583手目 不条理がゆえに
※ここからは、吉備さん視点です。
パシリ
取りましたね。
大盤解説会場は、満員御礼。
私と神崎さんとお花さんは、会場のすみっこで、立ち見をしていました。
ちょっと小腹を満たしていたら、席がなくなっていたのです。
主催者の怠慢ですよ、怠慢。
将棋仮面さんと早乙女さんの解説を遠くに聞きながら、雑談中。
神崎さんは、
「ひぃちゃんなら、取るとは思ったが……取って欲しくなかった」
とつぶやきました。
お花さんは、
「どうして取って欲しくなかったんですかあ?」
と尋ねました。
「拙者が見る限り、先手番で体力勝負をするほうが、勝算があった」
ですね。
水を差すつもりはありませんが、1七香を無視して6三飛、そのまま千日手、これが合理的でした。1分無駄にさせてから先手番を引く、なんて最高です。香車をもらったところで、後手に有力な攻め筋があるかどうかも、不明なんですよ。
パシリ
7二成銀。
ここから千日手は、1四歩で崩せます。避けるでしょう。
私の予想通り、大谷さんは4一飛と逃げました。
さあ、第二幕です。
萩尾さんの方針は、攻め倒しだと見ました。
おそらく全力で潰しにかかるはずです。
将棋仮面さんは、1七香が誘いの手だと言っていました。
それは間違っていませんが、苦し紛れの千日手回避とも思えません。
萩尾さんは、攻めの手順をすでに構築していると予想します。
1四歩、2五桂、同桂、同歩、1三歩成、4五香。
もらった香車の活用。串刺しではありますが、しかし──
「うにゅ、後手さん、狭くなったのですぅ」
「9七歩成が、どれくらい厳しいかですね。同金と吊り上げさせれば、先手陣も弱体化します。ただ、そこからどう迫るのか、判然としません」
神崎さんは、なにも言いませんでした。
腕組みをして、じっと大盤のモニタを注視しています。
その瞳には、普段見せない不安が宿っていました。
4五同銀、同歩、7三角成、9七歩成。
将棋仮面さんは、
《同桂と同金、どちらもあるが、同桂、9六桂、9八金は、やや怖い》
と解説しました。
早乙女さんは、
《その順は、切れているように思います。先手は4五飛~2五飛と回る必殺があるので、4六香と止めるくらいしか、ないのではないでしょうか》
という見解を示しました。
【参考図】
大盤の精度、かなり高そうですね。
まあ、イチ地方都市の代表レベルが言うのも、おこがましいですが。
受け将棋マニアとしては、後手がどう対応するのか、気になるところです。
萩尾さんの選択は、同金。
大谷さんは4六香と打ちました。
萩尾さんはノータイムで4七歩。
「うにゅ~、香車を取られる前に、暴れるしかないのですぅ」
「角切って同桂に7七銀は、まだ間に合わない感じなんですよね。それで先手勝勢というわけではありませんが、6八金くらいで止まりそうです」
というわけで、将棋仮面さんと早乙女さんが検討しているのは、7七香。
同桂は9七角成で終了ですから、放り込むのは有力です。
将棋仮面さんは、
《どちらの王様も、戦場から遠くない。ここからあっさり決まる可能性もある》
と、短期決戦を予想。
内木さんがなにか言いかけたところで、モニタに腕が映りました。
解説通りの7七香。
以下、7八香、8八歩、同玉、8五桂、8六金。
だいぶバタバタしてきました。
後手も食らいついてます。
残り時間は先手が2分、後手が3分。
大谷さんは1分消費して、9九銀と打ち込みました。
同玉は7八香成でアウト。
当然の7九玉ですが──ここで手がありますか?
将棋仮面さんは、角を2六に出ました。
《……微妙だな》
内木さんは、
《4九飛のあと、2八成香はありますが、間に合うかどうか》
と補足しました。
ここで私のメガネがキラーン。
「ふふふ、将棋仮面さんたちも、まだまだ甘いですね。ここはずばり受けですよ」
「受けあるんですかぁ?」
「6一銀が唯一受かります」
【参考図】
あ、大谷さんも銀を引きました。
この会場で6一銀に気づいていたのは、私くらいでしょう。
8二成銀、2七成香、4六歩、2六角、4九飛、3八成香。
これは1九飛があるから、半分お手伝いです。
それを受け切る自信がある、と?
私ですらないですよ。
お手並み拝見。
1九飛、4八成香。
萩尾さんは椅子を引き、右手をふとももに当てた格好で前傾。
モニタ越しにも、気迫が伝わってきます。
寄せに移りますね、これは。
ピッ
萩尾さん、1分将棋に。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ!
踏み込みました。
大谷さんもやや前傾になり、盤面を凝視。
……ピッ
大谷さんも1分将棋に。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
同金。
これを見て私は、
「おそらく最善です。同銀は同と、同玉、2四香で困りました」
と、部外者解説。
「拙者の勘では、まだ寄らぬ。ただ……」
「先手良しですね」
6四馬、5三金、2二と、同銀、5三馬。
馬を切りました。
寄せモードへ移行。
大盤のほうも、慌ただしくなります。
将棋仮面さんは、
《先手良しだ。後手は飛車角がナマなので、受けが難しい》
と評価。
一方、早乙女さんは、
《5三同角のあと、いったん4八金と取るのがベターでは?》
と、異なる意見を提示しました。
個人的には、4八金と戻すほうが好みです。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
5三同角。
萩尾さんは小刻みに揺れながら、敵陣を睨んでいました。
4八金じゃないっぽいです。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
これも普通にアリですね。っていうか厳しい。
「丸子殿、受けはあるか?」
「まだあります。8八角から馬を作れば、なんとか」
本譜もその順に。
8八角、6九玉、7八香成、同玉、3三角成。
この段階で、5八成香の可能性が残ってるんですよね。
これがイヤなので、成香は払っておきたかったです。
萩尾さんの火力では、自陣の消火など不要、ということなのかもしれませんが。
3二金、同馬、同桂成、同玉、2四桂。
この2発目が入るのは、キツイ。
3三玉、3二金、2四玉。
将棋仮面さんは、
《王手飛車を貫徹するなら、4一金だが……》
と、やや自信なさげに言いました。
早乙女さんは、即座にこの順を否定。
《それは危険です。1四香と打ち返されて、次の手に困ります》
1四香、いい手ですね。王様が一気に安全になります。
早乙女さんは攻撃型の棋風だと聞きましたが、受けも強そうです。
それとも、1四香が攻防だからですかね。
《なるほど……ならば、早乙女くんの推奨手は?》
《1五角と置きたいです。理由は……》
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
飛車成り。
1分将棋だと、解説もままならないですね。
将棋仮面さんは、スッと背筋を伸ばして、盤を見渡しました。
《ん……これは、7七香があるのではないか?》
《……》
《早乙女くん?》
早乙女さんは、うしろ髪を撫でました。
《私の計算も追いついてきました。現局面は互角です》
《なに? 互角なのか?》
《はい、少なくとも私には、そう見えます》
互角なんですか? ……先手がかなり押しているように思いますが。
私にも見えていない受けが、あるのでしょうか?
それとも、早乙女さんのセンサーがおかしい?
たとえ評価値が見えているとしても、完璧なはずがありません。
それならプロにも勝てますからね。
「神崎さんは、いかがですか?」
「拙者の勘では……いや、やめておこう」
「どうしました? 勘が働きませんか?」
神崎さんは、大盤を見やりました。
「もはや信じる以外に術がない。拙者はひぃちゃんを信じる……それだけだ」




