カッコよかった父さんの思い出
あたしは、母さんの再婚前も、死んだ父さんの話はしなかった。
だいたい、再婚までの3年間は、各地を転々とする日々だったのだ。
母さんとゆっくり思い出にひたる時間なんかなかった。
そもそも吉祥蓮の女は、守るべき男を失ったら、その土地を出て行かなければならない。
あたしたちは、男たちを支える女たちのために存在する。
だから。
独身になったら、夫や息子を持つ女たちのために任務を背負わなければならない。
そうなったら、身軽にあちこち動き回ることになる。
だけど。
吉祥蓮の女は、自分で男たちを支え、励ますのが本来の使命だ。
寝食を共にした過去の男にこだわっていてはいけない。
だから、母さんは幼いあたしを連れて日本中を飛び回ってた。
あっちこっちの吉祥蓮ネットワークで、頼ったり頼られたりしながら。
そんなわけで、思わぬ転勤族家庭になってしまったあたしには、友達がいない。
転校に次ぐ転校。
幼馴染なんていない。
ましてや、男の子の友達なんか……。
で、男の子って、よく分からない。
分かるのは、父さんはカッコよかったってことだけ。
撮影が始まると、父さんは何日も帰ってこなかった。
でも、休むときには徹底して休む人だった。
オフの日は、日が暮れるまで幼いあたしと遊んでくれた。
あたしん家は今、一戸建てだけど、あの頃はマンションの最上階にあった。
ベランダからは、住んでた大きな町が遠くから遠くまで眺められた。
町の真ん中に、幅の広い川が流れてるのが見えたっけ。
そこは、母さんが選んだ場所だったらしい。
今考えると、吉祥蓮としてのメリットは2つあったんじゃないかって気がする。
まず、町全体が見渡せるということ。
全体の変化が分かる。
加えて、帰宅時に全ての階を通れること。
助けの必要な男性(あるいは家庭)や敵対勢力の干渉を確認できる。
確かに、その一方で「何があっても逃げ道がない」という弱点もある。
だけど、差し引きでは仕事がしやすかったはずだ。
もっとも、父さんがそんなことを知るはずもない。
晴れた日にはあたしを連れて、エレベーターを使わずに階段をえっちらおっちら下りた。
父さんの足が遅かったんじゃない。
あたしの小さい足に合わせてくれたんだと思う。
もちろん、一番下まで行けるわけない。
常識では。
実をいうと、父さんのいないとき、母さんはあたしを鍛えてた。
吉祥蓮たるに必要な体力と運動能力を、少しずつ。
でも、父さんの前では見せなかった。
おんぶをせがみ、駐車場に出た途端に下ろしてくれと愚図った。
もちろん、ここぞとばかりの甘え。
地面に足がついたら、マンションのてっぺんを見上げてみせた。
あたかも自分だけの力でたどりついたかのように。
そのたびに父さんは手を叩いて笑ったけど、それは想定内。
純粋に、ウケ狙いでやったことだ。
川の堤防までは歩いて行けた。
父さんに手を引かれた堤防沿いの道は、とっかかりの真ん中に2本の杭が打ち込んであった。
車が進入できないようするためだ。
だから、子連れの母親や散歩するお年寄りなどをよく見かけた。
すれ違うたびに、父さんはいちいち頭を下げた。
あたしにも、同じことをさせた。
河岸と、堤防の草むらの間には白いコンクリートの階段があった。
父さんは、いつもそこを駆け下りては、しばらく川沿いを往復して、また駆け上がっていた。
あたしもやってみたが、さすがにそれは無理だった。
父さんを追ってみては、疲れて立ち止まるのが常だった。
そのたびに、ずっと前を走っていた父さんは戻ってきた。
あたしをひょいとおぶって、小走りに川沿いを行く。
そんなとき、父さんの背中にいるあたしは、空を飛んでいるような気がしていた。
それじゃあ、雨の日はどうだったか。
父さんは、ひたすら筋トレに励んでいた。
マンションのフローリングの床にバスタオルを敷いて、その上で腹筋や背筋を繰り返した。
あたしもマネして、仰向けになったりうつぶせになったりした。
そこはコドモとはいえ、吉祥蓮の忍者。
母さんに鍛えられていたから、楽勝だった。
でも、敢えて最期まではやらなかった。
途中でやめてみせると、父さんがからかってくれるから。
「まだ小さいんだから」
そう言って、父さんは床にべったり伏せて笑った。
たしなめたつもりだったろうけど、あたしはそんなこと聞かなかった。
「もう大きいもん、お姉ちゃんだもん」
むしゃぶりついてじゃれ合って、しばらくしてから床にころりと転がる。
あたしも横になって、バスタオルの上の父を眺めた。
ランニングシャツから伸びる逞しい腕。
その上からでも分かる、背中の筋肉。
あたしは、それを見ながら尋ねたことがある。
「どうして、こんなことするの?」
あたしはワケも分からずに母さんに鍛えられてきた。
でも、自分がどんどん強く、速くなるのが嬉しかった。
大人もそうなんだろうかと思っていたら、そうじゃなかった。
父さんは、自信たっぷりに答えてみせのだ。
「なぜ鍛えるかって? 俳優さんのため、お客さんのためさ」