65手目 ピアノ、将棋、そして友だち
アハッ、というわけで、一日デートだよ。
大会の翌日に誘ったのは、性急だったかな……でも、しょうがないよね。鉄は熱いうちに打てって言うし、ここが勝負所。もうすぐ団体戦が始まったら、土日でも遊べなくなるから。
それにしても、飛瀬さんとふたりきりは、やっぱり緊張。お店は、ちょっと洒落た喫茶店にしてみたんだけど……飛瀬さんなら、こういうシックな感じのほうがいいよね? 箕辺くんに相談すればよかったかな。
僕はそんなことを考えつつ、適当な話題を練った。名人戦は明日だから……。
「捨神くんって、ピアノも弾けるんだよね……?」
先に、飛瀬さんが口を開いた。
ちょっと意外。いつも、僕のほうから話しかけるんだけど。
「うん、そうだよ」
「ネットで検索したら、大量に写真が出てきた……」
「アハハ、恥ずかしいな」
コンクールの写真だね。この時代、プライバシーもなにもあったもんじゃないや。
「それで、ひとつ気になったんだけど……」
「寝癖がついてたかな?」
「捨神くんって、兄弟がいるの……?」
……………………
……………………
…………………
………………
ああ、マズいね、この話題は。
「どうしてそう思ったの?」
「捨神一っていう、そっくりなひとがいたから……」
「アハハ……ハァ……見ちゃったんだね?」
「国家機密だった……?」
「僕みたいな高校生じゃ、国家機密にならないよ」
とりあえず苦笑いで誤摩化し……は効かないよね。
飛瀬さんは、じっと僕を見つめてきた。
「……あれは、僕だよ」
「名前がふたつあるの……? ペンネーム……?」
「改名したんだよ。小中学生の頃しかなかったでしょ、その名前」
「地球人って、改名するの……?」
「んー、話すと長くなるかな……」
どうしようかな……どうせ隠しても、しょうがないことなんだけどね。
市内の昔なじみは、みんな知ってることだし。
僕は飛瀬さんのことを愛してる。隠し事はよくないと思う。
「ちょっと長くなるけど、僕の話、聞いてもらえるかな?」
「うん……捨神くんの話なら……」
そうは言ったものの、なかなか決心がつかない。勇気を振り絞る。
「あれはね、10年まえのことなんだけど……」
○
。
.
当時、僕は7歳。普通なら、近所の小学校に入学する時期だった。
でも、僕は養護学校……正確に言うと、病弱特別支援学校っていうところに通っていたんだ。虚弱体質ってことでね。実際、僕は先天性白皮症。肌とか髪とかが真っ白なのは、そのせいだよ。
ただ、それはあくまでも建前だったんだ。本当の理由は、僕が、H県の有力者の庶子だったからなんだよ……あ、庶子って言うのはね、愛人の子だよ。僕の母さんは、その男の愛人で、僕を生んでしまった。だから、養護学校に厄介払いされたってわけ。その男の名前は、ここでは言わないよ。口にするのも汚らわしいからね。捨神って姓じゃないことだけは、付け加えておこうか。捨神は、僕の母さんの姓。
でね、そういうことは子供でも分かるんだよ……なんとなく……父親の顔は一度も見たことがなかったし、母さんもたまにしか会いに来ない。おかしいよね。周りの子は、たくさん家族がいるのに。だから、僕は自分だけなんだか違うって、薄々気づいていた。そして、周りも気づくんだ。捨神一は(そう、これが僕の当時の名前だよ)、なんだか変だって。
彼らは僕を避ける。だから、僕も彼らを避ける。半年も経たないうちに、僕は養護学校のなかで孤立することになった。虐められてたかって? ……ノーコメントかな。
こうなると、遊びの場でも僕はひとりぼっちになった。遊具やおもちゃも、僕だけ一緒に遊べない。だけど、そんななかで、だれも手をつけないものがひとつあった。
飛瀬さん、なんだと思う? ……将棋盤? アハハ、ごめん、違うよ。僕はまだ、将棋を全然知らなかったからね。
ピアノなんだ。もちろん、グランドピアノみたいな、大きなものじゃないよ。アメリカの『ピーナッツ』っていう漫画で、シュローダーくんが弾いてるような小さなピアノ。教室の片隅に、それだけが残っていた。だから僕は、みんなが外で遊んでいるあいだ、その鍵盤を叩いていたんだ。楽譜なんて読めないからね。全部、音楽の時間の耳コピだよ。これが難しくてね。鍵盤の数が違うからムリなんだけど、頑張っていろいろ真似してみた。半年くらい経ったら、校歌なんかもきちんと弾けるようになった。
そして、あの夏休みがきたんだ。2年生の夏休み。みんな実家に帰るなか、寮で暮らしていた僕は、学校に残った。変な話だよね。実家が市内にあるのに。まあ、帰りたいとも思わなかったけどさ。それで、校舎はクーラーが切られてるものだから、ピアノを校庭の木陰に持ち出して、そこで練習してたんだ。きらきらと、木漏れ日が鍵盤のうえに舞って、僕はお気に入りの曲を順番に演奏した。
ベートーヴェンのソナチネ(もちろん、当時は曲名なんか知らなかったけど)を弾き終えたところで、急に拍手が起こった。
びっくりして振り向くと、つんつん頭の少年が立っていた。
「おまえ、すごいな」
少年は、開口一番、そんなことを言った。
「……きみ、だれ?」
「俺は、箕辺っていうんだ。辰吉でいいぞ」
いいぞ、って言われてもね。僕は警戒して距離を取った。
「ここで、なにしてるの? うちの学校の生徒?」
辰吉くんは、申し訳なさそうに頭を掻いた。
「友だちに会いに来たのに、寮にだれもいないんだ」
辰吉くんは、その友だちの名前を告げた。
「ああ……彼なら、おうちに帰ったよ」
「やっぱそうか……」
辰吉くんは、がっくりと肩を落とした。
「で、それだけ?」
「ん? まあ、それだけ……あ、おまえの名前は?」
「なんできみに名前を教えないといけないの?」
僕に拒否されたのが意外だったのか、辰吉くんはかなり戸惑っていた。
「ご、ごめんな、邪魔して」
「邪魔してると思うなら、早くあっちへ行ってね」
辰吉くんは、すぐにその場を去った。途中で、一度だけ僕のほうを振り返った。
僕は無視して、またピアノを弾き始めた……とまあ、これが箕辺くんとの初めての出会いなわけさ。将棋もなにも関係なかったんだよ、ほんとに。
それで、次の日も、僕は同じ場所でピアノを弾いていた。2、3時間弾いたところで、お昼になった。僕は寮で食事を済ませて、またピアノのところへ戻ったんだ。でも、眠くなっちゃったから、木の下でうつらうつらしてた。
浅い夢を見始めた頃に、いきなり声をかけられた。
「おーい」
昨日の少年の声だった。
僕がまぶたを上げると、確かに辰吉くん。隣に女の子がいた。
「やっぱりいたな」
「また来たの? 彼ならまだ帰って来てないよ」
「今日は、おまえに会いに来たんだ……と、こっちはふたばな」
辰吉くんは、連れの女の子を紹介した。
「こんにちはぁ、ボクは葛城ふたばだよぉ」
一人称がボクだなんて、変わってるな、と思った。
だって、ほんとに女の子だと思ってたからね、そのあともしばらく。
「で、なにしに来たの?」
「ふたばに、ピアノを聞かせてやってくれ」
僕は、ハァ?と思ったね。なんなんだろうって。
「イヤだよ」
「え……なんでだ?」
「なんでいいと思うの? 友だちでもないのに」
「今から友だちになればいいだろう?」
僕はびっくりしたよ。だって、そんなことを言ってくれた子は、今までにいなかったから。なんというか……うれしいのとは、ちょっと違った……面食らうとか、そういうほうがぴったりかもしれない。
「……一回だけだよ」
箕辺くんは、ふたばちゃんと嬉しそうに、そばの芝生に座った。
僕はなにを弾こうか迷ったけど、さっき練習している曲に決めた。
目を閉じて、なるべく気が散らないようにする……つもりだったんだけど、さすがにムリがあった。だって、生まれて初めて観客がいるんだもの。手が震えるようなことはなかったけど、どこかぎこちなくなってしまった。
とりあえず弾き終えると、箕辺くんとふたばちゃんは拍手してくれた。
「ふえぇ……すごい……」
「だろ? 天才ってやつだぞ、きっと」
お世辞は、あんまりうれしくなかった。
自分ではうまく弾けなかったことが分かってるからね。
「じゃ、弾いたから、あっち行ってよ」
「となりで遊んでてもいいか?」
「……ダメ」
僕はふたりを遠ざけて、練習を続けた。
ふたりはちょっと離れたところへ移動して、なにやらワイワイやっていた。
おままごとかな、とも思った。
「おーい!」
また呼ばれた。僕は、イラッとした。せっかく乗ってきたところだったのに。
「うるさいよ」
「おやつ食べないか?」
はじめは断ったけど、あんまりしつこいんで、僕はピアノを離れた。
練習にならないからね。箕辺くんは、駄菓子を僕にくれた。
初めて食べたけど、変わった味だと思った。
でも、それよりも変わったものが、僕の目のまえにあった。
「……それ、なに?」
木の板のうえに、よく分からない形のものがいっぱい転がっていた。
「これか? これはな、将棋って言うんだ」
「しょうぎ? ……積木かな?」
「んー、なんていうんだろうな……」
「ボードゲームっていうんだよぉ」
僕は、ボードゲーム自体知らなかったから、よく分からなかった。
「で、なにをどうするの? 眺めてるだけ?」
「これは詰め将棋って言うパズルなんだ」
箕辺くんは、僕にルールを説明してくれた。
どうやら、【王将】という難しい漢字が書かれた駒を動けなくすればいいらしい。
「そっちとこっちで、順番に動かすんだね」
「そうだ。王様は、前後左右ななめ、1コだけ動ける」
「こっちの駒は?」
「これは、びゅーっと前後左右に動ける」
「こっちは?」
僕は、だいたいの駒の動きを覚えた。
「……」
「むずかしいだろ?」
「学校でやる算数より難しいよぉ」
「……分かったかな」
ふたりは一瞬、なにを言われたのか理解できないみたいだった。
「なにが分かったんだ?」
「答えが」
箕辺くんは、信じられないと言った雰囲気。
「ほんとぉ?」
ふたばちゃんも、疑っているようだった。
「こうしてこうじゃない?」
僕は、ぎこちなく駒を動かした。
「どう?」
「……合ってる気がする」
箕辺くんは、芝生のうえに放ったらかされていた本を拾って、ページをめくった。
「……合ってる」
「だよね」
箕辺くんは、僕の肩をいきなりつかんだ。今度は僕がびっくりした。
「おまえ、すごいな! 将棋の才能もあるぞ!」
「……べつにあってもしょうがないかな」
「ピアノだけより、ピアノと将棋のほうがいいだろ!」
よく分からない理屈で、箕辺くんは僕の肩をバシバシ叩いた。
「よーし、じゃあ、次の問題な」
「僕はもどるよ」
僕が立ち上がると、箕辺くんはすそを引っ張った。
「もうひとつくらい、いいだろ? な?」
「……もうひとつだけね」
これが、僕と将棋との、初めての出会いだった。




