642手目 会心の序盤
けっきょく、萩尾さん以外は学年順ということになった。
お次は松蔭先輩。
先輩は、教卓の椅子に座ると、
「よし、ぱぱっとやるか」
と言って、マウスを操作した。
【先手:葦原貴(S根県) 後手:松蔭忠信(Y口県)】
これを見て、嘉中くんは、
「それなの?」
と、ちょっと意外そうな顔をしていた。
私も意外。
とりあえず、私はタブレットで勝敗を確認した。
「……松蔭先輩の負けですが、いいんですか?」
「じつは、直前まで迷っててな。今治戦にしようかと思ったんだが、勝ち棋譜じゃなくてもいいなら、こっちのほうが内容は充実してる」
なるほど、内容優先か。
毛利先輩のチョイスを見て、切り替えた感じかな。
「全然オッケーなんで、よろしくお願いします」
松蔭先輩は、カーソルを動かした。
「葦原の角換わりのお誘いに対して、俺は角交換拒否だ」
【10手目】
私は理由をたずねた。
松蔭先輩は、
「事前に準備してきた」
と答えた。
ふむふむ。
私は棋譜を見ながら、
「後手だけ矢倉にしたのも、事前準備ですか? 今の流行りなら、相雁木かな、とも思うんですが」
とたずねた。
【34手目】
「そうだな、相雁木は指し慣れてそうだし、ムリヤリ矢倉にしてみた」
だいぶ練ってるんだね。
ちなみに、この直後に開戦。
4六歩、7五歩。
嘉中くんは、ここで外野から、
「見慣れないかたちにして速攻、先手居玉、か。わりと成功してるんじゃない?」
と言った。
松蔭先輩も、
「思ったよりうまくいった。葦原が対応してくるかとも思ったが、すんなりだった」
と返した。
同歩、同角、4七銀、7四銀。
ぐいぐい行く。
2九飛、4二角、4八玉、7二飛。
【44手目】
先手、右玉に追いやられる。
ここまできて、松蔭先輩が本局を選んだ理由、わかってきた。
これは作戦勝ち。
葦原先輩がこの局面を想定していたとは、考えにくい。
ただ、萩尾さんは、
「気持ち良く指せてはいますが、ちょっと細いですね」
と指摘した。
松蔭先輩は、
「そうか? このあと突破はできたぞ?」
と返した。
「先手も反撃できる程度の圧じゃないです? 防戦一方にならなさそう、というか」
萩尾さん、この棋譜は見てない可能性大だけど、的確だった。
先手はこのあと、左を受けつつ、右で反撃に出ている。
松蔭先輩も、
「うーん、そうか、この時点で、わかるひとにはわかる流れか……」
と、やや落胆した。
萩尾さんは、
「いえ、悪いと言ってるわけじゃないです。作戦としては、うまくいってますよね」
とケアした。
そこからは、後手が突破するところ、先手が反撃するところまで進める。
【50手目】
まずは、後手が突破するところ。
松蔭先輩は、
「当然に同銀だ」
と、駒を動かした。
同銀、同飛。
「で、この瞬間に5二銀と打たれた」
【53手目】
松蔭先輩は、
「次の手に、かなり悩んだ。この単打ちは考えてなかった」
と白状した。
私は、
「代わりに、どういう進行を考えてました?」
とたずねた。
「4五歩、同歩、同桂、4四銀」
【参考図】
「これで5二銀は、あると思っていた」
今度は嘉中くんが、
「じっさいあるあるじゃない? 4五銀、4三銀成、同金、4六歩でしょ?」
と言った。
松蔭先輩は、
「そうだ。この攻め合いは、なかなか厳しいな、と考えていた」
と同意した。
すると、萩尾さんは、
「浅くしか読んでませんが、ボクなら単打ちですね」
と割り込んだ。
松蔭先輩は、理由をたずねた。
「4五歩以下は、攻め合っても先手有利にならないです。例えば、4六歩に3三桂と援軍を出して、4五歩、同桂、4六角、7二飛と引いた瞬間、9一角成がヌルいです。5七銀で先手が崩壊するので」
【参考図】
松蔭先輩は、その通りに駒を動かしたあと、腕組みをした。
「……馬が利いてるから、だいじょうぶじゃないか?」
「即断はできませんが、同金、同桂成、同玉、4五桂は、潰れてると思いますね」
なんだか合評会みたいになってきた。
いいよいいよ。
しばらくあーだこーだの議論があって、本譜へ戻った。
松蔭先輩は、
「飛車の引き場所が難しかった。本譜は7五飛だが、良くなかったかもしれない」
と反省した。
私は、
「どこへ引くほうがベターでした?」
と訊いた。
「7一か7二。7五は6五歩で、目標になった」
以下、先手の猛攻。
【65手目】
萩尾さんは、
「難解だな」
とつぶやいた。
萩尾さんクラスで難解なら、かなりいい勝負なのだろう。
松蔭先輩は、
「萩尾なら、どう指す?」
とたずねた。
「第一感、7六歩、っていうか他になさそうです」
「俺もそう指した。葦原は感想戦で、次の手がわからなかったと言っていた」
本譜は6四歩。
でも、感想戦では、単に9一角成も検討されたらしい。
萩尾さんは、
「悩ましいですね。7七歩成、8一馬、7六飛のあと、6六桂を狙われて困るといえば困るんですが、6四歩、同歩を入れても、けっきょく6四角~9一角成くらいしかないんじゃないですか?」
とコメントした。
「そうなんだ、本譜は6四歩、同歩、同角、4二歩と、ここのかたちが違うだけで、以下は9一角成、7七歩成、8一馬だからな」
【73手目】
いかん、萩尾さんの読みが速過ぎて、こっちがわかんなくなってきた。
私は主導権を奪還。
「これ、後手が押してるようにも見えますが、局中の感想は?」
「俺がいいと思ってた……が、先手に痛い返しがあった。7六飛に5五桂だ」
【75手目】
「打たれたときは、角筋を止めたくらいにしか思わなかった」
「じつは違った、と?」
「同歩、3三桂成、同角に4六香があった」
【79手目】
ん? ……あ、4四歩と打てないのか。
「4二歩が祟ってますね」
「その通りなんだが、この時点では、事態の深刻さに気づいてなかった。4四桂、同香、同角、4五馬とされてから気づいた」
「その意図は?」
「4四馬~3一角で、後手が寄せられる」
私は脳内将棋盤で考えた──なるほど、厳しいか。
犬井くんは、
「3三玉とすれば、まだ全然粘れますけど、本譜は6六桂でしたね」
と指摘した。
松蔭先輩は、いやあ、とうなって、
「3三玉が受かるかたちになるとは、思わなかった。攻め合いに持ち込んだ」
と答えた。
6六桂、4四馬、同金、3一角、3三玉、4二角成。
いかにも寄りそうなかたちに。
2二玉、3一馬、3三玉。
ここまで馬の位置を調整して、5九金。
【93手目】
冷静……なのかな?
私は、
「7八とと、入れますよね?」
とたずねた。
松蔭先輩は、
「入れない。4二馬、2二玉、3一銀、1二玉、3二馬が、詰めろ飛車取りになる」
と返した。
あ、そっか、飛車に紐をつけてないといけないんだ。
だったら、見た目以上に後手が悪そう。
嘉中くんは、
「4五桂くらいかなあ」
と言いながら、自分が座っているデスクに寄りかかった。
松蔭先輩は、
「本譜もそうした」
と言って、何手か進めた。
【101手目】
萩尾さんは、
「後手、足らない感じですね」
と、後手劣勢の評価。
松蔭先輩は、
「もうダメか? 本譜は5七金だったが、なにかあればな」
とたずねた。
萩尾さんは、
「やるなら、5七角の勝負手です。同桂なら詰みます」
と言った。
え、そうなの?
詰み手順は、5七同桂、3七銀、3九玉、3八銀打、同銀、同銀成、同玉、3七金、4九玉、3八銀、5八玉、4七金まで。
松蔭先輩は、
「その詰みは見えたが、3八玉で寄らないと思った」
と言った。
萩尾さんも、それは寄らないという考えだった。
松蔭先輩は、
「というわけで、本譜は5七金と打って、3九玉、4八角、同金、同金、2八玉、3七銀、同桂、同桂成に1七玉と上がられて、最後のお願いもダメだった。以上だ」
としめくくった。
【111手目】
ここから2六銀、同玉、3五金打、1六玉まで。
1二の王様が駒に囲まれたまま、終了していた。
「では、全体の感想をお願いします」
「自画自賛になるが、序盤は会心の展開だった。中盤以降の難所で、きちんと正解を出せなかったのが敗因だな。葦原にうまく指された、ということだろう」
綺麗な着地。
「ありがとうございます。それでは、2年生に移ります」
場所:第10回日日杯 3日目 男子の部 11回戦
先手:葦原 貴
後手:松蔭 忠信
戦型:ムリヤリ矢倉
▲7六歩 △8四歩 ▲2六歩 △8五歩 ▲7七角 △3二金
▲6八銀 △3四歩 ▲1六歩 △4四歩 ▲2五歩 △3三角
▲1五歩 △6二銀 ▲7八金 △7四歩 ▲6六歩 △2二銀
▲4八銀 △4二角 ▲6七銀 △4一玉 ▲3六歩 △5四歩
▲3七桂 △5二金 ▲5六歩 △4三金右 ▲6八角 △3一玉
▲5八金 △7三銀 ▲9六歩 △3三銀 ▲4六歩 △7五歩
▲同 歩 △同 角 ▲4七銀 △7四銀 ▲2九飛 △4二角
▲4八玉 △7二飛 ▲7七桂 △2二玉 ▲5七角 △7五銀
▲7六歩 △同 銀 ▲同 銀 △同 飛 ▲5二銀 △7五飛
▲6五歩 △7二飛 ▲4三銀成 △同 金 ▲4五歩 △同 歩
▲4一金 △5三角 ▲4五桂 △4四角 ▲4六角 △7六歩
▲6四歩 △同 歩 ▲同 角 △4二歩 ▲9一角成 △7七歩成
▲8一馬 △7六飛 ▲5五桂 △同 歩 ▲3三桂成 △同 角
▲4六香 △4四桂 ▲同 香 △同 角 ▲4五馬 △6六桂
▲4四馬 △同 金 ▲3一角 △3三玉 ▲4二角成 △2二玉
▲3一馬 △3三玉 ▲5九金 △4五桂 ▲4九桂 △7八桂成
▲4二馬 △2二玉 ▲3一銀 △1二玉 ▲3二馬 △5七金
▲3九玉 △4八角 ▲同 金 △同 金 ▲2八玉 △3七銀
▲同 桂 △同桂成 ▲1七玉 △2六銀 ▲同 玉 △3五金打
▲1六玉
まで115手で葦原の勝ち




