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こちら、駒桜高校将棋部Outsiders  作者: 稲葉孝太郎
第7局 捨神くん物語(2015年5月6日水曜)
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76手目 捨神くん、吾有事を得る

 コンサートホールのまえで、バイクは止まった。

 遠くにパトカーのサイレンの音が聞こえた。

「先輩、追っかけられて……」

「いいから、さっさと入れ。あとは俺に任せろ」

 菅原(すがわら)先輩は、親指で玄関を示した。

 僕は一瞬だけ躊躇して、それからこくりとうなずいた。

「ありがとうございました」

 僕は玄関前の階段を駆け上がった。

 ずぶ濡れの子供が入って来たから、警備員のひとがびっくりしていた。

「きみ、どうしたんだ? 雨宿りかね?」

「コンサートホール……いえ、コンクールの控え室はどこですか?」

「控え室……付き添いの家族かな?」

「登録選手です」

 警備員のひとも、最初は信じてくれなかった。けど、名前を伝えたら、だれかに電話を掛けて、はいはいと何度も言葉をかわした。そして、受話器を置いた。

捨神(すてがみ)(はじめ)くんだね? そこのエレベーターに乗って、2階へどうぞ」

「部屋の番号は分かりますか?」

「担当者が、エレベーターのまえで待っててくれるらしいよ」

「ありがとうございます」

 僕は指示にしたがって、エレベーターに乗った。ドアが開くのももどかしい。階段の場所が分かっていたら、それを使いたいくらいだった。2階に出ると、二十歳くらいのお姉さんが待っていた。

「あら、びしょ濡れじゃない。ご両親は?」

「僕ひとりで来ました」

 お姉さんは不審に思ったみたいだ。でも、すぐさま事務的な顔にもどった。

「もうすぐあなたの番だけど、服は持って来てる?」

「……いえ」

「心配しないで。レンタルのものがあるわ。服のサイズは?」

「このままじゃ、ダメですか? このほうが弾きやすいんです」

 お姉さんは戸惑っていた。前例がないんだろうな、と思った。

「ダメですか?」

「いえ、服装規定に私服も含まれてるから、いいわよ。ただ、そのまえに……」

 お姉さんは僕を控え室につれていくと、タオルで頭を拭いてくれた。

「ジャケットは脱ぎなさい。さすがにこれで演奏はムリだわ」

 僕は上着を脱いだ。レインコートだったから、なかは濡れていなかった。

 不幸中の幸いってやつだね。

「格好だけはついた……とも言えないわね」

 お姉さんは、ちょっとだけ眉間に皺をよせた。

「まあ、大丈夫でしょう。服装で減点はないから」

 僕らは、舞台袖に移動した。まえの子が終わったら、すぐ僕の番らしい。

 役者さんとかもそうだけど、舞台袖が一番緊張するらしいね。僕も、普段のコンクールでは、舞台袖が一番緊張した。だけど、このときは違った。自然と落ち着いていた。

 拍手が起こって、僕の名前が呼ばれた。

「それじゃ、頑張ってね」

 僕はお姉さんに背中をかるく押されて、舞台に出た。

 その瞬間、ちょっとざわついたのが分かった。

 よれよれの私服で、真っ白な髪もぼさぼさだったからね。

駒桜(こまざくら)市駒桜第一中学校2年生、捨神一くんです。課題曲は、『モーツァルト/ソナタ K. 310 第3楽章』、自由曲は、『ラヴェル/ソナチネ 第3楽章』」

 僕は席に座ると、ペダルの位置を確かめて、深呼吸した。そして、演奏を始めた。

 最初のコードからスムーズに入って、僕は無心になることができた。しばらく練習してなかったせいで、堅いところがあるのは自覚していた。それすらも、どうでもよかった。

 すべてを弾き終えた僕は、これまでにない充実感で、拍手を迎えた。舞台袖に戻ると、お姉さんも温かく迎えてくれた。

「よかったわよ」

 そのまま最後まで大会は進み、審査の時間になった。審査は、すこし揉めたのか、他のコンクールのときよりも時間が掛かっていた。そして、いよいよ優勝者の発表。

「H県学生ピアノコンクール中学生の部、優勝、二階堂(にかいどう)英樹(ひでき)くん」

 さすがに、優勝はムリだった。二階堂くんは、中国地方でも有名な選手だ。

 二階堂くんがトロフィーと賞状を受け取って、みんな次の発表を待った。

「準優勝、樋口(ひぐち)悦子(えつこ)さん」

 拍手。彼女も、僕の知り合いだった。

 そのときは、まだ1、2回しか話したことないけどね。

「3位入賞、福山(ふくやま)豊明(とよあき)くん」

 ……ダメだったみたいだね。入賞は3位まで。以下は有象無象だ。

 僕は、ホッとしたような気もしたし、やっぱり残念なような気もした。

 演奏中は無心だったのに、おかしな話だよね。

 全員の発表が終わったからか、会場内も騒がしくなった。

「ご静粛にお願い致します。最後に、審査員特別賞を発表します」

 会場内が、またシーンとなった。

「審査員特別賞、捨神一くん」

 僕は一瞬、自分の耳を疑った。

「捨神くん、きみだよ」

 となりにいた二階堂くんが、僕に話しかけた。

「あ、はい」

 僕はまえに出て、審査員のおじさんのところへ歩み寄った。

「おめでとう」

「……ありがとうございます」

 トロフィーはなくて、賞状だけ受け取った。

「それでは、本日の総評を、審査委員長の……」

 こうして、僕の一番長い一日は終わった。

 帰り際には、運営から電話をもらった母さんが、控え室まで迎えに来てくれた。

「良かったわ、心配したのよ」

 僕のほうを、それとも結婚のほうを?

 以前の僕なら間違いなく訊いていたであろうことを、僕は訊かなかった。

「入賞したのね。おめでとう」

「審査員特別賞だよ。3位には入れなかったから」

「それでも、凄いじゃない」

 正直、審査員特別賞がなんだったのか、僕にはよく分からなかった。ひとつだけ気づいたのは、父さんが裏から手を回したんじゃないってこと。母さんの喜び方を見る限り、僕の表彰が決まっていたようには見えなかったからね。

 実力で取れたことに、僕はホッとした。

「ここまでどうやって来たの? 電車? バス?」

「……先輩に連れてきてもらった」

「先輩? お母さんが知ってるひと?」

 コンコンと、ドアがノックされた。

「はい、どなたでしょうか?」

 ガチャリとノブが回って、ちょっと格好のだらしない中年男性が入ってきた。

 無精髭があって、ぽりぽりと後頭部を掻いていた。

「どなたですか? ここはピアノコンクールの控え室で……」

「母さん、待って」

 僕は、母さんのすそを引いて、それから男のひとに挨拶した。

「先生、おひさしぶりです」

「おお、捨神くん、ひさしぶりだな。元気にしてたかね?」

 先生は……そう、養護学校の最後の半年だけ僕を担当してくれた先生は、僕ににっこりと笑いかけた。あいかわらず冴えない風貌だったけど、どこか威厳に満ちていた。

「あ、奥さん、初めまして、櫻井(さくらい)という者です」

 先生は、名刺を差し出した。

「す、すみません、審査員の方だとは思いませんで……」

「いやいや、いいんですよ。審査員としてここに来たわけじゃありませんから」

 先生は僕に向き直って、ぽんと肩を叩いた。

「とりあえず、審査員賞おめでとう」

「ありがとうございます……先生が推薦してくれたんですか?」

 先生は、ワハハと笑って、僕の肩をもういちど叩いた。

「逆だよ、逆。わしは反対したんだがな。多数決で決まった」

 先生が反対した。その事実を、どう捉えればよかったんだろうか。

 僕が困惑するのをみて、先生は先を続けた。

「基本がなってないよ。卒業式のとき言っただろう。ちゃんと指導を受けろってね」

「えっと……その……」

 僕は、自分の生活がめちゃくちゃになっていたことが、急に恥ずかしくなった。

「あの様子だと、1ヶ月はピアノに触ってなかったんじゃないか?」

「……はい」

「ほかの審査員にもバレバレだったが、連中がいいっていうなら、わしは構わんよ。だいたい、賞がどうだこうだってのは、性分に合わんからな。ただ、かつての教え子が、どうやら真面目にピアノを続けてないのには、がっかりしたがね」

 歯に(きぬ)を着せない物言いに、僕はかえってせいせいとした。全部事実だからね。

「すみません……これからは、マジメにやります」

「やりますって言っても、どうやってだ? 先生はいるのか?」

 僕は、はたと答えに窮した。吹奏楽部は、素行不良で退部になってるはずだった。

「その様子だと、いないんだな。奥さん、だれかあてがあるんですか?」

「いえ……それは……」

 櫻井先生は頭を掻いて、あきれたように首を振った。

「しょうがないやつだな……じゃあ、わしが教えてやる」

 僕は、サッと顔をあげた。

「いいんですか? 先生って、市外に住んでるんじゃ……」

「養護学校のほうは、まだやってるからな。駒桜なら、かまわんよ」

「あ、ありがとうございます」

 僕は嬉しかった。賞状をもらったときよりもね。

「わしは厳しいぞ。音をあげても知らんからな」

「よろしくお願いします」

 こうして僕は、日常に復帰した。櫻井先生、ほんと厳しかったよ。まあ、今でも僕の先生だから、その後どうなったかは、お察しということで。アハハ。

 そして、最後の家庭問題だけが残った。

「お父さんと結婚することになったわ」

 食卓で、母さんはそう伝えた。

「よかったね……僕も伝えないといけないことがあるんだ」

 母さんは、箸を止めた。また変なことを言い出さないか、心配になったんだろうね。

「僕はピアノを続けるし、結婚にも同意するよ」

「ええ、あなたにもやっとお父さんが……」

「ただね、3つ条件があるんだ」

「条件……なにかしら? ピアノ専用の部屋が欲しいの?」

「全然違うよ。ひとつ、僕は父さんと同居しない」

 母さんの指から、箸が滑り落ちた。

「な、なにを言ってるの? 3人で一緒に住むんでしょ?」

「住まないって言ってるんだよ。母さんが父さんのところへ引っ越すのはいいよ。でも、僕はここに残るから。それにさ、父さんもそっちのほうがいいでしょ? 連れ子だと、周りからいろいろ言われそうだし……実は、父さんのほうから、そんな感じの提案が出てるんじゃないの?」

 母さんは、なにも答えなかった。

「じゃあ、オッケーってことだね。ふたつ、僕は天堂(てんどう)に進学するよ」

「天堂? ダメよ、あんなところに通っちゃ」

「僕が審査員特別賞をもらったとき、ある先輩にお世話になったんだ。だから、その恩返しで、天堂に行くよ。どうせ内申はめちゃくちゃだし、市立(しりつ)は通らないからね」

「お父さんに頼めば、どこかに推薦で入れるわよ」

「そんなのお断りだよ。みっつ、僕は名前を変える」

「名前を……変える……? それは、そうよ。お父さんと一緒になるんだから」

「ごめんごめん、説明不足だったね。苗字は変えないから」

「変えないもなにも、変えないといけないのよ」

「アハハ、連れ子は苗字を変えなくてもいいって、調べてあるから。でさ、僕は下の名前を変えたいんだ。これ、父さんがつけたんでしょ? 嫌だよ、そんなの」

 母さんは僕を説得しようとしたけど、徒労に終わった。

「下の名前を変えるって……どうやって?」

「些細な理由があればいいらしいし、親戚に同姓同名がいて紛らわしいとか、そんなので構わないよ。それこそ、父さんのコネを使ってくれないかな」

「どう変える気なの? あなたが考えるの?」

「母さんの名前が(もも)だから、そこから(はじめ)を捨てて、九十九(つくも)にするよ」

 冗談みたいだけど、本気だった。

 父さんと母さんを否定する名前。それが、僕の今の名前なんだ。

「この3つを飲まないなら、僕はマスコミに不倫の事実をリークするよ。本気だよ」

 この脅しに逆らえるわけないよね。全部がパーになる。

 母さんはその場で、父さんはあとから同意した。但し、ひとつだけ変更になったことがある。僕はこのアパートを出て行って、市内の高級マンションに移ることになった。


  ○

   。

    .


「と、まあ、いろいろあったわけさ、アハハ」

 ……………………

 ……………………

 …………………

 ………………

 はぁ、全部しゃべっちゃった。

飛瀬(とびせ)さん……僕のこと、嫌いになった?」

 飛瀬さんは、じっと僕の顔を見つめてきた。

「捨神くんの生き方だから……私には肯定も否定もできない……」

「そうだね……僕の生き方だね。なんか、変な話をしちゃって、ごめん」

「ひとつだけ……質問させてもらっていいかな……?」

 僕は、ドキリとした。なんだろう。まさか、父さんの名前を訊きたいとか?

 飛瀬さん、僕を失望させないで。そんな女性じゃないよね?

「な、なにかな?」

「捨神くんは……ずっと女の子と距離を取ってきたんだよね……?」

 僕は、首を縦に振った。

「じゃあ……なんで私には、一日デートとかしてくれるの……?」

 僕のなかで、時間が止まった。

 今、このときこそ、僕には言わなきゃいけないことがある。

 そう確信した。

「飛瀬さん、僕は、きみのことが……」

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