622手目 小雨の中で
夏休み最終週。
あせったり、楽しんだり、憂鬱になったりと、みんな忙しい時期。
駒桜市は、雨が降っていた。
どんよりとした雲から、小雨が舞う。
取材を延期するかなあ、とも思った。
でも、捨神くんからは、喫茶店でいいよ、という返事。
というわけで、八一に集合した。
将棋をやってても、奇異な目で見られないメリットがある。
傘を畳んで、入店。
捨神くんは、先に来ていた。
奥の4人席から、私に手を振った。
私は傘を傘立てにさした。
「ごめんごめん、遅くなっちゃった」
「アハッ、まだ5分前だよ」
とりあえず注文。
店内はエアコンが効いてるから、ホットコーヒーにした。
あと、ケーキも注文する。チョコレートケーキ。
「今日は私が持つから、スイーツ頼んでもいいよ」
「ありがとう。じゃ、遠慮なく」
捨神くんは、パンケーキにした。
飲み物が届いたところで、さっそく取材開始。
「どの棋譜にする?」
「吉良くんとの決勝*」
私はおどろいた。
そのおどろきは、一瞬で伝わってしまった。
「あ、ダメだった?」
「いや、いいんだけど……勝ったやつでも、いいというか……吉良くんも同じのを選びそうだから、重複回避で、例えば準決勝とか……」
私が口ごもっていると、捨神くんは軽快に笑った。
「準決勝は、囃子原くんが選択すると思うよ」
「え、ほんと? そう言われたの?」
「ううん、なんとなくわかるんだ。囃子原くんは、あれをピックアップすると思う。だから、準決勝を選んでも、けっきょくは被るよ」
……見極めがつかない。
囃子原くんが、あの負け棋譜を解説するって、ありえる?
棋力の高いひとがみると、いい棋譜なのかなあ。
私はしばらく迷った。
「葉山さんが困るなら、ほかのでもいいよ。ないわけじゃないから」
「……オッケー、本人の意志は尊重する」
「ありがとう」
捨神くんは、駒を動かし始めた。
【先手:吉良義伸(K知県) 後手:捨神九十九(H島県)】
「まず、出だしからだね。本局は四間飛車で、端を突き合ったかたち」
「いきなり質問で悪いんだけど、角道を止めた理由って、教えてもらえる?」
捨神くんは、うーん、そうだね、と言って、しばらく黙った。
「葉山さんは、この出だしに前例があるって、知ってる?」
「中学生のときの、全国大会だよね。吉良くんとの。捨神くんがいつも通り、角交換型振り飛車にすれば、こうならなかったんじゃないかな、と思って」
単純な疑問。単純な好奇心。
なのに、危ないことを訊いてるんじゃないか、という不安がぬぐえなかった。
捨神くんは、ちょっと笑って、
「じつはさ、対局中、吉良くんから誘われたと思ったんだよね。あとで考えてみたら、角道を止めたのは僕なんだし、そんなわけ……いや、でも……」
と、そこで言葉をにごした。
窓から、遠くを見つめる。
「でも、やっぱり誘ったのは、吉良くんなんじゃないかな。初手の雰囲気……あるいは、ふたりとも、ずっと前からそう決めてたみたいに……」
あいまいな解説。
というか、解説ですらなく……なんていうんだろ。
「親しい棋士だと、座った時点で体調がわかるとか、そういうレベルの話?」
「んー、どうだろう。僕と吉良くんって、そんなに将棋指したことないし。だけど、最初の数手で、やりたいことがわかったというか……むずかしいね。オカルトかな」
捨神くんは、静かに笑った。
私はそれを受け止めて、軽くうなずいた。
「じゃあ、続きをお願い」
「とりあえず、前例がどこまでか、説明したほうがいいよね。4三銀までだよ」
【22手目】
これも事前に調査してあった。
けど、話の流れに乗ったほうが、いいと判断した。
「6八金寄で新局面、だよね。これって、そんなに王道の対策じゃなくない?」
「うん、普通は穴熊かな」
「中学生のときの棋譜は、吉良くんの勝ちだったんだよね? 吉良くんから外してきた理由は、なんだと思う? なにかの対策?」
犬井くんの予想は、捨神くんの用意を外すためじゃないか、だった。
合理的な解釈だと思った。
捨神くんは、
「どうだろう……指されたときは、けっこう感動した覚えがある」
と返した。
「感動? なんか意味深な手なの?」
「中学のときは、右銀急戦だったんだ。だから、持久戦だと、全然違う将棋になっちゃうし、このあとも、右銀急戦になったし……あ、ごめん、意味不明だね。言語化したくても、できない気がする」
そういうこと、あるよね。
「じゃあ、続きを」
「テクニカルなところだけ言うと、吉良くんは前例の右銀急戦に、6八金寄の工夫を加えた、ってことだね。その目的は、左美濃を作ること。で、僕は5四銀とプレッシャーをかけるかたちにしたけど、そのまま開戦されちゃった」
【33手目】
私はメモを見ながら、
「3筋方面のやりとりは、どう受け止めてた?」
とたずねた。
「後手としては、満足だった。突破されなかったから。欲を言えば、飛車交換でさばけたほうが、良かったかもしれない。左桂も活用できてないし」
「先手は、そこを突ける可能性はあった?」
「9筋から再開戦したのは、そういう意味もあったんじゃない?」
【47手目】
捨神くんは、
「この端攻めの是非は、むずかしいよね。ただ、ちょっと前に話を戻すけど、吉良くんは3筋の攻めに、自信があったんだと思う。邪推していいなら、僕の4三金で、研究から外れちゃったんじゃないかな」
と言った。
【40手目】
吉良くんがこの棋譜を選んだら、要確認。
「これは、その場で考えたの?」
「うん、個人的には気に入ってる。4三金と上がらずに、4五歩と攻め合うのは、さすがに無理筋だと思うから」
「吉良くんの端攻めを誘発した、という見方は?」
「ありえるんじゃない。でも、この端攻めが致命傷だったとは、考えてない。その点で後悔はないよ」
ふむふむ。
犬井くんの読みだと、この端攻めを許容した時点で、後手面白くないんじゃないか、っていう話だった。捨神くんは、そうは思わないわけだ。
となれば、このあとの攻防について、いろいろと訊いてみたくなる。
「端攻めは受け切った、と感じた?」
「ううん、そもそも、受ける方針じゃなかった。端は明け渡して、前のめりになった先手を討ち取るつもりだった」
捨神くんは、本譜の進行を詳しく解説してくれた。
同歩、9三歩の打ち込みでは、9四歩と控えて打つ手もあった。これについては、7五歩と反撃する予定だったらしい。
本譜の9三歩には、4二飛じゃなくて、3三角もあった。これは9五香に5四歩と突いて、相手の動きを見ることになる。本譜の4二飛も、ひと呼吸置く手だから、どちらが良かったかはむずかしい、という見解だった。
そのあいだにスイーツも出てきて、私は食べながらメモを取った。
捨神くんは、
「本譜は4二飛で、一番単純に端を破らせる順だね。後手玉が寄るとは思わなかったし、方針として一貫してると思った」
とまとめた。
「9九香の瞬間、怖くなかった?」
【61手目】
「ううん、これで寄らない、という読みだったから」
「でも、読み落としがあったら?」
「もちろん、そういう不安はあるよ。だけど、覚悟はできてたつもり」
うむむ、覚悟って、そんなに持続しないと思う。
私が弱いだけかしらん。
「このあと、けっこう際どい攻防じゃなかった?」
後手はいったん9五歩と受けて、2六飛に6五桂、4四角、同飛、9五香、8三玉。先手は駒が足りないらしく、一気に2四飛と切った。同歩に9一角。
【71手目】
いきなりの詰めろ。
捨神くんは、
「ここで7三銀と上がって、寄らない」
と言って、そう指した。
「9三歩成で、と金ができてもオッケー?」
「9三歩成、7二玉、8三金、6二玉、7三金、5二玉までは必然で、そのあとの対応を考えてた。本譜は4五銀だったけど、6三金もあったと思う」
捨神くんは、6三金、同玉で清算して、7三銀と打つ順を示した。
以下、5三銀、8二角成、4七飛成、4四歩。
【参考図】
「同龍が第一感で、まだ互角」
「本譜の4五銀に9九角が、狙いの一発、でいいのかな?」
「そうだね、これが詰めろ」
この手は、会場でも指摘されていた。
伊吹さんが最初だったけど、たぶん囃子原くんも気づいていた。
「端を明け渡して詰めろ、だから作戦成功って感じ?」
「着地がブレてない程度かな。後手有利になってるわけじゃないから」
「会場でも、意見がわかれてたみたい。石鉄くんと伊吹さんが先手持ちで、囃子原くんは互角だった」
「囃子原くん、具体的な話はしてた?」
してた、と私は答えた。7九金、4一飛、8三と、3三角成と、本譜同様に進んで、6三金、同玉、7三角成、5三玉、6三銀、4二玉、6四馬、3二玉、6五馬の変化。
【参考図】
捨神くんは、
「あ、これは僕も読んだ。清算する順だから、一番最初に読んだかも」
と答えた。
「吉良くんがこれを選ばなかったのは、本譜のほうが良かったから?」
「どうだろう、消極的だから、嫌った可能性もありそう」
なるほどね。
吉良くんは3三角成に6六歩で、そこから攻め合いになった。
同馬、6七金、同馬、同銀、6二金打、6三金、同金、7三と。
【93手目】
捨神くんはここで、顔をくもらせた。
「次を間違えたかもしれない……たぶん」
*585手目 止まらない時間
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