584手目 火焔のゆくえ
※ここからは、萩尾さん視点です。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
打ち込んできた。
ボクは同桂と取る。
思ったより接戦だ。先手優勢かと思ったけど──どこかで間違えたか?
いや、今はそんなことを考えてる場合じゃない。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
大谷先輩は同桂成。
おそらくは同玉に4四角。
これで受かると踏んでいるのだろう。
そうはさせない。
「同玉」
4四角、6六香、1三金。
「1六桂ッ!」
龍は死なない。
1五玉に2四角。
同金とはできないし、1六玉と立つこともできない。
立つと1三角成で、次の開き王手につながる。
大谷先輩は、この組み立てを読んでいなかったみたいだ。
表情が微妙に変わった。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
2六玉。
ボクは2九香で、上を押さえていく。
3七玉、3九香、同成香、1三角成。
入玉阻止の可能性は、五分五分か?
2九成香、2二馬、6六歩。
「2四桂ッ!」
奥の手、第2弾。
これで先手の入玉は、足止めされた。
それに、ボクのほうも入玉は可能。
最悪持将棋の保険付き。
大谷先輩は対局中にもかかわらず、両手を合わせた。
「萩尾さん、あなたの力量には、刮目せざるをえません。端の攻防は、拙僧の想定を超えておりました……ならば、次の手順に、拙僧のすべてを賭けます」
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
6五桂。
入玉を確定させるのは難しい、という読みか。
こちらの寄せを見せてきた。
だったら、それをお手伝いにさせるだけ。
この反動でボクも入玉する。
「6八玉」
6七歩成、同玉。
おそらく6六歩、5六玉、5七桂成、同玉の進行。
そこで6五桂なら、5六玉と立って、5五香に4五玉と滑り込む。
(※図は萩尾さんの脳内イメージです。)
これで入れる。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「5七桂成です」
ッ! そっちが先か。
さっきとどこが違う? 上へ抜けられるのは、変わらない。
ボクは一瞬だけ躊躇した。
6六歩を入れなかった理由は、なにかありそうなんだけど……6二歩?
5四玉と入った瞬間、6二に歩が打てると入れない?
ありうる。
これが大谷先輩の工夫か? ……いや、待て、ボクの深読みの可能性もある。
そもそも、さっきの発言がブラフなら、どうする?
本当は破れかぶれだとしたら?
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「同玉ッ!」
どのみち取るしかない。
大谷先輩の動きに乗る。
5五香。
ボクは、ひとさしゆびと中指を頬に添えて、思考の海に沈んだ。
5五香……5六歩で止めるしかない……そこで6五桂?
それは6六玉で、まったく問題ない。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
ボクは5六歩と置いた。
同香、同玉、5五香、4五玉。
4筋に入る。
大谷先輩は2二角と払った。
王手だ。
このうっかりを狙ってた? まさかね。
危ないのは、5四玉と急ぐことだ。
4四飛、6三玉、5八香成がある。
いきなり入玉が怪しくなる。
やっぱり6二歩の余地を残したっぽいな。
だとすれば、6六歩と打たなかった時点で、この図が見えていたはず。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
冷静に4一金と取る。
5八香成。
これが5五金の一手詰め。
中段玉なのに、詰めろで迫られる恐怖。
大谷先輩、刮目するのはこっちですよ。
だけど、見開いた目は、いつかは閉じないといけない。
「4四銀」
「3三金です」
3三金? ……同銀成、同角で、角を逃がすのか。
これも取るしかない。
同銀成、同角。
「4四金」
大駒は引き付けて受けろ、プラス、5二桂の防止。
5二桂ならそのまま3三金と取る。
後手は金がないから、4四銀、3四玉で、1筋方面に入れる。
5二桂とせずに、2四角でも同じ。
このとき、1二の龍が大きい。1五角としなかったのは、このため。
ボクはチェスクロを押した。
「萩尾さん、拙僧が6六歩と打たなかった理由は、これです」
パシリ
……………………
……………………
…………………
………………ッ!
2枚角が狙いだったか。
ボクは背筋をぞくりとさせ──そして、冷静になった。
「大谷先輩、ボクはまだ負けていません。美しさがひとの心を奪うのは、一瞬だけです。勝負は違う。先手玉は、入れます。3三金」
同角成、5四玉。
馬を作っても、すべての筋に利かせることはできない。
それが真理。
5二銀打、6三歩、5三金、6五玉、6三金。
いったんうしろに引く。
諦めたと見せかけて、7筋から8筋へ迂回トライする。
1七龍、2七桂、5五桂、5四香、6三桂成、同銀。
「1五角」
持ち駒も極力使わせる。
大谷先輩は59秒まで考えて、2六桂と打った。
7五歩と突く。
7三桂、7六玉。
7三の桂馬を抜けば、入れる。そして、抜くことは可能。
大谷先輩は、和服のそでをまくり、9筋へ腕を伸ばした。
先輩は、音もなく銀を引いた。
そのまま静かに、チェスクロを押す。
その手つきは、あるオーラに満ちていた──勝った、と。
なぜだ? なぜそんな手つきで指す?
止める確信があるのか? ……それとも、寄せる自信が?
詰めろはかかっている。だけど、ボクの王様は寄らない。入玉も止まらない。
「7九香」
6五歩、6七歩、2四馬。
詰めろ詰めろでくる。
ボクは7四歩で、上部のハッチを開けた。
王様の視界がひらける。
同銀、7五金打、1五馬、7四金。
大谷先輩は、持ち駒の歩を手にした。
静かに、ほんとうに静かに、それは置かれた。
……………………
……………………
…………………
………………そうか。
……………………
……………………
…………………
………………思わず笑みがこぼれる。
「持将棋と見せかけて、入玉阻止と見せかけて、詰ます……と見せかけて、真相は、もうひとつ奥にあった、と……まったく読めませんでした。まるで、よくできたドラマみたいだ」
「まだお指しになられますか?」
「ええ」
7三金、1七歩成。
入玉はできる──点数が足りない。
1五馬に同龍なら、点数は足りた。でも入玉ができなかった。
これが大谷先輩の、遠大な構想。
美しい。この大会の最高傑作だと思う。
ただ、その主役が、自分ではなかったというだけだ。
ボクは天を仰いだ。目を閉じる。ライトの明かりが、まぶたに透ける。
「これは独り言ですが……土を焼くとき、窯から出さなくても、だいたいの想像はつくんです。おおよその出来上がりは……だけど、ごくまれに、ボクの想像を超えた作品が出てくる……」
そう、それは高々十数年の人生のなかで、数えるほどだけあった。
炎が、ボクの想像を超えたことが。
「すべてが想像のうちに収まるなら、人生はとてもつまらないと思います……たとえ自分にとっては気に入らないものであっても、奇跡は奇跡……」
目を開ける。
前を向く。
大谷先輩は、すでに居住まいを正していた。
ボクは微笑む。心から。
ようやく終わりだ。ほんとうに長かった。そして、楽しかった。
「ボクの負けです。ありがとうございました。優勝、おめでとうございます」
場所:第10回日日杯 4日目 決勝トーナメント 女子決勝
先手:萩尾 萌
後手:大谷 雛
戦型:角換わり力戦形
▲7六歩 △8四歩 ▲2六歩 △8五歩 ▲7七角 △3四歩
▲8八銀 △3二金 ▲3八銀 △6二銀 ▲2五歩 △7七角成
▲同 銀 △2二銀 ▲1六歩 △3三銀 ▲7八金 △7四歩
▲4六歩 △7三桂 ▲6八玉 △6五桂 ▲6六銀 △6四歩
▲3六歩 △4二玉 ▲4七銀 △8六歩 ▲同 歩 △同 飛
▲8七歩 △8一飛 ▲5五角 △7三角 ▲4五歩 △9四歩
▲4六角 △5二金 ▲1五歩 △6三銀 ▲5六銀 △3一玉
▲9六歩 △9五歩 ▲同 歩 △同 香 ▲9七歩 △6二角
▲3七桂 △5四歩 ▲5八金 △4二金右 ▲7九玉 △1四歩
▲4四歩 △同 角 ▲4五銀 △6二角 ▲2四歩 △同 歩
▲1四歩 △4四歩 ▲5六銀 △1八歩 ▲同 飛 △1七歩
▲4八飛 △1四香 ▲1三歩 △同 桂 ▲9六歩 △同 香
▲同 香 △9五歩 ▲6五銀直 △同 歩 ▲6四香 △同 銀
▲同 角 △6三銀 ▲8二銀 △6一飛 ▲4六角 △8八歩
▲同 金 △9六歩 ▲4三歩 △同金直 ▲7三銀成 △5三角
▲2三歩 △5二銀 ▲7二成銀 △6三飛 ▲7三成銀 △6一飛
▲7二成銀 △6三飛 ▲7三成銀 △6一飛 ▲1七香 △同香成
▲7二成銀 △4一飛 ▲1四歩 △2五桂 ▲同 桂 △同 歩
▲1三歩成 △4五香 ▲同 銀 △同 歩 ▲7三角成 △9七歩成
▲同 金 △4六香 ▲4七歩 △7七香 ▲7八香 △8八歩
▲同 玉 △8五桂 ▲8六金 △9九銀 ▲7九玉 △6一銀
▲8二成銀 △2七成香 ▲4六歩 △2六角 ▲4九飛 △3八成香
▲1九飛 △4八成香 ▲2二歩成 △同 金 ▲6四馬 △5三金
▲2二と △同 銀 ▲5三馬 △同 角 ▲2四桂 △8八角
▲6九玉 △7八香成 ▲同 玉 △3三角成 ▲3二金 △同 馬
▲同桂成 △同 玉 ▲2四桂 △3三玉 ▲3二金 △2四玉
▲1二飛成 △7七香 ▲同 桂 △同桂成 ▲同 玉 △4四角
▲6六香 △1三金 ▲1六桂 △1五玉 ▲2四角 △2六玉
▲2九香 △3七玉 ▲3九香 △同成香 ▲1三角成 △2九成香
▲2二馬 △6六歩 ▲2四桂 △6五桂 ▲6八玉 △6七歩成
▲同 玉 △5七桂成 ▲同 玉 △5五香 ▲5六歩 △同 香
▲同 玉 △5五香 ▲4五玉 △2二角 ▲4一金 △5八香成
▲4四銀 △3三金 ▲同銀成 △同 角 ▲4四金 △8八角
▲3三金 △同角成 ▲5四玉 △5二銀打 ▲6三歩 △5三金
▲6五玉 △6三金 ▲1七龍 △2七桂 ▲5五桂 △5四香
▲6三桂成 △同 銀 ▲1五角 △2六桂 ▲7五歩 △7三桂
▲7六玉 △8八銀不成▲7九香 △6五歩 ▲6七歩 △2四馬
▲7四歩 △同 銀 ▲7五金打 △1五馬 ▲7四金 △1六歩
▲7三金 △1七歩成
まで230手で大谷の勝ち




