76手目 捨神くん、吾有事を得る
コンサートホールのまえで、バイクは止まった。
遠くにパトカーのサイレンの音が聞こえた。
「先輩、追っかけられて……」
「いいから、さっさと入れ。あとは俺に任せろ」
菅原先輩は、親指で玄関を示した。
僕は一瞬だけ躊躇して、それからこくりとうなずいた。
「ありがとうございました」
僕は玄関前の階段を駆け上がった。
ずぶ濡れの子供が入って来たから、警備員のひとがびっくりしていた。
「きみ、どうしたんだ? 雨宿りかね?」
「コンサートホール……いえ、コンクールの控え室はどこですか?」
「控え室……付き添いの家族かな?」
「登録選手です」
警備員のひとも、最初は信じてくれなかった。けど、名前を伝えたら、だれかに電話を掛けて、はいはいと何度も言葉をかわした。そして、受話器を置いた。
「捨神一くんだね? そこのエレベーターに乗って、2階へどうぞ」
「部屋の番号は分かりますか?」
「担当者が、エレベーターのまえで待っててくれるらしいよ」
「ありがとうございます」
僕は指示にしたがって、エレベーターに乗った。ドアが開くのももどかしい。階段の場所が分かっていたら、それを使いたいくらいだった。2階に出ると、二十歳くらいのお姉さんが待っていた。
「あら、びしょ濡れじゃない。ご両親は?」
「僕ひとりで来ました」
お姉さんは不審に思ったみたいだ。でも、すぐさま事務的な顔にもどった。
「もうすぐあなたの番だけど、服は持って来てる?」
「……いえ」
「心配しないで。レンタルのものがあるわ。服のサイズは?」
「このままじゃ、ダメですか? このほうが弾きやすいんです」
お姉さんは戸惑っていた。前例がないんだろうな、と思った。
「ダメですか?」
「いえ、服装規定に私服も含まれてるから、いいわよ。ただ、そのまえに……」
お姉さんは僕を控え室につれていくと、タオルで頭を拭いてくれた。
「ジャケットは脱ぎなさい。さすがにこれで演奏はムリだわ」
僕は上着を脱いだ。レインコートだったから、なかは濡れていなかった。
不幸中の幸いってやつだね。
「格好だけはついた……とも言えないわね」
お姉さんは、ちょっとだけ眉間に皺をよせた。
「まあ、大丈夫でしょう。服装で減点はないから」
僕らは、舞台袖に移動した。まえの子が終わったら、すぐ僕の番らしい。
役者さんとかもそうだけど、舞台袖が一番緊張するらしいね。僕も、普段のコンクールでは、舞台袖が一番緊張した。だけど、このときは違った。自然と落ち着いていた。
拍手が起こって、僕の名前が呼ばれた。
「それじゃ、頑張ってね」
僕はお姉さんに背中をかるく押されて、舞台に出た。
その瞬間、ちょっとざわついたのが分かった。
よれよれの私服で、真っ白な髪もぼさぼさだったからね。
「駒桜市駒桜第一中学校2年生、捨神一くんです。課題曲は、『モーツァルト/ソナタ K. 310 第3楽章』、自由曲は、『ラヴェル/ソナチネ 第3楽章』」
僕は席に座ると、ペダルの位置を確かめて、深呼吸した。そして、演奏を始めた。
最初のコードからスムーズに入って、僕は無心になることができた。しばらく練習してなかったせいで、堅いところがあるのは自覚していた。それすらも、どうでもよかった。
すべてを弾き終えた僕は、これまでにない充実感で、拍手を迎えた。舞台袖に戻ると、お姉さんも温かく迎えてくれた。
「よかったわよ」
そのまま最後まで大会は進み、審査の時間になった。審査は、すこし揉めたのか、他のコンクールのときよりも時間が掛かっていた。そして、いよいよ優勝者の発表。
「H県学生ピアノコンクール中学生の部、優勝、二階堂英樹くん」
さすがに、優勝はムリだった。二階堂くんは、中国地方でも有名な選手だ。
二階堂くんがトロフィーと賞状を受け取って、みんな次の発表を待った。
「準優勝、樋口悦子さん」
拍手。彼女も、僕の知り合いだった。
そのときは、まだ1、2回しか話したことないけどね。
「3位入賞、福山豊明くん」
……ダメだったみたいだね。入賞は3位まで。以下は有象無象だ。
僕は、ホッとしたような気もしたし、やっぱり残念なような気もした。
演奏中は無心だったのに、おかしな話だよね。
全員の発表が終わったからか、会場内も騒がしくなった。
「ご静粛にお願い致します。最後に、審査員特別賞を発表します」
会場内が、またシーンとなった。
「審査員特別賞、捨神一くん」
僕は一瞬、自分の耳を疑った。
「捨神くん、きみだよ」
となりにいた二階堂くんが、僕に話しかけた。
「あ、はい」
僕はまえに出て、審査員のおじさんのところへ歩み寄った。
「おめでとう」
「……ありがとうございます」
トロフィーはなくて、賞状だけ受け取った。
「それでは、本日の総評を、審査委員長の……」
こうして、僕の一番長い一日は終わった。
帰り際には、運営から電話をもらった母さんが、控え室まで迎えに来てくれた。
「良かったわ、心配したのよ」
僕のほうを、それとも結婚のほうを?
以前の僕なら間違いなく訊いていたであろうことを、僕は訊かなかった。
「入賞したのね。おめでとう」
「審査員特別賞だよ。3位には入れなかったから」
「それでも、凄いじゃない」
正直、審査員特別賞がなんだったのか、僕にはよく分からなかった。ひとつだけ気づいたのは、父さんが裏から手を回したんじゃないってこと。母さんの喜び方を見る限り、僕の表彰が決まっていたようには見えなかったからね。
実力で取れたことに、僕はホッとした。
「ここまでどうやって来たの? 電車? バス?」
「……先輩に連れてきてもらった」
「先輩? お母さんが知ってるひと?」
コンコンと、ドアがノックされた。
「はい、どなたでしょうか?」
ガチャリとノブが回って、ちょっと格好のだらしない中年男性が入ってきた。
無精髭があって、ぽりぽりと後頭部を掻いていた。
「どなたですか? ここはピアノコンクールの控え室で……」
「母さん、待って」
僕は、母さんのすそを引いて、それから男のひとに挨拶した。
「先生、おひさしぶりです」
「おお、捨神くん、ひさしぶりだな。元気にしてたかね?」
先生は……そう、養護学校の最後の半年だけ僕を担当してくれた先生は、僕ににっこりと笑いかけた。あいかわらず冴えない風貌だったけど、どこか威厳に満ちていた。
「あ、奥さん、初めまして、櫻井という者です」
先生は、名刺を差し出した。
「す、すみません、審査員の方だとは思いませんで……」
「いやいや、いいんですよ。審査員としてここに来たわけじゃありませんから」
先生は僕に向き直って、ぽんと肩を叩いた。
「とりあえず、審査員賞おめでとう」
「ありがとうございます……先生が推薦してくれたんですか?」
先生は、ワハハと笑って、僕の肩をもういちど叩いた。
「逆だよ、逆。わしは反対したんだがな。多数決で決まった」
先生が反対した。その事実を、どう捉えればよかったんだろうか。
僕が困惑するのをみて、先生は先を続けた。
「基本がなってないよ。卒業式のとき言っただろう。ちゃんと指導を受けろってね」
「えっと……その……」
僕は、自分の生活がめちゃくちゃになっていたことが、急に恥ずかしくなった。
「あの様子だと、1ヶ月はピアノに触ってなかったんじゃないか?」
「……はい」
「ほかの審査員にもバレバレだったが、連中がいいっていうなら、わしは構わんよ。だいたい、賞がどうだこうだってのは、性分に合わんからな。ただ、かつての教え子が、どうやら真面目にピアノを続けてないのには、がっかりしたがね」
歯に衣を着せない物言いに、僕はかえってせいせいとした。全部事実だからね。
「すみません……これからは、マジメにやります」
「やりますって言っても、どうやってだ? 先生はいるのか?」
僕は、はたと答えに窮した。吹奏楽部は、素行不良で退部になってるはずだった。
「その様子だと、いないんだな。奥さん、だれかあてがあるんですか?」
「いえ……それは……」
櫻井先生は頭を掻いて、あきれたように首を振った。
「しょうがないやつだな……じゃあ、わしが教えてやる」
僕は、サッと顔をあげた。
「いいんですか? 先生って、市外に住んでるんじゃ……」
「養護学校のほうは、まだやってるからな。駒桜なら、かまわんよ」
「あ、ありがとうございます」
僕は嬉しかった。賞状をもらったときよりもね。
「わしは厳しいぞ。音をあげても知らんからな」
「よろしくお願いします」
こうして僕は、日常に復帰した。櫻井先生、ほんと厳しかったよ。まあ、今でも僕の先生だから、その後どうなったかは、お察しということで。アハハ。
そして、最後の家庭問題だけが残った。
「お父さんと結婚することになったわ」
食卓で、母さんはそう伝えた。
「よかったね……僕も伝えないといけないことがあるんだ」
母さんは、箸を止めた。また変なことを言い出さないか、心配になったんだろうね。
「僕はピアノを続けるし、結婚にも同意するよ」
「ええ、あなたにもやっとお父さんが……」
「ただね、3つ条件があるんだ」
「条件……なにかしら? ピアノ専用の部屋が欲しいの?」
「全然違うよ。ひとつ、僕は父さんと同居しない」
母さんの指から、箸が滑り落ちた。
「な、なにを言ってるの? 3人で一緒に住むんでしょ?」
「住まないって言ってるんだよ。母さんが父さんのところへ引っ越すのはいいよ。でも、僕はここに残るから。それにさ、父さんもそっちのほうがいいでしょ? 連れ子だと、周りからいろいろ言われそうだし……実は、父さんのほうから、そんな感じの提案が出てるんじゃないの?」
母さんは、なにも答えなかった。
「じゃあ、オッケーってことだね。ふたつ、僕は天堂に進学するよ」
「天堂? ダメよ、あんなところに通っちゃ」
「僕が審査員特別賞をもらったとき、ある先輩にお世話になったんだ。だから、その恩返しで、天堂に行くよ。どうせ内申はめちゃくちゃだし、市立は通らないからね」
「お父さんに頼めば、どこかに推薦で入れるわよ」
「そんなのお断りだよ。みっつ、僕は名前を変える」
「名前を……変える……? それは、そうよ。お父さんと一緒になるんだから」
「ごめんごめん、説明不足だったね。苗字は変えないから」
「変えないもなにも、変えないといけないのよ」
「アハハ、連れ子は苗字を変えなくてもいいって、調べてあるから。でさ、僕は下の名前を変えたいんだ。これ、父さんがつけたんでしょ? 嫌だよ、そんなの」
母さんは僕を説得しようとしたけど、徒労に終わった。
「下の名前を変えるって……どうやって?」
「些細な理由があればいいらしいし、親戚に同姓同名がいて紛らわしいとか、そんなので構わないよ。それこそ、父さんのコネを使ってくれないかな」
「どう変える気なの? あなたが考えるの?」
「母さんの名前が百だから、そこから一を捨てて、九十九にするよ」
冗談みたいだけど、本気だった。
父さんと母さんを否定する名前。それが、僕の今の名前なんだ。
「この3つを飲まないなら、僕はマスコミに不倫の事実をリークするよ。本気だよ」
この脅しに逆らえるわけないよね。全部がパーになる。
母さんはその場で、父さんはあとから同意した。但し、ひとつだけ変更になったことがある。僕はこのアパートを出て行って、市内の高級マンションに移ることになった。
○
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「と、まあ、いろいろあったわけさ、アハハ」
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…………………
………………
はぁ、全部しゃべっちゃった。
「飛瀬さん……僕のこと、嫌いになった?」
飛瀬さんは、じっと僕の顔を見つめてきた。
「捨神くんの生き方だから……私には肯定も否定もできない……」
「そうだね……僕の生き方だね。なんか、変な話をしちゃって、ごめん」
「ひとつだけ……質問させてもらっていいかな……?」
僕は、ドキリとした。なんだろう。まさか、父さんの名前を訊きたいとか?
飛瀬さん、僕を失望させないで。そんな女性じゃないよね?
「な、なにかな?」
「捨神くんは……ずっと女の子と距離を取ってきたんだよね……?」
僕は、首を縦に振った。
「じゃあ……なんで私には、一日デートとかしてくれるの……?」
僕のなかで、時間が止まった。
今、このときこそ、僕には言わなきゃいけないことがある。
そう確信した。
「飛瀬さん、僕は、きみのことが……」




