623手目 幻の逆転劇
捨神くんは、すこし間を置いたあと、
「たぶん、7二金と上がらないといけなかった」
とつぶやいた。
【参考図】
もし事前準備がなかったら、この手にはかなりおどろいたと思う。
だけど、AIチェックも済ませてあったし、犬井くんともSNSで相談済み。
こういうときの心境って、複雑。
同時に、ひとつ踏み込んだ気持ちにもなれた。
「大盤では出てなかったけど、気づきにくい手だった?」
「そうだね……囃子原くんは、ちらっと考えた可能性があると思う……とりあえず、僕が気づかなかった理由を挙げるね。ひとつは、9一の角に紐がついていたこと。もしついていなかったら、真っ先に考える順だった。もうひとつは、このあとの後手のルートが、複雑だったこと」
「具体的には?」
「まず、7二同とから考えるね。7二同と、7七金、同桂、同桂成、同玉、6五桂、6八玉、5七銀、7八玉」
【参考図】
「ここで4五飛なら、後手優勢。でね、ここまでの手でトリッキーなのは、7二金だけなんだ。7七金なんかは、本譜でも読んでたから」
私はペンをとめた。
「ん? だったら、むしろ気づきやすかったんじゃない?」
捨神くんは、ちょっと困ったような笑顔で、
「見落としと言えば見落としなんだけど、7二金とせずに7七金と打ち込んで、同桂、同桂成、同玉、6五桂、6八玉、5七銀、7八玉、7七飛、8八玉、6七飛成と詰めろをかけた瞬間、6三とで詰んじゃうんだよね」
と弁解した。
【参考図】
私は、盤面をしばらく見つめた──さっきの話と、関係なくない?
「ごめん、7二金と指さなかったことと、どう関係するの?」
「6七飛成とせずに、受ける手があればいいんだけど、ないんだよ。この局面で7二金としても、そのまま押し切られちゃう」
【参考図】
「同とじゃなくて、6三とで先手優勢」
私はペンを持ったまま、あごに手を添えて考え込んだ。
……………………
……………………
…………………
………………
なんとなく分かってきた。
「そっか、これって、さっきの局面と似てるのに、形勢は逆なんだ」
【7二金→7七金の場合(後手優勢)】
【7七金→7二金の場合(先手優勢)】
捨神くんは、
「そう、後者を先に読んじゃったから、先に7二金と捨てておけば、詰めろを回避できるかも、なんてまったく思わなかったんだ。僕の棋力がそれまでと言われれば、それまでなんだけど」
とつけくわえた。
うーむ、なるほど、普通は寄せる手を先に読むから、7七金を先に読んじゃうよね。
「了解、でも、5三金がすごい悪手、ってわけじゃないよね?」
「悪手とは断定できないけど、これ以降は後手苦しいと思う」
「対局中も、そう感じてた?」
「正直に言うと、互角判定だった。その時点で、バイアスがあったかもしれない」
本譜は、5三金、6六角、8五香、8四角、9四歩、同香、9五歩、同角、3九飛、9六玉で、先手玉の視界がひらけた。
【103手目】
私は、
「入玉の可能性が出てきた、っていう認識だった?」
とたずねた。
「もちろん、それはあった。ここで7九飛成は、8五玉で一直線に入られちゃう。いったん8六香としたよ。同玉なら、7九飛成、8五玉、7五金が効く」
【参考図】
個人的には、これでも入れそうな気がする。
私レベルが後手なら、押し返せる自信がない。
「先手は同玉とせずに、6二銀だったね。この手については?」
「そこは吉良くんから、コメントがあるんじゃない?」
「捨神くんのコメントも聞きたい」
「7四とを本命で読んでた。上部開拓で」
捨神くんは、先手が入玉を優先すると考えたらしい。
「6二銀は意外だった?」
「意外ってほどじゃないよ。同金、同と、4三玉で、玉飛接近形になるから、シンプルに好手」
個人的には、6二銀が焦点になるかと思いきや、違ったみたい。
ちょっと肩透かしだった。
私は気をとりなおして、
「3五歩、7九飛成、3四銀、3二玉で、後手はかなり狭くなったよね」
と指摘した。
【112手目】
捨神くんは苦笑して、
「そうだね、これ以降は、もう先手がいいよ」
と返した。
「となると、どこかで変えないといけなかった?」
「ううん、変えられないんだ。だから、7二金と指せなかった時点で、ダメだったんだよね。敗着があるとしたら、あの手だったと思う。長引いたのは、吉良くんがなぜか入玉を選択しなかったからだよ」
ん、それってどうなの。
私は、スマホで評価値グラフを確認した。
「……このあと、後手に何回かチャンスなかった?」
捨神くんは、お茶をひとくち飲んで、
「あったかもね」
と淡泊に答えた。
私のほうから切り出さないと、ダメな感じかな。
「127手目の8五玉、ここは8六玉のほうがよかった可能性は?」
【127手目】
「うん、そっちのほうがよかったかも。本譜の8五玉は、8三金に近くなった」
AIが示していたのは、8六玉に8二飛。馬筋に飛び出るから、一見タダに見えるんだけど、同馬は7五金で終わってしまう。
吉良くんはこれを避けたのかな、とも思った。
捨神くんは、
「でも、8五玉はまだ先手有利だよ。最後の逸失は、9四金と出たところ」
と告げた。
【134手目】
「これに代えて7五歩なら、まだわからなかったと思う」
「対局中に読んでた?」
「全然。僕と不破さんで事後検討したときも、まったく出てこなかった」
それはそうだと思う。
捨神くんたちの棋力を疑ってるわけじゃない。逆転コースが、無理ゲーに近いのだ。7五歩、同馬の瞬間に、7四銀か7六銀不成以下の、41手詰めが発生している。
【参考図】
7四銀、同馬、7六銀不成、同銀、7四金、同玉、7六龍、7五歩、8五角、7三玉、7四金、7二玉、8三銀、同玉、8四金、同玉、8三歩、同玉、9四角、7四玉、8五角、8四玉、8三歩、同玉、9二角、8四玉、8三歩、9三玉、8一角、9二香、同飛、8三玉、9四角、7四玉、7三香、同玉、7五龍、7四歩、9三飛、8三香、同飛。
これを詰ませられなかったら、後手負け。
つまり、AIがこの順を推しているのは、41手詰めで後手勝ちだよ、それ以外だと負けだけどね、という無理難題が前提なわけ。
捨神くんは、
「だから、後手に逆転の芽があったっていうのは、違うんじゃないかな。この詰み手順って、8三歩と9四角の繰り返しパズルもあるし、テクニックも必要だよね。あの持ち時間じゃ、気づきようがなかった。すくなくとも、僕は気づかなかった」
と言った。
その言葉は、さばさばしていた。
装っているという感じもしなかった。
たしかに、この順はなかったようなものだ、人間的には。
だけど、言葉の奥底には、どこか──
捨神くんは、窓を見やった。
「雨がやんだね」
私も視線を移した。
小雨はあがっていた。
晴れてはいない。空は見えないけど、光は弱かった。
捨神くんは、食べ終えたパンケーキの皿に、フォークとナイフをととのえた。
「ほかになにかある?」
私はメモ帳を確認した。
用意していた質問は、たくさんある。
でも、盤面に再現された詰み手順は、お話の終着点のようだった。
幻の逆転劇。
記事の最後を飾るには、ふさわしい。
「全体の感想をお願い」
捨神くんはうなずいたあと、しばらく黙り込んでしまった。
じぶんと対話しているようでもあり、なにかを想い出しているようでもあった。
「……負けた後悔はある。ないって言ったらウソだよ。負けてよかったとも思わない。だけど、それまでの宙ぶらりんはなくなって、僕と吉良くんの格付けも済んで……」
捨神くんは、私の目を見た。
「また歩いて行けると思う」
そこで取材は終わった。
捨神くんは先に帰って、私はお会計をしてから出た。
雨はやんでいた。
雲も、来店時より薄くなって、白ずんでいた。
太陽は見えない。
夏休みがこんなふうに終わるのも、いいと思う。
やがてくる2学期に向けて、私もまた、歩き始めた。
場所:第10回日日杯 4日目 決勝トーナメント 男子決勝
先手:吉良 義伸
後手:捨神 九十九
戦型:後手角交換型四間飛車
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △4二飛 ▲6八玉 △4四歩
▲4八銀 △9四歩 ▲9六歩 △3二銀 ▲7八玉 △7二銀
▲5八金右 △6二玉 ▲5六歩 △5二金左 ▲2五歩 △3三角
▲3六歩 △7一玉 ▲5七銀 △4三銀 ▲6八金寄 △8二玉
▲7七角 △5四銀 ▲8六歩 △6四歩 ▲8七玉 △7四歩
▲7八銀 △7三桂 ▲3五歩 △同 歩 ▲4六銀 △3六歩
▲2四歩 △同 角 ▲2六飛 △4三金 ▲3六飛 △3四歩
▲3七桂 △3二飛 ▲5五銀 △6三銀引 ▲9五歩 △同 歩
▲9三歩 △4二飛 ▲9五香 △8四歩 ▲9二歩成 △同 香
▲同香成 △同 玉 ▲9四歩 △5四歩 ▲4四銀 △同 金
▲9九香 △9五歩 ▲2六飛 △6五桂 ▲4四角 △同 飛
▲9五香 △8三玉 ▲2四飛 △同 歩 ▲9一角 △7三銀
▲9三歩成 △7二玉 ▲8三金 △6二玉 ▲7三金 △5二玉
▲4五銀 △9九角 ▲7九金 △4一飛 ▲8三と △3三角成
▲6六歩 △同 馬 ▲6七金 △同 馬 ▲同 銀 △6二金打
▲6三金 △同 金 ▲7三と △5三金 ▲6六角 △8五香
▲8四角 △9四歩 ▲同 香 △9五歩 ▲同 角 △3九飛
▲9六玉 △8六香 ▲6二銀 △同 金 ▲同 と △4三玉
▲3五歩 △7九飛成 ▲3四銀 △3二玉 ▲2三金 △3一玉
▲2二歩 △8一飛 ▲2一歩成 △同 玉 ▲2二歩 △3一玉
▲4三桂 △同 金 ▲6四角成 △4二桂 ▲8二歩 △8七銀
▲8五玉 △8三金 ▲9七歩 △9一飛 ▲8六馬 △8四歩
▲同 角 △9四金 ▲7四玉 △8四金 ▲同 玉 △8三歩
▲同 玉 △9四角 ▲7四玉 △7一香 ▲7二香 △同 香
▲同 と △8三銀 ▲6三玉 △7二銀 ▲5二玉 △5三金打
▲同 馬 △同 金 ▲同 玉 △9三飛 ▲4四玉 △7一角
▲5三香 △同 角 ▲4五玉 △4一玉 ▲4三金 △4四歩
▲3六玉 △5二香 ▲3二金打 △5一玉 ▲4二金寄 △6二玉
▲5二金寄 △7三玉 ▲5三金寄 △7六銀成 ▲4六角 △8四玉
▲7九角 △6七成銀 ▲9六香 △9五歩 ▲同 香 △同 玉
▲9六飛 △8四玉 ▲9五金 △8三玉 ▲9四金 △同 飛
▲同 飛 △同 玉 ▲7六角 △8五歩 ▲6七角 △2七銀
▲同 玉 △2九飛 ▲3六玉 △2六金 ▲4六玉 △7九飛成
▲5四金 △7五龍 ▲9一飛 △9三香 ▲9五銀 △8三玉
▲8四銀打 △同 龍 ▲同 銀 △同 玉 ▲9六桂 △同 香
▲同飛成 △5七角 ▲5五玉 △6六銀 ▲同 龍 △同角成
▲同 玉 △8六飛 ▲7六歩 △7五桂 ▲9五銀
まで221手で吉良の勝ち




