システムを理解するためにまず脳内台本のおさらいを
台詞がなくても、そのやりとりはお互いの頭の中に入っている。でも、会話を進めるにはいつ、何を言ったかが分からなくはいけない。
僕にそれが分かったのは、葛城先輩の演じる兄弟子が何をしようとしているかが、その動作から割り出せたからだ。
ひとつひとつの動作が、まるで方程式の未知数を埋めていく数字のように、ひとつの行動を形作っていく。
僕はこれを受けて、台詞の裏に隠された行動を動作で示していけばいい。
つまり、こういうことだ。
Z=F(x,y)
ただし、次の条件を満たすこと。
x=目的(台詞の裏で考えていること)
y=障害(状況)
Z=行動(を形成する動作)
……Z(行動)は、x(目的)とy(障害)を変数とした関数である。
さて、葛城先輩は、僕の身体をじろじろ見まわす。しまいには、背伸びしたり身体を曲げたり、頭のてっぺんから足先まで眺め渡す。
この辺りは、台本ではこうなっている。
兄弟子:お師匠様からの手紙は?
ジョン:ここに。
僕は身体を引いて、胸に当てた手を差し出した。でも、葛城先輩はしつこく手紙を探し続ける。どうやら、僕の動作は伝わっていないらしい。
……どうしよう。
少し戸惑ったけど、そこで思い出したのは瑞希の姿だ。
カーブを描いてゆっくり歩く、半ズボンから覗く白い脚。細い背中の後ろ姿。
……「曲・遅・重」。
……「捩」の型とかいってたっけ。
僕は身体を引くのに、ちょっと捻りを加えながら、ゆっくりとS字カーブを描くように、のっそりと動かした。
さらに、胸に当てた手の指をまっすぐ、ゆっくり、軽く引き抜く。
……「直・速・軽」。
……「滑」の型だ。
そうやってつまんだ架空の「紙」を、波打たせながら、素早く、軽く動かす。
……「曲・速・軽」。
……「弾」の型。
震えながら手紙を渡したのが伝わったのか、葛城先輩はそれをひったくってくれた。
手に取った「封書」を見つめるしかめっ面が、突然、急速に緩んだ。納得したかのように、顎がカクカクと上下に動く。その様子は、いつもの優雅な身のこなしからは想像もつかなかった。
本来の台詞は、こうだ。
兄弟子:神父ロレンスよりモンタギュー家のロミオ様へ……これか。
ジョン:決して中を見てはならぬ、と。
字面だけ見れば、ロレンス神父の言葉を伝えただけだ。でも、口にできないなら、行動に移すしかない。
……どうやって?
ジョンが愚直な男なら、それを守ろうとするだろう。それなら何もしなければいい。でも、それでは話が進まないのだ。
次の手をなかなか思いつかないまま、葛城先輩の手元の「手紙」を眺める。無理だけはいけない。それを言ったのは僕自身だ。
すると、葛城先輩はいきなり「封書」を開けようとした。
それはいけない。ストーリーが崩壊する。手紙の中身は、死んだことになっているジュリエットが生きているという知らせなのだ。
僕の頭の中で、方程式が展開される。
Z=F(x,y)
x=目的(手紙の中身を読まない)
y=障害(兄弟子が封を切ろうとしている)
ジョンはロレンス神父の言いつけを守りたい。これが、架空のリンゴだ。
でも、兄弟子は封を切ろうとしている。これが、リンゴを持っている瑞希。
……瑞希からリンゴを手に入れるためには?
……兄弟子に封書を開かせないためには?
その答え(式の値)はすぐに出る。
Z=行動(取りに行くしかない!)
……どうやって?
答えは、耳元に蘇った瑞希の声が教えてくれた。
……「直・速・軽!」
……「叩」
僕の手が、コンピューター制御されたロボットアームのように動いた。
まっすぐ、速く、軽く!
でも、葛城先輩の反応も早かった。即座に手を引っ込めて、架空の僧衣にしまい込んだのだ。
意味ありげに僕を眺めて、大げさにうなずく。
こう言っているのだ。
兄弟子:人に知られてはならぬことを謀っておられるのだ。
そこで僕の頭の中に、次の台詞が閃く。
ジョン:ああ、こうしている間にもロミオ様は……。
固有名詞が出てくる。表現しきれない。マンチュアの方向を見つめればいいんだけど、きっかけがつかめない。
……何で、ロミオのことなんか言い出すんだ?
もっともらしく身構える葛城先輩は、ひょうきんな顔つきで僕を見つめている。待たせるわけにはいかなかった。
そこで、ここでも方程式を立ててみる。
Z=F(x,y)
……なぜ、ジョンはマンチュアの方角を見つめてロミオの名前を出したのか?
……ロレンス神父の言いつけを守ろうとしているだけなのに?
x=目的(神父の言いつけを守ろうとする)
Z=行動(マンチュアの方角を見つめてロミオの名前を出す)
……何が問題だったんだろう?
y=障害(状況)
そこで、直前の状況を思い出してみる。
……僕が取ろうとした「手紙」を、葛城先輩(兄弟子)がしまい込んだ。
問題になることは何もない気がする。ジョン修道士もロレンス神父も行き先は同じなのだから。
葛城先輩は諦めたのか、ぽんと手を叩いて立ち上がった。部長が出ていった戸口へと向かう。
……話が終わっちゃう!
……引き留めなくちゃ!
……どうやって?
とにかく、無理はしないことだ。最も楽な方法は、手を引いて止めることだった。
慌てて追いすがった僕は、葛城先輩の手を掴もうとした。
身体が強張る。
……ダメだろ!
……勝手に手なんか握っちゃあ!
固まってしまった僕を避けるように、先輩は身を翻して戸口から離れていった。
……ほら、嫌われた。
ちらっと振り向いて顔色をうかがう。きっと、あの冷ややかな眼が軽蔑の視線を向けているはずだ。
そうじゃなかった。驚いたように僕を見ているのは、兄弟子のひょうきんな顔だった。僕は芝居を続けなければならない。
再び方程式を立てる。
Z=F(x,y)
……ジョン修道士はロレンス神父の言いつけを守ろうとしている。
……それはマンチュアのロミオに手紙を届けることだ。
x=目的(マンチュアのロミオに手紙を届ける)
……今、兄弟子は戸口から離れた。
……手紙を届けに行けない。
y=障害(戸口から離れて、手紙を届けに行けない)
では、答えは1つしかない。
Z=行動(戸口に引き戻す)
……こっちに注意をひきつけないと!
僕は大げさに戸口を指差して、身悶えした。兄弟子が近寄ってくる。
……やった!
だが、眼の前に迫った葛城先輩の表情は、もう滑稽な兄弟子のものではなかった。
それは基礎練習で踊ったり、休憩時間ではしゃいだりしているときの、満面の笑顔だった。
両手を広げた先輩の、つややかな唇が囁く。
「凄いわ、菅藤君! 土日だけでそんなに……」
身体が動かない。金縛りに遭ったみたいに。
でも、恐怖からじゃない。むしろ、気持ちがいい。
さらに、耳元をくすぐる最後の声が、僕の頭の中を再び真っ白に変えた。
……好きよ、そういう努力。




