591手目 夜空の星
※ここからは、捨神くん視点です。
夜のとばりも降りて、ホテルは静まりかえっていた。
お祭りのあとの静けさ。
コンサートのあとの、だれもいない会場に似ている。
それまでは聞こえていた演奏と拍手が、鳴りやむ。そしてひとが去ると、最初からだれもいなかったかのような、からっぽの空間があらわれる。僕は、そんな場所が好きだ。僕にそっくりな気がするから。
夜のホテルを歩く。深夜2時。
だれもいない。
祝賀会のあと、夜更かしするひとはいた。でも、さすがに部屋へもどっていた。
階段をあがる。意味もなく、淡々と。
対局会場のあった階に出た。
壁面ガラスから、H島の街並みがみえた。
ビルのライトが、光ったり消えたりしている。
まるで僕たちの思い出みたいだ。今日のできごとを、思い出さない日が、きっとやってくる。どんなに楽しかったことも、いつかは記憶の宝石箱へしまわれる。何ヶ月も、あるいは、何年も。だけどあるとき、闇のなかでロウソクが灯ったように、目のまえにあらわれるんだ。
僕はしばらくのあいだ、そこにたたずんでいた。
暗い暗い、果ての見えない風景。
どこへ行こうか──どこでもいいか。
僕は、展望台へむかった。
最上階にたどりつく。
小さな照明しかついていない。観葉植物は、眠りこけていた。
だれもいないはずだった。それなのに、だれかがいた。
窓に一番近いソファーの、人影。
六連くんだった。
僕はきびすを返すことも、できただろう。
だけど、そうはしなかった。前に進んだ。
そして、うしろから声をかけた。
「こんばんは」
六連くんは、ソファーに両手をついたまま、ふりむいた。
音もなく、ゆっくりと。
「……捨神先輩でしたか」
「ごめん、邪魔しちゃったかな」
「いえ……べつに」
六連くんは、そのまま前を向いた。
どうしよう。
立ち去るかどうか、すこしだけ迷った。
でも、そのまま彼の左どなりに座った。
六連くんは、展望台の窓から、空を見上げていた。
「天体観測?」
「……そういう高尚なやつじゃ、ないです」
「星を見るのが好きだって、パンフレットに書いてあったね」
僕は、日日杯の選手紹介を思い出した。
あれは、ほんとうによくできていた。ウソや誇張はなさそうだった。だから、星を見るのが好きだっていう六連くんのコメントも、信頼することができた。現に、六連くんは否定しなかった。肯定もしなかったけど。
六連くんは、じっと夜空をながめていた。
一見、放心しているようにみえる。
けど、それはなんというか……心のなかが詰まっているような、そんな雰囲気をただよわせていた。からっぽじゃない。対局のときと同じ、充溢。なにが彼の心を占めているのか、僕にはわからなかった。
僕も黙って、星をみる。
街の灯りで、あまりみえなかった。
それほど綺麗じゃない。
駒桜の夜空のほうが、綺麗だと思う。田舎だからね。
六連くんが住んでいる海沿いなら、もっと綺麗にみえるだろう。
「いつもみてる星のほうが、綺麗なんじゃない?」
僕は、なにげないおしゃべりのつもりで、そうたずねた。
「星は、綺麗だからみるんじゃないです」
「じゃあ、なんのために?」
「届かないから」
僕はうっかり──ほんとうに、うっかりだったと思う──微笑して、
「詩人だね」
と返した。
このセリフを後悔するのに、数秒とはかからなかった。
六連くんの雰囲気が変わる。
薄暗い展望台に、スッと怒気がただよった。
だけど、その感情は、僕に向けられているんじゃなくて──どこか、行き場のないようなものに思えた。僕がそういうことにしたがっている、というオチじゃなければ。
六連くんは、まるでひとりごとのように、言葉をつむいだ。
「今から、恥ずかしい話をします」
ふだんの僕なら、どうしたの、急に、と茶化しただろう。
でも、今はそういう空気じゃなかった。
僕は、いいよ、とすら言わなかった。
ただ、言葉を待った。
「僕がカードゲームを始めたのは、小6の冬でした。『遊戯の王子様』っていうゲームをクラスメイトに教えてもらって、ちょっと遊んだんです。その日の夕方には、僕が1勝しました。1ヶ月ほどたったら、学校のメンバーには全員、勝ち越すようになりました。あいてがいなくなったので、中1のとき、H島市内のカードショップに行きました。丸亀っていう先輩と対戦して、4デュエル2マッチを連勝しました。ほかの中学生にも勝ち越せて、唯一勝てなかったのは、そこの店長さんくらいでした。店長さんは、僕を大会に推薦してくれました。その大会で、僕は地域代表になりました。そのとき、思ったんです」
六連くんは、言葉を切った。
ほんの、数拍子ほど。
「僕は天才かもしれない、って」
六連くんは、夜空から視線を落とした。
まっすぐに、H島の街をみつめる──いや、ちがう。
彼の目は、もうどこもみていなかった。
「僕よりキャリアのある中学生は、たくさんいました。僕には、小学生のときの成績が、ないんですからね。でも、ルールをおぼえて、地域代表になるまでの期間は、西日本だと僕が最短でした。だから、店長も期待していたんだと思います。だけど……」
六連くんは、天をあおいだ。
夜空をみるためではなく、天井のライトをみるために。
「そこから、ちっともうまくならないんです。富士山の5合目まで、一瞬で登ったのに、もう一歩も進まないみたいな。地域代表にはなり続けました。全国大会でも、そこそこ勝てました。だけど、トップ争いには、まったく加われませんでした。伸び悩んでいることには、周りも気づくようになっていました。僕はあせりました。そんなとき、ゲーム仲間が、将棋で遊んでいるところをみました。僕は、それをやってみました」
六連くんは、その後のできごとを、淡々と語った。
始めてからすぐに、おもしろいように勝てたこと。
そのまま9ヶ月ほどで、県代表になったこと。
だけど、そこから伸びなくなったこと。
六連くんは、ソファーのうえに足をあげて、体育座りになった。
ひざのあいだに、顔をうずめた。
「六連の弱点は体力だ。陰で、そう言っているひともいます。でも、それは本質的な話じゃない。日日杯だって、体力があるうちに全勝しておけば、間に合ったんです。石鉄くんに勝っておけば……問題は、僕が単に器用だったってことなんです」
話は終わった。
これは、恥ずかしい話だったんだろうか。
僕がピアノのコンクールで入賞できなかったら、やっぱり恥ずかしい話──ううん、それとはちがうね。六連くんは、負けたことを恥ずかしがってるんじゃない。それは、僕にも伝わった。とはいえ、その恥ずかしさの正体が、僕にははっきりとつかめなかった。
じぶんが天才じゃなかったこと?
たぶん、そう。
僕のそんな予想は、あっさりと否定された。
「天才じゃなかったことは、どうでもいいんです……とっくに気づいてましたから……ただの笑い話です……でも、他のひとをバカにしたり、冷笑したりしたことは、取り返しがつかない……最初の頃の僕はイキってて、いろんなひとを傷つけました。とちゅうでやめようかと思ったけど、キャラを変えられなかった……そんなことをしたら、急につけこまれるような気がして……」
六連くんは、顔をあげた。
僕のほうをみる。
その顔は、涙で濡れていた。
「僕は、どうすればいいんでしょうか?」
「……」
夜景をみる。いろんなひとたちが、そこに生きている。
悲しいひとも、うれしいひとも、みんな。
僕たちは幸福だと思う。こんな場所で、将棋なんか指している。
「……僕はさ、昔、グレてたんだよね」
「そういう作り話はいいです」
「アハッ、ほんとだよ。みんなこの話、しないのかな。市外には、あんまり伝わってないのかも。あのときは、いろんなひとに迷惑をかけたな、って思う。疎遠になったひともいるし……だけど、当時の人間関係は、だいたいそのまま。謝罪して回ったとか、そんなこともなくて……」
時の流れが、すべてを解決する。
それは、甘えなのかもしれない。
僕は、箕辺くんと葛城くんに、甘えている。
否定しようのない事実だ。
でも、孤高でなければならないなんて、そんなルールは存在しない。
ちがうかな?
ねえ、六連くん、きみにもたくさんの友だちがいるよ。
魚住くん、並木くん、早乙女さん。
それって、素敵なことじゃない?
六連くんは、もうなにも語らなくなっていた。
僕の話が伝わったのか……ううん、そもそもなにも伝えてないよね。
夜空を見上げる。
手が届かない。一番小さな星にすら。
そうだね、もしあれに手が届いたら、ポケットに入れちゃって、それっきり。
手に入らないから、僕らは見るんだ。いつまでも。
六連くんのことが、また少しだけわかったような、そんな気がした。




