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580手目 孤独

※ここからは、飛瀬とびせさん視点です。

 夕方のレセプションは、すこしだけ混んでいた。

 学生服姿の私に、視線を投げかける男の子。

 ちょっとだけめずらしいのかな。そうかもしれない。

 私は展示用のピアノのとなりで、静かに大通りを眺めていた。

 いろんなひとが通り過ぎる。

 親子連れ、ビジネスパーソン、高齢の夫婦、女子高生の集団、ひとりのひと。

 私もひとり。

 この大会が始まって、捨神すてがみくんとは一度も会っていない。

 もしかすると、どこかですれちがうくらいは、したかも。

 スマホに連絡も入れていないし、だれかに言伝ことづてを頼んでもいない。

 不破ふわさんにお願いしたら、伝えてくれたかな──わからない。

 さっきの男の子が、もういちど私の前を通った。

 今度は視線を受けなかった。まるで背景のように、私は佇んでいた。

 ……………………

 ……………………

 …………………

 ………………「飛瀬さん」

 その声に、私は非現実的なものを感じた。

 錯覚かとすら思った。

 ふりむくと、捨神くんが立っていた。

 白い開襟シャツに、薄いグレーのズボン。

 白髪が、窓から射し込む陽の光に輝いていた。

 捨神くんは、もうしわけなさそうに笑った。

「ごめん、大会中は会えないって、そう言っちゃったけど……」

 私はなにも答えなかった。

 答えられなかった、というほうが正しいかもしれない。

 それに、答えなくても、私の気持ちは通じていると思った。

 会いたかった。私こそ。

 恋人同士、だからじゃなくて、支え合うことができるパートナーとして。

 それって恋仲じゃなくてもいい。

 だからこそ、罪悪感があった。

 捨神くんは、箕辺みのべくんと葛城かつらぎくんに会うかどうか、迷ったんじゃないかな。

 そして、会ってないんじゃないかな。

 これってうぬぼれかもしれない。

 だけど、確信があった。

 捨神くんは、照れたような笑いをやめて、寂し気な表情になった。

「なんていうか……飛瀬さんの顔を見たいなって、そう思った」

「……」

「だから、なにか言いたいことがあったわけじゃないんだけど……」

「……」

 捨神くんは、数秒ほど押し黙った。

 その視線は、私ではなく、虚空の、どこか遠いところを見ているようだった。

 私はそれを見て思った。

 捨神くんの気持ちは、まだ会場にあるのだ、と。

 私はただの聞き手。それでいい。

 捨神くんは、ピアノのそばに来た。

 鍵盤をさわって、ぎこちない笑顔にもどった。

「昔ね、僕がまだ中学生だったころ、ピアノの同期はたくさんいたんだ。だけど、高校受験とかで、みんなやめちゃって、今は二階堂にかいどうくんと樋口ひぐちさんくらいしかいなくて……樋口さんは、バレエも習ってたんだよ。バレエはね、保育園とか小学生のときは、たくさん仲間がいるんだって。でも、だんだん抜けていって、樋口さんも高校入学後は、ピアノに絞ったんだ。そのとき、教室に残った友だちから、『みんないなくなっちゃうね』って言われたって……その話を、なんだか思い出してた。だれもいない会場で。30人以上いたのに、次はたったの4人なんだよ。それで……」

 捨神くんは、言葉をとめた。

 また表情が変わる。笑みは消えていた。

「ずっといっしょにいられるひとって、ほんとうに少ないんだな、って思った」

 心臓が高鳴る。

 そのセリフの意味について、あるいは、そのセリフの不安について。

 そして、その背後にある、罪悪感について。

 その罪悪感がなんなのか、私は気づいている。

 気づいているからこそ、私は沈黙した。

 言葉にすれば、壊れてしまうことがあるから。

 捨神くんは恥ずかしそうに、前髪のひとつを引っ張った。

「ごめん、それだけなんだ」

 捨神くんは、きびすを返そうとした。

 そのとき初めて、私の口がひらいた。

「捨神くん……」

 彼は動きをとめた。

 声をかけられるとは、思っていなかったような仕草だった。

 なにを言おう。

 そう考える必要はなかった。

 私のくちびるは、無意識に言葉をつむいだ。

「私は、待ってることしかできないから……だから、待ってる……」

「……ありがとう」

 捨神くんが去っていく。

 私は追いかけない。

 追いかけないということが、ともに歩むことになるときが、あると思うから。

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