621手目 厄介もの
ハァ、ハァ……あ、興奮してるわけじゃないよ。
西野辺さんが口を割らないから、揉めてた。
あ、これも興奮か。
気をとりなおしていこう。
「では、最後に早乙女さん、よろしくお願いします」
早乙女さんは、綺麗な黒髪を撫でながら、
「準決勝の萩尾戦*で」
と申告した。
西野辺さんは、
「負け棋譜にするの? プレーオフの勝ったやつでよくない?」
と横やりを入れた。
「この棋譜は、解説会場でも困りものだったそうです。萩尾先輩が取り上げるとも思えないので、私が選んでおきます」
これを聞いた西野辺さんは、
「素子ちゃん、たま~に空気読むことあるよね」
とからかった。
うーん、そもそも高校生将棋指し、空気読まなすぎでは。
ひとまず、ここは落ち着かせる。
「解説のひとに訊いても、よくわからない点があったので、いろいろ教えていただきたいですね」
「では、決まりということで」
早乙女さんは、出だしをササッと並べた。
【先手:早乙女素子(H島県) 後手:萩尾萌(Y口県)】
西野辺さんは、
「これ、萩尾おねぇもちょっと腰引けてない?」
と言った。
早乙女さんは、
「角道止めをそう表現するなら、そうかもしれません」
と返した。
個人的には、工夫って呼びたい。
早乙女さんは、
「ここまでで、なにかご質問は?」
と訊いてきた。
「えっと、陽動振り飛車の可能性は、考えました?」
「いえ、考えていません」
「大盤解説会場では、先手の銀上がりがすこし早い、みたいな意見もありましたが」
「そうですか? 攻めを見せて牽制しただけです。ちなみに、どなたですか?」
「梨元さんです」
「梨元先輩の解説はノリなので」
わかる。
思いついた手を解説してる感じ。
私みたいなレベルには、そっちのほうが助かるところもあった。
急所急所だけ説明されると、え、じゃあこれはどうなの?、っていう手がスルーされちゃうんだよね。
「このあと、右四間にしましたね。どのあたりからの予定ですか?」
「後手が4三銀と上がったところです」
【20手目】
「後手の雁木が確定したので、右四間を選択肢に入れました」
ふむふむ。
「ちょっと先回りしちゃいますが、結果的にどうでした?」
「右四間の採用が良かったかどうか、ですか?」
「はい」
「そこは問題なかったと認識しています。本局のポイントは、もっとずっとあとです」
うーん、このスムーズな取材。
なんかAIとしゃべってるみたい。
「じゃあ、続きをお願いします」
早乙女さんは、
「私は左高美濃に組みました。後手にスキがなかったので、間合いを取る意味もありましたが、攻めあぐねていたのも本音です」
と、開戦がむずかしかったことを明かした。
【36手目】
私は、
「この局面から、2八飛、5二玉、8八玉、8一飛と、おたがい様子見になりましたね。千日手は考えていましたか?」
とたずねた。
「千日手が最善なら、千日手を採用する。これが私のポリシーです。そうでないならしません」
「となると、2四歩で開戦したのは、タイミングが取れたから?」
「正直なところ、誘われた感はあります」
「というと?」
早乙女さんは、8三金まで進めた。
【50手目】
「この手がなければ、そのまま千日手だった可能性が高いです」
いかん、思考過程が省略され過ぎている。
それっぽく聞き出していこう。
「たしかに、ちょっと前に出てる感じがしますね。後手からの挑発ですか?」
「挑発というより、お誘いです」
「じゃあ、乗ったのが2四歩?」
「乗った、とまでは言えません。私が2四歩から開戦したのは、あくまでも形勢判断の問題です」
ふむ……本人的には、合理的に指しただけ、ってことか。
どうだろうなあ、深層心理でも、そうなのかしらん。
深層心理なんてものがあるのかどうか、わかんないけど。
私は、
「ここから5八金、6二銀、2四歩、同歩、同飛、4五桂で、千日手は完全に消えましたね。このあとの進行もお願いします」
と頼んだ。
「飛車当たりなので、とりあえず2九飛、3七桂成、同角までは確定です。本譜は次に2四歩でしたが、ここで8四金のほうが一貫性はあります。少し警戒していたのは、8四金、2六角に9五歩です」
【参考図】
「同歩にいったん5三銀として、3五歩、同歩、同角、2五歩、2四歩まで引き付けてから、9六歩と打ち込むのが一例です」
【参考図】
私は、
「萩尾さんがこれを選ばなかった理由は、なんだと思いますか?」
とたずねた。
「それはわかりません」
あっさり。
他人の考えだしね。
早乙女さんは、本譜へ戻った。
これもちょっと似たような流れで、2四歩以下、2六角、5三銀、3五歩、同歩、同角、3三金。けっきょく3筋の突き捨ては入った。先手は2六角とまた下がって、後手はようやく8四金。先手はさらに5九角と下がって、9五歩と再開戦。
【70手目】
私は、事前のメモを参照しながら、
「後手が攻勢に出ました。早乙女さんとしては、想定内でしたか?」
とたずねた。
「5九角と引いた時点では、想定内です。8筋の守備を兼ねています」
「了解です。8~9筋方面の攻防、解説をお願いします」
「先ほどの局面から、9五同歩、8六歩、同歩、8五歩で、継ぎ歩になりました。あからさまな棒金なので、これをどう受けるかです。本譜は同歩、同金、8六歩、同金、同角、同飛、8七銀で、正面から受け止めました。他に選択があったかと言われると、ないように思います。以下、8一飛、8六歩で、いったん収まりました」
【83手目】
桐野先輩は、
「萌ちゃん、角が遊んでるのですぅ」
と評した。
早乙女さんは、
「おっしゃる通りです。なので、6二銀と角道を開けてきました」
あ、これ、角を参加させるためなのか。
意味がよくわからなくて、手待ちなのかな、と思ってた。
以下、3九飛で、先手も動き始める。
3七歩、7五歩、8五歩、同歩、6五歩、同歩、7五歩。
【92手目】
早乙女さんは、
「ここは少し悩みました。7四歩と打つか、3七飛と取る手もあったと思います」
と言って、それぞれの展開を説明してくれた。
7四歩には同玉じゃなくて、8五桂と跳ねる。8六歩、7六桂、7八玉、3八歩成、同飛と浮かせてから、8八歩。もし3八歩成に同銀なら、9八歩。この場合は、8八歩が効かない。8五歩、8九歩成、同飛と、回り込まれてしまうからだ。
【参考図】
7四歩に代えて3七飛も、7六桂、7八玉、8八歩が生じる。でも、こっちの場合は、7七桂と跳ねて、8九歩成、7六銀、同歩、同金、9九とと取り合ったあと、6四金で反撃に出る手があった。
【参考図】
とちゅうで7七桂と跳ねられるのは、7四歩、8五桂を入れてないから。この順を踏まえると、7四歩は余計な可能性もあった。
そして、この結論は、桐野・梨元コンビの解説とも一致していた。
7四歩じゃなくて6四金のほうが有力、と指摘していたからだ。
早乙女さんは、
「というわけで、候補手はいろいろあったのですが、先に6四金と置きました。分岐が多いので、局面を確定させて、枝を減らしたかったこともあります」
とまとめた。
以下、5二玉、7四桂、7六桂、7八玉、6三歩、6二桂成、同玉、7四金、8八角。
【102手目】
私は、
「大盤解説だと、ここで後手が良くなったかな、という雰囲気でした。具体的な順も挙がってました」
と伝えた。
「どういう順ですか?」
「えーと……7七桂、9五香、同香、8五桂、同桂、同飛、7七銀、9七角成、8六歩、9五飛、9八歩、8七馬、同玉、7八銀です」
【参考図】
「同玉とさせてから、9八飛成、6九玉、3五桂、3六銀です」
早乙女さんは、しばらくのあいだ髪をさわりながら、考えていた。
「……なるほど、難解ですね。4七桂打、3七飛、7八香、6八銀打くらいで、先手もギリギリ耐えているとは思いますが」
「今考えたってことは、対局中は読んでませんでした?」
「読んでいませんでした」
全部見えるわけじゃ、ないのか。
まあそりゃそうだよね。
私はここから、本局一番の難所に誘導した。
「6六桂のところ、お願いします」
さっきの局面から、7七桂、8五桂、8六銀打、9五香、同香、7七桂成、同銀、6六桂と進める。
【110手目】
早乙女さんは、
「ひとまず整理しましょう。この手には、同銀か同金しかありません。王様を逃げると、8七飛成で後手勝ちになるからです。本譜は同銀でした。同金のほうがなぜ微妙に悪いのか、という点を説明します。同金、8五桂、8八銀、同桂成と進めてみます」
と言って、サッとそこまで行った。
【参考図】
「これを同玉は、7六歩と突かれて、逃げ場がなくなります。ただし、6三金という押し込みが効くので、敗勢かと言われると、そうではありませんが」
私は、
「6三金はタダ捨てですか? 同玉で?」
と確認を入れた。
「同玉は後手負けです。6四香と打たれて、5二玉ならば6三角の王手飛車、5三玉は冷静に7六金と払っておいて、先手優勢です。したがって、6三金には5一玉と下がって、1筋方面へ逃げ込むのがマストです」
うーん……むずかしい。
「8八桂成に逃げるのは、どうですか?」
「考えられるのは6九玉ですが、まず7七桂不成で王手します」
【参考図】
あ、これは激しく終了くさい。
「なるほど、王手しながら、飛車の通り道を作るんですね」
「というわけで、6六桂に同金はできません。同銀の一択です」
「同銀だと互角ですか?」
早乙女さんは、いいえ、と言った。
「残念ながら、この時点で後手持ちだと思います。6六桂は私の見落としです」
んー、そっか、はっきり認めちゃうのか。
ここは記者として、ちょっと突っ込んだ質問をしておこう。
「答えにくいかもしれませんが、見落としの原因は、なんだと思いますか?」
「端的に奇手だから、かと」
「たしかに、焦点のタダ捨てですね」
「もうひとつ挙げるとすれば、同銀以下で先手が悪くなる理由が、非常に細かい応酬だったということもあります。具体的には、9七角成、8九香、8六歩、同銀、9六馬、8七桂、8六飛、7七金、8一飛、9二香成、7一飛、7二歩、3一飛、7五金に、7四桂が効いたことです」
【126手目】
この局面だ、犬井くんが気にしてたのは。
早乙女さんは、この3手後に投了している。
「私の棋力だと判定しづらいんですが、これって先手敗勢ではないですよね?」
「敗勢ではありませんが、普通に指して後手勝ちの局面です。同金、同馬、7六金は、8六歩から続きますし、取らずに7六金も、8六歩から完封コースです。後手玉を寄せる方法がないので、あとは評価値がどんどん悪くなるだけです」
ふむ……大盤解説会場での、最終的な結論と一致している。
ただ、心情的なところでは、まだ納得できない。
それとも、早乙女さんにとっては、心情の問題じゃないってことなのかな。
早乙女さんは、また後ろ髪を撫でながら、
「そういえば、もうひとりの大盤解説者は、桐野先輩でしたね。ここまで、特にコメントらしいコメントが、なかったように思うのですが……」
と、話を振った。
「居飛車さんだったのでぇ、お花はほとんど聞き手でしたぁ」
「そうですか。では、この3手後に投了していますし、解説はここまでということで」
私は、まとめに入った。
「全体の感想をお願いします」
「そうですね……個人的には、一番美しい棋譜だったと思います」
抽象的感想はやめて。
「美しい、とは?」
「駒の連携が精緻で、かつ、広範だったという意味です。数学で喩えると、楕円曲線とモジュラー形式のような」
喩えないで。
とりあえず、これにて3人とも終了。
西野辺さんは、ふぅ、とひと息ついてから、にやりと笑った。
「ところで、無報酬ってことはないよね? 夏休みに休日出勤だよ?」
私は手をすり合わせる。
「へっへっへ、じつは囃子原グループから、会合費が出ておりまして」
「よっしゃッ! 女子会だーッ! 市内なら案内するよ」
「お花はパフェ食べたいですぅ」
「数学書は経費で落ちませんか?」
落ちません。
それでは真夏のグルメに、出発だーッ!
あ、ボイスレコーダーは切っとこ。
*572手目 静かな立ち上がり
https://ncode.syosetu.com/n2363cp/584
場所:第10回日日杯 4日目 決勝トーナメント 女子準決勝
先手:早乙女 素子
後手:萩尾 萌
戦型:後手右玉
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △4四歩 ▲4八銀 △8四歩
▲4六歩 △3二金 ▲4七銀 △8五歩 ▲7八銀 △5四歩
▲5八金右 △6二銀 ▲6八玉 △4二銀 ▲5六銀 △5三銀右
▲3六歩 △4三銀 ▲9六歩 △7四歩 ▲2五歩 △3三角
▲3七桂 △7三桂 ▲7九玉 △9四歩 ▲4八飛 △6二金
▲7七角 △8三飛 ▲1六歩 △6四歩 ▲6六歩 △1四歩
▲2八飛 △5二玉 ▲8八玉 △8一飛 ▲6七金 △4二角
▲5九角 △3三桂 ▲2九飛 △6三玉 ▲4七銀 △7二金
▲5六歩 △8三金 ▲5八金 △6二銀 ▲2四歩 △同 歩
▲同 飛 △4五桂 ▲2九飛 △3七桂成 ▲同 角 △2四歩
▲2六角 △5三銀 ▲3五歩 △同 歩 ▲同 角 △3三金
▲2六角 △8四金 ▲5九角 △9五歩 ▲同 歩 △8六歩
▲同 歩 △8五歩 ▲同 歩 △同 金 ▲8六歩 △同 金
▲同 角 △同 飛 ▲8七銀 △8一飛 ▲8六歩 △6二銀
▲3九飛 △3七歩 ▲7五歩 △8五歩 ▲同 歩 △6五歩
▲同 歩 △7五歩 ▲6四金 △5二玉 ▲7四桂 △7六桂
▲7八玉 △6三歩 ▲6二桂成 △同 玉 ▲7四金 △8八角
▲7七桂 △8五桂 ▲8六銀打 △9五香 ▲同 香 △7七桂成
▲同 銀 △6六桂 ▲同 銀 △9七角成 ▲8九香 △8六歩
▲同 銀 △9六馬 ▲8七桂 △8六飛 ▲7七金 △8一飛
▲9二香成 △7一飛 ▲7二歩 △3一飛 ▲7五金 △7四桂
▲7六金引 △6六桂 ▲同金寄 △8六歩
まで130手で萩尾の勝ち




