表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
こちら、駒桜高校将棋部Outsiders  作者: 稲葉孝太郎
第49局 オープンキャンパス(2015年8月7日金曜)
611/681

599手目 シグナリング理論

 しばらくして、チャイムが鳴った。

 大学の教員らしきひとが、黒板のまえに登壇した。

 簡単なあいさつ。

 そこから学生スタッフ数人にバトンタッチして、大学紹介。

 八ツ橋やつはし大学の設立経緯とか、これまでの歴史とか、いろいろ。

 最初のほうだから、みんなマジメに聞いてるけど、関心のあるひとは、そこまで多くなさそうだった。まあ、それもそうで、学校の歴史については、あまり気にしないと思う。よっぽど歴史好きじゃないと。

 その次に、学部紹介。けっこう駆け足だった。くわしい説明は、このあとの個別ブースで、みたいな流れ。経済学部が紹介されたときも、こんな学科がありますよ~とか、こんな勉強ができますよ~とか、概略が中心だった。

 学部案内が終わると、午前の部の模擬講義に移行。じぶんが受けたい学部の講義を聞きに行く。私は神崎かんざきさんといっしょに、階をひとつあがって、経済学部の講義を受けた。

 メガネをかけた30代くらいの男の先生で、専門はミクロ経済学だと言っていた。こういう高校生向けのレクチャーでは、身近な生活の話をするひともいる。たとえば、駒桜こまざくら市立いちりつにきてくれたH大の先生は、コンビニの立地がテーマだった。でも、八ツ橋の先生は、けっこう本格的な内容だった。

 20分くらいの講義で、終わったあとは、質疑応答の時間。

 先生は、

「なにかご質問はありますか?」

 と訊いた。

 こういうのは、あんまり手があがら……と思いきや、神崎さんが挙手した。

 学生スタッフが、神崎さんのところへマイクを持って行った。

 神崎さんの第一声が、

「たいそう興味深い話だった。まずは礼を述べよう」

 だったので、周囲がざわついた。

 神崎さんは気にせずに、淡々と続けた。

「さきほどの、しぐなりんぐ理論というのは、ようするに、大学の勉強にまったく意味がなくても、大学にいくことは合理的である、という話でよいのか?」

「シンプルにまとめると、そうなります。企業が高学歴のひとを優先して採用するのは、大学の勉強によって生産性が向上するからではなく、高学歴になれるひとはもともと生産性が高い、というシグナルが働くからです」

 今回の先生の話は、次のようなものだった。

 就職活動のとき、履歴書に学歴を書く。なぜでしょう。ひとつのありえる答えは、よい大学で勉強するほど、仕事がよくできるようになるから、というもの。つまり、よい大学で勉強したひとのほうが、そうでないひとよりも、技能が身についているから、という考え方だ。

 これはこれでありえそうなんだけど、別の考え方をするのが、シグナリング理論。この理論は、大学の勉強には、生産性を向上させる機能はない、と仮定したうえで、それでも就職活動時の学歴には意味があるよ、ということを説明する。その論法は、以下のようなものだ。

 まず、世の中には、高校を卒業した時点で、生産性の高いひとと、生産性の低いひとがいると仮定する。このとき、それぞれのひとには、じぶんの能力がわかっているけれど、他人の能力はわからない、とも仮定する。ここで企業は、どういう採用活動に出るか。ひとつ考えられるのは、なんらかの方法で、個々人の生産性をチェックする、というもの。だけど、これは非現実的。膨大なコストがかかる。じっさいに雇ってみて何年かいろいろやらせてみないと、仕事ができるかできないかなんて、わからないからだ。そこで、高学歴のひとを優先して雇います、という方針を採用する。この方針が、高卒者に影響を与える。

 高校を卒業したひとたちは、この方針を聞いて、次のように反応する。生産性が高いひとは、ペーパーテストをこなす能力も高いだろうから、学歴を獲得して、上位の企業に雇用してもらうほうがよい。これに対して、生産性が低いひとは、ペーパーテストをこなす能力も低いだろうから、そもそも学歴を獲得することをあきらめる。勉強のコスパが悪いからだ。すると、生産性の高いひとたちが、学歴順にだいたい並んでくれるので、企業はその順番で採用していけばよい、ということになる。ここで、学歴が生産性のシグナルになるから、シグナリング理論というのだ。

 神崎さんは、

「疑問に思ったことが、ふたつある。ひとつは、生産性が高い者は、試験も高得点だ、という前提だ。それを仮定するなら、なぜ企業は高卒者に一斉試験を課して、その成績順で取らないのだ。いくら費用がかかるといっても、経団連が主導で毎年一回やれば、安上がりだろう。個別の企業が採用試験をする必要もなくなる」

 と指摘した。

 先生は、

「いいご意見です。これは質問してくれたかただけでなく、会場のみなさんにお伝えしたいのですが、理論は、常に正しいことが実証されているわけではありません。むしろ、世の中の見方に対する、ひとつの極端なモデルを提示しているのです。今回のお話は、大学に入って勉強すると、その知識が仕事に活きるから、高学歴のひとは優遇されるのだ、という意見に対して、いやいやそうじゃないよ、大学の勉強に意味がなくても、高学歴が優遇される理由はあるよ、というモデルを提供しているわけです。現実にそうなのか、というところは、検証しなければなりません」

 と回答した。

 みんな真剣に聞き入っている。

 神崎さんは、もうひとつの疑問を口にした。

「さきほどのが単なる仮説だ、というのはわかった。もうひとつ、しぐなりんぐ理論は、なぜ高卒に焦点をあてるのだ。今のが高校受験の話になっても、同じことが言えると思うのだが」

「そこはおっしゃる通りです。中学校を卒業した段階でも、シグナリングは働く、と考えられます。つまり、高校に進学するひとのほうが、進学しないひとよりも生産性が高い、という別のシグナルの話になるのです。この理論は、中卒者と高卒者とのあいだで、なぜ給与が異なるのか、という点も説明可能です」

「なるほど、委細承知した。ご教示、感謝つかまつる」

 神崎さんの質問に触発されたのか、ほかのひともちらほら質問をした。

 先生は、てきぱきと回答した。

 アッという間に時間は過ぎて、おひらきになった。

 午前の大きなイベントは、終わった。ここからは、キャンパスツアーに向かうひとと、学食体験に向かうひとと、各学部の個別ブースに向かうひととで、3分割されるようだった。どれも混雑しないように、最初は何時何分の部、次は何時何分の部、という時間割。学生スタッフのひとが、それぞれのグループの集合場所に立っていた。

 神崎さんは、

「どうする」

 とたずねてきた。

「キャンパスツアーは、暑くないうちに回ったほうが、いいかも」

「では一番手でいくか」

 私たちは夏対策を優先して、キャンパスツアーに参加した。

 在学生のひとにキャンパスを案内してもらう、という企画。

 いったん玄関を出て、建物の影に集合。定刻に出発。

 中庭、時計台、講堂、そこから横断歩道を渡って、東キャンパスへ。東側は、スポーツ施設が多いみたい。入り口からみえる噴水を通り過ぎたあとは、コートとかグラウンドとか、そういう運動場がメインだった。もちろん、おっきい建物もあった。でも、そこは事務施設らしく、入って見学ということにはならなかった。

 ふたたび横断歩道を渡って、西へもどる。最後は、大きなグラウンドの近くにある、売店のまえで解散した。

 神崎さんは、

「なんだ、ここが食堂ではないか」

 と言った。

 たしかに、そうだった。売店の奥が食堂になっていた。

 それにしても、狭くない?

 そんなに学生がいないのか、それともみんな大学では食べないのか。

 私は、

「食べてみる?」

 とたずねた。

 学食体験のグループかどうかなんて、いちいちチェックしていないようだ。

 それに、私たち以外にも、個別で食べているひとたちが、ちらほらいた。

 どうみても高校の制服を着ているから、まちがいない。

 神崎さんは、腕時計を確認した。

「うむ、ちょうどよい時間だ」

 私たちはお盆を持って、並ぼうとした。

 けど、注文の仕方に、一瞬迷った。

 これは……えーと……メニューごとに、注文方法がちがうっぽい?

 カレー、丼、ラーメン、定食みたいに分かれていて、しかも、お味噌汁や小鉢は、棚から取るシステムになっていた。

「組み合わせて食べるのだな」

「そうみたい」

 駒桜市立の場合は、食券を買ってキッチンに出すと、そのメニューが出てくる。勝手がよくわからないので、前のほうの何人かを観察──だいたいわかった。食べたいものをお盆にどんどん乗せていって、最後にレジで精算すればいいのか。

 じゃあ、なにを食べよっかな、と。

 朝は胃もたれしないように、軽めだった。

 わりとなんでも食べられそう。

 なんて考えつつ、けっきょくカレーライスにした。

 神崎さんは、

「もうすこし変わったもののほうが、よかろう」

 とアドバイスした。

「これって、常設メニューだと思うのよね。味を見るには、一番じゃない?」

「なるほど、一理ある」

 神崎さんもカレーライスにした。

 お味噌汁とサラダをつけて、レジでお金をはらって、着席。

 見晴らしのいい、窓際にした。

 いただきまーす。ぱくぱく。

「……すっごいふつう」

「うむ」

 高校のカレーと、クオリティが変わらないような。

 単品で250円だったから、こんなもんか。

 量もそんなに多くなかったから、最後まで食べきれた。

 お水を飲んで、ひと息。

 神崎さんは、つまようじで歯の掃除をしながら、

「して、次は」

 とたずねてきた。

「次は、個別ブースで説明会」

 そのまえに、きゅうけ~い。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=390035255&size=88
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ