上に待ち伏せし迎撃作戦を展開したのだ。が、地上に布陣する歩兵集団など、竜騎士の敵ではなかった。頭上から強襲して敵を薙ぎ払い、速やかに空へ撤収する。それを繰り返し、隊列が乱れきった所で一斉突撃して逃走兵を一網打尽にする。この伝統的戦法に、シルデン兵は成す術もなかった。


 とりわけ、ウィルの活躍は目覚ましかった。突如視界に現れては、一瞬で全てを燃やし尽くしている。敵兵からすれば、悪夢そのものだった。黒竜の騎士の噂は、あっという間にシルデン聖国中に轟き、ついに全敵国民に恐らるるに至ったのである。


 勿論その間、ウィルは秘密の目的の遂行を忘れてはいなかった。敵兵を捕えては、その一部を密かにライムに食わせる。誰にも目撃されないようにかなり遠くまで得物を運び、死角の多い物陰で用を済ませた。


 証拠の隠滅も、慎重に行った。細かい肉片を丁寧に拾い上げ、靴や衣服の破片は灰になるまで燃やした。血の色が染みた地面には、平常の土を上から覆いかぶせて、一見ではわからないよう誤魔化した。これなら、ライムの行動が明るみに出ることはまずあるまい――。


 ところがある時、不可解な出来事に直面した。


 いつものようにライムに食事をさせていると、背後で物音がした。ハッとして振り向くと、木陰の奥に走り去る姿があるではないか。けれども、ウィルは追わなかった。それが誰であるか、即座に判ったからだ。


 ――あれはイグルクだ。既にライムの秘密を知った者。今一度この光景を目撃されたところで、特段の支障もないだろう。


 しかし、彼はどうしてあの場に居たのだろうか。他の隊員たちとは大きく距離を取っていた。こんな木立が並ぶばかりの場所に用事があるはずもないし、自分を追ってきたとしか思えない。何かおかしな行動をしないか、見張っていたのだろうか。それとも、黒竜が本当に人を食うものなのか、確かめたかったのだろうか。あの晩は蒼い星が半分しか出ていない暗い夜だったし、それも然るべきかもしれない……。


 ウィルはその後周囲を確かめもせず、急ぎ空路で皆の元へ戻ったので、とうとう気づくことがなかった。イグルクが潜んでいた木陰に、見覚えのない死体が一つ転がっていたことに。


 隊の野営地に戻ると、ウィルに嬉しいニュースがあった。


「ウィル、おめでとう。君には勲章が出るぞ」

「勲章、ですか」


 夕食の場で、ジエンは顔を綻ばせてウィルを祝福した。ウィルの凄まじい活躍はすでにイザの都まで伝わり、国王自らが勲章授与の判断を下したという。正騎士でもない者に勲章が渡るのは異例中の異例だ。


 有名になることを厭っていたウィルだが、こればかりは素直に嬉しかった。妹ティナに対する報いを、一つ果たせた気がしたからだ。


「今後も頑張ってくれよ。いよいよ、戦いは厳しさを増してくるはずだからな」


 隊長の言葉通り、翌日からシルデン国軍との争いは急激に激しくなった。竜騎士の恐ろしさを知った敵方は、密集陣形を取り、上空からの急襲に対する防御を整えた。それきしで竜騎士の優位は揺らぐことはなかったが、まともな反撃を受けることで騎士たちの生傷は増加していった。


 ジエン隊は、特に多くの敵と接触した。最後方で孤立する少数部隊であったために、敵にとっては格好の的だったのかもしれない。それでも、隊の消耗は大きくなかった。


 どれだけ兵士を密集させても、一たびライムが地上を掠れば、ぽっかり大きな穴が開いた。そこに傭兵たちが騎馬隊で突っ込み、隊列が乱れたところを、他の竜騎が襲い掛かる。この単純な作戦はついに破られることなく、シルデンの兵士たちを次々に敗走させていった。


 隊の士気は上がるばかりだった。傭兵たちはすっかり調子に乗って、自らもイザの騎士の一員たる気分に舞い上がっていた。


 さて、先日の一件以来、ウィルは自身の付近をうろつくイグルクの姿を頻繁に見かけるようになった。進軍中も野営中も、ふと気づけば目立たない位置からじっとこちらの様子を窺っている。不愉快という訳でもなかったが、気にしないということも難しかった。何か、自分を付け回す特別の理由があるのだろうか……。


 シルデンの土に初雪がかかった日、とうとうウィルは直接問いただすことにした。


 早朝の兵営。朝当番になった少年二人は、いそいそと竜の世話や朝食の煮炊きを進めていた。ウィルは、炉に薪をくべるイグルクにそっと近づく。


「ねえ、ちょっといいかな」

「……何の用だ」


 いつにも増して不機嫌そうな声。朝が早かったせいだろうか。


「いや、用ってほどのことでもないんだけど――」

「だったら気安く呼び止めるな。どうして用もないのに、お前と話さなきゃいけない」


 久しぶりに直面するあからさまな拒絶。しかしウィルとて、「ああそうですか」と引き下がることはできない。


「先にちょっかいを出しているのは君の方だろう。俺の周りをうろちょろして、どうにか気を引こうとしているみたいだったじゃないか」


 それを聞くと、イグルクは呆れたようにふんっと鼻を鳴らした。


「全くおめでたいやつだな。自分の都合のいい解釈をしてばかり。そのままじゃ、いつか足元を掬われるぞ」

「……なんだよ、それ」


 ウィルの小さな呟きは、反駁にすらなっていない。


「いいか、今後は必要な時以外俺に近付くな。慣れあっていると思われたら、いい迷惑だ」


 そこで会話は途絶えた。

 イグルクは炉に火を点けると、間もなくどこかへ去って行った。取り残されたウィルは、暫くそこに留まり、雪がその火を消しやしないかと、心配そうに炉を見つめていた。


「雪、積もりそうだな。こりゃ進軍は遅れそうだ」


 朝仕事が終わる頃、起きだしてきた騎士の一人がそう言った。気温は上がっているはずだが、雪は却って激しさを増しているように見える。


 果たして、彼の予感は的中した。降雪は寒さや視界の低下をもたらすだけでなく、竜の速度を落とした。翼に雪が降り積もるから、その重みで減速せざるを得ないのである。


 隊はその日のうちに本隊に追いつくつもりだったが、日没までにその後ろ姿を捉えることすらできなかった。天候はいよいよ吹雪の様相を呈してきて、進軍の続行は不可能となった。


「見る分には美しいが、旅行者にとっちゃ、とんだ厄介だな」


 ジエンは嘆息しながら漏らした。全体に停止命令を出し、地上の土手周りで野営することを告げた。結局、この日も本隊には追いつけなかった。しかし、残りの距離は三十里程度。明日の昼過ぎには追いつけるだろう。


 傭兵や騎士の一部は、寒さ対策だと豪語して酒をあおり倒した。そうでなくともいつも飲み明かしているくせにと、ウィルはつくづく呆れた。


 土手の前を流れる川は、パスティナの奥地から流れる大陸でも有数の大河。マグタンクたちはこの流れを下るようにして、テジュータの街へ行軍中のはずだ。ウィルは洗い物の仕事をしながら上流に目を向けて、懐かしき教官の姿を脳裏に描いていた。


「流石に、冷たいな」


 長時間水仕事をしていると、手の感覚が無くなってきた。これ以上続けたら体に障るだろう。そう判断したウィルは洗い物を中断し、立ち上がって裾の泥をはたいた。


 続きは明日の朝にやればいい。酔っ払いの先輩方にも手伝ってもらおう。


「ん――」


 土手の斜面を上がっているところで、頭上に何者かが居るのを発見した。イグルクだ。


 少し困惑したような表情で、首をきょろきょろと動かしている。何かを探しているのだろうか。――こんな、雪の降る極寒の夜に?


 ウィルは訝る表情を保ったまま、そっとイグルクに忍び寄った。


「何か探し物?」

「!お前――」


 声を掛けられるまで気付かなかったらしく、イグルクはびっくり仰天したような顔でウィルを睨んだ。その視線は、ほとんど敵意に近い。


「言ったはずだ、必要な時以外は話し掛けるなと」

「必要だと思ったから、声を掛けたんだ。こんな夜に外をうろつき回るなんて、普通じゃないだろう」


 それを言うと、イグルクは黙った。後は根競べだ。先に言葉を吐いた方が負け。精神面で余裕がある分、ウィルはアドバンテージを握っていた。


 凍える寒さも一役買っただろうか。二人の幼稚な勝負は、思いの他早々に決した。


「――石。夜になると光る小さな石。それを、どこかに落とした」


 石……。そうか、以前イグルクが掌の中に収め、見つめていた小石のことだろう。あれを失くしたのか。


「わかった、俺も捜すのを手伝うよ」

「結構。どうせ下らないものだ。道に落ちていたのを、偶々拾い上げただけに過ぎない」

「この周辺なんだよね?俺はこの先を捜してくる。イグルクは兵営の近くを探って」

「だからいいと言っているだろ!しつこくお節介を――」

「だったら俺が一人で探す。君は天幕に戻るといい。空いた時間に何をしようが、俺の勝手だろう」


 イグルクは再び口をつぐんだ。ウィルは、彼が次の反応を示す前に、雪の積もる土手の先を走って行った。


 何が、『下らないもの』だ。どうでもいいものだったら、こんな雪空の夜中を歩き回るものか。ウィルは、何が何でもイグルクの遺失物を見つけてやろうと固く決心したのだった。


 その夜の蒼星の光は凄まじかった。ぎらぎらと燃え盛るような輝きを放っていて、外は昼間と変わらぬほど視界が明瞭である。遠くの地面の凹凸まで、詳細に観察できる。失せ物が発光するというのなら、猶更捜索は楽になりそうだ。


 だが、石はなかなか見つからなかった。兵営から、もう随分走った。きっと大声を出しても誰にも届かないだろう。ウィルはなんだか、もう戻れない所まで来てしまったような気がして、急に心細くなった。


「ライムに乗ってくればよかったかな。これじゃ、引き返すのも一苦労だ」


 とその時、空気が細かく振動するのを耳が捉えた。流れるような人の声。美しい調べに乗せている。これは、歌声だ。


 ウィルは思わずその声につられ、雪の中を更に進んでいった。暫くすると、蒼光の中に背の高い妖しげな影が一つ現れた。


 金白色の長い髪の毛。乳香のような魅惑的な香り。長い睫毛に飾られた端正な顔立ち。男女の判別のつかぬ中性的な声色……。


 淡い像は、接近するにつれて一層神秘性を増した。間近にあるそれは幻のようで、手を伸ばしても触れられないようにさえ思われた。


「いい夜だね。星が一際輝いている」


 唐突に、ウィルは話し掛けられた。低いが、良く通る声。


 幻影は、男性だった。


 ウィルは、男と言葉を交わすのを憚った。口を利くと、どこか別の世界に連れて行かれてしまう気がしたからだ。しかし、黙ったままでいても、体は蛇に睨まれた蛙のように動ず、状況は変わらない。とうとう、ウィルは男に返答をした。


「――はい。雪が光を反射しますから、まるで昼のようです。あの星――ええっと……」

「ユウェイン。ついこの前、名が変わったね。今はそう呼ばれている」


 ああ、そうだ。確かにそんな名前だった。一度街中で噂されるのを聞いた覚えがある。それにしても、案外淀みなく喋れたものだ。


「お恥ずかしい。無知を晒してしまいました」

「いや、仕方あるまい。まだ大して広まっていないし、イザ人には少々覚えづらい名だ。時に君、こんな夜更けに何をしていたんだい?」

「捜し物をしていたんです。光る、小さな石なのですが」

「光る石……もしかして、これのことかな」


 碧眼の美男は、おもむろに懐から石片を取り出した。見覚えがある。確かに、イグルクが以前見つめていたものだ。


「それです、間違いありません」

「そうか、じゃあ君に返そう。落とし主が見つかってよかったよ」

「ありがとうございます。でも、持ち主は僕じゃないんです。友人の捜し物でして……」

「ああ、そういうことか。うん、それなら納得だ」


 男は不思議な頷きをした。一体何を了解したというのか。


「君はイザの竜騎士だね?」

「はい、いかにも」

「あの星の輝きは嫌いだろう。君はユウェインの蒼い光を受けて、とても苦しそうに見える。あれは竜騎士であることを誇るものには安らぎを、重荷に感じるものには苦しみを与えるんだ。何か、思い当たる節があるんじゃないかい?」


 美しき青年は、耳慣れぬ説を話した。


 ウィルは確かに、あの星の放つ光が苦手だ。――だが、重荷とは何だ。


 ライムと一緒に居るのが負担になっていると?それとも、ティナとの約束に縛られているということだろうか。


 自分は、誰かに強いられて竜に乗っている?竜を駆る自発的な動機など、存在しない?


 いいや、そんな事はあるまい。彼女らが居なくとも、きっと自分は竜騎士に憧れていたはずだ。その夢が実現したかどうかは別として。


 元より、竜の力を求める抑えようのない衝動が内々にあった。その上に、ティナやライム、サームやイナ、イグルク――多くの人への思いが重なり、絡み合って、複雑な様相を呈しているのだ。


 しかし、どうして竜を求めるのだろうか?彼らの何に、そこまで惹かれるのだろうか。空を飛ぶから?それは鳥だって同じだ。力が強いから?猛獣は皆、人より逞しいじゃないか。


 わからない。竜とは、何なのだろう。


 ウィルが暫く勝手に思い悩んでいると、男はふっと笑みをこぼした。


「かつて、人と竜は一つだった」


 奇妙なフレーズ。文の意味はわかるが、言葉の意図はわからない。ウィルが面をあげると、男は言葉を続けた。


「遥か昔、人間は神と同等の性質を具有していた。類稀な英知と、世の理を越える奇跡の力。しかし文明を発展させるにつれ、人々は強大に過ぎる力を持て余していった。そこで人は自らの奇跡の力を切り離し、別の存在として生かすことにした。それが竜だ。今の世界を生きる人々は、本来の力を失った半能人の子孫。二つの存在は当初拮抗していたが、やがて人が数を増やして、両者には格差が生まれた」


 ――創世神話。以前似たような話を何かの本で読んだ。その時は、もっと抽象的な言い回しだった気がするが。


「ドラゴンボーンは竜の半身としての性質を引き継ぐもの。つまり君たちは、神話の蓋然性を裏付ける生き証人という訳だ」


 あまりにも突拍子のない話だ。活字で知った時だって、単なるおとぎ話としか思わなかった。しかし、男の言葉には、それを作り話とは思わせない不思議な魔力が宿っていた。


「……あなたは、何者ですか」

「ああ、すまない。すっかり打ち解けた気になって、名乗るのを忘れていたよ」


 突然、雪が止んだ。あれほどしんしんと降雪していたのが嘘みたいに、ぴたりと空は沈黙した。まるで、ある種の前途が閉ざされる兆しのようだった。


「私はメルセル商団当代、ユウェイン・ロ・メルセル。夜空に輝くあの蒼星に、名を冠する者だ」

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