80手目 1回戦 鞘谷〔藤花〕vs古谷〔清心〕(2)
取るのはない。取っても9八歩で無意味。
有力なのは、8五桂、9七歩成の攻め合い。
8五桂に8四歩と殺しにいくのは、8二角の返しがあるからダメだ。というわけで、8五桂、9七歩成、同香、同香成を第一候補と考えたい。そのとき、7三歩、同桂、同桂成の交換から、同銀、9二飛の成香抜きがあるんだよね。これをどうするか……。
僕が考えるなか、鞘谷先輩の残り時間は5分を切った。
「8五桂」
予定通りの進行というわけか。僕は両腕をまた十字に組んで、考え始めた。
……………………
……………………
…………………
………………
9二飛からの成香抜きは、そこまで痛くないかな。むしろ、龍を撤退させて、そのあいだに反対側を攻めよう。例えば、8二歩、9七飛成に3六香と打って、3七香(3七桂なら同香成、同金、4五桂。3七桂打なら同香成、同桂、3六歩と追撃できそうだ)、同香成……同金かな。同銀は中央が薄すぎる。そこで、4五桂。
(※図は古谷くんの脳内イメージです。)
僕が視野に入れないといけないのは、この局面だ。3八金なら、もう一度3六香で、3七香、同香成、同桂、同桂成、同金、4五桂、3八金、3六香。ぐるぐる回っているように見えるけど、今度は2九に桂がいないから、3七香、同香成、同金、同桂成、同銀の総交換に3九飛と打って僕が有利。7筋〜9筋方面への脱出は、5四の角が利いている。
僕は9七歩成と成り込んだ。
「ゴリ押しか……同香」
同香成、7三歩、同桂、同桂成、同銀に、鞘谷先輩は駒音高く飛車を打ち込んだ。
「9二飛ッ!」
僕は音を立てずに、8二歩と受けておく。
「これで小康状態かしら。9七飛成」
「3六香」
僕が香車を打つと、鞘谷先輩は怪訝そうな顔をした。
「そこ? 駒が集まってるところに打つの?」
「凝り形ですからね。ほぐしてあげますよ」
鞘谷先輩は、時間がもったいないと思ったのか、すぐに3七香と受けた。
時間の使い方としては、間違っていない。僕も同香成とする。
「同金」
「4五桂」
「3八……」
鞘谷先輩の手が止まった。
「あれ……金を引けない……?」
どうやらカラクリに気付いたらしい。金の上下を繰り返したら、僕の利になる。
「ルール上は引けますよ」
僕はちょっとだけ軽口を叩いて、水筒を開けた。
アイスコーヒーをごくり。暖かい季節になってきて、これがまた美味しいんだ。
ピッ
鞘谷先輩、時間がなくなったね。僕はまだ5分残している。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「4六金ッ!」
へぇ、ひねってきた。
僕は水筒の蓋を閉めて、ふたたび考える。
3八飛と打つスペースはできた。10秒将棋なら、ノータームで打ちたくなる。ただ、3八飛、3九香、2八飛成、3四歩と伸ばすのが気になるし、3八飛って、3九角〜4九玉で死ぬ可能性もあるんだよね。3九角に2六香としても、2七香で、また死ぬ。まあ、さすがにしないだろうけど。
うーん、なにか一石二鳥な手があれば……ああ、あった、あった、3七歩だ。
(※図は古谷くんの脳内イメージです。)
一見、軽い。でも、狙いは厳しい。おそらく鞘谷さんは、5六香なんかで、角を狙ってくると思う。6五角と逃げたら、4五金だ。時間がないときは、垂涎ものの手順。これを撒き餌にしておこう。
「3七歩」
さあ、鞘谷先輩は1分将棋。この罠を読み切る時間はないはず。
「歩? ここで歩?」
案の定、鞘谷先輩は混乱していた。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「5六香」
「3八歩成」
僕は、角を逃げずに歩を成った。
「え? 逃げないの?」
鞘谷先輩は、手拍子で5四香。いや、手拍子でもないか。狙いは、もともとそう。
ここで僕は、最後の時間を使う。寄せを考えておこう。
……………………
……………………
…………………
………………
うん、だいたいできた。
ピッ
ちょうどいい。僕も1分将棋だ。59秒まで考えて、4八と。鞘谷先輩は同玉。
よし、これで7筋からの脱出はなくなった。
5四歩、9一龍、7一香、9四角。鞘谷先輩は、ガンガン攻めてくる。棋風だ。
「3七歩」
僕は再度歩打ち。これが猛烈に厳しい。3八飛、5九玉、5七桂成で、ほぼ終了。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「よ、4五金ッ!」
「3八飛」
「……5九玉」
「6五桂です」
逆から桂馬を追加した。
これが7七の地点を押さえていて、6六角の受けも詰んでしまう。
「しまった……完全に寄っちゃった……」
鞘谷先輩は、がっくりと肩を落とした。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「負けました」
「ありがとうございました」
とりあえず1回戦はノルマ達成。他が気になる。
僕は1番席から4番席までを窺ってみた。まだ指しているということしか分からない。
「最後、3七歩に同桂、同桂成、同玉で、清算したほうがよかった?」
鞘谷先輩は、早速、感想戦を始めた。
僕も駒を戻した。
「これは、3九飛と即打ちします」
「3八桂、2六銀、4八玉……1九飛成?」
「2六銀のところで4九銀が詰めろですよ」
鞘谷先輩は、あ、そっか、とつぶやいた。
「金がないから、もう受からないわね」
「ええ、2七角なら2六香とかありますし、先手は攻めに移れません」
鞘谷先輩は、うーんとうなって、局面を進めた。
「3七歩のところでは、受けなしなのかしら? 5三桂とか、詰めろになってない?」
「いえ、それは詰めろじゃないです」
「3八飛、5九玉、5七桂成、6一角成よね?」
「そこで5三玉と、桂馬を払いながら上部脱出して勝ちです」
鞘谷先輩は、うんうんとうなずいた。
「やっぱりダメなのね。対局中も、全然足りない気がしたわ」
鞘谷先輩は、それからすこし考え込んだ。
多分、勝負所を探っているのだろう。
「3七歩に対して、受けたほうがよかった?」
「1回目ですか? 2回目ですか?」
「……1回目のほうかしら。2回目は、どうしようもないみたい」
僕らは、局面をもどした。
「どう受けます?」
「3九香ね。これなら、3四歩の伸ばしもみえるし」
僕は黙って、3八香と置き返した。あまり深くは考えていない。
「ゴリ押しかぁ……」
鞘谷先輩は、右手の甲で額をたたいた。
「6六桂って打つわね」
僕は10秒ほど考えて、3九香成とした。
「角を逃げないの? 私が香車を使ってるから、余裕はあるわよ?」
「逃げ場所がないです。6五角には5五金ですし」
「そっか……じゃあ、5四桂」
「ここで3八歩成として、僕が勝ってる気がします」
「兎丸くんの玉って、そんなに堅いの?」
「堅いというか、バランスですかね。先輩の攻め駒に対しては、バランスが取れてます」
5四にいるのが桂馬じゃなくて香車だと、かなり怖い。5三香成がある。だから、本譜でも5四香には手抜かずに取っておいた。5四桂は、そうでもないはずだ。
「先手には、具体的な手がないと思います」
「3九銀として、一回緩めようかしら」
僕はノータイムで銀を取りかけて、手を引っ込めた。
「取らないの?」
「ちょっと悩みますね。5七桂成、同玉、5九飛、5八歩、5四歩もあるような」
「……たしかに、ありそう。でも、5四歩に3八銀じゃない?」
「ああ、ですね。これじゃ、意味がないです。先に3九とです」
鞘谷先輩は4五金と上がって、僕は7六桂。
「結局、これが詰めろなのね」
「ええ、これ一発で、だいたい寄っちゃうんですよね、先手は」
「桂馬を抜く手順もないし、私の負けか」
鞘谷先輩は、諦めたようにため息を吐いた。
「全体的に、ちょっと冴えなかったわ」
「いえいえ、そんなことないですよ。内容は濃かったです」
僕たちは挨拶を終えて、席を立った。
横歩の短手数将棋だったから、他は終わっていないところが多い。
とりあえず、佐伯主将の対局を観に行く。
【先手:佐伯宗三 後手:エリザベート・ポーン】
これまた、変な将棋になっている。
駒桜市で変な棋譜が出たら、佐伯主将だっていうのが専らの評判。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「6八金ですわッ!」
同玉、5七成銀、同玉、7九角。
これは……佐伯主将が残してるっぽい。
ポーンさんの攻めは、切れ模様だ。
佐伯主将は6八銀と冷静に受けて、8八角成に5三桂成。後手玉にプレッシャー。
「Hmm……指し手が……」
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ!
ポーン先輩は、6六馬と切った。
同玉、6四飛、6五銀、同飛、同玉。
「8五飛ッ!」
「さすがにそれは切れ筋かな。6六玉だよ」
6五銀、7七玉。
「5七玉の頓死もなさいませんのね……投了です」
「ありがとうございました」
これで2勝目。さすがは佐伯主将だ。危なっかしく勝っている。
「どこが悪かったのですかしら?」
ポーン先輩は、感想戦を始めた。
「4五銀が甘かったんじゃないかな?」
ふたりは、局面をもどした。
ふぅん、これもよく分からない局面だ。
「2八角はあったんじゃない?」
「4九飛で切れてませんこと?」
「3八銀で切れてないと思うよ」
なるほど、重たいようで、先手は金銀が壁だから、いきなり危なくなる。
「ですわね。すこし悲観し過ぎましたかしら」
「6六飛と逃げたら、どうするんですか? 香車を取るんですか?」
僕は、うしろから尋ねた。佐伯主将とポーン先輩は、同時に顔をあげた。
「ああ、兎丸くん、終わってたんだね」
「はい」
ここで勝敗を訊かないのは、佐伯主将なりのマナーかな。
「兎丸くんは、6六飛に1九角成とするの?」
「いえ、どっちかな、と思って。1九角成、3一角みたいな展開が見えますよね」
「3一角って成立してる? 5二飛で?」
「そこで6五桂と跳ねませんか? 6四香と打ち返しても、5三桂成が詰めろですから、どうしようもないですよね」
「……だね。だから、6六飛には、1九角成とはしないかな」
「ただ、1九角成以外も、全部同じような……4七桂成も、詰めろではないです」
金があれば、詰むんだよね。5八金で一発。
「そっか、じゃあ、本譜の4五銀が、最善だったのかな」
佐伯主将は、盤面から顔をあげた。
「ごめんね、ポーンさん、さっき変なこと言っちゃって」
「そ、そんなことはありませんわ」
ポーンさんは、ちょっと頬を染めた。うーん、この伝わらなさ具合。
「ということは、4五銀で金を回収する本譜が最善……もっとまえで僕がいいのかな」
「桂馬を跳ねたところで、対応を間違えた気が致しますわ」
ふたりは、さらに局面をもどした。
へぇ、なんだか、後手も頑張れそうだ。先手は相当怖い形をしている。
「ここは、そこそこ自信がありましたわ」
「うん、僕もここは、ちょっとね。手が広かったから」
「本譜は、どうなったんですか?」
僕は、ふたりに尋ねた。
「本譜は、4七馬、5八角、5六馬、5三桂成だよ」
と佐伯主将。
「馬の動きが、損してる感じですね」
「しかしながら、5八角と打たせないと、また3一角などがありますので」
とポーン先輩。
なるほど、そういう考えか。一理ある。
「ちょっとトリッキーですが、4八歩で焦らせるとかは?」
「えーと……詰めろをいきなり掛けるの? 6八銀で?」
「そこで5八銀、7九玉、4七馬と寄って、5三桂成、同金、3一角……ダメですね」
「うん、さすがに左に逃げられるから、後手が一方的に危なくなってるよ」
まあ、対局者のほうが、深く読んでるってことか。当たり前。
僕は、しばらくのあいだ、ふたりの感想戦を見守った。
すると突然、会場に大声が響き渡った。
「よっしゃッ!」
あ、この声は。
場所:2015年度春季団体戦 1回戦
先手:鞘谷 涼子
後手:古谷 兎丸
戦型:横歩取り8四飛型
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩
▲7八金 △3二金 ▲2四歩 △同 歩 ▲同 飛 △8六歩
▲同 歩 △同 飛 ▲3四飛 △3三角 ▲3六飛 △8四飛
▲2六飛 △2二銀 ▲8七歩 △5二玉 ▲5八玉 △7二銀
▲3八金 △9四歩 ▲4八銀 △9五歩 ▲7五歩 △7四歩
▲7六飛 △7五歩 ▲同 飛 △2四飛 ▲2八歩 △8四飛
▲3六歩 △8六歩 ▲同 歩 △同 飛 ▲3三角成 △同 桂
▲8七歩 △8四飛 ▲3五歩 △2三銀 ▲7四歩 △7三歩
▲7七桂 △7四歩 ▲7六飛 △5四角 ▲2六飛 △2五歩
▲8六飛 △同 飛 ▲同 歩 △9六歩 ▲8五桂 △9七歩成
▲同 香 △同香成 ▲7三歩 △同 桂 ▲同桂成 △同 銀
▲9二飛 △8二歩 ▲9七飛成 △3六香 ▲3七香 △同香成
▲同 金 △4五桂 ▲4六金 △3七歩 ▲5六香 △3八歩成
▲5四香 △4八と ▲同 玉 △5四歩 ▲9一龍 △7一香
▲9四角 △3七歩 ▲4五金 △3八飛 ▲5九玉 △6五桂
まで90手で古谷の勝ち




