初陣
――大方の兵士にとって、初陣こそが最大の試練である。それ以前の彼らは普通、命のやり取りを知らないのだから。
朝礼の後、小隊長以上が集められて軍議が行われた。一般兵は自由行動となったが、多くは自主訓練に身を投じた。ウィルやイグルクも、ソドムら先輩兵と談笑を交えながら、いつもより緩い基礎訓練に打ち込んでいた。
「お、ここに居たのか。全員集合だ、皆すぐに来てくれ」
その夕刻、ジエンがウィルたちの元へやってきて告げる。息を切らしているのを見るに、軍議が終わった後急ぎ駆けつけてきたらしい。
隊の面々はジエンの指示に従い、直ちに例の高台で整列する。他の隊も続々と集まってきており、丁度朝礼の時と同じ形になった。きっと今後の具体的な動きについての周知だろうと、多くの者は予測した。
「全隊集まってはいないようだが?」
「一部の隊は竜を駆り出して、遠方へと演習に向かったようです。日没まで戻ってこないかと」
「軍営の近くに留まるよう指示を出したというのに。違反者は後で罰則だな」
司令官ザスティンは側近らといくらか言葉を交わした後に、兵隊の方を向き直って改まったように咳払いをした。
「諸君、集まってくれてありがとう。君たち全員に話をしたい事があって、こうして夕方に召集をかけさせてもらった」
役職を持たない一般兵を緊急招集するほどの事柄が、これから告げられる。ウィルは興味深く言葉の続きを待った。
「先程の軍議で、いくつかの方針が定まった。まず我々は、この地よりシルデン山脈を越えて、敵国領内に侵入。国境際にあるシルデン第六砦を奪取し、以後砦を拠点として周辺要地を占領しながら西進する。第一目標はシルデン中央にある内陸都市テジュータ。この地でマグタンク中将率いるパスティナ遠征軍と合流し、その勢いで大陸西端にあるシルデンの都に迫る」
特に何の変哲もない作戦だ。シルデンの地理に多少精通しているものならば、大凡この内容は予測できただろう。まさか、この事を知らせるためだけに、一般兵を集めたのではあるまい。では、真の議題は何か……。
「さて、問題となるのは最初の関門、第六砦の奪取である。砦は老朽化しているものの規模が大きく、近年の改築によって防御施設も充実している。特に、我々イザの竜騎士への対策は万全と聞く。そこで我々は、砦の迎撃態勢が不十分のうちに奇襲をかけたい。ここ本営が国境から遥か遠くにあるのもそのためだということは、諸君らも承知の上だろう」
国境に程近い山脈麓に兵営を張れば、此軍の動きが敵陣へ伝わるのも早い。それを対策するために、山脈から離れた平原に野営しているのだ。因みにこの地――『イザ西大平原』と呼称される――から目標の砦までは、竜を飛ばして凡そ半日掛かる。
「だが、我々の挙動は既に敵に察知されている可能性が高い。この地に辿り着いてからも、忌まわしきなんたら楽団とやらが辺りを嗅ぎまわっているという話を、頻繁に耳にする。シルデンが楽団から情報を得たとすれば、既に第六砦の防御態勢は整い切っているだろう」
要するに、砦への奇襲は一筋縄ではいかないと、ザスティンは主張しているのだ。
「よって、我々は事前に偵察隊を派遣することとした。本隊が攻撃を仕掛ける前に、敵地の状態を知っておこうという狙いだ。私は軍議にて、その役目を引き受けてくれる隊はないかと呼びかけた。しかし、誰一人として手を挙げない」
それは仕方のないことかもしれない。偵察隊といえば聞こえはいいが、実際には敵の大軍が待ち構えているかもしれない根城に放り込まれる、人柱である。
ウィルはこの時点で、ザスティンの続く言葉を予想し得ていた。千載一遇の好機が、再び訪れたのだ――。
「そこで、君たち騎士一人一人に呼びかけ、隊員を募ることにした。誰か、偵察隊に参加したい勇気ある者は居ないか」
その言葉から間髪入れず、細く白い腕が一本、垂直に挙げられる。周囲の者は思わず身じろぎ、挙手の動作主へ目を向けた。
「僕を行かせてください。必ずや、任務を全うして見せます」
細いながらも、力強い声。ジエン隊の面々は、かの少年はこうも威風堂々としていたかと驚き戸惑った。
「ほう、ダルネフの少年か。面白い。やはり若者はこうでなくてはいけない」
ザスティンはさして意外そうでもなく、寧ろむべなるかなといった表情でウィルの顔を眺めた。志願兵が一人現れたことで、満足げに下顎を撫でている。
「他に志願者は居ないか?まだ正規兵にもなっていない若者が志願したのだ。ここで名乗りを挙げぬは、正騎士として恥ずかしいぞ」
と、ザスティンが言うのを、ウィルは奇妙な言葉で制止した。
「いえ、それには及びません。一人で行かせてください」
「何?それはどういう意味だ」
「僕の竜はここに居る誰よりも速いです。だからこそ、この地から国境の砦まで、接近を敵に悟られることなく飛行できる。そこに常速の竜が加わると、却って敵に付け入る隙を与え、危険が増します。だから、僕一人で行かせてほしいのです」
勿論、こんなものは方便だ。ウィルの目的は、敵兵をライムの餌とすること。それを他人に目撃されぬためには、どうしても一人で敵陣に乗り込む必要があった。ライムが食を絶ってから既に長い。ウィルはこの絶好の機会を、ゆめゆめ逃したくなかったのである。
ただし、真剣そのもののウィルとは裏腹に、ザスティンは心底愉快そうに声を上げて笑い始めた。
「ははは、面白い。面白いぞ少年。確かにマグタンクから、君の竜は特別速いと聞かされている。あの男の言う事だ、決して嘘では無かろう。だが君のそれは、蛮勇というやつだ。一人では偵察の役目を十分に果たすのは難しいし、第一君が捕まったり死んだりしたら、何の意味もなくなってしまう。どころか、我々の施策を敵方に知らせるだけだ」
ザスティンの理屈はもっともだった。ウィルは反駁するための材料を持ち合わせておらず、黙っているしかなかった。
「残念だが、君を一人で行かせる訳にはいかない。それにほら、他の志願者もあるようだしな」
とザスティンが指差すのは、ウィルの右隣。灰褐色の髪の少年は、ついさっきのウィルと全く同じように、空へ向かって高く腕を掲げていた。
ウィルは驚愕の表情のまま、隣の学友の瞳を覗き込んだ。その眼の色は変わらない。青白い水晶の中には確かにウィルの姿が映っているけれども、まるでそれが脳裏で像を結んではいないようだった。
「流石マグタンクの教え子だな。二人とも熱血根性が叩き込まれている」
ザスティンは的を射ているようで、かつ頓珍漢な事を言った。まるでウィルとイグルクが似た者同士のような言いぐさだ。しかし、実際の二人は水と油に近い。
「こうなると隊長はジエンに任せたい所だが、彼はまだ若すぎる――。そうだな……、ボドワール。君の隊員は経験豊富な熟練の騎士が多かっただろう。君の隊に彼らを加えて、偵察隊を編成してくれないか」
ザスティンの唐突な呼びかけに、隊列の最前線に居た筋肉質の男が応じる。
「……承知しました。しかし、我が隊の中にも偵察隊への参加を望まぬものがあるでしょう。隊の中で改めて志願を募り、それに応じた者だけで偵察隊を編成するという形でもよろしいでしょうか」
「ああ、それでいい。感謝する」
ウィルがうまく状況を飲み込めぬうちに、状況は勝手にまとまりつつあった。ウィルとイグルクはボドワールという別の小隊長の下に入り、偵察隊の一員になる。出発は明日の日没と同時。そのための顔合わせ兼作戦会議として、今晩二人はボドワール隊の天幕に赴くこととなった。
全体集会が解散した後、ウィルとイグルクはその足で約束の天幕に向かった。天幕の中にはやや老けた印象の騎士たちが円形に座していて、後から入ってきた若者二人に冷ややかな視線を向けていた。成りゆきとはいえ、偵察隊に巻き込まれたことを恨んでいるのだろうか。ウィルは少し気まずそうに目をそらしたが、イグルクは相変わらず涼しげな表情で、一番奥に座るザスティンとボドワールの顔を見据えていた。
「ウィル、イグルク。こっちこっち」
「あっ、ジエン隊長?」
と、驚いたことに、入り口を跨いですぐ右側に、ジエンの姿があった。二人の事が心配で、自分も偵察隊に志願したらしい。
「ジエン隊は大丈夫なんですか?」
「ソドムに大方任せてきたから、大丈夫さ。偵察隊が出ている間、他に重大な任務があるわけでもないしね」
ジエンはどうやら、重度のお人好しらしい。ウィルは彼の人格を、漠然とながら理解した。
会議は、主にボドワールが司会しながら進行した。と言っても取り立てて重要な内容はなく、全体集会でザスティンが話した事を繰り返し確認したばかりだった。
「――ウィル、君には家族はあるか?」
そんな退屈な話し合いが一段落着いた頃、ザスティンが急に問いを投げかけた。ウィルはその意図を量りかねたが、誠実に返答する。
「……故郷に母が居ます。今では疎遠となり、時折手紙のやり取りをする程度ですが」
「そうか。出発の前に一通したためておけ。書けたなら私に寄越すといい。必ず届けよう」
言葉の意味は、明確だった。
死ぬかも、しれない。それだけ危険な任務だ。砦の敵は何百人、何千人ともわからない。それを自分たちは、三十騎ばかりの寡兵で乗り込もうとしている。本隊が安全に進軍するための捨て駒。壊滅を前提とした部隊。ウィルは、『命の危機』を改めて意識させられた。だがそれでも、逃げ出そうとは思わない。
「イグルク、君の家族は?」
「――居ません。私は一人身です」
「そうか。ならば都合がいいな」
ザスティンはその場に居た全員に同じ質問をして回った。ジエンが答える時には、声が震えていた。台詞の途中で泣き出す者、立ち上がりその場から逃げ去る者もあった。家族と別れること、死ぬことが、それほど辛く恐ろしいのだろう。
ウィルは彼らを腰の据わってない臆病者と断じると同時に、その感情に共感できない自分を、状況が理解できない愚かな子供のようにも思った。
死ぬ。死ぬかもしれない。頭ではわかっているのに、実感が沸ききらない。自分の兵士としての経験が未熟なためだろうか。それとも――……。
やがて天幕を後にした二人は、途中でジエンとも別れ、今や二人用の特別寝室となった朱色の天幕に向かっていた。
「俺たち、死ぬかもしれないんだね」
何の気なしに、そう言った。逐語的な意味とは裏腹に、言い草はふわふわと浮き足立っている。
「そうらしいな」
イグルクも、素っ気ない返事をする。彼も、死の予兆を実感できていないようだ。ウィルは感覚を同じくする者が他に居たことで、ほんの僅かだけ安堵した。
「どうして偵察隊に志願したの?」
「前にも言っただろう。俺はここで功績をあげなきゃいけない。あのままジエン隊の元でまごまごと過ごすより、偵察隊に参加した方がよっぽどチャンスがあると思った。それだけだ」
「そっか」
ウィルはふっと、訓練隊に居た頃のイグルクを思い出した。休息中も訓練中も、常に独り。部屋で一緒になっても、滅多な事では口を交わさない。あの頃と比べると随分お喋りになったと、不思議に微笑ましい気分になった。
「ねえ、俺に協力してくれないかな」
それは思いもよらぬ台詞だったのだろう。問いかけられた少年は表情を一遍に強張らせ、流し目で問いかけた少年の横顔を覗き込んでいる。
「どういうことだ」
「俺はどうしても、単独で砦に到達したいんだ。だから進軍の途中で隊を抜け出して、先に砦へ着こうと思ってる。でも知っての通り、俺の相棒ライムはスタミナが足りない。砦に大きく先行しようと思ったら、途中で体力切れを起こしてしまうに違いない。だから、君に協力してほしい。一緒に隊列から飛び出して、俺とライムを引っ張ってほしいんだ」
二騎の竜騎士が連なって飛べば、前に飛ぶ側が風よけになる分、後ろの竜は体力を温存できる。イグルクへの協力の打診は、それを狙ってのことだった。
「……そうすることで、俺に何のメリットがある」
「俺は砦を偵察するつもりはない。制圧するつもりだ。もし成功すれば、大戦果なのは間違いないだろう。俺と君は、一躍イザの英雄になれる」
イグルクは緊張の表情を解し、却って嘲笑するように言う。
「あほらしい。本気でそんなことができると思っているのか?」
「できる。俺とライムに、君が協力してくれたのなら」
迷いのない口ぶりに、イグルクもその強い意志を感じ取ったようだった。顔を空の方へ背け、考え込むような素振りを見せる。やがて視線を戻さぬまま、ややかすれた声で答えを発した。
「……いいだろう。協力してやる」
ウィルにとっては意外な返答だった。殆ど駄目もとで申し出た提案だ。断られたら一人ででも決行しようと思っていたが、まさか本当に協力を取り付けられるとは。
「ありがとう。でも、ちょっとびっくりした」
「偵察が成功したところで、ボドワールとかいう小隊長に手柄をぶんどられるのが落ちだ。どうせ危険に身を晒すなら、より大きなリターンが見込める方がいい」
イグルクは偵察隊の体制に不満を持っていたようだ。確かに偵察隊はボドワール小隊所属の者が主導権を握っており、ジエン隊からの志願者――と言っても、ジエン、ウィル、イグルクの三名だが――は、後方の支援役という扱いだった。これでは偵察が成功しても名誉が得られないと直感するのも当然だろう。
「ただし、敵の数が予想以上だったら撤退するぞ。敵前逃亡を選べば残るのは命令違反という事実だけだが、無為に命を落とすよりずっとましだ」
「わかってる。敵と交戦するのは、向こうが迎撃態勢を整えていなかった場合――守備兵が二、三十以下の場合だけだ。それ以上の時はすぐに撤退するよ」
二、三十という基準は、竜騎士一騎の戦闘力が、歩兵十のそれに等しいという伝統的な目算による。竜騎士二騎による奇襲ならば、大凡二、三十の敵戦力と拮抗できるという目処が立てられるのだ。
とは言っても、これは建前でしかない。ウィルは、砦がどんな状態であろうが逃げ出すつもりは更々なかった。兵が百あろうが千あろうが、敵陣に思い切り突っ込んで、一人でも多くの人間をライムに食わそうと心に決めている。
その危険な野心に勘付いているのか、イグルクは微妙に不安げな表情を以てウィルの顔を見つめていた。
「……本当に、死ぬかもしれないぞ」
「死なないよ。俺たちは絶対に、死なない」
翌晩。偵察隊のメンバーは竜と共に高台の草原に集まっていた。他の兵員たちには天幕での待機命令が下っているが、皆それを無視して出発の瞬間を見届けに来ている。高台の一段下の平地から、出立者を鼓舞する野次や口笛がやかましく響く。
兵隊の出発時には『静粛に、厳粛に』見送るのがイザ人の美徳だとされているが、その教えは決まって守られない。特に今度のような決死の覚悟が伴う出奔の場合には、あからさまに騒ぎ立てるのが常なのであった。
「ついてるね」
「ああ」
ウィルとイグルクは囁くように言葉を交わした。他の隊員に計画を悟られぬよう、周囲の目を盗んで。
「ボドワール隊は、ほぼ全員酔っぱらってる。あれじゃまともにスピード出せないだろうね。国境を越えるころには酔いが醒めている計算なんだろうけど、逆に言えばその間、いくらでも出し抜けるチャンスがある訳だ」
運命の風向きは、ウィルとイグルクに味方していた。二人は改めて、シルデン山脈の麓で本隊から飛び出すことを確認した。
ザスティンの懐中時計が、長針が一周したことを告げた。それが出発の合図だった。三十騎余りの竜騎士が一どきに空を飛び立つ。先頭はボドワール。そのすぐ後ろに彼の隊員たちがつき、ウィルたちはそこから更に後方の地点を飛んだ。
ウィルは、先行するボドワール隊の竜騎士の様子をつぶさに観察する。竜が酔っている訳ではないから、真っ直ぐ飛ぶ分には問題ないようだ。しかし高度や進路の変更にあたって、明らかに反応が鈍い。酔いの影響は明らかだった。
「いかんよな、飲酒飛行は。俺も訓練所を卒業してすぐ後、酒を大量に飲む機会があってさ。その時は――」
横に連なるジエンが昔話を始める。彼なりに気を紛らわそうとしてくれているのだろう。しかしそれに構っている余裕がないウィルは、適当な相槌だけ打って受け流す。イグルクに至ってははなから聴く気が無いらしく、少し後方に離れた位置で飛行を続けている。
出だしは順調。計画に何の障害もない。ウィルとイグルクは、このまま何のアクシデントもなくフライトが続くことを祈った。
平原の軍営を出発して四半日。そろそろ騎士たちの疲れが溜まってくる頃である。ウィルたちは、眼下に土地の隆起が始まるのを捉えた。ここは、シルデン山脈の麓だ。――約束の、飛び出し地点。
ウィルとイグルクは目配せだにしない。どちらが先ともなく、殆ど同時に急加速を開始する。速度は丁度、イグルクの竜、ワンダの最高速度。先ほどまでの倍以上の速さだ。
「おい、急にどうしたんだ!」
ジエンの呼びかけに二人は応じない。自分たちにはやるべきことがある。今は、上官への説明を優先していられないのだ。
二騎はあっという間に、世話焼きの上官を闇空に置き去りにした。
「ん……ジエン隊か?急に加速して、どうしたんだ」
急接近するウィルとイグルクに気付いたボドワール隊は首を傾げる。何か不測の事態があって報告しに来たのだろうか。
――いや、そうではないらしい。二騎はこちらの姿を見とめても会話をする気配さえなく、そのまま横を通過していくではないか!
「待て、どこへ行く気だ!勝手な先行は命令違反だぞ!」
あっという間に先頭を追い越す。ボドワールは声を張り上げて二人を窘めるが、まるで聞こえている風ではない。
「若さゆえの暴走か……。彼らを追いかける。このままでは、何をしでかすかわからない」
この異常に、ボドワール以下数騎が竜を加速させ二人を追尾した。だが、生半可な加速を以ては、一向に追いつく目途が立たなかった。
イグルクは、速い。訓練所で彼に敵う者は、ウィルとマグタンクの他なかった。現役の正騎士だって、そう簡単に彼に追いつけはしない。まして酩酊状態ならば猶更だ。
「君と協力して飛行するのは、これで二度目だね。なんだか今も、レースの真っ最中みたいな感じがする……おかしいかな」
イグルクは暫く沈黙を保つ。だが敢えて否定しないという時点で、意思は汲み取れる。
「――前回は相手が化け物だったから悔しい思いをしたが、今度はそうはいかない。必ず先に、目的地へ着く」
「ああ。あの時のリベンジだね」
しかし、相手も誇り高きイザの騎士。若輩者の横暴をそう簡単に許してくれるはずもない。追いかける竜数騎は徐々に加速し、ウィルたちとの距離を詰め始めた。
「詰められてるな」
「うん……そろそろ交代しよう。俺が先頭に出るよ」
と、前に出ようとするウィルを、イグルクは片腕で制止する。
「まだ駄目だ、道のり半分も来ていない。ここでお前の竜が前に出れば、途中で力尽きる」
「けど……」
「加速する。山脈の峰に到達するまでは、黙ってついてこい」
そう言い放つと、イグルクは更に速度を増した。後方との距離はじわじわと開いていく。あれほどのスピードを出しながら、まだ余力があったとは。
それから二人は、余計なお喋りは止めた。口を動かすことに体力を使う訳にはいかない。イグルクはただ真っ直ぐに前を見据え、ウィルも時折後ろを振り向く以外の事はしなかった。
やがて白と黒の二騎は、尾根の上空へ躍り出た。最高地点の景色は、それまでの山野ととんと変わりやしない平凡なものだった。ウィルが見聞きしてなんとなく思い描いていた画とは、随分異なる。彼の芸術的情緒は一切揺すられることなく、しなしなと萎れてしまった。尤も、戦いに臨まんとする今、そんな精神は無用の長物に過ぎないのだが。
対して物理的速度は、未だ緩まず。もう随分な時間イグルクが先頭を走っているが、彼の竜はへばりを見せない。
とはいえ、今度こそ交代すべき時期だろう。そう思い、ウィルはイグルクの真横に並ぶ。
「後ろはどうなってる」
先にイグルクが口を開いた。ボドワール隊の位置が気になっているようだ。
「大分距離は離せたと思う。けど、まだ諦めてないよ。相当の速度で飛んでいる」
「どうしてそこまでわかる」
「ライムが、教えてくれるんだ」
「……またその黒竜の不思議な力か」
イグルクは訝しげに呟いたが、全く信用していないでもなさそうだった。
「俺を置いて、先に行け」
「えっ、どういう意味?」
「お前たちはこれから、全速で後方を引き剥さなきゃならない。砦に着いてからの時間を確保するためには、今のペースじゃ駄目だ。だが、俺とワンダは既に力を消耗した。お前たちについていく余力はない。だからここで、お前たちとは別れる」
――断腸の思いで言っているのだろう。イグルクは自身の功績のために、ウィルへの協力を承諾した。ここで身を引いてしまえば、何の利益にもならなくなるだろう。それでも、せめて自分の行いを無駄にしないために、ウィルだけは目的を果たせと言っているのだ。
「……わかった、そうする」
「状況が不利そうなら、下手に交戦せず敵状の観察に努めろ。俺もボドワールたちよりは早く到着するつもりだ。決して無理はするな」
「うん、約束だ。無茶な真似はしないよ」
そう言い終わると、ライムの身体は夜の帳に溶け込むようにその場から消えて無くなった。イグルクにはもう、ウィルがどこまで進んでしまったのか見当をつけることもできない。きっと、遥か先。たとえ明るくても、目の届かない場所。
「……少しは距離が縮んだと、思ってたんだがな」
違った。あの黒竜の乗り手は、自分の力に合わせてくれていたに過ぎなかった。
「こんなに、離れてるんだな。まだ、こんなに――」
イグルクは、その時の自分の感情を形容する術を、持ち合わせていなかった。その思いを両の奥歯で細かく磨り潰すと、また無心に還って孤独の飛行を続けた。
ウィルは既に、イグルクの遥か先を進んでいた。下方の景色は、めくり絵のように目まぐるしく容貌を変遷させていく。
久しぶりに感じる、ライムの全速。身が千切れそうな猛風。風は氷の吐き出す蒸気のように冷え切っていて、細いウィルの筋肉を凍らせるかの如くである。
シルデンの山脈は次第に峰々の険しい表情を潜め、なだらかな丘陵へと姿を変えつつあった。
もう国境を越えたのだろう。ここは既にシルデン聖国の領内。ウィルは生まれて初めての越境に、少々心を躍らせた。
そのうちに、視界の奥で煌々と輝く黄色い光の筋を捉えた。光は風に合わせて揺れ動き、夜を彷徨う人魂のようだった。
「篝火だ」
ウィルは確信した。あそこに第六砦がある。接近するにつれ、その影形が闇の中にぼんやりと浮かび上がる。石造りの大きな建物。豪華な造りではないが人の手入れが行き届いていて、堅牢な印象を受ける。
ウィルがそんな悠長な印象を遊ばせていたのは、ほんの数秒のことだった。その次の瞬間にはもう、どうしようもない程接近してしまっていたのだから……。
闇に沈む第六砦の衛兵たちは、視覚によってではなく、寧ろ聴覚によって異変に気付いた。
「風の音か?えらくうるさいな……竜巻でも起こったか」
「東側、国境の方面からだ」
屋上に配置された夜警の兵士たちは、次第に唸りを強くする轟音に不審を抱いた。退屈な任務に鈍っていた感覚を叩き起こして、東の空を注視する。すると望遠鏡を覗き込んだ一人の兵士が、闇にカモフラージュされた黒い塊が接近しているのを発見した。
「!大変だ、何か近づいてきて――」
衛兵の言葉は、最後まで続かなかった。次の瞬間、兵士の身体は腹の辺りから真っ二つに裂けて、上半分は巨大な暗黒の内部に呑みこまれていた。
大砲と篝火ばかりが並ぶ殺風景な砦の屋上には、シルデンの青い鎧を纏った兵士が五人ほど。その目線の先には口の辺りを真っ赤に汚した巨大な黒竜が、ごりごりと耳触りの悪い咀嚼音を奏でていた。
事態を呑み込めない衛兵たちは右往左往している。その隙を、黒竜の乗り手は見逃さなかった。シルデンの若い兵士たちは、人生最後に聞くこととなる敵国兵の言葉を認識するのがやっとだった。
「ライム、全部食べていいよ」
血飛沫が数回舞い散る。何度か断末魔が聞こえたようだが、それも夜の静寂と悍ましい破砕音のうちにかき消されてしまった。
橙の灯が照らし出すのは死体の血肉と、それを貪る竜の紅い瞳。加えて、食事の様子を静かに見つめる同じ色の瞳だけだった。その光景は丁度、赤と黒から成る二色刷りの版画のようだった。
「うん、綺麗に食べたな」
暫くして、ライムは食事を終えた。髪の毛の一本から爪の垢まで、残さず胃に収めている。ウィルがお願いした通りに、ライムは食事を行ったのだ。勿論、地にこびりついた血痕は拭いようがないが……。
ウィルは再びライムに跨り、建物の様子を詳細に窺った。着目したのは出入り口。何故かと言えば、通用口を塞いで敵を砦内部に抑留する算段があったからだ。
閉じ込められた兵士を少しずつ炙り出して順に撃破していく。これならば敵の数がいくら多くても相手取れるし、敵の逃走を阻むこともできるだろう。ウィルの作戦は、大凡以上のようなものだった。
暗闇の中を注意深く何度も周回するに、人が通れるような入り口は東側の大門一つだけのようだった。窓もいくつかあるが、いずれも頑丈な鉄格子が嵌っており、人が通れそうなものはない。
門は大きな木製の二枚扉で、古めかしくあるがいたく頑丈そうである。人の背丈の十倍はあろうかという戸板には取っ手の類は付属しておらず、内側からある種の仕掛けで以て開くものだろうと予測された。
「まずはあの扉を閉ざさなきゃな……」
急降下して、ライムに辺りの木をなぎ倒させる。倒木によって閂をかけようと思ったのだ。とその時、建物内部にぱっと明かりが灯った。
(まずい、気付かれた――)
分厚い門が、ギイギイと悲鳴にも似た音を立てながら開かれる。松明を掲げた十数人の男が、ぞろぞろと建物の外へ躍り出てきた。
ウィルは咄嗟に木陰へと姿を隠す。だが、ライムの巨体では身を隠すに能わない。松明の炎で照らしだされると、その鱗の光沢が闇の中で悲しい程浮き彫りになってしまう。騎士たちは何ら手だても打ち出せぬままに、あっさりと敵兵に見つかってしまったのであった。
「あそこに何か居るぞ!」
と叫ぶや否や、兵士たちは弓矢を構えて発見物に迫ってきた。やり過ごすのを諦めたウィルはすぐさま相棒に乗り込んで、再び空に漂う。
数は大体五十ほど。この時点でもはや、通常の交戦可能域を超えている。しかもまだ砦の内部に伏兵が潜んでいようから、危険のほどは計り知れない。決死の覚悟でやってきたウィルだったが、この状況を前にしては流石に無鉄砲な突撃は憚られた。
「グオオ……」
凝り固まるウィルに対し、ライムは不穏な唸り声をあげた。最初は威嚇しているように思ったが、すぐに真の意図に気付く。ウィルとライムは、文字通りの以心伝心である。
「――何か考えがあるんだな。お前に任せるよ。何でもやってみるがいい」
ウィルから言葉を預かると、ライムは体を大きくのけ反って、全身に力を漲らせるような仕草を見せた。そして次の瞬間、凄まじい灼熱の塊を口腔から吐き出した!
巨大な火の玉は地面に衝突し、背の高い火柱を立てる。地点は丁度、群がる兵士たちの中心だ。
数十の兵隊は一たび火の海に呑みこまれた。凡そ人の所作とは思えない奇怪な動きをしながら、聞き苦しい怨嗟の声を叫びまくる。
しかしウィルの関心は、その惨状に向けられていなかった。
「すごい、本当に火を吐くんだ……」
ハジュの図書館で目にした伝承の通り。ライムはサラマンドラ、これはもう事実に違いない。自分は今大変なものを引きつれているのだ。大陸に生きる全ての運命を左右するような、恐ろしい怪物を……。
――いや、今考えるべきことはそれではない。我に還ったウィルは、瞬時に思考回路を繋ぎなおして現実を見つめた。
炎上する兵士たちは追撃を恐れて砦の内部に逆流し、門は混乱状態に陥っていた。砦はもう封鎖されたも同然であろう。
と安堵するのは、早計だった。ウィルが遺体の処理について案じていたところ、火に焼かれているとは思えぬ落ち着き払った声が、砦の方向から聞こえてきたのである。
「居たぞ、敵は竜騎士だ!大砲で狙い打て!」
それは砦の屋上からの叫びだった。目を向けると、数十、いや百を越えそうなシルデン兵が建物の上にひしめいている。出入り口は地上の門のみと思い込んでいたが、屋上に通じる道もあったらしい。
シルデン兵の攻撃は素早かった。ウィルがライムに再騎乗する前に、弓矢と鉛玉の弾幕が頭上に降り注ぐ。狙いはかなりおざなりだが、飛距離は十分。いつ直撃してもおかしくなかった。
「ライム、あの木の裏まで」
ウィルは攻撃の射程が届かない所までライムを下がらせると、戦況の再把握に努めた。大門は炎の恐怖で未だせき止められているから通用できない。外に伏兵は無さそうだし、あらぬ方向から奇襲を受けることも無いだろう。となると問題は、屋上に蔓延る兵士たちだけのはず――。
だが、その算段は甘かった。砦の一角に位置する、歩哨用の四角窓――いやそれだけでなくあちこちの窓から、兵士が外に脱出せんと身を乗り出しているではないか。
「そんな、鉄格子がはまっていたのに……。まさか、取り除いたのか」
人の通れる隙間などなかったから、すっかり油断していた。通用口を塞がれた兵たちは、鉄鋸を用いて格子を取り去り、脱出路の確保を図っていたのだ。
もう助からぬ命ばかり奪ってきたウィルは、全く理解していなかった。危機的状況に置かれた者は、いかなる手段を用いても窮地を脱しようとする。人は、抵抗する生き物なのだということを。
「――嘆いていても仕方ないね。まずはこれ以上外に出てくるのを抑えよう。ライム、あそこに見える大窓へ」
それでもウィルは冷静さを崩さなかった。ライムを駆り、東向きの窓から地面へ降り立とうとする兵たちに迫る。そして相棒の口を、さながら地獄への扉のように残酷な大きさで開かせた。
「ま、嘘――ぐあっ」
地面への落下に身を任せた兵士は、抗うこともないままライムの口腔に吸い込まれていく。そのシルデン兵の体の内で地面への到達を許されたのは、辛うじて窓の淵に掴まって地獄から逃れようとした、銀の指輪付きの左手首だけだった。
ライムはそのまま、格子の外れた窓に首を突っ込んだ。ウィルの視点からは何が起こっているのか観察できないが、裏返った聞き苦しい悲鳴と骨を砕く残酷な音だけはよく耳に届く。それだけで、画を想像するのには十分だった。
咀嚼を終えると、ライムは窓から首を引っこ抜き、今度は砦を外周するような飛行路をとった。道すがらウィルが確かめるように窓の中を覗き込むと、そこには赤黒い液体と、引き裂かれた衣服の破片がいくらか散らばるのみだった。
「……よし。次は北側に回ろう。窓からの脱出者は一人たりとも許しちゃいけない」
行き先を指定し、速度をあげる。とその途中、頭上から石つぶてや手槍と思しき凶器がいくつも降ってきた。槍も大砲も届かぬ位置にいるウィルたちの行動をどうにか阻害しようと、屋外の兵士たちが抗っているのだ。
「危ないな。一つでも当たったら大打撃だ」
首の傾きに限界があるライムに代わり、ウィルは真上からの砲撃をよく注視して細かい舵を取る。その竜捌きはイグルクやマグタンクに未だ及ばぬが、訓練生としては破格の腕前である。それもそのはず、彼らはやり方が違うのだ。ウィルがこうして欲しいと思えば、ライムは大体その通りの動きを取ってくれる。物理的な意思疎通をそもそも必要としていないというアドバンテージは、果てしなく大きい。
さあ、やっと次の窓に到達した。ライムは間髪入れず窓から身を乗り出していた騎士にかぶりつくが、ここで次の問題が出現する。
高速で移動するうちは弾幕を躱すのもそう難しくはなかった。が、窓から出ようとする者を食い止めようとするとなるほど、動きの止まったところに狙いを済まされて大変辛いのだ。実際ウィルは、左腕を鋭い投石がかすめて、皮を一部剥ぎ取られた。
「いつっ……。流石にこのまま停止し続けるのは際どいな。まずは上を牽制しよう、ライム」
敵兵を喰らうライムの口の動きを止めさせ、屋上の高さまで昇る。するとそこには、先ほど確かめた時よりも遥かに多い敵の大軍が、弓や長槍を携え待ち構えていた。今の一瞬の間に、内部に潜んでいた多くの兵士が屋上まで昇ってきたのだろう。
「わあああ!あいつ、人を食ってるぞ!」
ライムの口からはみ出た肉片を見て、誰かが叫んだ。それを引き金のようにして、罵声と報復の刃が、嵐のようにウィルたちを襲う。
「化け物だ!なんて惨いことを……」
「こいつは人でなしだ。見ていろ、今に同胞の報復をしてやる!」
いきり立つ男たちの放った鋭い一矢が、ウィルの首筋すれすれを通過した。それは丁度、ドラゴンボーンの印のあたり。ウィルは傷口がぽっと熱くなるのを、文様が疼きだしたかのように錯覚した。
弓矢は体の大きいライムにも次々に被弾する。硬い岩石の鱗で覆われたライムの体はそう簡単に傷つくことはないが、硬い物同士がぶつかる激しい音は、ウィルの心を不安に染めた。
「駄目だ、躱しきれない。一旦ここを退こう――」
と、ライムの巨体を砦の陰に隠そうとするが、その真下には既に窓から這い出てきた兵士が数名待ち構えていた。注意が他所に逸れていたため、反応がやや遅れる。
「くたばれ、人喰い魔!」
仲間の血を浴びたと思しき赤く汚れた鎧の持ち主は、槍を天に向かって突き出し、体勢を落としたライムの顎を穿った。悪寒の走るような烈しい金属の衝突音と、悲痛な竜の咆哮。そして、嘲るような、敵兵の歓喜の声が静寂の夜に鳴り響いた。
「ライム!」
ウィルは出会って初めて、ライムの悲鳴を聞いた。どれほどの痛みだろう。あんなに鋭く尖ったものを、自身の体に突き刺されるのは。ウィルの心は戦慄し、震えた。そして、深い哀しみで一杯になった。
「今だ!撃て、撃て!ドラゴンが怯んでいる内に、乗り手を撃ち抜くんだ!」
が、感傷に浸る暇はなかった。頭上からも足元からも、大量の刃が襲ってかかる。ウィルはどうにかライムを急旋回させて、追加の損傷を防いだ。
「ごめん、ごめんよライム。俺がよく見ていなかったせいで……」
先ほど受けた首の傷が、更にじわじわと熱を帯びてきている。体全体が無性に火照り、寒空を飛んでいることを忘れさせるようだった。
「千人、くらいかな?もうちょっと少なければよかったのに。これじゃあ無理だよ。俺たちだけじゃ、事態を収められない」
地上では罵詈雑言が飛び交っている。しかし、ウィルの頭は変に澄んでいて、風の音しか耳に届かなかった。
ウィルは、ずっと以前から予感していた自分の運命を、確信に変えつつあった。
「俺たちはもう、この砦で――」
その紅い瞳から光が消えた。全ての覚悟が決まった瞬間だった。そして彼の最後の、留め具が外れた瞬間だった。
――どうにか、イグルクが来るまで……。
イグルクが砦に着いたのは、その四半時後だった。
「なんだこれは……」
ワンダの背から降りたイグルクは、地上の光景を見て唖然としていた。地面はその素材が判別できぬ程血で溢れていて、強烈な生臭さを放っている。けれど、辺りには生存者も死体の影もなく、武器や衣服がいくらか散らかっているばかりである。
一体どんな戦いが起これば、こんな風景が生まれるのか――?
そう考えていたイグルクの眼に、見慣れた者の姿が飛び込んだ。暗い髪の色の少年は、砦の正門の前にぼんやりと立ちすくんでいる。
イグルクは少年の元に駆け寄った。すると足音に気付いたのか、途中でそちらに振り返り、意味不明の微笑を浮かべた。
ウィルは、血だらけであった。鎧も、その下の衣服も真っ赤に濡れて、元の色がわからないほど。
「おい、大丈夫か!」
イグルクはウィルの肩を掴み、意識を確かめるように軽く揺する。朦朧の少年は、小さく縦に頷き、思いの外気丈な声で返答する。
「大丈夫、これは返り血だよ」
「……そうか」
ウィルに致命的な怪我はないようだった。首筋の傷はやや深そうだが、既に自分で止血を済ませたらしい。
「状況はどうなっている。どうして、敵がどこにも居ないんだ」
「敵は、逃げ出した。俺たちがあまりに強いから、腰を抜かして逃げて行ったんだ」
「――逃げ出した?」
何を言っている?呆けているのか。それとも、ふざけているのか。あるいは、戦闘のショックでおかしくなってしまったのか。いずれにせよ、戦況をいち早く聞き出さなきゃ埒が開かない。イグルクは焦りを滲ませるように問い詰める。
「おい、ちゃんと答えろ!敵はあとどのくらい居て、どこに潜んでいるんだ」
それに対してウィルは、呆れたようにふっとため息を漏らした。そしてそれが生来の癖のように奥行に向かって視線を外すと、物分かりの悪い子どもを窘めるような口調で答えた。
「この砦にはもう、誰も居ないよ」




