645手目 ほんとうに最高
萩尾さんは、パソコンにUSBメモリを指すと、よろしく、と挨拶した。
「ボクが選んだのは、これです」
【先手:萩尾萌(Y口県) 後手:大谷雛(T島県)】
「コンセプトはずばり、『勝者と敗者、両方のコメントが読める』だよ。どう?」
た、たしかに、大谷先輩もこれを選びそう、っていうか絶対に選ぶから、両視点になる。
けど、そこまで配慮してもらわなくても、いいような。
一方、犬井くんは、
「さすがは萩尾さん、プレゼン慣れしてるね」
と、よいしょした。
萩尾さんは、
「おだてても木には登らないよ、というのはまあ冗談で、決勝を選ばない理由がないからね。じゃあ、始める。角換わりの出だしから、大谷先輩の速攻で開幕」
と進めた。
【22手目】
「半分くらいは予想の展開。後手番で速攻を仕掛けるひとは、大会でも多かったし、角換わりで後手は、勝ちにくいから。ボクとしては、6五歩の早仕掛けだと思っていたら、それを上回る速度の桂跳ねだった」
私はメモを取りつつ、
「映像で、ちょっと笑ってるシーンが映ってました。面白いと思いましたか?」
とたずねた。
「熱くなったな、とは思った。こっちも引く気はないから、殴り合いになったよね」
【33手目】
私は、
「大谷さんも7三角で、いったん収まるかと思いきや、今度は端攻めをしてきました。これは予想してましたか?」
とたずねた。
「予想っていうか、端攻めはこっちから誘ってる」
「あ、そうなんですか? じゃあ、9六歩が挑発?」
「そうだね、9六歩で挑発して、攻め過ぎを誘った」
「結果的に、どうでした?」
「この作戦自体は、後悔してない。変えるなら、7九玉、6二角、5九金だけど、そこで9五歩と伸ばす手があって、面白くないと思った」
【参考図】
メモメモ。
「ありがとうございます。続きをどうぞ」
「端を交換したあと、後手は手に詰まった。これは期待した通り。で、今度は1筋から攻めてきた」
【54手目】
あらためて思うけど、大谷先輩、攻めまくりだね。
あっちがダメならこっち、みたいなノリで攻めてる。
私は、
「大谷さんが攻め将棋な理由は、なんだと思います?」
と好奇心を出した。
萩尾さんは、
「それは、大谷先輩に訊くほうがよくない?」
と答えた。
「対局相手の見解も、訊いておきたいかな、と」
「6五歩の時点で相当アグレッシブだから、全体的な整合性じゃない?」
毒食わば皿まで、みたいな?
萩尾さんは、1筋の攻防も解説した。
最終的に、後手の攻めは止まった。
「というわけで、ここから反撃タイム。9六歩」
【71手目】
私は、
「解説では、9六歩で後手の攻めも復活した、という意見でしたね」
と伝えた。
「だれだっけ? ……あ、お面のお兄さん?」
「はい、それと早乙女さんです」
「その指摘は、ギャラリー視点では正しいよ。ボク視点では、争点を作らせる意図で突いたわけじゃないけどね」
ここでも、主観と客観の問題か。
なんて考えてると、いきなり毛利先輩が、
「そういえば、あの将棋仮面の正体は、だれだったのだ?」
と訊いてきた。私に。
「え……いえ、知らないです」
「知らないということは、ないだろう。関東の高校生か? あれだけ強いと、東京の氷室かとも思ったが、氷室はああいうタイプではないな。身長も氷室より高かった」
ヒムロってだれやねん。
「いえ、ほんとに知らなくて……」
私が困っていると、萩尾さんは、
「まあまあ、こういうのはオトナの世界なんで」
と、助け船を出してくれた。
でもなあ、ほんとに知らないんだよね。
私が教えて欲しいくらい。
運動神経がかなりいいから、アスリートかな、と思ったこともある。
けど、将棋が強いという謎属性。
あと、わりとスタイルいいよね。履いてる靴も、有名ブランドだった。
萩尾さんは、解説に戻った。
「パーッと反撃していって、難しくなったのが82手目」
【82手目】
「方針はふたつ。ひとつは、押し込んだことに満足して、4六角。本譜はこっち。もうひとつは、7三角成で、さらに押す」
私は、後者にしなかった理由を訊いた。
「7三角成、同角、同銀成、9六歩、8三角、8一飛、9二角成、6一飛、8三馬、8一飛、9二馬の千日手模様を嫌った」
【参考図】
ええ?
萩尾さんの解説じゃなかったら、うっそだぁ、って言いそう。
「それ、千日手になります?」
「なる可能性は高い」
うーん、これだけ駒が当たってて、なるのかなあ。
あとで犬井くんと確認しよう。
萩尾さんは、4六角以下、後手が固めていく順を説明したあと、頭のバンダナをなおした。
「とはいえ、けっきょく千日手模様になっちゃったのが、ね」
【95手目】
んー、分岐のいたずら。
本譜は、このかたちの千日手模様になった。
そして、ついに本局の重要ポイント。
「萩尾さんは1七香で、千日手回避をしましたよね?」
【101手目】
私の質問に、萩尾さんは、
「千日手回避は、大谷先輩のほうだね」
と返した。
あれ、そうだっけ? メモと違う。
「でも、香車を渡すことで、回避したんじゃないですか?」
「言い方の問題かもしれないけど、回避したのは大谷先輩。ボクの1七香は、回避しませんか、というお誘い」
ほ、ほんとに言い方の問題では?
納得しない私の横で、犬井くんは、
「客観的にみると、千日手回避は生じたわけだよね。対局中はどう思った?」
と、視点を切り替えた。
「大谷先輩のミスだな、と思った」
強い発言。
でも、棋理だけでいえば、事実なんだよね、これ。
AIの評価値は、打開後に先手へ振れている。
つまり、後手は打開しちゃダメで、千日手を続けないといけなかった。
犬井くんも、そこはわかってるから、
「大盤も、130手あたりからは、そういう意見だった」
と言って、引っ込んだ。
萩尾さんは、
「このあとは先手が良くなりました……が、ボクに致命的なミスが出ました。1二飛成です」
と、やや嘆息気味に言った。
【156手目】
「正解は1五角でした。これについては、ふたつ弁明があります。ひとつは、1五角のあと、2三玉、2二金、同玉、3三銀、2三玉、2四銀成、2二玉、2三香、3一玉で、受けないといけないことです」
【参考図】
これは、どういう……あ、先手が詰んじゃうのか。
萩尾さんは、もうひとつの理由も説明した。
「ここまでの大谷先輩の辛抱が、卓越していました。思ったより優勢にならないので、もっと前でボクが間違えたんじゃないか、という気になったんです。というわけで、この時点では、ポジティブな指し方ができませんでしたね」
評価値も、ずーっと横ばい。
萩尾さんが先に暴発しちゃった、という流れか。
大谷先輩のメンタル勝ちなのかなあ。
あんまりこの言葉、使いたくないんだけど。
萩尾さんは、
「以降は、相入玉になりました。ボクも粘ったとは思うんですが……AIは、そう判断してますよね……先に入玉した後手に分があったかな、と思います」
と入玉模様のあたりは、だいぶスキップした。
手数が長いし、細かく解説するのも大変だから、これはしょうがない。
犬井くんは、
「総括のまえに、最後の収束だけ解説してもらえると、うれしい」
と頼んだ。
【226手目】
萩尾さんは、この局面まで一気に飛ばした。
そしてしばらく、スクリーンの盤を見つめた。
「今見ても、美しいな……この場のメンバーなら知ってると思いますが、1五同龍なら後手の入玉が確定して、先手の僕は入玉できない。7四金と上部開拓したら、1六歩で龍が捕獲されて、点数が足りない。終わりです」
【230手目】
ここで松蔭先輩は、ちょっと控え気味に、
「俺なんかが言うのもあれだが……入玉は、本当にできないのか?」
とたずねた。
萩尾さんは、
「相手のミス期待なら、できますね」
と答えた。
「でも、本譜はそうしなかったよな?」
「他人の言葉を借りることになりますが……準決勝の早乙女戦で、こう言われました。『綺麗なものは、綺麗なまま終わらせましょう』って。これがボクの心境に、一番近いです」
松蔭先輩は、それ以上なにも問わなかった。
私はおずおずと、
「えー、それでは、全体の感想を……」
と切り出した。
萩尾さんは、そうだね、と言ってから、少し雰囲気を変えた。
それまで外向きだったオーラが、彼女のなかへ萎んでいく。
ううん、萎んでいくというのは、正確じゃない。
なんだろう……昇華されてる?
「最後の収束は、美しかったと思います。みんなには失礼かもしれないけど、一番美しかったんじゃないかな」
萩尾さんは、モニタをまなざした。
局面全体を、すみずみまで。
そして、これまで見せたことのない、爽快な笑みを浮かべた。
「ほんとうに最高だな。でもいつの日か、これを超えてみせますよ」
第10回日日杯 4日目 決勝トーナメント 女子決勝
先手:萩尾 萌
後手:大谷 雛
戦型:角換わり力戦形
▲7六歩 △8四歩 ▲2六歩 △8五歩 ▲7七角 △3四歩
▲8八銀 △3二金 ▲3八銀 △6二銀 ▲2五歩 △7七角成
▲同 銀 △2二銀 ▲1六歩 △3三銀 ▲7八金 △7四歩
▲4六歩 △7三桂 ▲6八玉 △6五桂 ▲6六銀 △6四歩
▲3六歩 △4二玉 ▲4七銀 △8六歩 ▲同 歩 △同 飛
▲8七歩 △8一飛 ▲5五角 △7三角 ▲4五歩 △9四歩
▲4六角 △5二金 ▲1五歩 △6三銀 ▲5六銀 △3一玉
▲9六歩 △9五歩 ▲同 歩 △同 香 ▲9七歩 △6二角
▲3七桂 △5四歩 ▲5八金 △4二金右 ▲7九玉 △1四歩
▲4四歩 △同 角 ▲4五銀 △6二角 ▲2四歩 △同 歩
▲1四歩 △4四歩 ▲5六銀 △1八歩 ▲同 飛 △1七歩
▲4八飛 △1四香 ▲1三歩 △同 桂 ▲9六歩 △同 香
▲同 香 △9五歩 ▲6五銀直 △同 歩 ▲6四香 △同 銀
▲同 角 △6三銀 ▲8二銀 △6一飛 ▲4六角 △8八歩
▲同 金 △9六歩 ▲4三歩 △同金直 ▲7三銀成 △5三角
▲2三歩 △5二銀 ▲7二成銀 △6三飛 ▲7三成銀 △6一飛
▲7二成銀 △6三飛 ▲7三成銀 △6一飛 ▲1七香 △同香成
▲7二成銀 △4一飛 ▲1四歩 △2五桂 ▲同 桂 △同 歩
▲1三歩成 △4五香 ▲同 銀 △同 歩 ▲7三角成 △9七歩成
▲同 金 △4六香 ▲4七歩 △7七香 ▲7八香 △8八歩
▲同 玉 △8五桂 ▲8六金 △9九銀 ▲7九玉 △6一銀
▲8二成銀 △2七成香 ▲4六歩 △2六角 ▲4九飛 △3八成香
▲1九飛 △4八成香 ▲2二歩成 △同 金 ▲6四馬 △5三金
▲2二と △同 銀 ▲5三馬 △同 角 ▲2四桂 △8八角
▲6九玉 △7八香成 ▲同 玉 △3三角成 ▲3二金 △同 馬
▲同桂成 △同 玉 ▲2四桂 △3三玉 ▲3二金 △2四玉
▲1二飛成 △7七香 ▲同 桂 △同桂成 ▲同 玉 △4四角
▲6六香 △1三金 ▲1六桂 △1五玉 ▲2四角 △2六玉
▲2九香 △3七玉 ▲3九香 △同成香 ▲1三角成 △2九成香
▲2二馬 △6六歩 ▲2四桂 △6五桂 ▲6八玉 △6七歩成
▲同 玉 △5七桂成 ▲同 玉 △5五香 ▲5六歩 △同 香
▲同 玉 △5五香 ▲4五玉 △2二角 ▲4一金 △5八香成
▲4四銀 △3三金 ▲同銀成 △同 角 ▲4四金 △8八角
▲3三金 △同角成 ▲5四玉 △5二銀打 ▲6三歩 △5三金
▲6五玉 △6三金 ▲1七龍 △2七桂 ▲5五桂 △5四香
▲6三桂成 △同 銀 ▲1五角 △2六桂 ▲7五歩 △7三桂
▲7六玉 △8八銀不成▲7九香 △6五歩 ▲6七歩 △2四馬
▲7四歩 △同 銀 ▲7五金打 △1五馬 ▲7四金 △1六歩
▲7三金 △1七歩成
まで230手で萩尾の勝ち




