581手目 柘榴の味
※ここからは、大谷さん視点です。
……………………
……………………
…………………
……………時間です。
目を開ければ、いつもの世俗。
座禅をとき、ベッドから降りると、穏やかな日の光が、カーテンから漏れていました。ホテルに特有の静けさ。雑音の混じった静寂。大勢がいるはずの空間に、ただひとりいるときの孤独が生み出す、独特の雰囲気。
時刻は18:15。決勝まで、間もなく。
水を軽く飲み、ストレッチをしてから部屋を出ます。
ひとの気配がありました。
「しぃちゃん、いらっしゃいますね?」
天井から、しぃちゃんがふわりと現れました。
「どうだ、調子は?」
「ほどほどに回復しましたが……ベストとは言えません」
そうか、と、しぃちゃんはうなずきました。
「不思議なものだな。大切な勝負のとき、おのれが最良なことなど、まずない」
「……左様です」
私の返事が、どこか上の空だったからでしょうか。
しぃちゃんはハッとして、視線を逸らしました。
「すまぬ、試合の前に言う言葉ではなかった」
「いえ……心強い応援でした」
私たちは見つめ合ったあと、もはやなにも言わず、別れました。
人のいない廊下、人のいない階段。
会場に入ると、スタッフのひとがふたり、壁ぎわに佇んでいました。
指定された女子の席へ。
両手をひざのうえにおき、瞑想。
……………………
……………………
…………………
……………
しぃちゃん、先ほど言おうかどうか、迷ったことがあります。
軽蔑されると思い、ずっと言えなかったことを、言おうかと。
拙僧はしぃちゃんに会う前、ひどいいじめっこだったのですよ。
まだ小学生のときでした。
弱い子を暴力で負かすと、とても気持ちがいいのです。
それを見かねた母が、ある日、こう言いました。そんなことをしてると、お父さんとお母さんに、来世で会えなくなっちゃうよ、と。こども心に、バカバカしいと思いました。来世はありますか? 答えは人それぞれだ、という逃げではなく、あなたは来世を信じるか、と真摯に尋ねられたとき、答えはありますか? 拙僧は信じていません。今でも。
父と母が交通事故で他界したのは、それから数日後でした。私のせいだと思いました。世界というものが、あまりにも恐ろしくなり、しばらく不登校になって──ふたたび登校したとき、一部の生徒から受けたまなざしは、侮蔑を含んでいました。拙僧はいじめをやめ、それまでの友人からは心配されるほど、おとなしくなりました。祖父は事故のせいだと思い、環境を変えるため、中高一貫の学校へ進学させました。
ねぇ、しぃちゃん、人間とは、そう簡単には変われないものなのでしょうか? それとも、拙僧の性根が腐っているのでしょうか? 人を屈服させたいという欲望は、拙僧のなかで消えていなかったのです。ソフトボールを始めたのも、将棋を続けたのも、他人を負かしたときの、あの心地よさの代償でした。そう、鬼子母神が人を食らうことをやめられず、柘榴の実を欲したように、拙僧には、他人を負かしたい欲望があるのです。
だから、拙僧は……いえ、私は──
《これより、第10回日日杯、決勝をおこないます。振り駒をお願いします》
目を開けると、萩尾さんが座っていました。
「大谷先輩、振り駒をどうぞ」
「……では」
振り駒の結果は、表が1枚。拙僧の後手。
駒を戻すあいだ、萩尾さんは微動だにしませんでした。
女子高生とは思えない貫禄。
萩尾さん、あなたは今回の参加者のなかで、最強だと思います。
あなたはいるべくして、ここにいる。
拙僧はちがいます。
ほかのだれかがここに座っていても、おかしくはありませんでした。
もう迷いはありません。
私はあなたを倒します。
プライドでも意地でもなく、【私】という本性のために。
《対局準備はよろしいでしょうか? ……では、始めてください》
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
萩尾さんは10秒ほど呼吸を整えて、7六歩。
拙僧は8四歩。
どういたしますか? 矢倉? 角換わり? それとも力戦に?
萩尾さんは、腕を伸ばしながら、軽くタメ息をつきました。
「両者、満身創痍って感じですよね……2六歩」
【先手:萩尾萌(Y口) 後手:大谷雛(T島)】
角換わりですね。承知しました。
なにか研究があるとは思いません。拙僧にもありません。
ならば、これまでの経験と勘で、勝負するのみ。
いざ、決勝の舞台へ。
8五歩、7七角、3四歩、8八銀、3二金、3八銀。
棒銀でしょうか?
6二銀、2五歩、7七角成、同銀、2二銀、1六歩。
角換わりは先手有利。
これはもう、動かない事実だと思います。
アマチュアレベルでも、さすがに差があるでしょう。
腹をくくります。
3三銀、7八金、7四歩、4六歩。
「7三桂です」
萩尾さんの手が止まりました。
猜疑の色が、瞳に宿っています。
定跡外しだと思いますか? それとも奇襲?
ここから6四歩~6三銀なら、桂馬を早く跳ねただけになります。
しかし、後手からの速攻もありえます。
萩尾さんはこの手を、どのように解釈なさるでしょうか?
惑わせるつもりはありません。次にどうするかは、すでに決めてあります。
「……6八玉」
「6五桂」
最速で攻めます。
萩尾さんはバンダナに手を当てて、髪をなでつけました。
その仕草のまま、盤を睨み──おもむろに、フッと笑いました。
「決勝らしく、熱くなりましたね。6六銀」
6四歩、3六歩、4二玉、4七銀。
このまま開戦。
8六歩、同歩、同飛、8七歩、8一飛。
「主導権はあげませんよッ! 5五角ッ!」
打ち合いの展開に。
嫌いではありません。
6三銀なら、6五銀でこじ開けるつもりでしょう。
「7三角」
「先輩、それは腰が引けてます。4五歩」
9四歩、4六角、5二金、1五歩、6三銀。
やや減速。
しばらくは駒組みが続きそうです。
5六銀、3一玉、9六歩。
おや……争点を作ってきました。
これは9五歩とできます。挑発ですか?
拙僧は、萩尾さんの表情を確認。
さきほどまでの情熱的なところは消えて、冷静な高校生に戻っていました。
勢いで指したとは、見えず。
もう一度、端の攻防を確認──なるほど。
9五歩、同歩、同香、9七歩で収まりますか。
とはいえ、9五で宙ぶらりんになった香車を、取る手段もないです。
後手の端が崩壊するわけでもなし、先手が歩を入手できるわけでもなし。
「……9五歩」
乗ります。
同歩、同香、9七歩。
いったん6二角と引いて、萩尾さんの出方をうかがいます。
過激に進めるなら、2四歩、同歩、5五銀左からの強行突破かと思いますが……その場合は、9七香成、同香、8六歩、同歩、9六歩、同香、8六飛から先攻できます。
もちろん、5五銀が入っていることが前提です。入っていない場合、8六飛、8七歩、9六飛、9七香、6六飛、6七歩で、飛車が死んでしまいます。
(※図は大谷さんの脳内イメージです。)
9六歩は、細かいところで、相当読みを入れた手です。
だとすれば、2四歩~5五銀は、あまり期待できません。
「……」
「……」
1分ほどして、3七桂。
やはり、という流れ。組み立てが難しくなりました。
端攻めのタイミングは、しばらく来ないように思います。
立て直しを。
「5四歩」
5八金、4二金右、7九玉。
2二玉と入玉するのが無難……でしょうか。
以下、8八玉、5二金、6八金右なら、やや千日手含みに。
(※図は大谷さんの脳内イメージです。)
しかし、分岐も多いです。
途中で6五銀と食いちぎり、そのまま攻める手も考えられます。
攻めるなら2四歩、あるいは取った桂馬で2六桂が第一感。
この段階で攻守の方針を決めないと、厳しいやも。
萩尾さんは、どちらかといえば、攻め将棋。
拙僧が仕掛けなくとも、仕掛けてくるはず。
……………………
……………………
…………………
……………迷っても、せんなきこと。
本局は、鬼になるのみ。好きなようにはさせません。
「こちらから攻めます。1四歩」




