71手目 捨神くん、師匠とぶつかる(3)
ロングヘアのお嬢様、姫野さんは、8四歩と突いた。
矢倉になるかなと思ったけど、まあならないんだよね。小学生同士だし。
「7八飛ぃ」
みんな大好き石田流。攻撃力はバツグン。
「8五歩」
「7七飛ぃ」
ムリヤリ石田流の構え。
6二銀、7五歩、6四歩、7六飛、6三銀、9六歩、9四歩。
「後手は角道を開けないんだな」
と箕辺くん。
「いや、そのうち開けると思うよ」
と僕。
9七角、3四歩。ほらね。7七桂、4二玉、6八銀、3二銀。
「穴熊でもないみたいだねぇ。左美濃かなぁ」
葛城くんは、かわいらしく首をかたむけた。
6六歩、3一玉、6七銀。
先手も6筋を押さえられてるから、理想型ってわけじゃないんだよね。
8四歩〜6四歩は、あきらかに石田対策だったと思う。
どうやら、姫野さんはお花さんの棋風が分かっているようだった。
8四飛、4八玉、1四歩、1六歩、3三角、5六銀、2四歩、3八銀。
先手も美濃にした。かなりオーソドックスな形かな。
「2二玉」
「うにゅう、4五銀って出たらダメなんですかぁ?」
「出てみればよろしいのでは?」
お花さんは、上半身をくねくねさせてから、3九玉と入った。
お互いに慎重。姫野さんは2三銀として、銀冠に移行した。
「金さんがはなれてまぁす。ここでしかけるのですぅ」
ギャラリーは、オッとなった。
「これ成立してるのか?」
箕辺くんは、半信半疑のようだった。
「このレベルだと、ボクにはもう分からないよぉ。捨神くん、どぉ?」
「うーん……ギリギリ成立してるようなしてないような……」
先手と後手、どっちにもスキがある。
先手は3九玉が流れ弾に当たりやすいし、後手は4一の金が浮いている。
これで先手が2八玉型なら、先手を持ちたい。もちろん、たられば。
姫野さんは、じっと考え始めた。静かな時間が流れる。
「……箕辺くん、この正面のお姉さん、だれ?」
僕は、左どなりの箕辺くんに小声で尋ねた。
「姫野咲耶先輩だぞ」
「強いの?」
僕の質問に、箕辺くんは力強くうなずいた。
「めちゃくちゃ強いぞ。将来は県代表クラスだってうわさだ」
県代表ってなんのことなのか、よく分からなかった。
とりあえず、強いっぽいってことだけ理解した。
「お花ちゃんも強いんだよねぇ……」
と葛城くん。どうやら、強豪対決になっているみたいだった。
今考えてみれば当然で、ベスト8だからね。
パシリ
澄んだ駒音が聞こえた。
「ふえぇ……しぶい手なのですぅ……」
5八金左、4二金寄。今度はお花さんが小考。
背筋をピンと伸ばした姫野さんと違い、お花さんは落ち着きがない。
「……6四歩ぅ」
同飛、6五銀と進んだ。ここで、ギャラリーの何人かが反応を示した。
「これ、7七角がないか?」
と、うしろのギャラリーがささやいた。
僕も、さっきからその筋を追っていた。
7七角成、同飛、6五飛。
【参考図】
この2枚換えがある。ただ、かならずしも後手が得してない。
それに、7七角成、6四銀、7六馬、6三銀の進行も考えられた。
「姫野どのは、まちがいなく攻める」
右どなりには、例のポニーテールさんがいた。
「ですね。棋風からして、姫野さんは攻めます」
と眼鏡さん。どうやら、姫野さんは攻め将棋らしい。
パシリ
駒音高く、7七角成が指された。
「うにゅぅ、むずかしいのですぅ」
お花さんはそう言いながら、同飛を選択した。すぐに6五飛が指された。
「姫野お姉様のヤクザみたいな攻めはイヤイヤなのですぅ。6六歩ぅ」
これ、取れないんだよね。取ったら5五角で王手飛車。
姫野さんも分かっているから、6四飛と引いた。
「それでも王手するのですぅ」
お花さんは5五角と打った。3三桂、6四角、同銀、7四歩。
これが銀当たり。どうやら、お花さんが好調のようだ。
「さすがはお花どの、やくざとの斬り合いを制した。みごとなり」
「シーッ、その渾名、口にしちゃダメです」
ふたりがいろいろしゃべっているあいだも、局面は進んだ。
手筋の8六歩、同角から、8八角、6七飛、7五桂。
「強いのですぅ。6九飛ぃ」
「8五歩」
さて、悩ましくなった。一見、斬り合いたくなるけど……。
「6五歩ぅ」
8六歩、6四歩、8七歩成、6三歩成。
「6七歩」
これがある。先手は飛車がかなり窮屈になった。
この手を指したところで、姫野さんは30秒将棋に突入。
お花さんも、残り1分を切っていた。
「7三歩成……は遅いのですぅ。8二飛ぃ」
3二金上(5三とを防いだ手)、5二と。
5二とのところで、お花さんも30秒将棋になった。
「んー、これは姫野先輩が不利か?」
箕辺くんは、心配そうに言った。
「そうだねぇ、金を1枚取られちゃうよぉ」
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ!
同金。まあ、これしかないよね。
同飛成、7八と、4一銀。姫野さんの陣地に火がついた。
3一銀、3二銀成、同銀引、4一金。
絡み付かれている。姫野さんは、なにか攻防の手をひねり出さないといけない。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「6三角ッ!」
ギャラリーから歓声があがった。小学生特有の盛り上がり。
「うにゅにゅ、これは鬼手なのですぅ」
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「同龍ぅ」
4一銀、6一龍、5二銀打、8一龍、6九と、8八龍、8七金。
なるほど、これはうまい構想だった。後手は角損だけど、安全になった。
「8九龍ぅ」
「6八歩成」
「ふえぇ……角損をとりかえされてるのですぅ……」
同金、同と、6六角、3二銀直(冷静)、4五桂、4四歩。
金を補充した姫野さんは、攻め駒を攻め始めた。
同角、4三金(ダイヤモンドもどき左美濃?)、6六角、6七飛。
飛車を打ち下ろした姫野さんは、パシリと軽快にチェスクロを押した。
これはお花さんが苦しい。
「お花の妖精さんパワーをみせるのですぅ。5五角打ですぅ」
4四歩、同角、同金、同角、6四飛成、5五金、7四龍、6五金打。
「むむ、お花どのが、やや盛り返したぞ」
「すこーしですけどね。まだ姫野さんがいいです」
姫野さんは4四龍と切って、同金、4五桂、同金、6七角。
金龍両取り。角がないから、返し技は利かない。
4四桂、4五角成(こっちが手厚い)、5二桂成、同銀。
だんだん形勢がはっきりしてきた。
8七龍、同桂成、4二金、4一金、5二金、同金。
姫野さんは、とにかく金銀を張っていけばいい。
6一飛、4一金、9一飛成、6七馬。
「4六香ぉ……」
お花さんは、しょんぼりと香車を打った。
「4三歩」
姫野さんの無情な歩打ち。
「やることなくなっちゃったのですぅ……」
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「負けましたぁ」
「ありがとうございました」
お互いに一礼して、対局が終わった。姫野さんの勝ち。
お花さんはしばらく体をくねくねさせてから、口をひらいた。
「姫野お姉様は、やっぱり強かったのですぅ。あこがれまぁす」
「角を取ったあとの対応が、悪かったのではありませんか?」
ふたりは、6三角、同龍、4一銀以下を調べ始めた。
「7二龍と、王手で入るのは?」
姫野さんは、7二の地点を指差した。
「それありそうなのですぅ。6一龍は、5二銀打でお手伝いだったのですぅ」
「7二龍、5二銀打、6三角……いえ、違いますわね。6一角もなさそうです」
「その心はぁ?」
「6三角には6一金が面倒です。かと言って、6一角は5一金で催促されます」
後手が崩れそうにないんだよね、これ。
お花さんの攻め駒が足りないんじゃないかな。僕はそんなことを考えていた。
「はーい、どいてどいてどいて」
だれかがムリヤリ割り込んできた。
「姫ちゃん、勝った?」
野次馬の群れから、あゆみ先輩が顔を出した。
「拾わせていただきました」
「結構、結構、決勝までは当たらないけど、次も勝ってちょうだいね」
「……善処いたします」
小学生らしからぬ会話がおこなわれたあとで、あゆみ先輩は僕の顔をみた。
「あら、みんなここにいたのね。なんでわたしの対局観ないの?」
だれも返事をしない。
「駒込の将棋観てもなあ……いてッ」
唯一口をひらいた松平先輩は、またまたポカリとやられた。
「だから殴るなってッ!」
「スーパー歩美ちゃんの将棋を観ないで、だれの将棋を観るのよ?」
あゆみ先輩はめちゃくちゃな因縁をつけて、辻先輩をにらんだ。
「ねえ、つじーん、そう思わない?」
「駒込先輩は強過ぎて一方的だから、観てておもしろくないんですよ」
と辻先輩。この返しはうまかったね。みんな感心していた。
「んー、なるほどね、もうちょっと手加減しようかしら」
「いえ、しなくていいです。優勝を目指しましょう」
辻先輩は、本気なのかどうなのかよく分からないけど、そう答えた。
もうこの時点でベスト4だし、本気だったのかもね。あんまり悪くとりたくないよ。
《準決勝は、10分後に始めまーす。それまで休憩してくださーい》
女のひとのアナウンスが入って、野次馬も解散し始めた。
僕はその場に残って、感想戦の続きを聞いていた。
すると、あゆみ先輩が個人的に話しかけてきた。
「あなた、なかなか熱心なのね、見直したわ」
「あ、はい」
「ところで、あなた、どこ出身なの?」
これには、びっくりした。他人に全然関心がないんだなと思った。
「えっと……駒桜です……」
「うそ? 見かけたことないんだけど」
僕が事情を話すと、あゆみ先輩は一言。
「……そう」
冷たい返事。へんに興味を持たれるよりは、いいけどね。
「で、ようご学校とか言うところには、強い人がいっぱいいるの?」
「いえ……将棋を指してるのは、僕だけだと思います……」
「じゃあ、だれに習ったの? 先生?」
「箕辺くんと葛城くんです」
僕の返事に、あゆみ先輩は目を丸くした。
「え? あのふたりに習って、そんなに強いの? おかしくない?」
これはちょっと、僕も腹が立った。友だちの間接的な悪口だからね。
ムスッとしてみたものの、あゆみ先輩はまったく頓着しなかった。
「あなたね、もっとちゃんとしたひとに習ったほうがいいわ。わたしみたいな」
「駒込のどこがちゃんとしてんだよ……いてッ」
「こいつの話は聞かなくていいわ。あなた、絶対に才能がある」
「はぁ……」
「ようご学校って、どこにあるの? 毎日、教えに行ってあげるわ」
「え……あの……毎日は困るんですけど……」
「どうして? 塾にでも行ってるの?」
「ピアノの練習があって……」
「じゃあ、2日に1回ね。月水金よ。月水金の放課後、その学校に行くわ」
OKかどうかも訊かずに、あゆみ先輩は勝手に予定をメモしていた。
僕は困惑するばかり。箕辺くんに助けを求めようかと思ったら、そばにいなかった。
「それじゃ、わたしの対局で勉強しなさい。あ、そうそう、もうひとつ」
あゆみ先輩は、ぴしりと人差し指を立てた。
「わたしのことは、『師匠』って呼ぶのよ。弟子入りよ。分かった?」
「え……」
「分かった? 分かったら、『はい、師匠』って言いなさい」
「あ、はい……師匠」
気迫に押されて、僕は師匠と呼んでしまった。
……………………
……………………
…………………
………………
と、まあ、へんなお姉さんに捕まった小学生みたいな流れなんだけど、大会が終わったあとで、僕は彼女に連絡先を教えちゃったんだよね。
え? なんでかって? 優勝したんだよ……あゆみ先輩が。
そう、本榧市創立50周年記念こども将棋祭り、小学生の部で。
これには、僕だけじゃなくて、ほとんど全員が驚いていた。ほとんどって言うのは、一部だけ例外のひとたちがいたから。特に、準決勝で他校の男子に負けた姫野さんと、中学生の部で優勝した三和さんは、全然驚いてなかった。
今から思えば、姫野さんがあゆみ先輩をライバル視しているのも、単に付き合いが長いからじゃないんだよね。お互いに実力を認め合っているからさ。
とにかく、あゆみ先輩は、県レベルの大会で優勝した。それがどれくらいインパクトのあることだったのか、当時の僕は計り切れてなかったけど、すごいことだけは分かった。だから、このひとが師匠でもいいかな、と思ったんだ。
「えーと……よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく。ぼこぼこにしてあげるから」
駒桜市の駅前で、いきなり物騒な話になっていた。
ぼんやりと日が沈んで、みんなおうちへ帰っていく。
僕だけは、寮へ。なんだか、さびしい気がした。
「ま、後悔しないようにね、あなたが決めたことだから」
あゆみ先輩の何気ないひとことに、僕はハッとなった。
生まれて始めて、なにかを自分で決めた気がする。半分はその場の勢いでも、箕辺くんや葛城くん、あるいは学校の先生に、なにも言われないでね。
今だって、僕は箕辺くんたちに、先に帰ってもらっていた。ひとりで帰るために。
「はい……僕が決めたことです」
「スーパー歩美ちゃんの目に狂いがなければ、県代表になれるわ。信じなさい」
あゆみ先輩はそう言って、反対側の道へと去った。
真っ赤な彼女の背中を見つめながら、僕は今日一日を、ゆっくりと思い出していた。箕辺くんたちに頼まれて、大会に出たこと。ほかのこどもたち。優しいおじさん。そして、奇妙だけど強い師匠……初めてひとり歩きした、僕の記念日だった。
場所:本榧市創立50周年記念こども将棋祭り 小学生の部 準々決勝
先手:桐野 花
後手:姫野 咲耶
戦型:先手石田流vs後手左美濃
▲7六歩 △8四歩 ▲7八飛 △8五歩 ▲7七飛 △6二銀
▲7五歩 △6四歩 ▲7六飛 △6三銀 ▲9六歩 △9四歩
▲9七角 △3四歩 ▲7七桂 △4二玉 ▲6八銀 △3二銀
▲6六歩 △3一玉 ▲6七銀 △8四飛 ▲4八玉 △1四歩
▲1六歩 △3三角 ▲5六銀 △2四歩 ▲3八銀 △2二玉
▲3九玉 △2三銀 ▲6五歩 △5二金右 ▲5八金左 △4二金寄
▲6四歩 △同 飛 ▲6五銀 △7七角成 ▲同 飛 △6五飛
▲6六歩 △6四飛 ▲5五角 △3三桂 ▲6四角 △同 銀
▲7四歩 △8六歩 ▲同 角 △8八角 ▲6七飛 △7五桂
▲6九飛 △8五歩 ▲6五歩 △8六歩 ▲6四歩 △8七歩成
▲6三歩成 △6七歩 ▲8二飛 △3二金上 ▲5二と △同 金
▲同飛成 △7八と ▲4一銀 △3一銀 ▲3二銀成 △同銀引
▲4一金 △6三角 ▲同 龍 △4一銀 ▲6一龍 △5二銀打
▲8一龍 △6九と ▲8八龍 △8七金 ▲8九龍 △6八歩成
▲同 金 △同 と ▲6六角 △3二銀直 ▲4五桂 △4四歩
▲同 角 △4三金 ▲6六角 △6七飛 ▲5五角打 △4四歩
▲同 角 △同 金 ▲同 角 △6四飛成 ▲5五金 △7四龍
▲6五金打 △4四龍 ▲同 金 △4五桂 ▲同 金 △6七角
▲4四桂 △4五角成 ▲5二桂成 △同 銀 ▲8七龍 △同桂成
▲4二金 △4一金 ▲5二金 △同 金 ▲6一飛 △4一金
▲9一飛成 △6七馬 ▲4六香 △4三歩
まで124手で姫野の勝ち




