麻痺②
「隊長、足元ふらついてますよ。まだ休まれた方がいいのでは?」
明け方、宿のロビー。ジエンのひどい顔色を見たウィルは、思わず労いの言葉を投げかける。
「大丈夫さ、直によくなる。それに今日はただ道を進むだけじゃないんだから、気合入れていかないと……」
「や、隊長殿、おはようございます。今朝はいい天気だねえ」
そこに現れたゲディは、対照的にけろりとした様子である。よほどアルコール耐性が強いと窺える。
「ゲディさん、おはようございます。本日は案内よろしくお願いしますよ」
「ああ、こちらこそ」
ゲディはジエンからその場の進行権利を受け取ると、ロビー全体を一度見回した後、おもむろに状況の説明を始めた。
「俺たちは既に、砦の敗走兵の行方を掴んでいる。奴らはここから北、小高い山が連なる緑林地に身を隠しているみたいだ。我ら傭兵組がそこまで案内するんで、協力してアジトを襲い、一網打尽にしてやろうじゃないか」
ウィルはその言葉に驚くあまり、「は?」と発声してしまった。ロビーの視線が一身に降り注がれる。
「すいません。何でもありませんので、どうぞ続けてください」
どうにか取り繕ったが、未だ多くの者は不審の目線を向けている。全く表情を崩さないのは、事情を半分知っているイグルクだけだ。今度ばかりはウィルも、彼の仏頂面が少しだけ羨ましくなった。その学友に言い訳するような調子で、心中呟く。
だって、あり得ないじゃないか。敗走兵が山奥に潜んでいる、なんて。砦の兵士は俺が、ライムが皆殺しにしたんだ。どこかに逃げ隠れしているなんて、あるはずがない。
にも関わらずつらつらと説明を続けるゲディをついに堪忍しきれなくなって、ウィルは口を挟んだ。
「――敵の数は、どれくらいですか」
「昨日の偵察の報告によると、大凡二百くらいかね」
「……それはおかしいです。僕が砦を襲った時には、敵兵の数は百にも及びませんでした。そこから人数が増えるのはあり得ない」
「ああ、そうそう。それなんだが、砦の兵は、近隣の民兵集団と合流したみたいだな。シルデン、とりわけ国境沿いのここら一帯では、自警団と称する民兵組織が各街にあってね。本来王国の正規軍とは仲が悪いんだが、イザの竜騎士が攻めてきたと聞いて、しぶしぶ手を結んだんだろうよ」
なるほど、それなら納得できる。恐らく敗走兵と目される集団は、全員が民兵だろう。何かしらの都合があって、国軍を名乗っているか、あるいは傭兵たちの取り違えか。
……だが、もし本当に、砦からの生き残りが合流していたとしら?きっとライムの食事を目撃しているだろう。放っておけば、ライムの秘密が拡散されてしまう。
「一人たりとも、取り逃がす訳にはいかない――」
呟きは誰の耳にも入らなかったはずだ。が、その瞬間のウィルの表情を間近に目撃したゲディは、全身が毛羽立つのを覚えた。あの気の良さそうな美少年が、一体どうして、かような殺意に塗られた表情をしているのか。彼の貧弱な想像力のでは、仮説の一つすら立てるに及ばなかった。
「では出発しましょうか、ゲディさん」
「あ、ああ。歩いて一時半だ。俺らは徒歩なんで、騎士さんたちも竜は置いて行ってくれよな……」
ゲディの案内を受けて、ジエン隊・傭兵隊の混合部隊は、早速件の緑林地帯に足を運んだ。
冬は間近だというのに、木々は生き生きとした緑色を保っている。常緑樹らしい。この季節にはすっかり禿げ上がるイザの山々とは、大分趣が異なる。土は空気と同じく湿気ていて、靴の底は柔らかなクッションを踏みしめているようだ。
ウィルたちは異国の地に踏み入れた感を、いよいよ強くしていた。
「そろそろ宿から一時半経ちますが」
「もうすぐのはずだ。この林を抜けたら、やつらの拠点たる丸太小屋が……」
「うわっ!」
ジエンとゲディの会話中。不意に、隊列の後方から悲鳴があがった。声の主は腰を抜かして尻餅をつき、辺りの者はどよめきを隠せずにいる。
「どうした!」
「矢が飛んできた。林の奥からだ」
「矢?敵の攻撃か?」
口走るジエンの額に向かって、一閃の矢。狙い済ました、痛烈な一撃。
「隊長、危ない!」
傍にいたウィルに押し倒され、ジエンはなんとか事なきを得た。が、決してこれで危機が過ぎ去った訳ではあるまい。隊長ジエンは、うつぶせの体勢のまま、隊員に指示をする。
「皆伏せろ!」
と叫ぶが早いか否か、横殴りの暴風雨のような矢の嵐が、一行に襲い掛かった。
命令に迅速に応じた騎士たちは、どうにか直撃を免れた。が、反応の遅れた傭兵たちの一部はまともに矢を受けてその場に倒れ込み、奇しくも恰好だけは他と同じになった。
「けっ、まんまと網にかかった訳か。こんな古典的な戦法によお」
「できるだけ固まって、急所を隠すんだ。射撃が終わっても、不用意に立ち上がるな!」
ジエンの迅速な判断のおかげで、被害は最小限に抑えられている。だが矢は、それこそ矢継ぎ早に次々と放たれて、反撃の隙を与えてくれない。
「うわっ」
ウィルの隣の者が撃たれた。地面に伏せていた右手の甲を貫かれ、赤黒い血が、どくどくと噴き出している。ウィルの両眼は、何故だかそれに釘付けになった。血液が緑色の草の表面を勢いよく這うのを、まるで異形の蟲が大地を浸食しているかのように感じながら。
「耐えろ!きっともうすぐ矢が尽きる!」
幾ばくの時が経っただろうか。ウィルの額が冷や汗でびっしょりになった頃、ようやく敵の射撃は止まった。
暫くの間、辺りはシンと静まり返る。双方、相手の出方を窺っているのだ。
とりわけ討伐軍は、先に動くことができなかった。矢はまだ残っているかもしれない。迂闊に動けば、そこを狙い撃たれる可能性がある。敵が次の動きを見せるまで、待たなくては……。
果たして騎士たちは、根競べに勝利した。民兵はなるべく音を立てず、静かにそこを立ち去ってゆく。恐らく本当に矢が尽きたのだろう。
気配が完全に消えた後、討伐隊はおもむろに腰を起こした。周囲を見回し、互いの無事を確認し合う。動けなくなった者は、最初に撃たれた数人の傭兵以外に居ないようだ。
ただし、およそ半数の者は、なんらかの手傷を受けていた。腕や脚などの抹消部に損傷を受けた者が多く、寡勢の討伐隊にとっては、小さくない痛手だった。
「おい、ゲディ。奴ら、完全に俺たちの事を待ち伏せしてたじゃねえか。作戦が漏れてたんじゃねえのか」
「そりゃあない。俺は今ここに居る連中以外に、作戦の内容を漏らした覚えはねえ」
ソドムとゲディが言い争う。騎士たちの中にはゲディが民兵と内通していると疑う向きもあったが、他ならない彼の身内が被害を受けてることもあって、誰も口にはしなかった。
「喧嘩しても仕方ない。まずはこれからどうするかだ。敵が万全の準備を整えているなら、このまま進むのは危険すぎる。引き返すのも一つの手だが」
「戻るのだって、リスクは変わらねえよ。辺りにうじゃうじゃ敵が潜んでるのかもしれないんだぞ。背を向けたら、最悪挟み撃ちにされる」
「それもその通りだ。ゲディさん、小屋まではあとどれくらいですか。なるべく正確に教えて頂きたい」
「五町……いや、十町くらいかね。ともするともう少し」
ゲディの言葉は曖昧に過ぎた。というより、はなからまともに答える気がないのかもしれない。
「悪いが、もう信用ならねえな。竜を駆り出そう。空からこの森の様子を観察してやる。初めからそうすればよかったんだ」
ソドムの提案に、皆頷く。竜を失った竜騎士は、装備で劣る分、槍歩兵にも及ばない。竜を駆ってこその、竜騎士だ。
「さあ宿に戻ろう。全員で……は、厳しいか。怪我人の手当てのために、半分はここに残った方がいいな」
「待ってください。それには及びません」
「ん?」
もう方針は決まったと言わんばかりに背を翻すソドムを呼び止めるのは、紅い目の少年ウィル。
「その仕事、僕に任せてください。僕でしたら、この場にて自分の竜を呼び出せます」
「何だと?」
ウィルは、ライムの特殊な力を説明した。周囲の多くの者は、半信半疑でそれを聞く。
「大層な自信だな。そこまで言うなら、実際にやってみせろ」
「実際にできたのなら、僕に任せてくれるのですね?」
「……それを決めるのは俺じゃねえな」
ソドムはジエンに視線を送る。温和な隊長は、頷きでもってそれを許可した。
「ありがとうございます」
ウィルは目を瞑り、胸の内で相棒の名を発声する。途端、上空から大扇子で扇がれたような強風が降ってきた。その発生源にあるは、見紛う事なき黒曜石の巨竜、ライム。
「やあ、本当に来た!こりゃ面白い」
「坊主、やるなあ。口だけじゃねえってこと思い知らされたよ」
傭兵たちが能天気にはしゃぐ。先ほど自分たちの仲間を幾人か失ったことなど、もう忘れているようだ。
「待て、ウィル」
ジエンの呼び止め。ウィルは、地上に舞い降りたライムの背を跨ごうとした所で、ぴたりと動きを止めた。
「また一人で暴走するんじゃないぞ。小屋を見つけたら、すぐに合図を送れ。俺たちもそこに急行するから、それまで一切動かないこと。いいか、これは約束だ」
約束。命令じゃなくて、約束。破ってはいけないもののではなく、破りたくないもの。
「はい、約束します。あなたへの尊敬に誓って、ジエン隊長」
それだけ告げると、ウィルは地上の羨望と圧巻を置き去りにして、竜巻のように宙を舞った。多くの者は、この時初めて、ウィルたちの真の動きを見た。そしてようやく、彼らの砦での働きに納得する材料を得たのである。
「見えた、丸太小屋だ。あれに違いない」
次の瞬間には、ウィルは標的を捉えていた。ジエンたちの待つ地点から、目算で二十町ほど。方角は先程までの進行方向で大凡間違いない。ゲディの案内はてんで出鱈目という訳でもなかったが、かなりおざなりだった。
ライムを小屋の真上辺りまで動かす。そして、喉の火炎袋に空気を含ませるよう命じる。
「約束だ。合図を送ろう、ライム――」
黒竜の口から、猛烈な火炎の息吹。火炎は小屋の手前に着地して、辺りの草木に火をつけた。粘膜を痛めそうな濁った煙が、もうもうと立ち込める。
煙はすぐに、少し離れたジエンたちの目にも届いた。
「狼煙があがったぞ!あそこに小屋がある、急げ!」
しかと目標を得た討伐隊は、先ほどまでの倦怠感が嘘のように、あっという間に煙の発生地点まで合流した。
小屋の前に到着したジエンたちが見たのは、火の手を前に右往左往する武装兵たちの姿だった。突然の火事に困惑し、何ら冷静な動きを取れていないように見える。
更にそこに現れたのが、イザの鎧をまとった屈強な戦士たちだ。民兵たちはいよいよ狼狽して、陸に揚げられた魚のような所作をし始めた。
「な、なんでここまで。射撃部隊は何をしている」
シルデンの国章が刻まれたバンダナ巻の男が慄く。察するに彼らにも算段があったようだが、討伐隊はそれに耳を貸そうとはしない。
「奴らを捕えろ!交戦は許可するが、なるべく殺さぬように!」
ジエンの命で、騎士たちは一斉に動き出す。民兵たちもやや遅れて、武器を構え応戦の体勢。それはこの戦争において初めて、イザとシルデン両国の者が対等な状況で矛を交えた瞬間だった。
とは言っても、それは戦いと称せるほどのものでなかった。争いはあっという間に決着した。イザの騎士たちが、あまりにも一方的に、シルデンの民兵たちを屠ったのだ。
所詮素人集団の寄せ集め。経験を積んだイザの正騎士たちには、何もかも及ばない。森を彷徨っていた時の苦労が、まるで嘘のようだった。
「随分、あっけなかったですね」
「そうだね。でもウィル、勘違いしちゃいけない。敵が弱い訳ではなかったんだ」
「どういうことですか?」
「俺たちが強かったんだ。イザ軍は大陸最強の存在。君ももう、その一員だ。誇りに思うがいい」
「!――はい」
イザの国内に留まり続けていたウィルは知らなかった。祖国の軍隊が比類なき強さを持つ事。そして、周辺国が彼らに対し、並々ならぬ畏れを抱いている事を。
「森の中に潜んでいた弓兵たちも、粗方捕まえました。目標、撃破完了です」
「うん、ご苦労。これで本当に終わりだね」
騎士たちは、久々に安堵の表情を浮かべていた。命令通り、残党兵一派を捕えることができた。これでジエン隊の禊も終わっただろう……。
「あっ、あいつら逃げるぞ!」
不意に、傭兵の一人が叫んだ。その指差す先で、体を縛る縄を自力で解いた幾人の敵兵が山の奥地に逃げ出そうとしていた。
「追います」
竜を持ち合わすウィルが、即座に反応する。急の事態だから、許可を待つ余裕は無い。後で事後承諾をもらおう。
疾風のライムは、火炎で木々を灰にしながら低空を進む。標的は草木を陰にしながら散り散りになって逃げるが、黒竜の騎士の前では無駄な抵抗でしかなかった。
一人、また一人と追い詰めて、大長槍の先端で足の腱を断ち切っていく。悲鳴と共に倒れ込む、シルデン人たち。これで奴らは自分の脚で移動できなくなった。
「回収は隊長たちに任せよう。俺たちは逃げる者を追うぞ」
ウィルは更に奥深くへとライムを飛ばす。方向を指定しなくても、ライムは迷うことなく突き進んだ。人の匂いをかぎ分けているのかもしれない。
やがて、急斜面が流れる行き止まりに辿り着いた。斜面の手前に、長髪の異国人。この男が、最後の生き残りだろう。
「ひっ。す、すまねえ。もう逃げないから、どうか命だけは見逃してくれ……」
男はウィルを見るなり命乞いをした。ウィルはその理由がわからない。自分がどれだけ冷酷な雰囲気をまとっているか、わかっていないのだ。
皮肉にも、男のその言葉で、ウィルは一つの考えに行きついた。そうだ、ライムに食事を与えるチャンスだ――。その発想が同時に、脳内に相反する二つの思考が交錯した。
近くに味方が迫っているかもしれない、ここで行動に出るのは危険だぞ。何を、向こうは徒歩だ。そうすぐにここまで追いつけるはずがない。
敵が一人減ったら、後で不自然に思われる。いつかのヘムス村の時と一緒じゃないか、知らんぷりをすればいい。お前は何の為に戦争に参加したんだ?ライムに報いるためだ。でも、今はリスクが高すぎる。こんなことを続けていれば、いつか必ず所業が明るみになる――。
思考は、自制心の勝利に傾いた。そうだ、今は事を急ぐ必要はない。もっと絶対的に安全が確保されている時に、食事を与えてやればいい。ウィルの瞳に、柔らかな白光が差し込みかける。が突然、何処から湧き出た一つの思いが、それをたちどころに反転させてしまった。
――どうしたら、ライムはよろこんでくれる?
他のあらゆる言葉は、一切の効力を持たなくなった。ウィルの口からは、いつの間にか、すっかり口に馴染んだ台詞が滑り落ちていた。
「ライム、食べていいよ」
視界が揺らぐ。悲鳴。聞き苦しい、動物の声。それによって、ウィルの脳は忽ち麻痺から解放された。
「あ、俺――」
つい、許可を出してしまった。とても危険だというのに。もし、誰かにこの場面を見られでもしたら……。
さっきとはあべこべに、感覚器官を極度に研ぎ澄ませて辺りの気配を窺った。誰も居ない。近づく足音も聞こえない。さっきの悲鳴は後続に届いただろうが、ここに到達するまでは暫く時間が有るだろう。
大丈夫、見つかりはしない。そんなことは、あってはならない。
「そうだ、問題ない。今度こそ絶対に、俺が守ってみせるんだから……」
残党狩りを終えたジエン隊は、その後もゲディら傭兵を伴いつつ、ゆっくりと西進していた。というのも、彼らには引き続き民兵組織の発見・武装解除の任務が与えられていたため、傭兵たちの助けが必須だったのである。
ソドムたちはこの決定に不満だったが、ウィルには寧ろ好都合だった。村や山小屋に籠っている民兵たちを捕えると、他の目を盗みライムに食べさせた。ライムの食糧事情は、ぐんと安定した。
対象が対象だけに、失踪者が幾らか出たところで、誰も大騒ぎしない。『イザへの抗戦を続けるため、何処かに身を隠した』。そう思われるだけだ。ライムの秘密が露見することはまずあり得ない……。
さて、砦を発ってから七日目。ウィルたちは目標テジュータまでの道のりを、半分ほど進んでいた。
連日の好調な戦果によって、兵たちの機嫌は上々だった。傭兵が同行しているために先頭集団との距離は余計に開きつつあったが、戦果に応じた褒賞が出ると聞いて、士気も頗る高まっていた。
「ふう、やっと地上に降りれた。やっぱり数回乗ったくらいじゃ慣れんな」
その日の移動を終え、竜騎士たちは地上に降下する。竜の背から降りてくるのは騎士のみならず、傭兵も一緒。徒歩の傭兵たちに速度を合わせるのは行軍速度に問題があるため、苦肉の策で竜への同乗を許したのだ。竜は本来、ドラゴンボーン以外の騎乗を激しく厭うので、それが可能だったのはわずか数騎ばかりだった。ウィルの駆る黒竜ライムの背にも、強面の客人が二人ほど乗っかっていた。
「ご苦労さん、楽しかったぜ坊主」
「ああ、肝を冷やした。なんて速さだよ。やっぱこの黒ドラゴンは格が違うな」
ウィルは男たちにしつこくせがまれて、何度かライムを加速させてやったのだった。彼らの感想に耳を貸していると、その後塵を拝した男たちが周囲に集まってくる。
「後ろから見ていたが、本当にすごかったぜ。な、坊主。次は俺を乗せてくれないか?」
「馬鹿、次は俺だ。あのスピードを早く体感してえ」
「何か秘密があるのか?普通の竜はあんなに速く飛べやしないだろう」
残党狩りの一件以来、ウィルはすっかり傭兵たちの人気者になっていた。昼夜を問わずつきまとわれ、やたらめったら質問攻めに遭う。
「訓練兵、ぼさっとしてねえで早くこっちに来な。晩飯の支度をするぞ」
「すいません、ただいま」
そんな時に助け船を出してくれるのは、決まってソドムかジエンだった。ウィルは日に日に、二人に対する感謝を膨らませていった。
そういえば、イグルクとは最近話をしていないな――。
進軍が始まってから、二人は天幕もばらばらになり、めっきり関わりが少なくなった。元々人付き合いのいい人間じゃないし、それは然るべきなのだが、どことなく寂寥感があった。まだ、ザスティンの前で自分を庇おうとしてくれた事にきちんと礼を言っていない。なるべく早く、自分の気持ちを伝えておきたいのだが……。
その翌日の、未明のことだった。
「わっ!このドラゴン、なんて物を食ってやがるんだ!」
天幕の外から響く叫び声で、ウィルは飛び起きた。
今、何と言った?ドラゴンが、何かとんでもないものを食べている、と?何かの聞き間違い……ではなさそうだ。外の兵士は、竜を叱責するように大声で騒ぎ続けている。
「まさか、ライム――」
兵営の人間を喰らったのか。そして、それが目撃されてしまった?
まずい。まずい――。
青ざめた肉体をベッドから引きずり出して、光の漏れる天幕の布戸に駆け寄る。何もない所で躓きそうになる。走り方を忘れてしまったかのように両足がもつれ合って、うまく進めない。気持ちばかりが急いで、瞳はいつまでも薄暗い天幕の物陰を映すばかりだ。
早く、一刻も早く――!
ウィルは戸を薙いだ。輪郭の無い光が、網膜を焼く。極度に狭まる視界を揺り動かして、騒ぎの発生源を探した。
「あっ……」
戸から右斜めの地点。束ねられた薪木のすぐ隣。口元を赤く汚した飛竜が、大勢の騎士に取り囲まれていた。鱗の色は、薄い茶色。
「それは俺の朝飯だぞ!昨晩の鶏肉の残りを、こっそり取っておいたっていうのに」
「んなけち臭い真似するからこうなるんだよ。ほれドラゴン、遠慮なくおあがり。お前も俺たちの残しものばかりで、うんざりしていただろう」
騎士たちが、一頭の竜とその主を巡って戯れていた。なんてことはない日常の光景。――ウィルの予感は、思い違いだった。
「おや、訓練生。どうした、こんなに早く起きて?今日はお前、朝当番じゃないだろう?」
「お前が大騒ぎするから起きちまったんだろうよ。それより、そろそろ名前で呼んでやったらどうだ?なあ、ウィル」
心臓の鼓動が急減速する。拡張した血管が一気に縮まって、このまま血脈は流れを止めてしまいそうだった。
「え、ええ。別に気にしていませんから、どうぞお好きなように……」
魂が抜け落ちたようなウィルの様子に、騎士たちは不審を抱いた。眉を顰め、訝しげにその立ち姿を眺め見る。
「もう少し床につきます。お騒がせしました」
それ以上の会話を望まなかったウィルは、戸を閉ざして、天幕の中に逃げ戻って行った。自分の行動が多少おかしく思われようが、一向に構わなかった。
よかった。勘違いだったんだ――。
そして、泥のように眠った。張り詰めていた緊張の糸が切れ、危ういまでの安堵がウィルの心を支配した。
日が高く昇っても、目を覚まそうとしない。他の者が呼びに行っても、碌に反応すら見せなかった。誰が訪れても、ウィルは慎ましい寝息と、麗しいまでの寝姿を見せ続けるばかり。それは魔女の呪いを受けた、おとぎ話のお姫様のようだった。
ようやく目覚ざめたのは、夕方に差し掛かる頃であった。西の日差しが戸の隙間から入り込み、天幕の内部を淡い黄昏色に染めている。
「寝過ごした、のか。皆は、敵地に突っ込んでいる所かな――」
昨晩の民兵討伐隊は、ゲディたちの案内で、敵の根城だという古代のほこらの近くに野営していた。今日の昼間に敵地へ乗り込むと言っていたから、今はまさしくその真っ最中なのだろう。
ウィルは天幕の外へ出て、兵営を歩いて回った。普段の活気が嘘みたいに静かで、残されていたのは怪我の程度がひどい傭兵数名だけだった。
「ここに居ても退屈だな……」
ウィルは心の内で、相棒の名を呼ぶ。するといつものように、間を置かずして上空から現れるライム。西日を鋭く反射して、今日はとりわけ神々しく見える。
「やあ、半端な時間にごめんね。――そうだ。お前、俺が眠っている間に誰かを食べたりしなかったかい?」
ライムは何を言っているんだと言わんばかりに首を傾げる。ウィルは自分を嘲るように、苦笑にも近い笑みを浮かべた。
「ごめんごめん、行こう。北西のほこらで皆が頑張ってるはずだ。もう事は済んでるかもしれないけど……」
兵営からほこらまでは、竜を飛ばして半時ほど。ライムとウィルにとっては、ものの一瞬の距離だ。日がまだ沈み始める前に、ウィルたちはほこらの上空に到着した。周囲には見覚えのある飛竜たちが十頭ほど飛び交っている。討伐隊がここに居るので、間違いない。
ほこらといっても、いわゆる建造物がある訳ではない。その外観は、小さな台地の側面に掘られた、人工の洞窟。東西南北に、それぞれ一か所アーチ状の入り口があり、そのそれぞれが、竜が悠々と入り込めるほどに幅広い。日中ならば、台座のある洞窟中央まで光が届くそうだ。自然地形を利用した、半人工の文化空間といったところか。
「ほこら……立派だね。こんな大きいのは、見た事ないや」
それもそのはず、各地の大規模なほこらは、既に破壊し尽されたのだから。
――大陸にはかつて、国境を越えて広がる一つの物語があった。それは世界の成り立ちから世の理、人が守るべき道徳までを説く、多面的な精神世界だった。宗教、という言葉で表現してもいいかもしれない。フィニクスやサラマンドラ、精霊や千年遷移という概念も、その物語の中で語られるキーワードである。
ほこらは宗教における重要な施設で、比較的小規模な建築内に、精霊やフィニクスを象った聖像を祀ったものである。ダルネフの精霊像も、元はほこらに安置していたものを、訓練所を建てるに当たって、建物の一画に収めたものだ。
さて、この千年の間に、大陸宗教は急速に求心力を失った。それはサラマンドラの出現によって世の太平が乱れ、信仰の保持が阻害されたことが要因とされる。更に言うと、その傾向はここ数十年で急速に強まった。その原因は、かのメルセル商団にある。人心を掌握し民の深層に根差そうとする商団にとって、彼らの拠り処たる大陸の物語は、まさしく目の上のたんこぶ。商団は穏やかに、かつ隈なく民の心から教えを消し去り、ほこらを始めとする宗教施設を破壊して回った。
商団の力が強いシルデンでは、特にそれが顕著だった。が、このほこらは、周辺住民の強い反対によって、例外的に破壊を免れた。それは、ここがフィニクスを祀るほこらであったためである。名も無き精霊たちの事は忘れても、フィニクスだけは民の心から消え失せなかったのである。
「フィニクスのほこらだって。お前のライバルじゃないのか?」
ライムは反応を見せない。フィニクスやサラマンドラの話をするにあたって、ライムはいつもこの調子である。だから、ウィルは未だに相棒の黒竜と、伝説上の大とかげを完全に同一視しきれずにいる。
ライムを西側の入り口の前に着陸させると、丁度中から見知った顔がいくつか出てきた。
「ウィル、ここまで来たのか。心配していたんだぞ、いくら起こしても目を覚まさないから」
世話焼きのジエンだ。ウィルは「もう大丈夫です」と、決まり文句のように受け答える。
「その様子だと、もう任務は完了したのですか」
「うん。連中油断していたみたいでね。意外なほど呆気なかった。今回、イグルクは大活躍だったよ。君もうかうかしてられないな」
ジエンは、二人の対抗心に火をつけようとしているのだろうか。残念ながら、ウィルにはそんな感情は全くない。けれど、旧知の学友の活躍は、素直に嬉しかった。
「敵の数はどれくらいだったんですか」
「百人以上は居たかな。兵の質は一様に低かったけどね。あ、そうそう。珍しい奴が中に潜んでいたよ」
「というと?」
「中に入ればわかるさ。俺は周囲に逃走した者が無いか確認してくるから、詳しくは中の者に聞いてくれ」
告げ終わると、隊長以下数名は忙しなく愛竜を駆り出して、低い空を飛んで行った。ウィルはライムから降りて、目の前の穴へ侵入していく。
洞窟内は、話に聞いた通り光が差し広がっていて、壁面全体が鮮やかな夕焼け色に染まっている。天井はとびきり高く、ウィルが今まで見た人工物で、これより高いものは無かったろうと思われる。
壁に手を当てると、人肌のような柔らかな温かみが伝わってきた。土質は研磨したように滑らかで、表面に油のような滑りがある。手を離せば、跳ね返るような弾力を覚えた。まるで、ほこら全体が一つの生き物のようにすら感じる。
「不思議な場所……」
壁伝いに進んでいくと、縄で両手足を縛られた人間が、何人も転がっているのが目に入り込んできた。ここに潜んでいた民兵だろう。本当に、すっかり制圧を終えたらしい。
「くそっ、こんなの聞いてない!畜生、畜生……」
「あいつら覚えていろよ。いつか報いてやる」
男たちは逆恨みのような言葉をしきりに漏らしている。余程敗北が悔しかったのだろうか。これまで見た民兵たちは、もっと簡単に心が折れていたものだが。
「お、坊主じゃねえか。今日は、随分お寝坊さんだったみたいだな」
最初にウィルの登場に気付いたのは、名前もわからぬ傭兵数名。ウィルは彼らの相手があまり得意でないので、騎士仲間のソドムに取り次いでもらった。彼も見た目や喋り方は傭兵たちと大差ないのだが、本質的なところで大きな違いがある。ウィルはそれをよく感じ取っていた。
「副隊長、遅れて申し訳ありません。ただいま参上いたしました」
「お前か。さっきジエンとすれ違って聞いたかもしれんが、この通りだ。全て完了している」
「珍しい者を捕えたと聞いたのですが」
「ああ、それな。なんてことはない、メルセルの商人さ」
ソドムが指差す先に、長い髪を派手な髪飾りで束ねた、身なりの綺麗な男が縄で縛られていた。腰の体側面には、脇差の代わりに立派な縦笛。典型的な、メルセル商人の容姿だ。
「なんでこんなところに、メルセルの商人が?」
「さあな。俺たちが話しかけても口を開きやしない。ま、どうでもいいんだけどよ」
「僕、話してみてもいいですか?」
「いいけどよ。余計な情をかけたりするんじゃねえぞ」
ウィルは笛吹きの男に近付く。距離が縮まるにつれ、甘い香水の匂いが漂ってくる。ハジュの街で、これと同じ香りを嗅いだ。
「こんにちは」
なるべく穏やかに、自然に話しかける。男は目線を上にずらして、ちらりとウィルの面を窺った。
「――君は……君も、イザの竜騎士なのか?」
「ええ、そうです」
「ふうん。君みたいなのも居るんだな」
何に感心したのか知らないが、男はウィルの事を一目置いた風であった。こんなに簡単に口を利いてくれるとは思わなかったが、とにかく好都合だ。
「俺に何か用?」
「どうしてここに居たんですか?メルセルの商人にとって、ここは忌まわしき場所でしょう」
「確かにね。でも、美しさに思想の違いは関係ない。ここの聖像や彫刻類は素晴らしいよ。見ていて心が洗われる」
「持ち出して売ろうと思ったんですか?」
「まさか、ただ鑑賞していただけさ。こんな美しいものを世に霧散させるなんて、勿体ない」
メルセルの商人はその手法がら芸術家かぶれが多いと聞くが、この男はまさしくその通りだった。ウィルはこれまでに味わったこのない、妙なやりづらさを感じた。
「ここの民兵たちと何か関わりが?」
「……あったとして、それを正直に吐くとでも?浅はかだね。俺はこいつらとは一切関係ない、そう述べるのみだ」
話題を転換した途端、男の雰囲気が一変してしまった。この質問が真意であると、即座に見透かされたらしい。
「真相はわからず、か――」
ウィルはすっかり無愛想になった男を置き去りにして、仲間たちの元へ戻っていった。
その日、討伐隊は天幕をほこらの間近まで移動させて、その場で野営することとした。民兵たちの蓄えていた酒と肉で宴会を開く。この付近の民兵はこれで大凡壊滅したということで、祝杯ムードだった。
ゲディらに無理やり同席させられたウィルだったが、隙を見てすぐに逃げ出した。
酒は体に合わない。そもそも、まだ飲むべき年齢じゃないだろう。あんな下らぬ事をするよりかは、件の聖像や彫刻を見に行った方がましだ。
洞窟中央の大きな空間、その北東面にある小部屋に、聖像は安置されている。昼間見た時は『造形の整った美しい像』程度の印象だったが、メルセルの男曰く、あれは夜になると妖しく光って見えるのだという。ウィルはそれを拝むのを楽しみにしていた。
灯りの無い洞窟内は、松明を持たぬと殆ど真っ暗だ。ウィルは足元に気を付けながら、慎重に歩む。小空間の前に着いた。微かに、光が漏れている。男の話は本当だったのか。
と、足を踏み入れようとした瞬間、先客が居るのに気付いた。中に入るのを躊躇っていると、少し震えたような微かな声が聞こえてきた。
「……てきた。だけどどうしても、どうしても勝てない奴がいるんだ。俺はどうすればいい、母さん――」
ウィルはこの声を知っている。印象的な、落ち着きのある、中太の弦を揺らしたような声。
邪魔してはいけない。ウィルはその場を立ち去ろうとした。が、後ずさりした右足が地面の石ころをかすめて、物音を立ててしまった。
相手はまだこちらを振り向いていない。けど、逃げおおせるのは無理だ。見つかる前に、自分から話しかけようと思った。
「――お祈り?」
イグルクは振り向く。表情は眉を軽く顰めたまま動かない。これから喧嘩でもするかのように拳が強く握られていて、その口元すら糸で縫ったように固く結ばれたままである。
「ごめん、盗み聴きする気はなかったんだ。偶々ここに来たら、君が先に居た」
「…………」
まだ何も返さない。余程、不服に思っているみたいだ。
「どこから、聴いていた」
と思えば、唐突に口を開く。思ったより、恐ろしくない声だ。
「多分、最後のほうだけ。お母さんのこと、大切なんだね」
「……違う」
「えっ」
表情が、小刻みに震える。イグルクはまた、奥歯を強く噛みしめ、何か大きな感情を隠そうとしているようだった。
「――俺は、あの人を憎んでいる」
意図が理解できなかった。憎んでいるなら、こんな場所で、母に縋るような言葉を呟くものか。しかし、冗談や照れ隠しとも、到底思えない。
「どういう、こと?」
反射的に、そう問うていた。その頃にはもう、イグルクはウィルから視線を外し、ゆっくりと暗闇に向かって歩き始めていた。
「お前には関係のないことだ」
小部屋前のウィルとすれ違いざまに、イグルクは呟いた。やがてウィルの目の前には、奇妙なほど眩しく光る、悲しい目の不死鳥が佇んでいるだけになった。
深夜。宴会も終わり、皆が寝静まった頃。ウィルは密かに起きだして、兵営から少し離れた場所でライムを呼び寄せた。
虫の音も枯れたこの季節、辺りは自身の聴力を疑うほどに静まり返っていた。耳を澄ませば、微かに天幕の兵士たちの寝息が聞こえるのが、なんだか滑稽であり、安心するようでもある。
「こんばんは、ライム。今日は皆、すっかり深い眠りに落ちてるよ。お酒はやっぱり怖いや」
いつものように、顔の鱗を撫でてやりながら、優しく語りかける。ウィルは、こうしていられる時が一番幸せだった。誰かに愛情を注げることが、何よりも嬉しい。
「行こう。今晩は見張りもお留守だから、気を張らなくていいよ」
黒竜の騎士は、兵士たちの天幕から少し離れた、捕虜用の天幕に羽ばたいた。以前ウィルたちが使用していた、客人用の朱色天幕。ウィルはこの小さな寝室に、よっぽど縁があるようだった。
そっと戸を開ける。少しだけ暖かな空気と、ばらばらの呼吸音が外に漏れだす。中には今日捕えた百人余りの捕虜が雑魚寝していた。皆よく寝ている。短時間とはいえ、歴戦の騎士たちへの抗戦は、よほど堪えたのだろう。
ウィルはライムと何度か目配せすると、体格のよい若い男を何人か選び出し、順に起こして回った。他の者を目覚めさせぬよう、慎重に。
「なんだい、こんな夜更けに起こして」
寝ぼけ眼の男たちは、不機嫌そうに声を漏らす。ウィルは右人差し指でもって「しーっ」の合図をすると、美しい顔立ちに妖艶な微笑みを湛えて、女のような声で囁いた。それは幾夜も男に甘い夢を見せた、名うての情婦のようだった。
「ここから、逃がしてあげます。僕に、ついてきて」
星は、半分だけ満ちていた。いや、半分だけ欠けていた。名も無き林の奥地で流れる血を照らすのはその蒼い光だけで、正確な血の量を推し測ることはできない。
鉄の匂い。いい香りではない。でも、酒の香りよりはずっといい。ウィルは、うっとりした気分のまま、愛竜の食事が済むのを待っていた。
「戦争はいいね。お前の食糧をいくらでも見繕える。本当に、来てよかった」
ここに至るまで、いくつもの困難があった。屍を漁り、囚人を謀り、被災者を神隠しにした。レース、正騎士たちの洗礼、砦の死闘……一人前の騎士と認められるのにも、随分多くの障害があった。
本当に、言葉じゃ語れないほどの苦労を重ねた。でも、ようやくそれが報われた。ライムはこうして、いつだって、好きなように食事ができる。あの時のティナとは違う。俺は今度こそ、一つの命を救ってやれた。
「だけど、ずっとこの状況が続く訳じゃないよね。――そうだ、敵兵を沢山捕えたら、どこかに繋いでおいて、いつでも食べられるよう備えておこう。そうすれば、もう無闇に戦場に行かなくても……」
そこまで言い掛けた瞬間、ウィルははっと自身の言動の異常性に気付いた。
「――何を言ってるんだ、俺は。相手は人間だぞ?これじゃあ、まるで……」
ドサッ。
背後から、何かが草むらに落っこちるような音がした。ライムの食事中は、いつも物音にびくびくさせられる。神経が以上に昂ぶっていて、些細な音にも反応してしまうのだ。
と言っても、いい加減それには慣れていた。ただ風が騒ぎを起こしただけ。どうせ何の異変もない。神経をすり減らすだけ損なのだ。
けれど、その日ばかりは違った。背後を振り向いたウィルの視界には、蒼色の人影がひとつ。その真下には、見覚えのある細身の長槍が転がる。影の遊ばせる空っぽの右手から、抜け落ちたものだろう。
「何を、している――」
ウィルの、視線の先。蒼く照らされた林檎の木の脇に、四肢を丸きり硬直させた、イグルクの姿があった。




