585手目 止まらない時間
※ここからは、捨神くん視点です。
僕が会場入りしたとき、吉良くんはまだ来ていなかった。
大谷先輩だけが、先に座って瞑想していた。
男女の決勝席は、ずいぶんと間隔があいている。配慮だろうか。
男子の席は、入り口から向かって左。
僕は手前の椅子を引いて、腰をおろした。
会場は静かだ。恐ろしいくらいに。
数度だけ、スタッフのひそひそ声が聞こえた。
僕も瞑想していようか──そんなことはないよね。
吉良くんを待つ。彼を直視するために。
そして、彼は来た。
「待たせたな」
吉良くんは、僕の右うしろから現れて、声をかけてきた。
そのまま座る。椅子が軽くきしんだ。
「それとも、俺のほうが3年待ったのか」
対局開始前の会話。
普段の僕なら、どうしたの急に、と訊き返しただろう。
でも今は、彼の気持ちがわかった。
「そうだね……いい将棋にしようか」
「ああ」
そこで会話は途切れた。
特に言いたいことは、なかったのかもしれない。
ただ、目の前の存在が人間であると、確かめたかっただけかもしれない。
時間が過ぎていく。もう止まらない。
《これより、第10回日日杯、決勝をおこないます。振り駒をお願いします》
ゆずりあって、僕が振ることに。
表が2枚。僕の後手。
言い残したことも、考え残したこともない。
あとは勝つだけだ。
《対局準備はよろしいでしょうか? ……では、始めてください》
「よろしくお願いします」
7六歩、3四歩、2六歩、4二飛。
【先手:吉良義伸(K知県) 後手:捨神九十九(H島県)】
先手に合わせていく。
この対局は、吉良くんから仕掛けてくる確信があった。
6八玉、4四歩、4八銀、9四歩、9六歩。
この出だしは──僕は手を止めた
あとのときと、いっしょだ。3年前の全国大会で当たったときと。
僕は吉良くんの顔を見なかった。
怖かったわけじゃない。見る必要がなかった。
まだ会話は続いている。将棋という別の会話が。
神経を研ぎ澄ます。
「3二銀」
先手の呼吸をみる。
7八玉、7二銀、5八金右、6二玉、5六歩、5二金左。
依然として、3年前といっしょだ。
あのときは、先手の左美濃に対して、僕から仕掛けた。
攻めは成立しなかった。そのまま僕の惨敗になった。
今回、僕がその攻めをすることはない。わかりきっている話だ。
吉良くんは、なにかを準備してきている。
手によどみがなかった。
どういう作戦だろう。楽しみになってきた。
自分でもおかしいけれど、将棋を指し始めたときと、同じ気持ちになる。
ただひたすらに面白く、ただひたすらに次の手を楽しみにしていた頃にもどる。
2五歩、3三角、3六歩、7一玉、5七銀、4三銀。
吉良くんは、6八金と寄った。
前例から離れた。この手が工夫のようだ。
かたちからして、右銀急戦の可能性が高くなった。
8二玉、7七角、5四銀で牽制する。
吉良くんは、すぐには飛び出さなかった。
じっくりと駒組みが進む。
8六歩、6四歩、8七玉、7四歩、7八銀。
これが答えだね。予想以上だよ。
トリッキーじゃないこともわかる。
左美濃の変化形だ。6八金寄で、7筋の補強を図っている。
次に3五歩は、簡単に予想できた。
「7三桂」
両取りを見せる。
先手は無視して3五歩。
3五同歩、4六銀、3六歩までは確定。
そこからの流れは、2通り考えられる。
ひとつは、2四歩、もうひとつは、3五銀。
2四歩、同歩、3五銀は、もちろん後手が悪い。
2四歩には同角の一択で、以下、2六飛と浮かれて、どうか。
そこで僕が暴れるか、それとも収めるかの分岐になる。
3五銀のほうは、3七歩成、同桂、3六歩、2六飛、3七歩成、2四歩。
(※図は捨神くんの脳内イメージです。)
後手が成功、ってわけじゃない。
先手は桂損だけど、2四歩に同角とできないから、僕も悩ましい。
4七となら、3四歩と打って、角銀交換を強要できる。
つまり、実質的には角と銀桂の交換で確定、ということだ。
ひとまず3五同歩。
4六銀、3六歩、2四歩で、吉良くんは前者を選択した。
2枚換えを避けた──この攻めに自信があるんだろうか?
同角、2六飛のあと、4五歩の攻め合いなら先手指しやすい、という判断かも。
例えば5五銀と上がって、6五桂、6六角、6三銀引。
(※図は捨神くんの脳内イメージです。)
これは……あんまり選択したくない。
経験則からして、この6五桂は活かせない。
どこかで5七桂成と捨てて、6五歩と突くくらいだと思う。
それが痛くなさそうなんだよね。
僕は残り時間を確認した。
先手が25分、後手が24分。
たった10分のあいだに、新しい世界がひらけている。
3年も待ったのにね、おたがい。
なんて不思議なんだろう。
「……同角」
2六飛に4三金と上がる。
吉良くんの手が止まった。
研究から外れたんじゃないかな。
少なくとも、この手を本命で読んでいるとは、思えなかった。
居飛車党のひとは、こういう受けを最初に考えない。
温田さんとのスパーリングで経験済み、という可能性も低かった。
彼女は角交換型に積極的じゃないから。
僕の予定は、さらに3四歩と打って、陣形整備。
先手には発展性がない。これを突く。
吉良くんはペットボトルのキャップを開けて、ひとくち飲んだ。
喉を水が通過する。その音さえ聞こえる。
会場は、静まり返っていた。
「3六飛」
僕は3四歩と打つ。
局面は完全に収まった。
打開してくるかい? 吉良くんなら、打開してくると思ってるよ。
研究からちょっと外れたくらいで、ぐだぐだになるようなタイプじゃない。
そこは見誤っていないつもりだ。
「3七桂」
やっぱりそうだ──前に来る意志を感じる。
「3二飛」
飛車の筋を合わせる。
吉良くんは5五銀。
取れば激しくなる。そして、先手の希望通りになるだろう。
僕は6三銀と引いた。
「9五歩だ」
なるほど、こっちが本命か。
5五同銀、同歩は、僕から動かないといけなかった。
それを選択しないことは自明だった、と。
吉良くんは、僕の受け身を理解している。
端をどうするか。同歩に9三歩だと思う。
それを歩では受けられない。
かと言って、同香は4四銀、同金、同角、4二飛、6六角の瞬間、困る。
(※図は捨神くんの脳内イメージです。)
9四歩~9三金の余地が残ってしまう。
……………………
……………………
…………………
………………いや、これは残してもいいか。
というより、9三同香としなくても、端に傷は生じる。
9二歩の受けが利かない以上、それはしょうがない。
だとすれば──傷を逆手に取るしかない。
僕は同歩と取った。
9三歩に4二飛と寄りなおす。
端攻めをさせただけで、一手パスのような手だ。
吉良くんは、うれしそうに笑った。
「そうこなくっちゃな。最後までついてこいよ。9五香」
8四歩、9二歩成、同香、同香成、同玉、9四歩。
端は明け渡す。
先手が前のめりになってくれれば、それでいいのだから。
「反撃だよ。5四歩」




