646手目 日曜日の校舎
※ここからは、捨神くん視点です。
決勝当日、僕は市立高校の校庭を歩いていた。
秋だけど、まだ暑い。日傘をさす。
グラウンドの真ん中あたりで、うしろから声をかけられた。
箕辺くんだった。少し遠いところから、駆け足だった。
「おーい、捨神、おはよう」
僕はふりかえって、おはよう、と返した。
箕辺くんは追いつくと、
「市立まで来てもらって、悪いな」
と言った。
「いいよ、公民館だって、移動しないわけじゃないし」
今回は異例で、決勝を学校でおこなうことになっていた。
事前に説明はあったし、理由も知っていた。公民館の利用が他の団体とバッティングしていて、僕たちのほうがゆずったことと、決勝だけ公民館でやるのは、非効率なんじゃないか、ってこと。使用料がかかる。
だけど、春日川さんの件が、本当は背景にあると思う。
僕は箕辺くんと歩きながら、少しばかり日常生活の話をした。
市立は、天堂とは違って、マジメだよね。
タバコのポイ捨てとかされてないし。
とりあえず、正面玄関から入って、奥へ進んだ。
休みの日の、独特な雰囲気。
ちょっと薄暗くて、静かで、それでいて遠くから、音が聞こえてくる。
案内されたのは、1階にある教室だった。
中へ入ると、すでにテーブルは動かしてあった。
中央に2つ、対局用の席が組まれていた。
「とりあえず、休んどいてくれ」
僕は、手近な椅子を引いて、そこに座った。
窓から、明るい校庭が見える。
明暗のコントラストで、なんだか絵画みたいだった。
「……」
足音が聞こえた。それから声も。
古谷くんと新巻くんかな。
しゃべってるのは、新巻くんのほうらしかった。
ドアがひらいて、最初にこちらへあいさつしたのも、新巻くんだった。
「あ、おはようございまーす」
「おはよう」
古谷くんは、新巻くんのうしろから顔を出して、軽く会釈をした。
「おはようございます」
「おはよう」
ふたりは、僕から離れたところへ座った。
5分ほど間があいて、それからどんどん人が入ってきた。
思ったより多かったみたいで、箕辺くんは教室の模様替えを始めた。
僕は、
「手伝おうか?」
と訊いた。
「いや、対局者は座っててくれ。観戦者のひと、ご協力お願いします」
不破さんも到着した。
ポケットに手をつっこんで、飴のスティックをくわえていた。
「師匠、おはさーす」
「おはよ」
あと1分──10時だ。定刻になった。
ところが、春日川さんが来ていなかった。
箕辺くんは、葛城くんに、
「遅れるって連絡、あったか?」
と尋ねた。
「ないよぉ。まだ3分しか経ってないし、待ってていいんじゃなぁい?」
だね。きっちり始める必要もない。
……………………
……………………
…………………
………………あ、来たっぽい。
林家さんを先頭に、いつものメンバーで入って来た。
「へいへい、お待たせしやした。バスが遅れたでがす」
箕辺くんは、
「対局者のかたは、着席をお願いします」
と指示した。
僕と古谷くんは、机のひとつに座った。
駒箱を開ける。
王様から順番に並べた。
「振り駒をお願いします」
ゆずりあって、僕が振ることに。
「……歩が5枚、僕の先手」
古谷くんは、チェスクロを彼の右側に置いた。
春日川さんの準備が、終わるのを待つ。
テープを貼る音と、校庭の運動部の掛け声だけが聞こえた。
「準備はよろしいでしょうか?」
こほんと、外野から咳払いが聞こえた。
「それでは、始めてください」
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
古谷くんはチェスクロを押した。
僕はすぐに7六歩。
3四歩、6八飛、4四歩。
【先手:捨神九十九(天堂) 後手:古谷兎丸(清心)】
……そう来たか。
外野が、すこしだけざわついた。
会話じゃなくて、雰囲気が。
僕はペットボトルを開けて、水をひとくち飲んだ。
そして、ちらりと古谷くんを見た。
古谷くんは、冷静な、だけどどこか妙に気合いの入った表情だった。
この手は……研究だね。
角交換拒否……あるいは、相振り?
この可能性はあった。意表を突くなら、相振りだ。
「……4六歩」
周囲が、またざわついた。
今度は、雰囲気だけじゃなく、ひそひそ話も聞こえた。
古谷くんの背筋が伸びた。
これはさすがに、予定してなかったんじゃないかな。
僕も予定してなかったけど。
挑発には挑発で返す。
古谷くんは30秒ほど考えて、8四歩と突いた。
4八飛、3二金、7八銀、6二銀、6八玉。
このかたち、不破さんならどう思うかな。
ちょっとインスピレーションをもらっている。
彼女が一時期よく指していた、左穴熊。
もちろん、これは穴熊にはならない。
でも、振り飛車から左へ組むことは、できるんだよ。
この対抗策を1分以内に出せたのは、自分でも奇跡だ。
古谷くんは、ちょくちょく時間を使った。
5四歩、3八銀、8五歩、3六歩、5三銀。
出て来た。
どうやら、方針を決めたらしい。
ただ、構想が完全には読めない。
この銀の使い方は、いろいろありそうだ。
3七桂、8六歩、同歩、同飛、8七歩、8二飛、5八金右。
古谷くん、どうする?
先手は自然になってきた。
「6四銀」
単騎だね。了解。
僕は6六歩で牽制した。
4二銀のあと、小考。
6四銀は、先手の角筋を妨害するため。
7九玉だと、8八の角がうまく使えない。
「6五歩」
突き捨てて開ける。
これは古谷くんも予想していたっぽい。ノータイムで同銀。
6七金、4一玉。
ここで僕は迷った。
6五歩は、7九玉の準備だった。
でも、手順的に悠長かもしれない。
7九玉、3一玉、4五歩には、同歩と取れる。
(※図は捨神くんの脳内イメージです。)
2二角成に同玉だ。
だけど、この瞬間に4五歩なら、同歩、2二角成、同金で、壁金になる。
つまり、4五同歩とは、取れないんじゃないかな。
だとすると──いや、違う。
4五歩、3一玉、4四歩のあと、4三歩と合わせる手が生じる。
同歩成は、角を素抜かれる。
つまり、4五歩と取れなくても、特にデメリットはないわけだ。
「……4五歩」
3一玉に、7九玉と下がる。
4五歩、2二角成、同玉、7七桂。
古谷くんは、7四銀と撤退した。
思ったより……良くならない。
後手は、入城できたのが大きい。
とりあえず4五飛。
歩を回収。
6四歩、3五歩で、追加の攻めに出た。
同歩、3四歩、4三歩。
「6六角」
積極策。
古谷くんは、なるほど、という感じで、水筒からなにかを飲んだ。
香りからして、お茶、かな。
局面の緊迫感に、あまり似つかわしくない香りだった。
僕のほうは、もう方針を決めてある。
このまま2五桂と跳ねて、1三桂成と捨てる。
ただ、そのあとが続くかどうか。
古谷くんは、腕組みをして、左斜め下に視線を固定した。
いつもの優等生、という感じはなかった。
おそらく、同じ順を深く読んでいると思う。
「……1二玉」
僕は2五桂と跳ねた。
古谷くんは2四歩で、1三桂成を逆に催促してきた。
1三桂成、同桂。
「3三角成ッ!」
これで繋げる。駒損にはならない。
同銀、同歩成、同金、3四歩。
これを同金とできないから、2枚換え。
古谷くんは、2二玉と、王様で受けに回った。
3三歩成、同玉、5三銀。
後手は崩壊寸前──だけど、まだ足りない。
歩がもう一枚あれば、先手勝勢。その歩がなかった。
古谷くんからは、まだ余裕が感じられる。
5一金で、僕の切れ筋を狙ってきた。
「6四銀成」
ここからは、お互いに細かく時間を使った。
5二金、5四成銀、4二桂──続かないか。
僕は5五成銀で、撤退した。
古谷くんは5四歩、3四歩、同玉、5六成銀、4四歩。
飛車にプレッシャーをかけてくる。
4九飛。
古谷くんは、ここで手が止まった。
攻め……の予感がする。
受け切られた、という感覚はない。
まだ互角……互角の時点で、ダメなのかな?
そうは思わない。
互角は互角。
これも、日日杯で学んだこと。
僕は、古谷くんの次の手を待った。




