仔犬のメッセージカード
結局、試行錯誤が続いた。
練習時間の期限を大幅に過ぎてしまい、顧問の先生が止めに来たのでようやく稽古は終わった。
活動終了のミーティングでは、スタッフとキャストが各自の反省を述べることになっている。
部長が頭を下げる。
「時間のないところで立ちを変えることになりましたが、みんな協力ありがとう」
こういうときは、全員でこう答えるのがお約束だ。
「い~え~、どういたしまして~!」
稽古時間いっぱい、僕と机の周りを走りまわっていた兄弟子が満面の笑顔で言った。
「ジョンのカバーは大変だけど、面白い」
だれかが「よっ!」とはやしたてると、みんなが拍手した。
僕もそれに倣った。
至らない芝居がいけないんだから、当然だ。
続いて、ロミオがどこを向いているのかよく分からない目つきで言った。
「芝居に勢いつけて、もっとジョンがマヌケに見えるようにします」
ちょっと空気が凍った。
聞きようによっては、僕への当てこすりだ。
もっとも、今日の稽古を停滞させた張本人は非難などできないが。
緊張した雰囲気を和らげたのは、ロミオを鋭く睨んだジュリエットだった。
ちょっと大げさな口調で、葛城先輩が言い切る。
「そのカバーが暴走しないよう、きっちりシメます」
ロミオが頭を掻いて全員がどっと笑ったところで、僕は頭を下げた。
「すみません、僕が下手なばっかりに」
また、空気が凍り付いた。
どうも僕は、その場の雰囲気を壊すからいけない。
そこへ割って入ったのは、顧問の先生だった。
穏やかに、部の全体へ言い渡す。
「ここは吊るし上げの場じゃない、反省は心の中ですればいいんだ」
全員が答える。
「はい!」
目上の人のコメントには、すべて「はい」。
これは倫堂学園だけでなく、地区の演劇部全体のマナーだという。
でも、部活が終わってしまえば無礼講だ。
ガヤガヤと帰る部員たちの雑談は、誰とは言わなくても全て、僕のことを指していた。
「動きがワンパターンなんだよな」
「学芸会かよ」
たぶん、僕の仕草のことだ。
いろいろ考えてやってるんだけど。
「ていうか、舞台いっぱい使えって」
どうしても、僕は目の前のことに集中してしまう。
舞台全体をどう使ったらいいかまで、考えている余裕はない。
沈んだ気持ちでいると、ラベンダーの香りが一瞬、僕の側を通り過ぎた。
葛城先輩の長い髪が、部員たちの背中の間をすり抜けて消えていく。
ふと気が付くと、いつの間にか僕の手の中に小さなメモが握らされていた。
可愛らしい仔犬の顔が僕を見つめている。
葛城先輩が部室に貼る伝言メモなんかでよく使うサインだ。
その下には、きれいな字で一言だけ、こう書かれていた。
Where there is a will,there is a way.
一途な君は、できることをまず一途に。
英語の諺の方を、ぼくは訳してつぶやいてみた。
「精神一到、何事か成らざらん……」
家に帰ると、母さんはいなかった。
留守電が入っていたので聞いてみると、女の子の声が流れてくる。
「急なシフトが入ったので、ちょっと遅くなります。ごめん! 何か適当に食べてて」
母さんの声だった。
姿形だけじゃなくて、声まで女子高生みたいだ。
父さんが再婚して初めて紹介されたときも、こんな可愛らしい母さんがいていいのかと思った。
死んだ母は年上の父よりも落ち着いて見えたから、余計にそう感じたのかもしれない。
位牌は、母の実家にある。再婚のときに、先方が気を遣って引き取ってくれたのだ。
遺品の類もそのとき、残らず返したようだ。
だから、母の面影は僕の思い出の中にしかない。
幸い、記憶力には自信がある。
絶対に忘れたりしない。
その記憶力があるから、ダメ出しも完璧に覚えられるんだけど……。
僕はものを食べる気も起きず、制服のままで玄関わきの和室に入った。
自分の部屋だと、立って動けない。
だが、その前にもう一度、やることがあった。
葛城先輩のメモを、台本と共に鞄から取り出す。
できることを、一途に……。
僕はダメ出しをびっしりと書き込んだ台本を繰って、まずひたすら音読することにした。
分かったつもりの、あるいは間違って覚えている台詞があるかもしれない。
台本の初めから、他の人物の台詞も含めてはっきりと声に出してみる。




