6手目 ルアーにかかった王様
「え?」
「あたしと将棋指さない?」
磯前さんは依然として、水面に広がる波紋を見つめていた。
この場の雰囲気を紛らわすため……じゃない。明らかに、挑戦的な口調だった。
「い、磯前の姉ちゃん、なに言って……」
「桂太は、ちょっと黙ってな」
有無を言わさない態度。
私は、激しく混乱した。
「あの……ここで?」
「あんた、目隠しできないの?」
できると、私は答えた。姫野さんの次くらいと言ってしまった手前、できないとは言えないし、実際できるのだ。ただ、指したいかどうかは、別問題。
「なんで、将棋を指すの?」
「暇つぶし」
えぇ……絶対嘘だ。
中国地方への対抗心? それとも、駒桜市に、なにか恨みがあるとか?
姫野さんの名前を出してきたから、ありうるっちゃありうるけど……。
「ちょっとだけなら」
なんだか断りにくかったし、逃げたと思われるも癪だった。
それに、もしかしたら磯前さんは、コミュニケーションが下手なのかも。場をもたせられなくて、将棋に持ち込んだ、ということも考えられた。
「おたがいに、手抜きはなし。30秒将棋で、妙読みは桂太がやりな」
「え? 俺なの?」
磯前さんは、もう一度同じことを指示して、左手を出した。
「じゃんけん」
磯前さんと私は、じゃんけんをした。私がグーで、磯前さんがパー。
「あたしが先手だね……7六歩」
なんだかんだで、釣りガールとの将棋対決が始まってしまった。
私は諦めて、3四歩と突いた。
「2六歩」
おっとっと、戦型を考えてなかった。横歩は拒否よ。
3二金、2五歩、8八角成。ちょっと変則的な、角換わりの出だしになった。
同銀、2二銀、3八銀、3三銀、6八玉、6二銀、2七銀、7四歩、2六銀。
先手棒銀……攻撃的な棋風だ。見かけと同じで、攻め将棋ってことか。
角換わりだから、歩の枚数を間違えないように注意。
「1四歩」
7八金、7三銀、7七銀、8四歩、3六歩、8五歩、6六歩。
この出だし、どうまとめようかしら。
私は、ちらりと磯前さんをみた。将棋に集中してるのか釣りに集中してるのか、どちらともとれる表情だ。糸の先に視線を固定していた。
「6四銀」
私は、早繰り銀を選択する。
ここで、磯前さんは長考。
「20秒、1、2、3、4、5、6、7」
「3五歩」
いやあ……私は椅子のうえで、軽くのけぞった。
開戦が早過ぎる。
「20秒、1、2、3、4、5」
「同歩」
同銀に7五歩。こっちも攻めるしかない。
「こいつは激しくなるね……」
そのときだった。磯前さんの釣り竿が、くいっとしなった。
魚がヒットしたのだ。
「姉ちゃん、中断、中断」
「しなくていいよ」
磯前さんは、桂太に秒読みを続けさせた。
立ち上がって、リールを回し始める。
「20秒、1、2、3、4、5、6」
「同歩」
その拍子に、1匹の魚が釣れた。尖った口を持つ、ぬめぬめした魚だった。
私は魚に詳しくないから、種類が分からない。
「カワハギだね」
と磯前さん。なんだか聞いたことがある。
「20秒、1、2、3、4」
ちょッ! 待ってッ!
「ど、同銀ッ!」
「2四歩」
ポタポタと、魚から水が滴り落ちる。
私はそれを眺めつつ、2四歩の対処法を考えた。
「20秒、1、2、3」
「7六歩」
磯前さんは、魚の針を外しながら、へぇと言った。
「なかなかやるね……8八銀」
2四歩、同銀、同銀。磯前さんは、ふたたびキャスティング。
私は、将棋に集中した。雑念を払う。
「さて、どうしたもんか……4六角かな」
磯前さんは、いやらしい位置に角を据えた。飛車銀両取りだ。
2四の銀を、飛車じゃなくて角で取るつもりか。
「……6四歩」
これしかない。
2四角(王手)、5二玉、3三歩。
厳しい歩が飛んできた。同金はそのまま角を切られる。同桂は3四歩だろう。
「20秒、1、2、3、4」
「2七歩」
ここは、手筋を使う。
私が悩んでいるあいだにも、磯前さんはもう1匹、違う魚を釣り上げていた。
鱗の目立つ、ちょっと赤っぽい、ザ・魚という感じの個体。
魚種が気になる。けど、将棋に集中。
磯前さんは、魚をクーラーボックスに放り込みながら、同飛。
私は4五角と打った。
これで飛車先を止める。
磯前さんは、おやっという顔で、キャスティングの手をとめた。
「それは……見落としかな。2五飛」
ん? 見落とし? 私が? 磯前さんが?
私は、脳内将棋盤をフル稼働させる。
……………………
……………………
…………………
………………
げッ! 角銀両取りになってるッ!
「20秒、1、2、3、4、5、6、7、8、9」
「さ、3三桂ッ!」
これが飛車当たり、かつ、角の守りになっている。
ヒュッと、キャスティングの音がした。
「3三角成」
ぐぅ、切ってきた。
私は悶えながら、同金……いや、7八角成が先だ。
「7八角成ッ!」
同玉、3三金、7五飛。銀を拾われた。
曲線的な手を放たないと。
「20秒、1、2、3、4、5」
「8四角」
これで暴れましょう。まだ、なんとかなる局面。先手は薄い。
2五飛、6六角、2二飛成、3二歩。
「おっと、またヒット」
磯前さんは、リールを回しながら、6八銀と打った。
こういう冷静な手が、一番困るのよね。でも、ちょっと余裕ができた。
「20秒、1、2、3」
「8六歩」
飛車先を突破。
同歩、8七歩、同銀、9九角成。
なんとかすがりつく。
「んー、結構やるね……1一龍」
私は、6五香と打った。
6七歩、7七銀、同桂、同歩成、同銀、7五桂。
桂打ちを宣言する声に、私は力を込めた。手応えあり。これは詰めろで、6七桂成、7九玉、6八金、同銀、同成桂まで。
このタイミングで、磯前さんのロッドがしなった。
ところが、磯前さんは微動だにしない。じっと虚空を見つめている。
心、釣り糸にあらず。はっきりと、将棋に集中していた。
「20秒、1、2、3、4、5、6、7、8、9」
「6三銀」
え? 銀打ち? ……同玉、6一龍よね? でも、6二金で弾けるわ。
「同玉」
「6一龍」
「6二金」
この一手に対して、磯前さんはギリギリ29秒まで考えた。
「5五桂」
詰めろを受けない? なんで? 私のほうが詰んでるってこと?
5四玉で詰まないような……6三角? 同金、同龍、4四玉……これはダメだ。6四龍が王手桂馬取りになって、詰めろが消えてしまう。4五玉、4六銀……うッ、もしかして全部詰めろが消えるパターン?
「20秒、1、2、3、4、5、6、7、8、9」
「7三玉ッ!」
私は反対側に逃げた。
磯前さんのロッドは、強くしなって、それから音沙汰がなくなった。
得物は、逃げてしまったらしい。
「20秒、1、2、3、4、5」
「7四歩」
……これも取れない。6三角から詰みそう。
「は、8三玉」
8四銀、同玉、8五金、8三玉、8四香。
「あッ……」
私は、詰むほうへ逃げてしまったことに気づいた。
「20秒、1、2、3、4、5、6、7、8、9」
「9二玉」
私は天を仰ぐ。青空に、白い雲が流れていた。
「8二香成」
「同玉」
「6二龍」
「……負けました」
私は、頭を下げた。
「ありがとうございました」
磯前さんは、ふぅと深呼吸して、帽子を脱いだ。額の汗をぬぐう。
「なかなか、白熱した戦いだったね」
いやあ……最後がお粗末。
「5四玉に逃げたほうが、よかった?」
磯前さんは、ロッドを握りしめたまま、
「読み切れてないけど、それって詰むんじゃない?」
と答えた。私は信じられなくて、詰み順を尋ねた。
「一見、6三角と打ちたくなるけど、4五銀から入って、同玉に5六角と打つんだ。5五玉は4五金一発で詰むから、3五玉と逃げて、3六歩、2五玉、2一龍」
……あ、そっか、龍を回れるのか。
「2三歩と受けたら、2六歩、同玉、2八香。これに3六玉は、3七歩、3五玉、4五金まで。2七銀と受けるしかないけど、3七金、1五玉、1六歩、2四玉、2七香と銀を入手して、1三玉、1一龍、2二銀まで。2七香に2五銀と合い駒しても、同香、同玉、2六歩、2四玉、2五銀、1三玉、1一龍、2二銀……足りてるね」
私は、盤面を頭のなかで追った。
「待って。2六歩に3六玉だと、詰まなくない?」
磯前さんは「あぁ」と言って、
「たしかに、そっちは詰まないね。やっぱ30秒だと読み切れないな。2六歩に代えて、2八香のほうかな。そこで3六玉は、3七金、3五玉、4六金、4四玉、4五金まで。2六銀と合い駒するのは、3五金、1五玉、1六歩で早く詰む」
と訂正した。
「じゃあ、2三歩合のところで、2三銀合は?」
「それは簡単に詰むよ。同龍、同金、3五金、2六玉、3七銀、2七玉、2八香で、4九に金がいるから入れないんだ」
うーん……信じられないけど、ほんとに詰んでいるようだ。
私の詰みセンサーには、かすってもいなかった。
この様子だと、実力差があるみたい。姫野さんのときと、同じパターン。
「中盤の分かれで、若干こっちが……お」
ロッドが、ぐいっと引っ張られた。
さっきまでの勢いとは、全然違う。
磯前さんは、当たりと格闘し始めた。
「タモだ! タモ持ってこい!」
桂太は、虫取り網みたいなものを、海中に差し込んだ。
リールを回すと、水中から、すごくおっきな魚が現れた。鯛だ。
「よっしゃッ!」
磯前さんは、うまく網に誘導して、魚をゲットした。
桂太が引き上げると、鯛は網のなかでピチピチと跳ねた。
「いやあ、内湾でこんなデカイのが釣れるとはなあ」
磯前さん、ご満悦。
険のある表情は、消え去っていた。
「記念写真撮ろう、記念写真」
磯前さんは、わざわざ自撮り棒を持ち出して、スマホをセットした。
「3人で写ろう」
なぜか私と桂太も参加して、3人+鯛でパシャリ。
大きさを測ったら、50センチオーバーだった。びっくり。
「あとで魚拓とるぞお」
磯前さんはニヤニヤしながら、魚をクーラーボックスに収めた。
ほんと機嫌がよくなったみたい。どうしてかしら。
将棋効果? さっきまで、私のなにかを怪しんでいたような気がする。
結局、その日の午後は、磯前さんの釣りを観賞したり、近場の浜辺で遊んだり、いろいろと満喫することができた。一時はどうなるかと思ったけど、ひと安心。
西の空が黄色くなってきたところで、私たちは解散した。後部座席に道具を結び付ける磯前さんのよこで、私たちは自転車の準備をする。家族連れのキャンピングカーも、どんどん駐車場を離れて行った。
「今日は、楽しかったな」
磯前さんはヘルメットを手に、そう言った。私も同意する。
「磯前さん、そんなに釣りが好きなら、H島へ遊びに来なさいよ」
私は釣りをしないけど、おじいちゃんの友だちには、何人も釣りキチがいる。
船をチャーターして、瀬戸内海で遊ぶのだ。
「そうだな。いつかは、西日本の海を巡ってみたい。ただ……」
「ただ?」
「あんたが将棋を指し続けていれば、来年、H島で会えるさ」
え? ……どういうこと?
私が尋ね返すまえに、磯前さんはヘルメットを被ってしまった。
エンジンをかけて、手を振る。車道へと走り去った。
私は呆然としつつ、ずっと手を振り返していた。
「ずいぶん、変わったひとね」
「ん……まあね。そろそろ帰らないと、母ちゃんが心配してるかも」
私たちも自転車を漕いで、横浪半島をあとにする。
くだりの坂道を快走しながら、私は太平洋の香りを、胸いっぱいに吸い込んだ。
場所:横浪半島の防波堤
先手:磯前 好江
後手:裏見 香子
戦型:角換わり
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △3二金 ▲2五歩 △8八角成
▲同 銀 △2二銀 ▲3八銀 △3三銀 ▲6八玉 △6二銀
▲2七銀 △7四歩 ▲2六銀 △1四歩 ▲7八金 △7三銀
▲7七銀 △8四歩 ▲3六歩 △8五歩 ▲6六歩 △6四銀
▲3五歩 △同 歩 ▲同 銀 △7五歩 ▲同 歩 △同 銀
▲2四歩 △7六歩 ▲8八銀 △2四歩 ▲同 銀 △同 銀
▲4六角 △6四歩 ▲2四角 △5二玉 ▲3三歩 △2七歩
▲同 飛 △4五角 ▲2五飛 △3三桂 ▲同角成 △7八角成
▲同 玉 △3三金 ▲7五飛 △8四角 ▲2五飛 △6六角
▲2二飛成 △3二歩 ▲6八銀 △8六歩 ▲同 歩 △8七歩
▲同 銀 △9九角成 ▲1一龍 △6五香 ▲6七歩 △7七銀
▲同 桂 △同歩成 ▲同 銀 △7五桂 ▲6三銀 △同 玉
▲6一龍 △6二金 ▲5五桂 △7三玉 ▲7四歩 △8三玉
▲8四銀 △同 玉 ▲8五金 △8三玉 ▲8四香 △9二玉
▲8二香成 △同 玉 ▲6二龍
まで87手で磯前さんの勝ち