603手目 望郷
玄関のドアのまえ。人通りを背景に、私は背筋を伸ばした。
キャリーケースのハンドルに両手をそえて、頭をさげる。
「それでは、お世話になりました」
伯母さんは、
「もうちょっと泊まっていっても、よかったのにぃ」
と言って、笑った。
「受験勉強もありますので……もし合格したら、またあいさつに来ます」
「がんばってね」
伯母さんは、駅まで送りましょうか、と言った。
私は、だいじょうぶです、と答えた。
それじゃあ、というところで、奥から小犬のハッちゃんが出てきた。
ハッちゃんは、ちょこちょこちょこと歩いて、土間のまえで止まった。
ワンと吠えて、また奥へちょとちょこと帰っていった。
あいさつしてくれたのかな。
「ハッちゃんも、ばいばーい」
私は伯母さんに、もういちど御礼を言って、駅へと向かった。
電車に乗って、目黒へ。そこから山手線で品川に到着。
帰省の時期だから、駅はごった返していた。
私はH島行きの新幹線。
そのまえにお土産を買う。
荷物になるからここで買う、という選択になったのだ。
キャリーケースがパンパンで、入らないのよね。
家族と、学校の友だちと、部活と──ばらまく系がいいかな。
消費期限も重要。
今は夏休みだから、1ヶ月はもってもらわないと困る。
というわけで、学校用には、ラスクをチョイス。
家族には……フィナンシェは、どこでも買えるしなあ。
このフルーツケーキがよさそう?
銀座って書いてあるから、東京感がある。
私は両方買って、紙袋に入れてもらった。
お店を離れようとしたところで、ふいに声をかけられた。
「裏見殿」
ふりむくと、神崎さんが立っていた。
今日は私服。白いノースリーブのシャツに、デニムを履いていた。
「見送りにきた」
「あ、わざわざごめん」
「拙者はもうしばらく、東京で羽を伸ばすとしよう。気をつけて帰られよ」
「つきそい、ありがとね。おかげで安心だったし、楽しかったわ」
親が同伴だと、原宿とか渋谷で、あそこまで遊べなかったと思う。
まあ、お母さんには悪いことをしたかな、という気もするけど。
合格後はいっしょに来る機会があるだろうし、そのときということで。
……………………
……………………
…………………
………………ん?
「神崎さん、ここ改札のなかだけど、入場券買ったの?」
神崎さんは腕組みをして、不敵に笑った。
「ふふふ、さらばだ」
こらーッ!
○
。
.
《まもなく、H島です》
機械音声のアナウンス。
私は大きく背伸びをした。
うーん、つかれた。
私は早めに席を立って、ドアのところで待機。
H島の街並みが流れていく。
ここに住んでるわけじゃないけど、やっぱり落ち着く。
5分ほどで停車した。ドアがひらく。
《H島、H島です》
ホームに降りる。東京とは違った香りが、あたりに漂っていた。
私は階をひとつくだって、改札を出た。バス停へ向かう。
ちょうどいいタイミングで、バスが到着。
荷物を置きやすい席に座って、発車を待った。
「……あッ」
窓から、見知った顔がみえた。
よっしーこと、横溝さんだった。
横溝さんもバスに乗って、お金を払った。
「よっしー」
私が声をかけると、横溝さんはふりむいた。
「あ、香子ちゃん」
横溝さんは、意外そうな顔をしていた。
それもそうか。H島駅前で会うなんて、普通は思わないものね。
横溝さんは、私のとなりに座っていいか、とたずねた。
どうぞどうぞ。
私は窓際に座っていたから、横溝さんは通路側に座った。
「香子ちゃん、どこか行ってたの?」
「うん、東京のオープンキャンパス」
横溝さんは、ひとりで?、とたずねた。
私は事情を説明した。
「神崎さんとだったんだね……怖くなかった?」
なるほど、横溝さん視点では、そうなるのか。
獄門高校って、けっこう怖いイメージがあるらしい。
「むしろ安心だった。よっしーは、H島でお買い物?」
「それと、塾。このまえの模試のアドバイス受けてた……」
塾というのは、通っている塾のことじゃなかった。
前回の模試で会場になっていた、大手の予備校のことだった。
そこで無料相談をしてもらえる、と。
ちょっと心配しすぎじゃないかしら。
「よっしー、AOで行くんじゃなかったの?」
「AO落ちたら、一般で受けないといけないから……」
なるほどね……それでも心配しすぎだと思う。
横溝さんは、学校の成績が悪いわけじゃない。
それに、藤花女学園は、進学校だ。
まあ、横溝さんの性格からして、楽観的になろう、と言ってもムリがある。
私は話題を変えることにした。
夏休みの過ごしかたとか、学校の宿題とか、その他いろいろ。
横溝さんが一番くいついてきたのは、東京観光の話だった。
「原宿かあ……楽しそう……」
「うん、楽しかった」
「卒業旅行で、そういうところに行けたらいいよね……ムリだろうけど……」
んー、どうだろ。
女子高生だけで旅行は、ダメかなあ。
私は伯母さんの家に泊まったから、ギリオッケーだった。
かといって、男子といっしょに行く、はもっとダメそう。
旅行の話題は、あんまりよくなかったかも。
みんな、受験勉強中だもんね。反省。
そのあとは無難な会話を続けて、駒桜市に到着。
私はバス停で、よっしーと別れた。
真夏の日射しは、まだ強い。
私は商店街の日陰をたどりながら、家路についた。
「おーい、裏見ぃ」
げッ、この声は──ふりむくと、松平が手を振っていた。
イラスト入りのシャツに、短パンというかっこうだった。
私はキャリーケースを引いて、すこし戻った。
松平の第一声は、
「どうした、家族旅行か?」
だった。
「オープンキャンパスへ行ってたの」
そっか、と松平は答えた。
「両親と?」
「ううん、神崎さんと」
松平は笑った。
「ハハハ、俺と行くより安全だな」
「まったく」
私はお土産のふくろを片手に、キャリーケースを引き始めた。
松平は、あわてて追いすがった。
「持つぜ」
「けっこうでーす」
「べつに我慢しなくていいだろ。俺は手ぶらだ」
もう一回ことわったけど、松平は同じことを言ってきた。
仕方がないから立ち止まって──紙袋をさしだした。
「じゃ、お願い」
「オッケ」
松平は袋を受け取って、
「で、これから帰るのか?」
とたずねた。
「ええ」
「じゃあ、そこまで送ってく」
私は、ん?、となった。
「松平は、そっちのほうに用があるの?」
「ない」
私は空いた手を、ふたたびさしだした。
松平はしばらくその手を見て、肩をすくめてみせた。
「散歩」
「……ありがと、家の曲がり角まで、お願い」
「やけに具体的だな」
「ナルに吠えられるでしょ」
松平は苦笑した。
「たしかに」
私たちは商店街を抜けて、街路に入った。
東京の話をする。
松平は、まだ見たことがない街だ。
私は、
「そういえば、なんでオープンキャンパスに行かなかったの?」
とたずねた。
松平は、
「母方のばあちゃん、調子が悪いんだ。万が一のことを考えて、家にいる」
と答えた。
「危ないの?」
「どうだろうなあ、取り越し苦労な気も……っていうか、そっちのほうがいい」
そうね、と私は答えた。
もしおじいちゃんが重い病気になったら、私は東京へ行くのをやめただろう。
今いっしょに住んでいるおじいちゃんは、お父さんのお父さんだ。
お父さんのお母さんは、もういない。
私がちっちゃいころに、亡くなっていた。
記憶はあいまいだ。悲しかったかどうかも、覚えていない。
なんだか薄情なひとと思われそうだから、他人には話していない。
夏が、ゆっくりと過ぎていく。
蝉の声、野菊の白さ、サルビアのしなびた花弁、ミミズの死体。
見慣れた通りも、どこかよそよそしい気配があった。
東京へ行っていたからじゃない。それはもう、過去の話。
この街をはなれる未来が、やってくる。
その未来が、ただの夢物語では、なくなってしまったから。




